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司前鎮
訪問日:2018年 2月上旬 『大陸西遊記』~
広東省 江門市 新会区 司前鎮 ~ 鎮内人口 7万人、 一人当たり GDP 74,000 元 (新会区 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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三国時代、呉が新設した 平夷県城(新夷県城、牛肚湾巡検司) と「司前」鎮の由来
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江門市中心部(蓬江区) → 新会区 → 司前鎮 へバス移動(9元、40分)
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終点・石子路口は陸の孤島だった ~ 開平市水口鎮への連結なし
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バス停「河村」と メイン・ストリート「僑中西路西」、河村大道
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河村墟の 旧市街地 ~ 火筒街 と 石楼街
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バス停「河村」から新会区へ戻る ~ 田舎路線の 205番路線バス
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【豆知識】司前鎮の 歴史 ■■■
三国時代、広東省エリア全土(
交州
)は、孫呉の勢力圏下にあったが、その統治は地場民族らの平定と掃討に明け暮れるものであった。漢民族の孫呉は実質的には平地エリアのみを支配地としており、山岳地帯や内陸部分は手つかずの場所が多かった。その大部分は、地場民族の長らによる間接統治に委ねる他ない状態だった。
220年に前任の 歩騭(?~247年)の後継者として 呂岱(161~256年)が交州刺史となっても、引き続き、異民族らの平定戦と懐柔策が続行される。その一環で 222年、潭江の北岸に前線基地として平夷県城が新設される(下地図は西晋時代のもの。孫呉滅亡直後の 280年、平夷県は新夷県へ改称された直後)。
その場所が、ここ江門市新会区司前鎮河村墟の一帯というわけだった。
以後、隋代初期の 590年に廃止されるまで、県行政の中心都市を担った当地であったが、その後は降格され、 明代、清代には古城跡地に 牛肚湾巡検司(主に域内の警察業務を司る、県役所の下部組織)が設置される小規模集落地となっていた(下地図)。
海岸線の後退に伴う潭江の縮小と、河口から距離が離れてしまったこと、また(当時)潭江の河口部に発達しつつあった
【二代目】新会県城
にその役割が取って代わられたことが没落の由縁と考えられている。下地図。
また、現在の 地名「司前鎮」の由来であるが、この牛肚湾巡検司の役所前に大きな空き地があったことから、地元で「司前」と通称されるようになり、そのまま定着していったという。地名「河村墟」は、ここが 河川(潭江の支流)沿いの集落地であったことを物語る(下地図。「墟」は旧市街地の意)。
現在
、司前鎮の一帯は、近代以降の都市開発から取り残された分、内陸の静かな村落地として存続されていた。しかし、周囲は新台高速道路や 幹線道路(省道 364号線)の交差地帯となっているため、ひっきりなしに大型トラックが往来していた(上地図参照)。
交通アクセス
筆者は、まず
江門市蓬江区の白沙大道沿いにある市政府前のバス停
から、路線バス 103番に乗車し、新会区内の バス停「城西一路」で下車した(2.5元)。約 25分。
ちょうどここは、
新会区の 城西バスターミナル(新会区内の地元路線バスの西側ターミナル)
に隣接しており、続いて、城北路沿いの バス停「城西車駅」で 205番路線バスを待つことにした(道路を渡って対向車線側へ移動する)。
ちょうどタイミングよく、その田舎方面行きの路線バスが到着したので、205番バスに飛び乗る(9元)。
もともと、相当にローカルエリアへの訪問であることは想定していたが、乗車した 205番路線バスの車内からして、田舎の高齢者や子供たちばかりが乗車していた。大量の荷物を運ぶご老人など、いかにも田舎の風景が車内に広がっていた(下写真左)。
幹線道路の右手には、広東省ならではの古い客家集落地がたくさん目に飛び込んでは消えていった。いずれも南面に池を配する伝統的スタイルで、中には城門楼閣や鐘楼が残っている集落地もあった。
この幹線道路沿いをサイクリングして、道中の古民家や集落地を訪問していくと、さぞかし面白いだろうと妄想してしまった。
そんなことを考えていると寝入ってしまい、終点の石子路口まで来てしまった(下写真右)。乗車時間 45分。
この西隣には
開平市水口鎮
が控えており、ローカル路線バスの接続ポイントがあれば乗り継いで訪問してみることも視野に入れていたのだが、全く期待外れで、陸の孤島のような終点停留所だった(下写真)。
ちなみに、この開平市水口鎮であるが、単水口とも別称され、新橋水(水口河)が潭江と合流するポイントに位置したため、このように命名されたという。古くから水運交易拠点の一角を担った場所であるが、特に古城があったわけではなさそうだ。
さてさて、終点の石子路口のバス停前は、北へ伸びる直線道路 Y160 が印象的だった(上写真左)。カントリーロードでも口ずさみたくなる風景ではないだろうか。
3分ほどで、往路の 225番路線バスが折り返して再出発する。何人かの乗客も乗り過ごしたようで、同様にバス発着所前でたむろして待っていた(上写真右は、バス停留所前の商店街。寂れた殺風景さが、世紀末感を漂わせていた)。
今度こそ、目的地の河村墟で下車すべく、再度、バスに乗り込む(2.5元)。5分ほどで到着できた(下地図)。
さて
、この省道 364号線沿いの バス停「河村」で 205番路線バスを下車すると(下写真左)、旧市街地(河村墟)を目指し、露天市場ストリート「僑中西路西」を通り抜ける(下写真右)。
この露店市場ストリートが当地の繁華街となっており、スーパー、八百屋、携帯電話ショップ、銀行など、すべてがひと通りそろっていた(下写真)。
この先に河村大道との交差点があり、わずかに土地が高く盛り上がったエリアに到着する。ここが河村墟で、かつての古城地区というわけだ(下地図)。
下写真は、河村墟前の 自動車道路「
河村大道
」。
旧市街地の入り口には、「火筒街」という南北路地が貫通していた(下写真)。
その奥には、東西路地の「石楼街」が通っていた(下写真)。この街道名は、写真内のノッポの楼閣を指して命名されたのだろうかと推察してみた。
早くも隋代初期に県城は廃城となってしまったわけで、城壁跡などは一切、残っていないことは分かっていたが、集落規模自体も狭く、また路地名の手がかりも全くなく、古民家集落を一周しだだけに終わってしまった。
旧市街地内には、古い民家がたくさん残っていた。
河村墟のやや南に位置する天后廟まで行きたかったが、どうやら別の村に属しているらしかった(上地図の左端)。下写真左。
30分弱ほど散策した後、再び
河村大道
(上写真右)から露店市場ストリートを経由し、省道 364号線に戻る。バス停「河村」から 205番路線バスに乗車し、新会区の中心部へ戻った。
40分ほどで新会区城西バスターミナルに帰り着いた(下写真)。
ここから城西一路を通って 象山(上写真の緑地部分)を経由し、
新会県城の城跡
を巡ってみた。
【
新会区司前鎮の 歴史
】
三国時代の 222年、呉の孫権の治世下、この江門市新会区司前鎮河村一帯に平夷県が新設される。
当時、このエリアには越族がたくさん居住しており、漢民族を率いた呉軍がこれら地元原住民の越族を討伐して平定したために、平夷県という名称がつけられたという(南海郡に帰属)。これが、現在の新会区内での最初の行政庁設置となる。
280年、西晋朝が呉を滅ぼし、三国を統一すると、平夷県が新夷県へ改称される。
南北朝時代、劉宋朝の治世下の 450年に 新会郡(郡都は盆允県城)が新設されると、新夷県は 南海郡(郡都は広州市)からこの新会郡の管轄下へ移籍される(下地図)。
隋代初期の 590年、新会郡が廃止され、封州が新設される。あわせて、新夷県が廃止され、義寧県(南朝時代の劉宋朝の治世下の 450年に今の広東省開平市の北西にある天露山の東山麓に開設される。南海郡に帰属)に吸収合併される。
北宋時代の 977年、義寧県は信安県へ改称されると、あわせて県役所が今の江門市新会区小岡社区天台村へ移転された。1072~1086年の間、信安鎮へ降格されるも、再び県へ再昇格される。1094年に再度、鎮へ降格され、すぐに県へ戻されるなど、不安定な地位を往来したが、最終的に南宋時代の 1127年に廃止される。以後、
新会県
に統括された。
明代、清代、今の 旧市街地(河村墟)には牛肚湾巡検司の役所が開設されていた(懐仁など 4つの行政区と周囲の 105の村落を統括した)。当時、巡検司の庁舎前に大きな空き地があったことから、地元で「司前」と通称されるようになったという。
この時代、新会県下には県役所の出先機関として牛肚湾巡検司の他に、 潮連巡検司(今の潮連郷)と 沙村巡検司(今の天亨墟)も開設されており、引き続き、県下でも重要拠点であったようである。
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