ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
中国地図 から
≫
黒竜江省 地図
≫
ハルビン市
≫
双城区
訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
黒竜江省 ハルビン市 双城区 ~ 区内人口 65万人、 一人当たり GDP 80,000 元 (双城区)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
双城府城(双城庁城、双城堡城)、東門(承旭門楼)、魁星楼、観音寺、双城堡駅の駅舎
▼
永勝古城(宜春県城。ハルビン市双城区 永勝郷古城村)
▼
躍進古城(双城子。ハルビン市双城区 西官鎮小城村)
▼
前対面城古城、后対面城古城(寥晦城。ハルビン市双城区 対面城郷紅星村)
▼
大半拉子古城(ハルビン市双城区 金城郷大半拉城子屯)
毎時 13分発と 50分発の循環バスが、ハルビン教化客運バスターミナル ⇔ 双城(双城高速)の間を運行している(1日 37便、運賃 9.5元、55 km)。高速道路を直行するルートのようだった。
地下鉄 1号線で「同江駅」まで移動し、この西隣にある、ハルビン駅市公路客運総合バスターミナルから発着している
。
おそらく、双城では高速道路出口あたりで下車させられるので、ここからタクシーか、別のローカルバスに乗り換えて、区中心部へ移動することになるのだろう。
ハルビン駅から普通列車でもアクセスできる。
(ハルビン駅西駅 → 北双城駅の高速鉄道ルートもあるが、両駅は市街地から遠いので不便)。下の時刻表は、普通列車、高速鉄道を含む。
ハルビン駅西駅 6:35 → 双城堡駅 7:17 / ハルビン駅 7:43 → 双城堡駅 8:21
ハルビン東駅 8:53 → 双城堡駅 10:10 / ハルビン駅 9:30 → 双城堡駅 10:10
ハルビン駅 10:02 → 双城堡駅 10:42 / ハルビン西駅 11:02 → 双城堡駅 11:28
ハルビン西駅 12:48 → 双城堡駅 13:15 / ハルビン駅 15:56 → 双城堡駅 16:44
ハルビン西駅 16:34 → 双城堡駅 17:06 / ハルビン駅 16:58 → 双城堡駅 17:52
ハルビン東駅 17:04 → 双城堡駅 18:04 / ハルビン西駅 17:20 → 双城堡駅 17:52
ハルビン東駅 18:42 → 双城堡駅 19:47 / ハルビン西駅 19:15 → 双城堡駅 19:47
ハルビン駅 19:37 → 双城堡駅 20:15 / ハルビン駅 20:48 → 双城堡駅 21:26
双城堡駅の駅舎
清代末期、ロシアにより東清鉄道が建設されると、ロシア風デザインの双城堡駅が開設される(1899年)。そのロケーションは現在と同じで、旧市街地(今の 双城区中心部)から約 3 km離れた場所に設置されていた。
その後、中華民国時代の 1923年に全面改修され、1928年9月には現在の姿に落ち着くこととなる。駅舎全体の敷地面積は 1,257 m2で、建物自体の面積は 1,041 m2であった。
現存する駅舎は、宝塔と伝統的な 中国宮殿建築スタイル(巨大屋根付きの一階建て木造建築物)を組み合わせた設計で、東西両端にかけて末広がりな構造となっている。正確な左右対称ではないが、中央の大殿を挟んで、メインとサブ・スペースがはっきり区別されたデザイン構成であった。上写真。
なお、駅舎デザインが東西非対称となった理由に関しては、以下の逸話が地元で伝わっているという。
外部出身のある商売人が、列車で双城を通過した際、この土地の独特な風習や風景、純朴な人々に興味を惹かれるも、双城に地元のシンボルとなる駅舎が存在しないことを残念に思い、自腹を切って駅舎を建設しつつ、自らもここに居住することを決心する。しかし、天候が全く読めない不安定な環境下で、駅舎の建設工事を何とか半ばまでこぎつけるも、この商人は急用のため当地での滞在を断念せざるを得なくなり、そのまま建設工事も中止されてしまうのだった。こうして、現在のように左右非対称な設計となってしまった、というわけらしい。
この駅は、日中戦争や国共内戦でも、歴史の表舞台に登場している。
吉林軍下の 将軍・趙毅(1898~1967年)が双城県の守備を司っているタイミングで、満州事変が勃発し、日本軍が大挙して満州地方へ侵攻してくると、吉林自衛軍に組み込まれ、左路軍総指揮兼二二旅旅長(六六二団団長)を任される。1932年1月31日、ちょうど
長春
から
ハルビン
へ移動中だった 日本軍(天野兵団)の一団を、この鉄道駅で襲撃し、日本軍に 400名以上の死傷者を出させた、とされる。
その後、日本軍は増援を得て、飛行機による機銃掃射で対抗し、中国兵 108名が犠牲となり、その遺体は双城西門外に埋葬されたという。今でも墓標となった石碑が存在し、その殉死が称えられている。
また、満州国崩壊後に継続された国共内戦に際し、遼沈戦役が勃発すると、双城で東北第四野戦軍司令部が開設され、三下江南、四保臨江戦役新開嶺戦役など各地へ派兵すべく、1948年9月21日、司令部配下の大部隊がこの駅から乗車し、南下して遼沈前線に出征していったという。上地図。
こうした歴史舞台としての価値、そして、この特徴的な駅舎デザインが高く評価されたことから、共産党中国の成立後、東北地方で初期に発行された 1元紙幣の表デザインに採用されたという。現在、この駅舎は黒竜江省政府により史跡指定を受け、双城区でも屈指の観光スポットとなっている。
双城堡駅前のバス停から ①番、②番、④番路線バスのいずれでも、旧市街地まで移動することができる(上地図)。
筆者は、博物館行の ④番路線バス(運行時間 6:00~18:00。運賃一律 1元)に乗車し、バス停「東門」を経由しつつ、終点「博物館」まで移動してみた。この 双城市博物館(ハルビン市双城区優干胡同 6号)には、421品の収蔵品が保管されており、中でも 19品目が特に貴重な遺物という。
なお、中国最大の 私設博物館「世紀汽車歴史博物館」(双城区堡旭大道と堡東四路の交差点。世界 50ヵ国の骨董自動車コレクションを展示。2009年8月開業)とは異なる、ローカルな郷土史博物館のはずだが、現在も営業しているか否かは不明だ。
博物館見学後、再び ④番路線バスに乗車し、バス停「東門」で下車する(上地図)。
この 東門(承旭門楼。今の 双城区文昌大街)が、双城区最大の観光スポットであり、また区内最古の歴史的建造物となっている。
承旭門楼
清代後期の 1868年に建設された城門跡で、1999年1月10日に黒竜江省政府より史跡指定を受けている。
双城堡総管だった双福の指揮の下、1868年、双城堡城(
阿勒楚喀副都統
に帰属。下地図)の築城工事が着手された際、同時に建設されたものであった。この時、四つの城門が建設され、東門=承旭門、西門=承恩門、南門=永和門、北門=永治門と命名される。以降、150年以上もの間、当地に存続し続け、地元民から「東門」と称されている。
現存する承旭門楼は、高さ 11.5 m、東西幅 8 m、南北幅 8.75 mのサイズで、不定形な長方形型となっている(総面積は 70 m2)。 一階部分は青レンガ積みの城壁で、その中央に東西方向に通じる門道が設けられている。現在、この門道の南北壁には、二つの小さな洞が設置され、地元民が毎月 1日、15日、ここで線香をたいて、通行安全や家庭安全を祈願する風習が続けられている。
また、この門道の入口脇に「承旭門」の三文字の 楷書(23.1 cm 四方サイズ)が掲示されており、先の 双福総管・双福の直筆とされる(上写真)。承旭門=「東の方角に位置し、朝日が最初に対面する城門」を意味するという。この額縁上には凹凸城壁も残っており、その上に木造の 1階建て楼閣が配されている。楼閣は 3部屋で構成され、いずれも奥行きが広い。また、四方の窓は木雕花格扇で飾られ、棟梁門には彩色が施され、屋根瓦は盖緑色の琉璃瓦が葺かれる、派手なデザインとなっている。上写真。
しかし、中華民国時代以降、城門は全く修繕されることがなくなてしまったため、承旭門上の木造楼閣は、間もなく倒壊してしまうのだった。その後、 1979年に双城県政府により再建工事が施されたものが、現在の楼閣建物となっている。
また現在、門楼下には、鉄筋コンクリート製の護城河橋が一つ設けられており、かつて、城内の下水がここから市外へ排出されていた名残りを今に伝えている。 さらに、この門楼の背面には案内板が掲示され、再建工事当時の詳細が記録されている。
周囲は市民広場となっており、日夜、多くの市民が行き交っている。
東門を視察後、そのまま徒歩で東環城南路を南進し、承旭公園に向かう。ちなみに、この東環城路がかつての東面城壁跡地である。この通り沿いに、双城区の観光名所の一つ、観音寺も立地する(上地図)。
続いて、この公園内にある魁星楼を訪問してみた。下写真。
双城堡の魁星楼
そもそも「魁星(かいせい)」とは、北斗七星のうち、最先端に位置する第 1星を指し、ここから、科挙試験において第 1位の成績で合格した者(「状元」という)を比喩する意味で使用される単語である。 この東北地方が満州族の 祖先・女真族の勃興の地であり、金王朝の王都近郊に相当したことから、満州族の「隆興の地」「真なる故郷」「栄光の地」として、「魁星楼」という名の シンボル・タワーが建設されたというわけだった。
1892年、清朝廷内で内閣中書職にあった張邦彦が、地元・双城に帰郷した際、当地の 名士・関毓謙、張俊生、張選生、張鼐銘らと協議を重ね、通判の孫逢源に 文廟・大成殿の大修築のための寄付金集めと同時に、この魁星楼の建設を依頼したことに端を発する。当地の文教振興促進の願掛けも兼ねたことから、子孫の立身出世を願った地元商人らの賛同を得て多額の寄付が集まり、この魁星楼の完成までこぎつけることができたのだった(翌 1893年落成)。なお「魁星楼」命名のエピソードとして、帰省中の張邦彦が、夕食後の夜陰の中、双城堡城を散歩していると、城外の南東端にあった空き地に至った折、突然、足元に天より閃光が舞い降り、眼前に魁星から来たという、身の丈が倍以上もある光の怪物が立っていた、という神秘的な体験に由来するという。
しかし、その後の補修メンテナンスが不足したため崩落の危険性が高まり、 1957年に撤去されることとなる(下写真は撤去前の様子)。その後、地元民からの要望を受けた地元政府により、再建計画が進められ、3年の工期を経て 1993年、旧・魁星楼(下写真)と全く同じ場所で完成したものが、現在の楼閣である(上写真)。工費全額が市民からの寄付金で賄われ、その建築デザインも 明代、清代の一般的な技法に準拠し、黒の墨線と金色を混ぜ合わせたシックな色合いで装飾されることとなった。
楼の高さは 39.9 m(旧塔よりも 6 m高い設計)にも至り、その基台は一辺 33 mの正方形型、楼閣本体も同じく正方形型で、一辺 17 mで構成されていた。中国全土に残る魁星楼の中でも屈指の規模を誇り、清末の建立以来、双城地方のシンボル的存在として、地元民の郷土愛の象徴であり続けたのだった。
この熱心な文教振興の願いに押されてか、清末~共産党時代初期にかけて、立身出世した双城出身者は実に 450名を数えるという。省長官、外交次長、軍師級将領など、政治的に成功した 30名をはじめ、共産党建国後に軍人として司令官以上となった者 300名あまり、さらに海外留学した男女 120余名が含まれるという。
公園から出ると、いよいよ本格的に旧市街地を散策してみる。
前述の 東門(承旭門)と 西門(承恩門)を除き、双城堡城時代にあった全ての城門、城壁は撤去されてしまっており、古城時代の名残りを感じるスポットは全くない。しかし、四方を取り囲んでいた城壁跡は、東西南北の各環城路として路地名に刻み込まれており、非常に分かりやすい構造であった。その他、旧市街地に残る地名や路地名からも、往時の名残りが伝わってくる。
北環城西路、北環城東路、東環城北路、東環城南路、優干胡同、参軍胡同、労軍胡同、軍民胡同、西環城北路、西環城南路、南環城西路、南環城東路、九九地堂、永和橋、粮食胡同、耕種胡同、承旭門(承旭楼)、承恩門、承旭公園内の 池(東面外堀を加工したもの)、など。
双城堡城の歴史
清代初期より、寧古塔副都統(1676年に設置され、寧古塔将軍に帰属)の管轄区に属していたが、 1725年に
阿勒楚喀副都統(今の ハルビン市阿城区)
が 分離・新設されると、現在の双城区一帯もこれに統括されることとなった。
1757年に寧古塔将軍が吉林将軍へ改編された後も、双城区一帯は引き続き、この吉林将軍下の阿勒楚喀副都統に属した。
1814年、吉林将軍の 富俊(1749~1834年)が清朝廷へ上奏し、拉林西北の双城子地方に残されていた広大な土地の開墾を進めるべく、
盛京(今の 遼寧省瀋陽市)
に駐屯していた兵団をこの地へ移住させ、土地開発作業に従事させることを提起する。すぐに朝廷から許可が下ると、翌 1815年、富俊は自ら双城子に駐在し、屯田の陣頭指揮にあたることとなった。こうして拉林河の北岸に広がる、横 65 km、縦 35 kmの土地の大規模開墾作業がスタートされるわけだが、これと同時並行し、拉林河の上流部から材木を切り出して住宅を建て、5村(5屯)の村落を形成させて、屯田兵とその家族のライフラインの整備も進めていく。
これらの屯田村を統括するために設置されたのが、 現在の 旧市街地(双城区双城鎮)に開設された双城堡協領の 衛門(役所)と、2つの 地方機関(佐領 ー 東官所、西官所)だったわけである(1815年)。下地図。
しかし、土地開墾の初年度は気温が上がらず、農作物の収穫もわずかで、家族を帯同してきた屯田兵らは食い扶持に困り、逃亡する者も現れていた。富俊はその一年目に関しては兵糧を無償配給し、屯田民を安心させる政策を採用して、なんとか乗り切ると、1817年に盛京、吉林旗丁からそれぞれ 1,000名の開拓民が追加導入され、一帯の農地開墾を加速させていく。
土地開発と人口増加が順調に進んでいた 1851年、双城堡協領が改編され、副都統銜総管が新設されると、そのまま総管署も双城区中心部に併設される。 この時代、屯田村の監督がメインだったことから、集落地には城壁などの防衛設備が整備されていなかったが、1862年に双福が双城総管として赴任してくると、城壁建造に関し、積極的に地元商人や有力者らと協議を重ねるようになる。こうして 1868年、彼らの寄付金を基に、ついに双城堡城の築城工事が着手されることとなった。
この時、完成した城壁は全長 10 kmにも及ぶ、長大なものであったが、その高さは 2.67 mと低く、壁の底辺部の厚さは 2.3 m、頂上部の厚さは 1.67 mで、騎馬道も整備されていた。また、城壁上には、高さ 1 m、横幅 1.3 m、厚さ 40 cmの凹凸壁が増築され、壁外には外堀が四方に巡らされていた。さらに城壁の四隅には、砲台が 4か所設けられ補強されていたという。
その後も、行政区内の居住人口が増加し続けると、地方役所だった双城堡協領が、 1882年に双城庁へ(引き続き、
阿勒楚喀副都統
に帰属。配下の役人として、理事撫民通判が新設される)、1909年には双城府へ昇格され、
現在の ハルビン市南部(双城区、および五常市)
一帯を統括する 政治、経済、文化の中心都市として頭角を現すこととなる。
中華民国が建国された翌 1913年、双城府は双城県へ改編される。翌 1914年に吉林省濱江道に、1929年に吉林省に直轄された後、満州国時代の 1932年1月31日、日本軍支配下で双城市公署が新設される。その満州国が崩壊した 1945年、双城県は松江省に帰属され、共産党時代の 1954年以降には黒竜江省に属した。
1960年にハルビン市に組み込まれると
、1988年に双城県から双城市へ昇格されるも、 2014年に双城区となって今日に至るわけである。
「双城堡」の地名由来
現在の双城区の旧名称は「双城堡」といい、これより以前には「双城子」と呼ばれていた。
これは文字通り、二つの城塞跡が双子のように並んで立地していた様子に由来している。それは、現在のハルビン市五常市紅旗満族郷三合店にある、金代に造営された 達河寨(東城子村)と 布達寨(西城子村)の城塞跡を指していた(上地図)。両者ともに、四方を囲む土塁城壁の全長は 500 mにも満たない小規模な城塞集落であったが、非常に近接し、双子のように寄り添って立地していたという。
ちなみに、この城塞跡には、元王朝時代に「斡術火駅」という 駅伝拠点(現在の ハルビン市五常市拉林満族鎮附近にあった双城子古城に開設されていた、とする別説もあり)が、明代には「納鄰河衛(1406年~)」という役所が開設されていた。
清代もこの東北地方の駅伝ネットワークは継承され、そのうちの一つが「拉林多歓駅」であった(下地図)。この駅伝集落から北西 10 kmに位置していたのが、双子の城塞跡だったという。
そして清代に至るまで、この古城跡を中心に、半径 50 km圏内のエリアが「双城子」と呼称されることとなり、1814年、吉林将軍下の
阿勒楚喀副都統(今の ハルビン市阿城区中心部)
の地方機関として「双城堡協領」が新設されると、以降、行政区名として「双城堡」が確立されたのだった。ただし、この地方役所機関は最初から、現在の双城区双城鎮に開設されており、今日の双城区中心部へと継承されている。
なお資料上、この「双城」の地名が最初に登場するのは、『明太宗実録』という。
1406年7月、明朝は、忽剌温(海西女真族)や野人女直族のリーダーである 吉里吉納、者哥難らが帰順してくると、奴爾干都司下で納鄰河衛(拉林河衛。今の ハルビン市五常市拉林満族鎮)の役所を開設し、彼らを指揮千百戸の役人として任命して、間接統治体制に組み込むこととした。
しかし、1449年夏の土木の変を境に、明朝とモンゴル勢力との攻守が逆転すると、勢力を盛り返したモンゴル族配下の蒙古瓦剌部が、翌 1450年冬~1451年春にかけて、海西女真族や野人女真族らを再服従させるべく、東北地方へ侵攻してくる(松花江を東進し、嫩江へと進軍した)。モンゴル軍司令官・脱脱が、白馬儿大泊子(今の
吉林省松原市
前郭爾羅斯蒙古族自治県にある査干湖)に進駐してきた際、逃げ遅れた女真族リーダーの 剌塔、伯勒哥、三角兀、および、その配下の部族頭目ら 300~400人がことごとく捕縛され、そのまま処刑されてしまうのだった。
この時、剌塔は 兀者衛(今の
ハルビン市呼蘭区
一帯)都督で、伯勒哥は 肥河衛(蜚克図河)都督、三角兀が双城衛都指揮という肩書であったことが、史書に言及されており、「双城」の地名が明代に確立されていた証拠とされる。そのまま清代にも継続使用された結果、今日に至るというわけだった。
続いて、タクシーをチャーターし、郊外を巡ってみることにする。
清代において、広大な「双城堡協領(後に双城庁へ改編)」の行政区を統括すべく、 その東西には 地方出先機関(佐領)が設けられていた ー 東の「東官所」と西の「西官所」(下地図)。その名残りは今も残っており、上段地図にある「東官鎮」「東城村」がこれに相当する。ただし、この東官所の役所が設置されていた跡地には、今日現在、古城遺跡は残っていない。
このため、双城区中心部から西へ移動し、西官鎮一帯を巡ってみることにした。清代に開設されていた西官所の跡地は現存していないが、このエリアが金王朝時代、建国の功臣として活躍した完顔希尹の領地であったことから、複数の城塞集落が建造されており、その古城遺跡が点在するということで、西部の郊外一帯を集中的に視察した。
まず、西官鎮小城村にある「躍進古城」を訪問する。下地図。
もう一つの「双城子」~ 躍進古城 ~
今の双城区西官鎮小城村の北西 10 mに残る「躍進古城」であるが、元々は金王朝建国の功臣として活躍した 完顔希尹(?~1140年。 初代皇帝アクダの 従兄・歓都の子で、女真族文字を創造した人物とされる)、もしくは、完顔兀術(ウジュ。?~1148年。初代皇帝・アクダの四男)の領地で、王都近郊にあって、金代から大々的に入植と開発が進められたエリアであった。こうしたことから、一帯にはたくさんの城塞集落が造営されており、そのうちの一つと考えられている。東西二つの城塞から構成され、両者の距離はわずかに 30 mほどであったという。
その後、明代から「双城」の地名が公然と使用されるようになり、清代に「双城堡」の地名が確立されると、この両古城は「双城子」と限定的に呼称されることとなる(下絵図)。地元では古くから「双城子」と呼ばれていたようだが、あくまでも、先述のハルビン市五常市紅旗満族郷三合店にある 達河寨(東城子村)と 布達寨(西城子村)の方が、知名度があったと考えられる。これは当時、南の
伯都訥(今の吉林省松原市扶余県)
から、北の
呼蘭城(今の ハルビン市呼蘭区)
へと至る、駅伝ネットワーク上に位置していた影響が大きく、その 中継拠点「拉林多歓駅」にほど近かったことから、衆目にさらされる機会が多かったためと推察される。
1981年5月30日の発掘調査により、東西の二城から構成されていたことが明らかとなり、東側は東城子、西側は西城子と称される。いずれも海拔高度 162 mの地点に平行して立地し、現在、この「躍進古城」は、双城区政府により史跡指定を受けている。
全長約 1,020 m(一辺の長さ約 255 m)の土塁城壁が、ほぼ正方形型で取り囲んでいた両城であるが、東城子の方は大きく破壊が進んでしまっている反面、西城子の方は保存状態も良好という。また、城塞跡の傍らには点将台と思わしき、盛り土跡も現存する。
西城子の南面城壁の東寄りの場所、および、東城子の東面城壁の 2ヵ所に、甕城門が一つずつ設けられており、両者ともに門幅は 10 m余りであった。また、城外の地形は平坦に開墾されてしまっているが、城内の土地はやや傾斜が残っている。その地表面には、布紋瓦や青レンガ、陶器類の破片が今でも散乱しているという。特に、東城子の方からは、6本の建物基礎の支柱と、唐代の開元通宝や、元豊、崇寧などの宋銭が出土しており、西城子の方からは、5つの 青レンガ窑(馬蹄窑)遺跡も見つかっている。さらに金銀器、青銅器、大小さまざまな銅銭が発見されている。
村内の道路整備が行われた 1996年には、白銅鍋、内装銅鏡、玉壺春瓶、銅銭などが出土しており、現在、
黒竜江省博物館(今の ハルビン市南崗区)
に収蔵されているという。
続いて、そのまま北へ移動し、松花江沿いの 永勝古城(宜春県城跡)を訪問してみる。双城区永勝郷永勝村の北にある、古城村に立地していた。上地図。
松花江南岸の台地上にある金王朝時代の城塞遺跡で、1984年に公的に認定されたものである。
四角形型で構成される土塁城壁の全長は 1,360 m(一辺の長さは 340 m)という小規模な城塞集落で、目下、城壁の保存状態は劣悪である。しかし、城内からは、仿定瓷や定白瓷などの陶器類、布紋瓦などの破片が出土し、さらに古城遺跡の西 300 mの地点からも、大小サイズの異なる六耳銅釜 4つと鉄印 1枚が、地元住民によって発見されているという。
続いて、拉林河を南下し、前対面城古城と后対面城古城を訪問する。下地図。
この両古城も同じく金王朝時代の城塞集落跡で、双城区対面城郷三姓村の前対面城屯、后対面城屯に立地していた。
対面城古城
金王朝時代に築城された 前後・対面城古城であるが(両城間の距離は 500 mほど)、 1211~12年にかけて、モンゴル軍が東北地方を蹂躙した際に破壊され、そのまま廃城となっていた。
満州国時代の 1943年、日本人学者によって初めて発掘調査が手掛けられ、共産党中国の成立後、さらに二度の考古学的調査が行われて、全容が明らかにされる。その結果、金王朝時代の史書に言及された「寥晦城」と推定され、1986年12月17日、両者あわせて黒竜江省政府により史跡指定を受けている。
前対面城の土塁城壁の全長は 1,640 mで、長方形型で設計されていた。現在、西面城壁と南面城壁の全てと、北面城壁の 西半分(高さ 2~3 m程度)が残存する。さらに、角楼が 4か所、馬面が 9ヵ所、北面城壁には幅約 10 mの城門跡も残る。城内からは 石器、陶器、銅器、鉄器、布紋瓦、定窑白瓷や龍泉窑瓷など陶器類の破片等、20余りの遺物が出土している。
后対面城の土塁城壁の全長は 700 mで、正方形型で設計されていた。現在、城壁は高さ 2 mほどが残るのみとなっているが、その他、角楼 4か所、馬面 8ヵ所、東面城壁と北面城壁の中央部にあった 城門跡(門幅は、それぞれ 7 mと 8 m)の遺構も残存する。この城内からも、布紋瓦や輪制灰陶器の破片など、わずかな遺物が発見されている。
最後に、拉林河をさらに南進して、大半拉子古城(双城区金城郷大半拉城子屯)を目指す。ここもまた金代の城塞跡で、続くモンゴル族による元王朝時代には、東北地方の 駅伝ネットワーク拠点「第四鋪駅」が開設されていた、と考えられている。
こうして双城区西半分を周遊した後、そのまま双城堡駅まで送ってもらう。もし、途中で郷村バスがあれば、これに乗車してもいいだろう。
最終的に、列車で
ハルビン市中心部
への帰路に就くことにした(ハルビン西駅着だと、ハルビン市中心部まで距離があるが、仕方あるまい。。。)。もちろん白タクに聞いて、ハルビン市中心部へ直帰できる都市間バスがあれば、これを選択したい。
下の時刻表は、普通列車(11元)、高速鉄道(17.5元)を含む。
双城堡駅 7:35 → ハルビン駅 8:16 / 双城北駅 8:20 → ハルビン西駅 8:36
双城北駅 11:15 → ハルビン西駅 11:31 / 双城堡駅 14:44 → ハルビン西駅 15:16
双城堡駅 17:38 → ハルビン西駅 18:01 / 双城堡駅 20:31 → ハルビン西駅 21:03
双城堡駅 21:12 → ハルビン駅 21:55
© 2004-2024 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us