BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 潮州市 饒平県 ⑤(柘林鎮) ~ 鎮内人口 1.3万人、 一人当たり GDP 33,000 元(県全体)


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  路線バスで 柘林鎮を訪問する(5元、40分弱)~ 広東省最東端の バス・ルート
  元代末期 1352年に建立されたという、鎮風塔(高さ 20 m強の 石塔)
  鎮風塔下から 柘林湾、柘林旧市街地を 遠望する
  南宋時代末期に 建立された白雀寺 ~ 地名「柘林」の生みの親
  柘林 旧市街地を巡る ~ 湯氏宗祠、呉氏宗祠、象頭山(明代、清代の軍司令部跡)、石敢當
  柘林古城 マップ
  【豆知識】海上交易の中継拠点 として栄えたが故に、倭寇に狙われ続けた 柘林の港町 ■■■
  柘林 新市街地を歩く ~ 環城路、柘林市場、海濱路
  海濱路を南下し、中堤路から見た 養殖地帯と 巨大火力発電所、旗頭山、西澳島
  柘林鎮の 最南端、旗頭山(虎頭山)を遠望する
  【豆知識】旗頭山 と 南澳島 が形成する「広東省東端の 第一関門」と 清代の炮台遺跡 ■■■
  【豆知識】南宋亡命政権が 柘林湾を城塞化しようとした 歴史秘話と 関連遺跡 ■■■
  【豆知識】対岸の 南澳島(広東省汕頭市)と 南澳古城(深澳鎮)■■■



饒平県(黄岡鎮)バスターミナル にある郊外バスの待合スペースから、 柘林行 の路線バスに乗車する(下写真左は時刻表)。これに乗車すれば、所城(運賃 4元、30分強)を経由して終点の柘林まで移動することができる(運賃 5元、40分弱)。

柘林鎮 柘林鎮

バスは黄岡大道を東進し、県道 X081(進港公路)を右折して、ひたすら直進する。かなり広く整備された道路だった。上写真右の正面に見える山脈の後方には、 福建省(詔安県)が広がる。まさに、省境ギリギリまで来ていた。

所城の西門バス停を越えてから、8分ほどで終点の柘林バス発着所に到着する(下写真左)。下湯村という地区で、ちょうど 柘林小学校、柘林衛生院の脇だった(下写真右)。

柘林鎮 柘林鎮

とりあえず、バス発着所脇に止まっていた三輪タクシーをチャーターして、当地第一の名所という鎮風塔まで送ってもらう(10元)。この道中、旧市街地の真ん中を経由できたのが、非常によい下見になった。

鎮風塔は、風吹嶺へと続く山道の谷間に立地しており、徒歩でしか登れないので、山麓の石階段下で下車させられ、あとは自力で登れという。誰もいない林の中に、湾曲が続く一本の石畳み山道だけが延びていた。かなり心細かったが、所々に牛糞が落ちている石階段を仕方なく登っていると、鎮風塔が忽然と姿を現した(下写真)。

柘林鎮

海から吹き付ける強風を鎮めるべく願掛けの意を込めて建立された風水宝塔で、いつしか鎮風塔と通称されるようになったという。 保存状態もかなり良好で、塔の高さは 20 m強、底層階の周囲は 16 mという巨体を今に残す。塔身は八角形の 7階建てで設計され、底層階の天井は 1.6 m、二階部分は 1.5 m、、、と、少しずつ天井が低くなっていく構造であった。

また、各層の門や窓が全く統一されていないのも特徴という。底層階には窓がなく、ただ北向きに入り口が一つ、開けられているのみだった(門上に「漢義書星」との彫刻あり)。第三層目には門が一つと窓が二つ、その門上には「福魁挂子」と刻まれ、四層から七層には門と窓が二か所ずつ設けられていた。 さらに、その各層の石材に刻まれたデザインもかなり精緻で、見る者を飽きさせない工夫が凝らされている。
特に台座部分の石板には鳥獣や仏様などの人物像が彫られ、元朝文化の特徴と言われる。塔西側の自然石上に、「歳次癸已至正十二年二月造」と刻印されており、元朝末期の 1352年に建立されたと結論付けられている。これが正しければ、670年前の歴史遺産となり、広東省東部における最古の石塔という。1989年6月に広東省政府によって歴史遺産指定を受けると、柘林鎮内で唯一の省レベルの指定史跡となった。

柘林鎮 柘林鎮

真下には小川が流れ、石橋が設けられていた(上写真左)。
上写真右は、底層階部分。窓は一つもなく、入り口だけが設けられていた。内部にある螺旋形の石階段で塔上へ登れるが、一人だと不安なので止めておいた。。。

下写真は、この底層部分から、柘林の旧市街地とその前に広がる柘林湾を一望したもの。かつて、浙江省、福建省から逃避してきた南宋亡命政権が、ゼロから新王都を建設しようとした伝説の場所である(末尾【豆知識】参照)。

なお、この柘林港の沿岸には、清代に建立された七層建て、八角形型の 石塔「蛇塔(中には入れない。塔下の岩場に蛇のような模様が入っていることに由来)」と「亀塔(3層まで登れる。塔下の岩場がウミガメに見えることに由来)」、「紅塔(外壁が”火”を象徴する紅色だったことに由来。”火”の力で水害を抑止する意味が含められており、鎖水塔とも別称される。中には入れない)」などが立地しており、この鎮風塔と相互作用し、柘林の町を自然災害から守る願掛けの意が込められていた。

柘林鎮

見学後、そのまま後方の山道沿いに風吹嶺まで登ってみたかったが(この風吹嶺古道の先にある 山頂には、明代に雷震関という守備部隊の駐屯陣地が構築されていた。 往時には、陸路で 大埕所城 へ至る峠道があり、 重要な街道であったという。現在、この峠道を守備した駐留基地の遺構は一切、 残存されていないが、巨岩がいくつも残り、当時、駐留軍が刻んだ戦役に関する碑文が見られるという。なお、1630年代、この雷震関を守った梁という姓の将軍が倭寇らとの死闘を繰り広げる中、その養女の梁玉も住民らを率いて共闘し、何とか柘林の町を防衛していたという。しかし、1634年、梁姓の将軍が 黄岡城塞 へ救援に出兵した折、隙をついて倭寇の大軍が襲来すると柘林の町は蹂躙されるも、戻ってきた救援部隊と共に撃退に成功する。しかし、この戦闘で女リーダーの梁玉は重傷を負い、そのまま戦死したという。この彼女の殉死を称える史跡として、現在、山頂の城塞跡地に蝴蝶亭と蝴蝶石が建立されているという)、さすがに一人だと心細いので断念する。再び石階段を下りて(下写真左)、先程の三輪タクシーの下車ポイントまで帰り着くことができた。

すると、その麓に真新しい社殿の白雀寺が立地していた(下写真右)。

柘林鎮 柘林鎮

伝説によると、南宋時代にすでに茅山庵という小屋が設けられていたが、後に荒廃してしまう。南亡命政権が当地へ避難してきた際、当時、柘林湾の一面にはたくさんの岩礁が散らばって位置しており、この廃屋から見た沿岸部の風景が石の林のように見えたため、寺院として再建され「柘林寺」と命名されたと伝わる。

それから幾度も荒廃と再建を繰り返していくわけだが、明代後期の 1600年ごろ、柘林駐兵備守(山頂の雷震関を守備)の岳同と寺僧の如蓮が協力して資金を募り、大規模に本殿を復興させる。当時、大埕所城 の塩官の任にあった蒋高伝が、寺の額縁を自筆することを依頼される。とても美しい白い雀が飛来する様と、その鳴き声がこだまする風景をとらえて、このとき蒋高伝は「白雀寺」と書き記し、以後、白雀寺と呼ばれるようになったという(現在でも、風吹嶺の山間部には多くのシラサギが生息しており、これを白スズメと表現したものかと推察される)。当時から寺院の規模は決して大きなものではなかったが、 柘林の地元民から厚い帰依を寄せられる古刹となっている。

なお、蒋高伝(後に中央朝廷で刑部侍郎まで出世する)は、現存する黄岡城塞の「西門」石板額縁も自筆したともいわれる

柘林鎮 柘林鎮

境内の入り口には石造りの亭があり、その表面に「心田」の二字が彫刻されている(上写真左は、残念ながら裏面)。
そのまま下山を終え旧市街地ギリギリに至るポイントで、異様な姿の「竹林」を発見した(上写真右)。本来なら伐採されてしまっていたであろう竹林や古木が、ギリギリのスペースで保護されている様子が涙ぐましかった。

柘林鎮 柘林鎮

先程の三輪タクシーで通過した旧市街地を戻る形で、バス発着所へと歩みを進めてみる。
道中、古民家や祖先廟などが点在し、ここが往時の柘林古塞である、と確信を強めることとなった。下写真左の呉氏宗祠前には池まで設けられており、古城時代から当地で名門を誇った家系なのだろうか?と妄想してみる。

柘林鎮 柘林鎮

上写真右は、湯氏宗祠。先程のバス発着所前にあった「下湯村」の石碑と関係がありそうな、一族である。
この裏手に、小さな丘があった。インド象の石碑だの、「亀背印」と彫刻された巨石群など、統一感のない意味不明な公園だったが(下写真)、ここが古城地区で最も標高が高い 場所(象頭山)であり、明朝、清朝の駐屯軍の司令部が開設されていた場所、と後で知ることとなる。明代以前は 天后宮(広東省、福建省沿岸部で信仰される、海上の安全神を祀った廟堂)が立地していたが、軍事拠点化されるに及び、天后宮は鳳山 南山麓へ移転されたという(現在の天后宮は 1700年ごろに復興されており、それまでは倭寇や鄭氏台湾との抗争で、維持もままならなかったという)。

柘林鎮 柘林鎮

丘を下って再び旧市街地の路地に入りこむと、台湾の古い町でよく見かけた「石敢當」を発見した(下写真左)。魔よけの石碑で、風水思想に則り、邪気が滞留しやすい丁字路の突き当り付近に設置されることが多かったという。

下写真右は、当地の富豪か、高級官吏の邸宅跡地の門だろうか??この道路脇をまっすぐ南進すると、先ほどのバス発着所に帰りつけた。

柘林鎮 柘林鎮

下地図 の白枠内が、柘林古塞の範囲と思われる。赤ラインは、筆者の移動ルート。

柘林鎮


柘林 の町は、古くから広東省東部における海上交易の中継拠点として栄え、漁業、造船業も盛んであったという。周囲は旗頭山や 西澳島、馬頭山、汫洲県や 海山県 下の島々が風避けとなり、波風も緩やかな天然の良港として認知され、航海途上の休憩や給水、食糧補給などの寄港地として発展する。また、古くから南澳島などへの物資供給基地も担ってきた。特に、隋代から柘林の港町が史書に登場してくることになる。

宋代、元代にはインド洋方面への海運交易も盛んとなり、海のシルクロード上に位置した柘林の港町はさらに賑わったと考えられる。それを示す証拠として、元代末期に建立された 鎮風塔、蛇塔、亀塔などが挙げられる。これらは当地に寄港する船舶が岸壁や岩礁に衝突しないように設置された目印であり、また港町を天災から守り、旅人らの航海の安全を祈願するものでもあったわけである。この時代、集落地には未だ本格的な城壁の築造までは手掛けられていなかったが、元朝廷から何らかの役所機関が開設されていたと考えられている。

明代に入っても海上交易都市として栄え、日本や東南アジア方面の大型貿易船などが、頻繁に寄港したという。こうした繁栄は当然、倭寇ら海賊のターゲットともなり、度重なる襲撃を受けるようになる。明朝、清朝は沿岸防衛網の一角としても柘林を重視するようになっていく。
南対岸の南澳島が城塞化されるにあわせて(末尾参照)、柘林の港町も城塞化が図られ、双方が連携して海峡を守備する役目を担うこととなり、この時代、一帯は柘林澳と通称されるようになる。さらに周囲に築城された 黄岡鎮城大埕所城 とも連携が図られた(下地図)。

柘林鎮

1370年、明朝廷より潮州一帯の軍事統括のために派遣されていた 指揮使(衛所の軍事司令官)の俞良輔が、柘林東路(かつての 港町「柘林」の通称名)に全長 1 kmにも満たない、小さな城壁を建造させたという記録が残る。当時、付近には烽火台も設置されたが、柘林東路の城塞内には、特に明朝の正規部隊が配置されることはなかったという。
1393年に 大埕所城(大城守御千戸城)の築城計画が決定されると(翌 1394年完成)、同時に柘林東路に 水塞(水軍基地)が設置される。水軍基地といっても、大埕所城を守備するための出張所、偵察基地のようなもので、単に駐在武官が一人派遣されただけであった。

いよいよ倭寇の襲撃が激化する中、明代中期の 1510年、明朝廷により柘林東路を取り囲む城壁の大改修工事が許可され、同時に正規軍の駐留が決定される。この時、集落の中央部にある 象頭山(旧市街にある丘公園。それまで、この丘上には天后宮があったが、その廟所の建物が官舎へ転用されたという)に駐屯軍の 司令部(鎮守東路役所)が開設される。
しかし、水軍部隊が常駐しているわけではなく、その留守のタイミングを見ては、度々、海賊の襲撃を受け、住民らは多大な損害を被り続けるのだった。さらに、作りっぱなし、派遣しっぱなしの明朝廷はその後のメンテナンスを怠り、守備兵の給与支給や武器補充、城塞建造物の補修などが滞るようになると、水軍兵士や住民らが海賊化して周囲の海域を襲うこともあったという(1526年、柘林住民の呉大と呉三が率いる漁民らが十数艘の船に分乗し、恵州潮州 の沿岸部を襲った記録が残る)。そして、後に続く広州城下の襲撃事件へとつながっていくのだった(下地図)。

他方、1544年には海賊の李大用が百艘近い船団を引き連れて、柘林の集落、および 東路役所(水軍の出張所)を襲撃するも、なんとか官民協力して撃退に成功する。また 1553年8月には、東莞 出身の海賊・何阿八が東路柘林を襲撃するも、協守指揮の馬驤、および東路指揮の張夫傑が迎撃し防衛に成功する。そして翌 1554年6月6日、亜八弟、亜九肆の率いる海賊集団が柘林を襲撃すると、大埕所城 から小部隊を引き連れて 援軍にかけつけた千戸将の夏璉が、戦場で落馬事故を起こした隙に討ち取られる など、苦戦を強いられることとなった。

柘林鎮

武器装備と兵糧の不足、兵士らの給与未支給が続く中、1564年3月、譚允傳、徐永泰らが柘林寨の水軍兵士や漁民ら 400名を引き連れて 広州城 下まで押しかけ(上地図)、装備や生活改善を請願するも、全く取り合ってもらえなかったため、海賊らと手を組んで武装蜂起し、広州城外の商業地区を襲撃して、東莞 の塩田地帯から運び込まれた塩貨物を略奪するなど、広州城下の経済に大きな被害を与える。この正規軍を含む反乱に動揺した明朝廷は、両広提督の 呉桂芳(1521~1578年。23歳の若さで科挙に合格すると、揚州府長官、兵部右侍郎、工部尚書などを歴任した)に指示して、ポルトガル船にも協力を要請し、ようやく 5月に鎮圧できたのだった。
この騒動で受けた市街地の惨状を目にした呉桂芳は、直後より広州城の二重城壁化工事に着手することとなる

また同時に、呉桂芳は地方の防衛拠点網の見直しを進め、新たに民兵を募集して、各戦線の防衛に当たらせることとした。この一環で 1566年、柘林からは地元民 1,716名に軍戸が課され、また湾内の漁船から大小 45隻が、軍船として徴用される。同時に、潮州碣石衛城 の二衛城から兵士の一部が分派されて駐留し、朝廷から直接、派遣された常駐武官一名がこれらを統括することとされた。この時、柘林東路の水軍出張所が柘林塞へ改編され、本格的な水軍基地へと格上げされたわけである。
以後、広東省沿岸部の 6大水軍基地(その他は 碣石衛城南頭城 など。これらは「水寨」と通称される)の一角を担うこととなり、その役所機関は引き続き、象頭山に開設された。現在でも兵舎の一部の壁が、象頭山の丘公園に現存するという。

柘林鎮

翌 1567年、軍人の李錫が初代・福建総兵官に就任すると、倭寇取締りを強化する。このため、福建省、浙江省一帯の海賊らが広東省側へ大規模に南下することとなり、柘林への襲撃も増加したという。この中で、浙江省側から援軍にかけつけた 俞大猷(1503~1579年)が柘林澳で倭寇を迎撃し、三連勝の末、海賊らの撃退に成功したという。

1559~1575年に広東省海域で台頭した海賊リーダー林風の率いる数千もの海賊団が 台湾澎湖諸島香港 などを荒らしまわるも、福建総兵官に就任したばかりだった 胡守仁(1531?~1592年)によって執拗に迎撃されるようになると福建省の海域から撤退し、 1573年末に南澳島を占領して広東省側の 澄海、柘林(1574年11月襲来)、靖海碣石 などを襲撃するようになる。この時、大埕所城 などが落城の憂き目に遭っている。
1575年夏にポルトガル船の協力もあり、林風の海賊団は壊滅するも、南澳島は引き続き、海賊の残党勢力によって完全占領されていた。これ以降、広東省東部から福建省南部を襲う倭寇は「島倭寇」と通称されるようになる。これに対抗すべく、明朝はすぐ対岸に位置した柘林の守備をますます強化するようになった。

1598年4月、倭寇の大型艦船 10艘余りが柘林と 碣石 一帯を襲撃する。恵潮兵備道副使の任可容と勇士の陳聰がここで奇策を用い、数艘の艦船を漁船に見せかけて、柘林と南澳島との海域を往復させる。そして主力部隊を旗頭山の山裾に移送させつつ待機させ、倭寇が岸辺に近づくのをじっと待った。5月18日、いよいよチャンスが到来し、明軍の伏兵は倭寇を大いに打ち破ったという。結果、15名を討ち取り、日本人 4名、海賊リーダー 3名、通訳 1名などを生け捕る戦果を挙げたのだった。

清代初期の 1651年、鄭成功の勢力に対抗すべく、柘林鎮城に 中軍守備(武官)1名、千総 2名、把総(最大 440の兵を指揮する武官) 4名、配下に水軍 1,000名が配属される。さらに、1717年には南の岬部分にそびえる旗頭山上に砲台陣地が建設されると、駐屯兵 62名が配置される。この時、同時に柘林塞内と東の尖山の山頂にも、追加の軍隊が配置されている。

鄭氏台湾との抗争終結後、海禁政策が解除されると、柘林の港町は最盛期を迎えることとなる。広東省、福建省沿岸や日本、東南アジア方面への交易船が頻繁に出入りし、また天然の良港として内外の多くの漁船も一時停泊したため、湾内には常時、大小 300~400隻もの船舶が留まっていたという(饒平県下、特に今の三饒鎮九村などで製造され、全国に 勇名を馳せていた青陶磁器の 出荷港でもあった)。この時代、柘林の居住人口は 2万人を越えた記録も残されている。
しかし、清代後期に至る頃には 澄海県下の樟林港 が、清末には 汕頭港 が台頭すると、 柘林港の地位は静かに低下し、そして往時の旧市街地をそのまま残すことが できた、というわけであった。



続いて、柘林鎮の新市街地区を散策してみることにした。この時、初めてバス発着所前の道路が「環城路」という名称であることを発見する。先ほどの旧市街地を取り囲んだ城壁跡に由来するものと推察される。
そのまま商店街沿いを歩いていると、柘林市場にたどり着く(下写真左)。

柘林鎮 柘林鎮
柘林鎮 柘林鎮

さらに市街地を進むと、海岸近くに出たようで海濱路に行き着いた。交通量の少ない町にもかかわらず(柘林鎮では信号機を一つも目にしなかった)、不釣り合いなぐらいの巨大道路が敷設されていたのだが、その道路沿いに柘林鎮の観光名所や歴史の解説板が掲示されていた(下写真)。

柘林鎮 柘林鎮

この海濱路の南側に、巨大な煙突からもくもくと煙を吐き出す発電所らしい施設が見えていたので、これに向かって南下してみる。すると、中堤路との交差点に行き着く(下写真左。柘中村という地区名らしい)。
この中堤路もまた全く交通量のない、だだっ広い道路だった。その途中に柘林鎮役所が鎮座していた(下写真右)。

柘林鎮 柘林鎮

下写真 は中堤路から、先ほどの巨大発電所を遠望したもの。後で地図で調べてみると、広東大唐国際潮州発電有限公司という火力発電所の会社で、2003年11月創業という(北京 に本社を置く、国営発電所グループ・中国大唐集団有限公司の子会社)。

柘林鎮

周囲は湿地帯が延々と広がるエリアで、現在、魚、ザリガニ、エビ、貝類などの一大養殖場となっている。漁師たちは小船で養殖池を巡っているらしい(下写真)。

柘林鎮 柘林鎮

中堤路をそのまま西進してみると、さらに巨大な 産業道路(県道 X081)と交差する。ガードレールを跨いで道路を横断すると、中堤路はさらに先へと続いていた(下写真)。周辺には、まだまだ広大な養殖場が広がっていた。

柘林鎮

なお、上写真の正面~右端に見える山々は、西澳島である。
元々は地続きだったらしいが、大地震の影響で大陸と分断され海峡が生じたという。現在、この海峡脇に七夕井という巨大な円形の共同井戸が設けられており、昼夜を問わず、中から蒸気を発する温水が湧き出ているという。表面温度は 52℃で、水深 5 mに達する地点では 90℃ 前後の高温となっている。これは、同じ地震の際に生じたという、南澳島にある国性井や溜牛七星と同じ特徴を有するという。

また上写真の左端に見える山は 旗頭山(虎頭山)で、ちょうど大陸側の最南端の岬にあたる。かつて、この山頂部分には砲台陣地が設置されていた。

柘林鎮



 旗頭山の 南宋亡命政権遺跡 と 清代の炮台遺跡

饒平県柘林鎮下岱村の南東端にある旗頭山の 山頂(標高 115.5 m)に、清代中期の 1717年に建造された砲台陣地遺跡が残っている。
旗頭山の西隣には柘林湾へ出入りする 海峡(小門)が控え(上地図)、また南面には航標島と青嶼という小島が二つ、さらにその先には巨大な南澳島が立地しており、福建省南部から広東省東部にかけての航路上の海峡を構成してきた。この海峡は、明代、清代には広東省東端の第一関門と称されうようになり、当砲台陣地はこの海峡を臨む南東向きに凸字形で設計され、大きく海が開けて見えるロケーションがあてがわれていたのだった。

砲台陣地(敷地面積 1,200 m2弱)の防塁壁は高さ約 4 m、厚さ 2 m、全長約 200 mに渡って建造されており、灰や砂利、粘土などを混ぜ合わせた土壁スタイルであった。また陣地は三つの部分から構成されており、前面部は砲台で、縦 24 m、横 40 mの土台に大砲が 8門設置されていたが、現在はその大部分が喪失されている。中央部には待機所があり、兵士らの休憩施設と連結されていた。後方部には兵舎が 26室分設けられ、最高で 62人の兵士を収容できたという。陣地隅には見張り台と狼煙台が二か所ずつ、配置されていた。
これらの施設遺構は今日でも良好な状態で残存しており、その歴史的価値が評価され 1988年10月、饒平県政府によって歴史遺産に指定されている。

さて、旗頭山を中心とする岬部分の歴史を俯瞰してみると、広東省東端の航路上に出っ張るロケーションは戦略的に重要で、明代後期の 1575年、兵道の金松澗が柘林鎮下岱村にある旗頭山や鶏髻山などに烽火台を設置したのが、最初に史書に言及される事件となっている。なお、これより以前の 1510年、柘林鎮の集落地に守備隊の駐屯陣地も築造されており、防衛ネットワーク強化の一環を目的としたものであった。
1598年4月、倭寇の大型海賊船 10隻余りが柘林一帯を襲撃したことがあった。これに、恵潮兵備道副使の任可容と勇士の陳聰が奇策を用いて対抗する。数隻の艦船を漁船に見せかけて柘林鎮と南澳島との海域を往復させ(下写真)、徐々に主力部隊を旗頭山の山裾に移送する。部隊を山裾にそのまま待機させつつ、倭寇がこの岸辺に接近するタイミングをひたすら待つ作戦であった。 5月18日、ついにチャンスが到来し、伏兵となって現れた明軍の前に倭寇海賊団は大混乱に陥り、明軍は大勝利を収めたという。

柘林鎮

また、旗頭山自体は風光明媚な景勝地でもあり、山裾には 500m以上にわたって綺麗な砂浜が続く。遠くの海上から見ると、山陰が波間に浮き沈みしているように見え、太陽の光を受けて輝く様は船の旗頭が波間に漂う様に見えることから、旗頭山と呼ばれるようなったという(上写真)。

南宋末期の 1276年、9代目皇帝の 趙昺(祥興帝。1271~1279年)を擁する亡命政権が浙江省から福建省を経て広東省へと逃避行を続ける途上、柘林の沿岸に立ち寄ったという。その際、周囲の海域に点在する島々と岩礁を天然の防衛ラインとして軍事拠点化を図り、王朝の再興を企図したとのエピソードが残る。しかし、全く資料的根拠はなく、地元での伝説となっているだけであるが、この頃に、海辺に連なる岩礁群が石林と呼ばれるようになり、柘林の地名につながったとされる。
この南宋亡命政権一行に関連する史跡として、旗頭山 山麓の「章魚礁(タコ岩)」が挙げられる。一行の船団がこの柘林の沿岸に停泊した際、ちょうどこの旗頭山周辺の海域で、巨大タコが出没しては兵士らを食らう被害が頻発しており、これを退治すべく、陸秀夫の指揮の下、何とかタコの足一本の切断に成功し、さらに赤色のインクを海中へ投じて視界を奪い、巨大タコを岸壁にぶつけて自滅させることができたという。その時に海中から突き出されたタコの足 7本が、巨大な岩石となったというエピソードに基づくらしい。

柘林鎮

また、この旗頭山 山麓の右手に高さ 50 mもある 巨大岩「忠臣石」があり(上写真)、山を背にし海に向かってやや斜めに傾いて立地しているわけだが、 崖山合戦で南宋亡命政権が滅亡した後、柘林の海岸にたどりついた南宋朝の生き残りの家臣が辱めを避けるため、この大岩から投身自殺したという言い伝えがあるという。

歴史資料の根拠はないものの、この南宋末期、はじめて歴史のスポットが当てられた柘林には、その後、多くの人々が移り住むようになり、いつしか「独塔鎮風、双峰鎖水、七星聚会、群獣浴日、緑浦金沙、白雀青灯、古渡雄关、普陀史碑」と詠まれるようになった八景が形成されていったという。

柘林鎮


 南澳島 と 南澳古城(深澳鎮)

唐代中期以降、南澳島は福建省側に帰属しており、閩州都督府、福州都督府、福建節度使などによって統括されてきた。しかし、明代の 1575年、福建省と広東省の二つの行政区に同時統括されることとなり、漳州下の 詔安県 と潮州下の 饒平県(信寧都の行政区に編入)がそれぞれが南澳鎮副総兵を派遣して、別々の二つの司令部を開設する(下地図)。同時に、福建南路と広東東路水軍の各出張所も開設された。
当時、島内には 4つの主要集落地区があり、広東省饒平県は 深澳鎮(島の北側)と 隆澳鎮(島の西側)を、福建省詔安県は 雲澳鎮(島の南側)、青澳鎮(島の東側)と、周辺の小島群を統括した。これら 4澳鎮にちなみ、南澳島と通称されるようになったという。

翌 1576年、2代目副総兵となって現地に駐在した晏継芳が、南澳城の築城工事に着手する。この時、高さ 7.4 m、厚さ 1.7 m、全長 1,667 mの全面石積み城壁が整備され、あわせて幅 2.4 m、深さ 2.7 mの外堀も掘削される。城門は四つ開設され、東門(朝旭門)、西門(揚威門)、南門(金城門=すぐ隣に金山が隣接したため)、北門(候潮門)と命名される。
以降、1583年に副総兵の于嵩が、1600年には総兵の鄭惟藩がさらに補強工事を進めている(1600年に城門上に四つの楼閣が増築された)。さらに 1620年、総兵の何斌臣が修築し、城門名にも変更を加えている。すなわち、東門(泰始門)、西門(綏定門)、南門(安瀾門)、北門(鎖鑰門)となった。しかし、明代末期には海賊らが上陸し、その根城として占拠したため、明朝は統治を放棄して住民らを本土側へ強制移住させる(以降、海賊らは「島倭寇」と通称されるようになる)。

1644年、鄭成功が挙兵すると、その支配下にあった金門島と 厦門島 から住民らを移住させ、南澳島を占領する(下地図)。1664年に 鄭経(鄭成功の子)の勢力を排除した清朝によって接収されると、以後、清領に組み込まれる。

海山鎮

鄭氏台湾の脅威が去った 1685年、厦門総鎮の楊嘉瑞の上奏により南澳副総兵が南澳総兵へ昇格されると、福建省南部から 台湾、広東省東部の広大な海域の警備を担当することとされる(行政区としては、引き続き、広東省と福建省の同時統治を受けた)。あわせて、南澳城の大改修工事も進められる。

1732年6月12日、饒平県 下で 南澳直隷庁(出張所)が開設される(庁役所は深澳鎮の南澳城内に開設された)。これ以降も、同知として赴任してきた姜宏正や斉羽中らによって南澳城の補修工事が適宜、行われた。最終的には、城壁の高さは 7.4 m、厚さ 2 m、全長 2,063 mとなり、城内面積は約 33.3ヘクタールに至ったという。この時代、城内の西北側の 1,063 m分が 福建省(左営と呼ばれた)に属し、東南の 1,000 m分が 広東省(右営と呼ばれた)に分治されていた。

中華民国時代の 1912年7月に南澳庁が南澳県となり、 1914年10月に至り、ようやく南澳島すべてが広東省汕頭市の帰属に決定される。 1918年2月13日に南澳大地震により津波被害を受けて、深澳県城の大部分が損壊してしまうと、1927年、県役所が深澳鎮から 隆澳鎮(今の后宅鎮)へ移転され、今日に至るというわけだった。
なお、この南澳古城の城壁の一部は、南澳県深澳鎮金山村にある武帝廟の後方に整備された古城公園内に残されており、南澳県政府により史跡指定を受けている(1992年8月15日)。目下、高さ 5 m、厚さ 2 mの城壁面が 50 mに渡って保存されているという。



自転車があれば、西澳島沿いや旗頭山の岬まで巡ってみたかったが、移動の足がないため、訪問を断念する。中堤路を戻る形で柘林鎮役所前を通過し、バス発着所まで北上することにした(下写真左)。
先程の環城路との交差点がそのままバス発着所だった。もう少し周囲を散策してみるべく、東側の池を目指すと、古廟を正面に抱える客家集落があった。現在、一帯は柘林鎮内里文化活動センターとして整備されていた(下写真右)。

柘林鎮 柘林鎮

「柘林鎮内里文化活動広場」とは言っても、本土中国の公園によく見かける、健康器具がいくつか設置された高齢者向けの レクリエーション・スペースといった場所だった。

柘林鎮

ひと通り見学後、再び路線バスに乗車し、饒平県(黄岡鎮)バスターミナル に帰着した(5元、40分弱)。

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