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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~
広東省 潮州市 饒平県 ③(所城鎮) ~ 鎮内人口 3.5万人、一人当たり GDP 33,000 元(県全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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所城鎮まで 路線バスで移動する(4元、30分強)~ 広東省最東端の バス・ルート!
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大埕所城の 西面城壁を発見、上に登ってみる!
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北面城壁から 先農廟、真武廟、北門、北面外堀 を歩く
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大埕所城(大所城、大城所城)上空写真
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東面城壁 と 東門を歩く ~ 城壁脇の 水路&水門 を発見!!
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城壁の南東角 にあった櫓台と 凹凸型の矮壁跡(矢狭間あり)
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南面城壁 と 南門を歩く ~ 民家の自宅庭園池と化した 外堀 と 六孔井(井戸跡)
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城内路地を 散策する ~ 東門街、西門街、南門街、北門巷、鴻江小宗祠、張氏宗祠、関帝廟
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古城マップ【衛星写真編】
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西門街から、城隍廟街、城隍廟、先農巷 を歩く
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本城の 見学スタートは、西門からだった。。。
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古城マップ【図説編】
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【豆知識】大城守御千戸所(大城所)の歴史 ■■■
饒平県(黄岡鎮)バスターミナル
に
到着後
、郊外バスの待合スペースあたりを写真撮影していると、ちょうどタイミング良く柘林行の路線バスが到着する(下写真左はバスターミナルにあった時刻表)。これに乗車すれば、所城を経由して柘林まで移動できる。所城までの運賃は 4元(乗車時間 30分強)、
終点・柘林までの運賃は 5元(40分弱)
。
バスは黄岡大道を東進し、省道 X081(進港公路)を左折して、ひたすら直進する。かなり広く整備された道路だった。
上写真右は、その道中で撮影した風景。写真前方に見える山は亀山といい、この山脈の後方から
福建省(詔安県)
となるわけだ。まさに、省境ギリギリまで来ていた。
その南側は「東風埭」地区といい、広大な湿地帯全域にザリガニや 魚類、甲殻類の養殖池がたくさん営まれていた(下写真左)。
さて、路線バスが
柘林鎮
へ南下すべく、県道 X082へ右折する交差点で下車する(上写真右)。ここから右に柘林鎮があり、正面へ進むと大埕鎮へ行き着くことになる。大埕鎮のさらに先の地名に「砲台」という場所があり、付近の紅礁山などに砲台陣地遺跡があるのかも?と思ったが、交通手段に不安があったので欲はかかないことにした(大埕行の路線バスもあるが、さらに東部へは白タクのチャーターが必須??)。
下地図は、
黄岡鎮の饒平県博物館内にあった 史跡マップ
。
とりあえず
、西門側から所城跡を訪問してみようと省道 X082を徒歩で少し南下してみると、道路沿いの商店の裏路地に、城壁面が見えた(下写真左)!!そのまま路地裏に入り込んでみると、南側に城壁を渡る石階段を発見した(下写真右)。
そのまま 石階段(上写真右の右端)を上って、西面城壁上に至る。
高さ 4 m強のこん盛りした土塁だった(明代当時には高さ 9 mの城壁だった!!)。今でも外面、内面ともに石積み城壁が現存しており、見応え抜群の遺構だった(下写真は西面城壁の内側)。本来は、この場所に石階段は存在しなかったのだが、住民らにより勝手に整備されたのだろう。
そのまま西面城壁を北上し、北西の角に至る(下写真左の突き当り)。かつて、城壁上の四つ角にはそれぞれ櫓台が設けられていたわけだが、北西角は木々に覆われて、その痕跡を確認することができなかった(結局、この櫓台跡がはっきり現存するのは南東角のみ、と後で判明することになる)。
上写真右は、この北西角辺りで見つけた石材の山。もともとは城壁の石垣を構成していたものが民家へ転用され、その古民家も住人がいなくなって石材だけが放置されているのだろう。
続いて
、北面城壁を東進する(下写真左は、北面城壁の内側)。
上写真右は、北面城壁の内部をくりぬく形で自宅化していた民家。まさに横穴スタイルで城壁を掘り抜き、城壁面に窓を設けていたわけである。上写真左の城壁面と同じ並びに立地する。
また、北面城壁上の一部にはゴミ収集所が設けられており(上写真左)、城壁面を登るイレギュラーな坂道が複数、整備されていた(上写真右)。上まで登ってみると、北面城壁の外側すぐに民家が連なり、壁面どうしが同化してしまっていた。
また、古城内部には至る所に廟所や祠堂などの神廟が設けられていた。下写真左は先農廟、下写真右はその前を一直線に南下する 先農巷(ここから数秒、南下すると城隍廟が立地している)。両脇には水路が設けられていた。
そのまま北面城壁沿いを東進し続けると、北門に行き当たる。東西南北の四城門のうち、城門楼閣が残されているのは、この北門だけである。下写真左は内側から、下写真右は外側から見た、北門。
なお、各城門前には守り神が祀られており、この北門前には 真武廟(上写真右の城門奥に見える廟堂)が配されていた。その他、南門前には関帝廟、東門前には龍尾王廟、西門前には華光大帝廟がそれぞれ設けられていた。
目下、この北門の外側では綺麗に遊歩道の整備が進められ、観光地化が図られようとしていた(下写真)。城壁面も真新しい石材が積み直されており、また外周を囲った外掘も補修されていた。
このまま北面城壁の外周を東進し、北東角へ向かう(下写真の奥の方)。
下写真左は、北東角。城壁と外堀の間が、無情にもコンクリート面で固められつつある。せっかく往時の土面が残る隙間部分なのに、もったいない次第である。
しかし、城壁面に生える樹齢 300年というガジュマロの樹がからみついた、古い石材はそのまま保存されており、新旧の色の違いが顕著に分かる(下写真右。東面城壁と外堀を遠望したもの)。
ここまでの移動ルートは、
以下
の通り。
そして、この東面城壁の郊外には、延々と一面に湿地と農地が広がっていた(上写真の上半分の湿地エリア)。この先に大埕鎮の街があり、前述の「砲台」という田舎町があり、そして
福建省(詔安県)
へと続くわけである(下写真左)。
なお、所城鎮周辺の地名を俯瞰してみると、夏塞(かつて夏氏一族の村が独自に城塞集落を建造していた?)、塞山など、気になる単語が見受けられるが、いずれも往時に庶民らによって城塞群が建造された記憶を、
今
に伝えているのかもしれない。
そして、東門跡に到達する(上写真右。奥に見えるのが、東門の 守り神・龍尾王廟)。城門上には矢狭間を有する楼閣面も残っていた(上写真右の上部と、下写真右の上部)。再建された 1F建ての楼閣を残す北門と、同じような構造をしていたのだろう。
さて、東門から城内に戻ると、そのまま東面城壁の内側沿いを南進してみる。
この時、初めて城壁の内側ギリギリに、水路が設けられていたことを発見する(下写真左)。雨天時などに、城壁上から流れ落ちる雨水を、効率的に城外へ吐き出す用水路となっているようだった。水路は南東角まで続いており、城壁下に設けられた小さな水門から、城外へ排出される構造であった(下写真右)。
そして
、この南東角の城壁上に、櫓台跡が生々しく残されていた(上写真右の坂上)。 4 m弱四方ぐらいの正方形で、現在はコンクリートで整地され、地元民の憩いのスぺースになっていた(下写真左)。
その外枠に、凹凸型の矮壁の一部も残されていた!!どうやら、ガジュマロの樹が保存に大活躍していたらしい。矢狭間跡の小さな穴も壁面に見られた(上写真右)!!土壁スタイルで建造されていたようで、欠けた土壁遺構からは内部構造が視認でき、非常に勉強になった。陶器片や 砂利、小石などを混ぜ合わせていたことが伺える(下写真左)。
櫓台
を後にし、続いて南面城壁を西進する。この南面城壁下にも延々と水路が敷かれていた(上写真右)。なお、古城内のうち、この南東一帯は民家がなく、畑や草地が広がるだけのエリアであった。
さて南面城壁も中央部に至るころには、かなり破壊が進んでおり、城壁内部をくりぬいて自宅化している住宅をいくつも目にした。下写真左は南面城壁の内側に設けられていた水路だが、もう城壁自体が 100%自宅化されているのが分かる(城壁面に民家のガラス窓がある)。。。
下写真右は南面城壁の外側。ここでも、城壁が完全に自宅として改造されている様子が伝わってくる。その前には畑や 池(外堀跡)などが広がり、優雅な庭園付住宅の様相を呈していた。。。。
そんな城壁と住宅が一体化したど真ん中に、南門が残されていた(下写真左)。城門上の楼閣は撤去されていたが、これも先ほどの北門と同じ構造で設計されていたのだろう。
下写真右は、南門前にあった六孔井。さらに先にも四孔井がある。一つの井戸を複数人が同時に利用できるように工夫しているわけである。
下写真は、南門の外面。城壁と一体化した民家が軒を連ねる。
ここから北へ向かって南門街がまっすぐ延びていた(
下写真左
)。やはり路地脇にはしっかり水路が設けられていた。筆者もここから城壁沿いを離れ、城内散策すべく北上してみる。
そして、東門街、西門街、北門巷との中央交差点に行き着く(下写真右)。
ここで、地元民に城隍廟の場所を質問する。すると、西門街を進んで二本先の路地を北上したところ、と指示される。それにしても、すべての城内路地の両脇には水路が延々と敷設されていた。
また所々に、祖先廟や祠堂などが残されていた。下写真左は鴻江小宗祠、下写真右は張氏宗祠。
下写真左は、南門街にあった関帝廟。下写真右は、道中で見かけた地区センター。
すると、「城隍廟街」という路地を発見する。ここから西門街をはずれ、北上してみる。間もなく到着できた 城隍廟(所城築造と同時の 1394年創建)であるが、意外に北面城壁近くに立地していた。ちょうど北面城壁を散策中に通り過ぎてしまったような位置関係だった(下地図内の赤ラインは、ここまでの
移動経路
)。
当地
の城隍廟の外観には全く華やかさは無かったが、廟堂内は住民らによってきちんと整理され、大切に保護されている様子が伝わってきた。
廟殿(上写真の左端)前には、演舞台(古劇台。上写真の右端)が設けられていた(両者は 1394年築城の際、同時に建設されたという)。旧正月などの特別な祭日に、住民らがこの境内に集うのだろうか。城隍廟の脇には、白衣庵もあった(下写真左の赤屋根)。
また境内脇には、真新しい感じの 石臼、石柱などの部材が複数、放置されていた(下写真右)。
そのまま東隣の 路地「先農巷」を南下し、再び西門街に戻って西進を続ける。下写真左はこの途中で見かけた民家。それにしても、城内の古民家群にはふんだんに石材が使用され、まさに「石の町」と形容できる旧市街地区を現出させていた。
間もなく、西門にたどり着いた(下写真右)。
この西門の両脇には、たくさんの石材が不規則に組み上げられていたのが印象的だった。
下写真
。
下写真左は西面城壁の南側、下写真右は北側の並び。やはり、延々と水路が続いていた。
下写真左は西門の内面、下写真右は外面。
西門を出ると、駐車場や露店ショップ、往来の多い自動車道が前に広がっており、ここが一般の観光客が古城訪問をスタートするポイントだったのか。。。と、最後の最後で発見することとなった(下写真左)。西門脇には、観光案内として解説板と地図が掲示されていた。
また城壁面のすぐ外側には、広大な外堀跡が残されていた(下写真右)。
そして、この前面の道路が、先に筆者が路線バスを下車した県道 X082であった。
本来、先程の
柘林
行のバスで、この西門前で下車するべきだったのだろう。ちょうど、そのバス発着ポイントの前にトイレが設置されていた。まずはここで汗をぬぐい、さらに南下すべく柘林行の路線バスを待ってみることにした。
間もなく路線バスが到着し、8分程度で終点の柘林に到着できた(2元)。
しばらく
柘林鎮の街並みを下見した後(後日、改めて訪問した)
、再び路線バスで
黄岡鎮にある饒平県バスターミナル
まで、一直線に戻った(40分、5元)。
本日の移動ルートは、
以下
の通り。
ここは広東省の南東端に位置し、福建省と隣接する
饒平県所城鎮
において、最大の目玉観光地となっている城跡である。大所城、大城所城、大埕所城などと呼ばれ、すでに 630年近い歴史を刻む歴史遺産でありながら、往時の風情や遺構を随所に残す歴史遺産して、1981年に饒平県政府から、2002年7月には広東省政府から史跡指定を受けている。
1367年、明朝廷は全国の沿海部、特に浙江省、福建省、広東省沿岸部に、倭寇対策として衛所の建造を指示する。この一環で 1394年、百戸侯(下級レベルの侯爵)の顧実により、宣化都鳳獅堡にある二尖の山脈に連なる南端の 小金山(今の瞭望山)南山麓エリア(大埕村)に、新城塞の築城が着手される。この時、全面石積みの城壁が高さ 9 m、厚さ 5.4 m、全長 2,143 mに渡って建設され、また四方に 水掘(全長 2,320 m)が掘削されて、現在の姿となったという。台形型の城内面積は 1.73 km2に達し、 三街六巷の 路地(当時から石畳スタイルで、道幅は 5 mあった)が整備される。また、東西南北の四城門上にはそれぞれ楼閣が、城壁の四隅には櫓台も増設され、防備が補強された。当時、特別に命名されることもなく、単に所城と通称されるだけであったという。
しかし、明末清初の混乱期にあった 1644年、防衛網の維持が困難と判断され、住民らが強制退去させられて廃城となるも、1648年に住民らの復帰が許可され、翌 1649年、
饒平県
長官の劉鴻業が主導して再建工事が手掛けられることとなった。鄭氏台湾との抗争が続く 1669年にも、清朝により大改修工事が施された記録が残る。
これ以降、正千戸 2名、副千戸 3名、百戸 10名、鎮撫 1名、旗軍 1,225名の部隊が配置され、 5,457もの各種武器類が常備されたという。この時から、所城は正式に 大城守御千戸所(略して大城所)と命名されることとなる(上地図)。
現在、東西南北の四城門がほぼ完全な状態で残り、また東西の城壁面も良好に保存されており、広東省内に現存する 4ヵ所の明代古城遺跡の中でも、特に保存状態がよい史跡として高く評価されている。今日でも、古城内外には 7,000人以上が居住し、多くが明代、清代に当地に駐屯した兵士らの末裔といい、また福建省南部から新住民らも適宜、流入したという。彼らが結果的に、城内の古民家群や路地を守り続ける役割を担うこととなったわけである。
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