BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 潮州市 饒平県 ①(黄岡鎮) ~ 鎮内人口 21.5万人、一人当たり GDP 33,000 元(県全体)


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  潮州市中心部(南橋市場、市バスターミナル)→ 饒平県へ バス移動(20元、1時間20分)
  長距離バス、近郊バス発着所が隣接し、トレイも清潔だった 饒平(黄岡鎮)バスターミナル
  黄岡河沿いを歩く ~ 黄岡大道、黄岡大橋、沿河北路、南門橋
  「黄岡城塞(黄岡堡)」今昔マップ
  南面城壁 と 南門の 跡地を歩く ~ 丁未路、中山路、南華路の騎楼通り
  古城時代の 旧商業エリアを歩く ~ 関帝廟、古井戸、東門跡、丁未革命紀念碑
  【豆知識】清末 辛亥革命の 前哨戦「丁未黄岡起義(1907年5月22~28日)」■■■
  東面城壁 と 北面城壁、北門の跡地を歩く ~ 菜場街、環城路、大衛路、北帝廟
  南宋時代に 最初に城塞が建造された 高台エリア「黄土崗」の 今昔 ~ 城隍廟 と 西門跡
  黄岡城塞(黄岡堡)の 大富豪一族・余氏の 祖禅廟「余氏大宗祠」
  饒平(黄岡鎮)バスターミナルから 潮州方面へ、福建省(漳州市詔安県)方面へ
  【豆知識】饒平県 と 黄岡鎮の歴史 ■■■



潮州市に滞在中、饒平県へ 3日連続で訪問した。
初回訪問時、潮州市中心部(湘橋区)の交通ハブである、バス停「南橋市場」から、饒平県行の郊外バスに乗車してみた。

バス停「南橋市場」の 南側(環城南路沿い)にある小さな売店が バス・チケット窓口を兼ねており(下写真左)、饒平行バスのチケットを購入してみる(22元)。ちょうど、バスが到着したので、売店の女性が大声で叫んでバスを待たせてくれた。そのまま饒平県行の大型バスに飛び乗る。

黄岡鎮 黄岡鎮

ここに掲示されている 時刻表(上写真右)は、あくまでも潮州市中央バスターミナルから発車する タイム・スケジュールで、当地「南橋市場」には 5~10分ほど遅れて到着するようだった。

あとで分かったことだが、バス乗車券自体は 20元で、この売店が 2元の手数料をとっていた(この売店だと、身分証の提示は不要だった)。2回目、3回目の訪問時には、潮州市中央バスターミナルから直接、饒平県行の大型バスに乗車してみた。


潮州市中央バスターミナル の窓口で、身分証を提示して購入すると 20元だった。
ついでに窓口で、三饒鎮行の直行バスがあるかどうか質問すると、1日 2本、7:30と 13:30発の郊外バスがあるという(35元)。おそらく 2時間ぐらいのドライブで直行できるのだろう

その他、饒平県下の 汫洲(饒平県の西部、海山鎮の北側)行や 海山鎮行の直行バスもあったが、本数が少ないようだった。また、汕頭市澄海区汕頭市金平区揭陽市(榕城区) への郊外バス(一時間 1本)や 広州 行のバス(一日 5本)も運行されていた。

黄岡鎮

潮州市中央バスターミナルの待合所やチケット窓口は非常にこじんまりしていたが、とても清潔だった。トイレも問題なかった(下写真)。また、バス駐車場自体も小さく、たくさんのバスが長期駐車できない規模だったが、その立地は 潮州府城跡 からも近く、またメインストリート沿いにあって、非常に便利なロケーションだった。

黄岡鎮 黄岡鎮

さて、乗車予定のバス写真などを撮影しつつ(下写真)、バス車外で待っていると、バス運転手が「まだ乗車券登録していないだろう!」と大声で言ってくる。販売チケット枚数と乗客数が機械で一致しないと発車できない仕組みのようだった。運転手は筆者が登録するのをずっと待っていたらしい。道理で、出発予定時刻を過ぎてもドライバーがバスに現れないわけだった。

黄岡鎮 黄岡鎮

乗車登録完了後、ようやくバスが発車する。ドライバーはかなりゆっくりな運転で 1時間20分ほどで終点の黄岡鎮に到着できた。前日の初回に「南橋市場」 から乗車したときは、かなりスピードを出すドライバーだったため 45分ぐらいで到着していたので、やや物足りない印象を受けた。潮州市街地 から直線距離で東へ 25kmほど離れた距離だが、運転手により随分と運行時間にばらつきがあるようだった。



バス で潮州市街地から郊外へ出ると、整備が行き届いていない凸凹道路が続き、非常に揺れることとなる。しかし、饒平県中心部の 黄岡大道(省道 X087)に至ると、急に揺れが収まって綺麗な舗装道路が続くようになる。この辺の龍頭蛇尾ぶりが、大陸中国らしかった。

饒平バスターミナルに到着すると、その建物の清潔さと真新しさ、そしてシステマティックな設計に非常に感心させられた。長距離(中距離)バスと、饒平県下の郊外路線バスの待合スペースは東西で別れているものの(下写真)、同じ建物内で 30mほどの距離にあり、コンパクトにまとめられていた。
黄岡鎮 黄岡鎮

この郊外路線の待合スペースは一つで、次から次へと各路線バスが発着していた(上写真左)。写真左端に写るトイレも、真新しく清潔だった。

また、この 饒平(黄岡鎮)バスターミナルと 高速鉄道「饒平駅」との間を運行する路線バスもあるようで、発車時刻表が掲示されていた(下写真)。

黄岡鎮

そのまま バスターミナルを出て、ふらふら散歩してみる。黄岡大道沿いを西進し黄岡大橋上から、まず古城地区を写真撮影してみた(下写真左の左岸)。

黄岡鎮 黄岡鎮

続いて、この黄岡河を沿河北路沿いに南下し、南門橋まで歩いてみる(上写真右は、沿河北路から先ほどの黄岡大橋を遠望したもの)。川の対岸北側にはいくつも山が点在していた。

黄岡鎮 黄岡鎮

そのまま沿河北路沿いを南門橋まで至ると、南門橋も対岸まで渡ってみた。上写真左は、この対岸部から古城地区を眺めたもの。
上写真右は、沿河北路と南門橋の交差点。このまま直進すると、次に丁未路を交差する。そのポイントが、かつての南城門跡である(下写真)。

黄岡鎮

この丁未路沿いに、かつて南面城壁が連なっていた(下写真)。現在、丁未路の西半分は道路も拡張されて綺麗な舗装道路になっていたが(下写真左)、東半分はまだまだ狭いままで古い商店街が道路ギリギリにまで迫っていた(下写真右)。

黄岡鎮 黄岡鎮

下写真は、この丁未路と中山路との間にあった、南華路。先の両道路とうって代わって、全く人通りが無かった。延々と騎楼群だけが軒を連ねていた。
かつて 黄岡城塞(黄岡堡)時代、この南門から東門にかけては、商業エリアが広がっており、華やかなショッピング・ストリートを形成していたわけだが、この当時の記憶がそのまま取り残された様子だった。
黄岡鎮

さて、中山路沿いに図書館と 博物館、文化センターが集う、文教地区があった。初めどこに博物館入口があるのか分からなかったが、図書館の警備員に聞くと、文化センターの 3Fに入居している、とのこと。
ワクワクしながら文化センター脇の階段から 3Fまで登っていると、途中のフロアごとに饒平県の文化や観光資源などの解説板が掲示されており、いよいよ期待値はマックスに達する。
しかし、3Fに行き着くと、単に暇そうな私服の男達 3~4人がいただけで、何の展示物もなかった。単に「博物館」事務所だったたけで、しかも政府関係者とのコネ入社と思われる若い男性数人と、年輩者一人がのさばっているだけの状態だった。その年輩の男性が逆に「何の用か」と聞いてくるので、何か博物館らしい情報を写真撮らせてほしいと伝えると、「観光マップだけ」を指さされた。仕方ないので、トイレを借りた後、そそくさと退出した。

黄岡鎮 黄岡鎮

そのまま、中山路を東へ進む。と、大衛路との交差点に関帝廟と古井戸が保存されていた(上写真左)。1370年、明朝廷により 黄岡城塞(黄岡堡)内部に黄岡巡検司が開設された際、大規模な城壁工事が着手されたわけだが、このとき同時に創建されたのが、この関帝廟という。当時から、黄岡河沿いの 南門~東門エリアには賑やかな商業地区が広がっており、さまざまな物資が行き交う交易市場が開かれていたという。こうした背景から、商売繁盛を祈願して関帝廟が建立され、今日まで継承されてきた、というわけらしい。その後、幾度もの戦火と再建を繰り返し、特に最近では日中戦争時代に日本軍の空襲を受け全焼したことが言及されていた。現在の姿は、1999年に再建されたもの。

さらに東進すると、菜場街との 交差点広場(かつての東門跡地)に行き当たり、ここで「丁未革命紀念碑」を発見する(上写真右の緑地内に設置された石像)。


1905年8月、打倒中国封建体制、打倒清朝支配を掲げる中国同盟会が、孫文らによって留学先の 東京 で設立されると、以後、辛亥革命へ向けて組織造りや行動計画、革命戦略などが練り進められていくこととなる。
同時に、中国各都市や中国外の華僑社会にも中国同盟会の支部が設立され、反清活動を行うメンバー募集や拠点網の整備が進行する。この過程で順次、各地で小規模な武装蜂起が決行されていくこととなった。萍瀏醴起義(1906年12月。丙午萍瀏之役)、丁未黄岡起義(1907年5月。丁未黄岡之役)、七女湖起義(1907年6月。丁未恵州七女湖之役)、欽廉防城起義(1907年9月。丁未防城之役)、鎮南関起義(1907年12月。丁未鎮南関之役)、欽廉上思起義(1908年3月。戊申馬篤山之役)、雲南河口起義(1908年4月。戊申河口之役)、広州新軍起義(1910年2月。庚戌広州新軍之役)、黄花崗起義(1911年4月27日。辛亥広州起義)など。しかし、散発的な武装蜂起はいずれも清軍によって個別鎮圧されてしまうのだった。
黄岡鎮

その全国二番目の 武装蜂起「丁未黄岡起義」が、この黄岡鎮城で決起されたわけであるが、1907年(丁未年)5月22日、孫文が号令を発し、中国同盟会の中核メンバーであった 許雪秋(1875~1912年)と 何子渊(1865~1941年)らが作戦計画を立てて、陳芸生、余紀成、余通、陳涌波らの地元構成員が軍事蜂起したわけであるが、一度は黄岡鎮城を占領し革命軍政府の樹立に成功するも、潮州府総兵の黄金福が自ら正規軍を率いて現地に急行すると、多勢に無勢、また武器装備の差は明らかで、瞬く間に鎮圧されてしまうこととなる。
最終的に 汫洲 での戦闘で完全に鎮圧された丁未黄岡起義であったが(5月28日終結)、数千人規模の参加者に対し、主たるメンバーらは 香港 へ亡命し、また別の地方支部で匿われたため、革命軍の死者は 337人のみが記録されている(このうち、200人がこの反乱鎮圧後に捕縛されて処刑された者)。現在、黄岡中山公園に丁未起義紀念亭が建立されている。

黄岡鎮 黄岡鎮

ここから菜場街を北へ進む(上写真左)。東面城壁が連なっていた通りだ。道路沿いには時折、古民家が残っていた。

そして、北東端に到達する。道路のど真ん中に、古木が 4本ほど伐採されずに保存されている光景が眩しかった(上写真右)。大陸中国の都市ではよく見かけるパターンなのだが、地元で大事にされている古木の姿を見ると、毎度のごとく、うれしくなる。
その交差点脇には、小さな廟堂が祀られていた(上写真右の右下の軽トラック横)。この風習は、台湾 でよく見かけるもので、両者の文化の類似性を痛感する。

また、道路向かいには、饒平県人民医院の巨大な建物が後方に控えており、この旧市街地区にあって、唯一、異様な高層建造物であった(上写真左の道路奥にも薄っすら見える)。

黄岡鎮 黄岡鎮

そのノッポな病院ビルの周辺は病院城下町となっており、薬局、家電店、雑貨店などが軒を連ねる、華やかな商業エリアであった(上写真左)。
そのまま環城路を西進すると、一つ目の交差点が大衛路である(上写真右)。この三差路に、かつて北城門が立地していた(上写真左の中央に見える、緑色看板の店舗あたり)。先の清末に勃発した丁未黄岡起義では、この北門から革命軍が城内に侵攻したのだった。

黄岡鎮 黄岡鎮

その脇の住宅街の中に、北帝廟がどっしりと社を構えていた(上写真左)。 また周囲には小さな 祠(上写真右)や、古い民家なども残されていた(下写真)。

黄岡鎮 黄岡鎮

この環城路は、かつての北面城壁沿いに相当するわけだが、商店も少なく、目下、低層の家屋が軒を連ねるエリアとなっていた。まだまだ古い時代の風情を色濃く残す地区だった。

黄岡鎮 黄岡鎮
黄岡鎮 黄岡鎮

さらに西進すると、下り坂となるポイントがあった(下写真)。その脇に城隍廟と金山禅寺へ上る階段があったので(下写真の左端)、境内に入ってみる。本殿前は清潔に保持されていた。
なお、下写真の道路脇に自動車が駐車している辺りに、かつて西城門が立地していた。

黄岡鎮

下写真左は、城隍廟の本殿。屋根の装飾がすごかった。
下写真右は、城隍廟の正門石牌。現在、通行禁止になっていた。その下に、「西門」の石額がはめ込まれ、保存されている。これは、城隍廟再建工事の際、発見されたもので、明代末期に彫刻された石板額縁が、倭寇の襲撃で黄岡城塞が 占領・破壊された際、そのまま地中に埋まっていたと考えられている。

かつて、南宋時代に最初に黄岡城塞が築造された際、この 小山「黄土崗」に立地したと考えられている。ちょうど、東側から続く台地が西側の川辺へ下る丘陵地帯の、先端部に相当するロケーションであった。

黄岡鎮 黄岡鎮

下写真は、城隍廟の東側に広がる古民家街。細い路地と土壁民家が延々と続いていた。古城地区の東面や南面よりも、明らかに高台エリアだった。

黄岡鎮 黄岡鎮

そして、環城路の向かいに、古城時代の城壁片を思わせる土壁の残骸を発見する(下写真左)。
もしや。。。と思って、横の散髪屋の店先に座っていた古老に確認してみると、「その通り」とのご回答だった。このたった 50 cm × 1.5 m ほどの土壁片だったが、貴重な歴史遺産が確かに残存していた。
黄岡鎮 黄岡鎮

この城壁片の周囲を巡ってみたが、歯医者を営む古い建物、その横にはコンクリート住居が続いており(上写真右)、土壁片はまさに上記の建物端にくっついた部分のみであった。
下写真は、坂下から西面城壁の跡地を見返したもの(中央の自動車上に見える、「8号専科」という看板下に城壁片が残る)。

黄岡鎮

そのまま 坂道(環城路)を下り切ると、再び丁未路と合流する(下写真左の突き当りの道路)。この道路沿いに「西門市場」と「南門市場(下写真右)」が立地していた。

黄岡鎮 黄岡鎮

丁未路を東進していると、北側の住宅街に石牌門があったので立ち寄ってみた(下写真左)。
その後方に、何やら大きくて派手な廟所の 屋根瓦(オレンジ色。下写真左の後方)が見えていたので、さらに進んでみると余氏大宗祠があった(下写真右)。

住宅街のど真ん中に広場が忽然と現れ(今は駐車場になっていた)、後方には丁重に整備された立派な廟堂が保存されていた。この黄岡鎮城築造の大部分の費用を拠出し、また黄岡鎮の経済を牛耳っていた余氏(城内余氏と通称された)の祖先を祀ったもので、今でも黄岡鎮一帯にはたくさんの末裔が集住しているという。先の関帝廟の寄付者リストにも、余姓の住民たちが上位に名を連ねていたのを思い出した。

また、この一族からは科挙合格者も数名輩出しており、特に最難関試験「状元」に合格した人もいたようで、大々的に祀られていた。地元で栄華を誇った余氏一族の、確かな存在感と強烈な誇りを見せつけられる場所だった。

黄岡鎮 黄岡鎮

ひと通り 古城エリア巡りも終了したので、潮州市中心部 へ戻るべく、再びバスターミナルヘ移動する。
チケット窓口で 20元と身分証を見せてバス乗車券を購入する。そのままバス乗車しようとしてしまい、またまた運転手に怒られてしまった。。。当地では係官に乗車チケットを見せて、機械に乗車登録を済ませないといけない仕組みだった。


なお、この饒平県中心部(黄岡鎮)から 潮州市中心部(湘橋区)への復路であるが、二通りの方法がある。往路と同じく、所要時間は 1時間20分ほどだった。


前述の通り、饒平バスターミナルの窓口で身分証を提示し、待合スペース内で発車案内を待ち、スタッフに乗車券を見せて乗車登録を完了させてから、潮州行(市中央バスターミナル)のバスに乗って発車を待つ。3日連続で往復したが、大型バスなのにわずか 3~4人程度の乗客しかいなかった。。。


饒平バスターミナル前の黄岡大道の 道路向かい(北側)にある広場で待っていると、上記のバスターミナルを発車した潮州行の大型バスが通過するので、手を挙げて乗車する。運転手に 20元を手渡す仕組みで、身分証の提示は不要だった。
なお、この広場には多くの白タクたちが客引きで待ち構えており、筆者にも話かけてきた。「潮州へ帰る」というと、いろいろ値段を言ってくる。潮州まで白タクで往来する人もいる、という証左だろう。

なお、この 饒平県(黄岡)バスターミナルは広東省の最東端に位置し、隣接する福建省との省境をまたいだ 福建省漳州市詔安県(南詔鎮) への中距離バスも 1時間に一本、運行されていた(8元)。

黄岡鎮



 饒平県(黄岡鎮)の歴史

3500年前の新石器時代、饒平県の山間地帯ですでに先住民らの生息が確認されている(1974年、饒平県浮濱鎮の大埔山で、古代の墓地遺跡が発見される)。
東晋時代の 331年に、長らく広東省東部一帯を統括した揭陽県から、 海陽県(今の潮州市中心部・湘橋区)が分離・新設されると、以後 1000年以上もの間、海陽県の行政区に組み込まれた。

この時代、北部の山岳地帯は独立心旺盛な地元民族らが跋扈するエリアで、行政の管轄が行き届きにくい地方であったが、南部の海岸沿いや平野、湿地帯は早くから 交易集落、農村、漁村として開発が進むこととなる。特に、黄岡鎮の集落は、黄岡河(黄岡溪)の河口部にある好立地条件から、早くに水運交易都市が形成された一つで、広東省と福建省との境界線上に立地する重要な港町として台頭した(下地図は、南宋時代当時)。
黄岡鎮

南宋時代を通じ、この 交易都市「黄岡鎮」はその繁栄から、度々、海賊らの襲撃を受けたため、地元名士の劉侯克により朝廷へ黄岡鎮守備のための兵士派遣が上奏されるも(1242年)、長江沿いの対モンゴル戦で戦費、兵力共に余力のなかった朝廷は却下し、逆に地元住民から民兵を徴用するように、との指示が下される。
翌 1243年、潮州長官の鄭良臣が主導し、初めて 黄岡城寨(現在の城隍廟附近にあった 高台・黄土崗辺り)の建造が着手され、そのまま自身が守将を兼務することとした。守備兵は 100名とされるも、その内実は地元民から徴兵された民兵で、城内住民 50名と、城外の 50名(水軍要員と定義されたが、実際には河川沿いの漁師らが担当した)から構成されることとなった。

なお、この 地名「黄岡」の由来であるが、一説によると、最初に住民らが居住を始めた集落地が「黄土崗」と呼ばれる、黄岡河東岸の高台エリアであったためと指摘される。もしくは、黄岡河(黄岡溪)から直接、命名されたという説もあるが、現在、前者の説が多数派を占める。


黄岡城寨の築城を命じた 鄭良臣(?~1280年)であるが、1217年に進士に合格し、1242年から 潮州軍州事(長官)に任命されていた。当時、南宋政権を率いた宰相・史弥遠(1164~1233年)らに連なる、貢物中心の屈辱的な外交政策により、民衆には重税と圧政が課せられて王朝の衰退期にあったわけだが、鄭良臣はこうした国情を赴任先の潮州で目の当たりにすることとなった。重税で苦しめられる庶民を見て心を痛めた彼は、現地の戸籍調査を進め、最貧層の 7,000戸に対する減税を朝廷へ上奏し、これを許可させる。
黄岡鎮

翌 1243年には、地元の地主らが密かに私有していた 700石以上もの田畑を調べ出して課税し、3,500貫もの税収増に成功する。これを軍費に充当させたのだった。また他方、潮州城の南に 韓山書院 を設立し、自ら学長に就任する。同時に新田開発を進め、その収入分を学校運営費に充当させたという。その後、王都へ帰任した鄭良臣は、太常博士(国家儀式を司る最高責任者)などへ出世した。彼の功績は地元潮州で大いに支持され、1280年の死去後、潮州名宦祠 に合祀されることとなる。

なお、彼の次に潮州長官に赴任した 陳圭(1225~1296年。1247年に進士に合格後、嘉議大夫、漳州長官などを歴任し潮州長官に着任)も善政を敷き、 1246年、自らの私財を投じて 林姜橋、陳塘橋、水磨頭橋、百丈埔橋、黄岡橋五里橋、竹林径内大橋、竹林第二橋などの石橋を各所に建設している。中央朝廷から遠い潮州は、古くから左遷先として忌み嫌われた地であったが、その分、政争に与しない良心的な政治家に恵まれた土地柄であったと言える



元代、明代に至っても、 沿岸部の 一大集落地・黄岡城塞(黄岡堡)は潮州周辺に配置された 9城寨の一角であり続けた。潮州の咽喉元に立地する交易都市であり、その重要性は不動のものとなっていく。
南の岬に位置した柘林鎮はその前衛集落、漁港として栄え、元代には小規模な行政機関が開設されていたと考えられている。1353年には、高さは 22 m、塔の周囲は 16 m、七階建て八層の鎮風塔が建立されている

1370年、倭寇の襲撃が激化したため、明朝廷により 黄岡城塞(黄岡堡)内に 黄岡巡検司(警察機関)が新設されるも、引き続き、倭寇の襲来に悩まされ続けることとなる。
1393年、潮州府は宣化都下の大埕に 衛所「大城所」の建造を決定し、翌 1394年には大城守御千戸所が完成 されるとともに、 柘林村に水軍の偵察基地が開設される

黄岡鎮

1477年、両広総督の 朱英(1417~1485年。今の湖南省郴州市出身で、 1445年に科挙合格後、監察御史や布政司参政、布政使などを歴任し、 1475年より広州に赴任中だった)により、海陽県の東部 ー 海陽県下の太平郷の宣化都と信寧都の 2都、および光徳郷下の 滦州都、清遠都、弦歌都の 3都、さらに懐徳郷下の 秋溪都、龍眼城都、蘇湾都の 3都の、合計 8都 ー が分離され、饒平県が新設される。このとき、県役所は 弦歌都(清代に元歌都へ改称)下の 下饒堡(今の三饒鎮)に開設され、すぐにレンガ積みによる城塞都市が建造される。沿岸部の 最大都市・黄岡鎮城は、太平郷宣化都下の黄岡堡として、この饒平県に帰属されることとなった。
この時、田舎集落の下饒堡が県都に選定された理由として、未だ独立心旺盛な 地元民族(蜑族や畬族)らを統括し徴税強化が図られた点、と同時に広大な山間地区を統括できる点、という地の利が決め手になったと考えられている。また、経済の中心地・黄岡堡とは、黄岡河(黄岡渓)の河川交通で直結された点も見逃せない。上地図。

なお、県名「饒平」の由来であるが、南宋時代の対金朝政策の強硬派で詩人、文学者であった 王十朋(1112~1171年)が、当地で体験したエピソードを詠んだ詩「饒永不瘠、平永不乱(肥沃な農地には事欠く山間地帯だが、戦乱とは一切無縁の、平和で純朴な土地)」にちなんで命名されたと考えられている。

1168~1169年の 2年間、王十朋は泉州長官として福建省南部に赴任することとなったわけだが、その着任の道中、潮州で病気療養中だった旧友の王大宝を訪ねる。この時、彼から別の知人として邱君与を紹介される。こうして潮州から泉州へ至る途中に、山深い三饒鎮を経由し邱君与を訪ねたという。この時、集落地の南郊外にあった古寺「双流寺」に投宿する

その夜中、王十朋は突然、神秘的な笛の音を耳にして目を覚し、一人、外へ出て周りを見渡したという。一帯の山や川は静まり返っており、空には星が広がる雄大な自然の光景を目にし、「天下大旱、此処半收、天下大乱、此処無憂」に始まる一句を詠み、書き留めたという。この詩は彼が後に編纂する 詩集『梅溪碑記』にも掲載されると共に、現地で石碑に残されることとなり、そのまま双流寺内にて保存され続けたという。そして、王十朋が死去して数百年後、当地の地名として生き返ったのだった。
彼は 王都・臨安に帰任した最晩年の 1171年、皇帝や皇太子に近侍する 太子詹事、および、龍図閣学士(皇室秘書の筆頭)に任命される。最後まで皇帝から厚い信任を受けた人物であった。



また明代を通じ、饒平県南部の沿岸地帯では倭寇襲撃がますます激化する一方、県城を含めた北部の山岳地帯は比較的、安全地帯となっていた。

この時代、沿岸部を襲った倭寇らは、南澳島に拠点を設けたことから「島倭寇」と呼ばれ、日常茶飯事となっていたという。
南澳島はもともとは饒平県下の信寧都の行政区にあったが、 1393年に島防衛に限界を見た明朝廷は、島民らを 蘇湾都(今の澄海県一帯)へ移住させる決定を下し、南澳島の直轄統治が放棄されると(1409年)、そのまま海賊らが入居し根城としたのだった。ここから海路、潮州一帯の沿岸部を襲うこととなる

1548年、黄岡城塞(黄岡堡)が島倭寇によって落城し破壊されたため、黄岡鎮の地元富豪で、住民代表の余廷仁らが朝廷に対し、より強固な城塞建造を申請する。すぐに 潮州長官・郭春震の許可が下り、石積み城壁の建設工事が着手される。翌 1549年に完成された城壁は全長が 4,000m強、 4城門を有する巨大城郭都市となった。建設費用は銀 7,000両以上が投入されたといい、官 30%、民 70%の負担率とされた。
黄岡鎮

その後、潮州府下では次々と県城が新設されていき、都度、広大な行政区を有した饒平県は縮小の一途をたどることとなる。 1526年の大埔県新設の際には、出光徳郷の滦州都と清遠都が分離され、 1565年の 澄海県 新設の際には蘇湾都が分離され、また出懐徳郷の秋溪都が 海陽県(今の 潮州市中心部・湘橋区) へ再編入されている。さらに、それまで南澳島の 西部(深澳鎮と隆澳鎮)は、饒平県下の太平郷信寧都が、 東部(青澳鎮と雲澳鎮)は 福建省・詔安県が統轄する、分割統治が採用されていたが、1576年に南澳鎮が新設されると、その下に守備隊が一括監督されるべく漳潮協守が設置されることとなる

しかし、明代末期の 1622年、広東省東部一帯が倭寇の大襲撃を受けた際、黄岡城塞(黄岡堡)や 大城所 なども落城し、沿岸部は荒廃してしまう。翌 1623年には、各城塞の再建工事がスタートされるなど(伝説によると、この再建工事の際、現存する「西門」の石板額縁を、当時、大城所の塩官の任にあった 蒋高伝【後に中央朝廷で刑部侍郎まで出世する】が執筆したという。彼は、柘林鎮にある白雀寺の石牌門額縁も自筆している)、いたちごっこの関係が続くのだった。

黄岡鎮

1649年11月には鄭成功の潮州遠征があり、黄岡城塞も開城に追い込まれる。
再び、清軍が潮州沿岸部を再奪還すると、饒平県の軍司令官だった呉六奇が黄岡堡の強化工事を主導し、外周全長 2,167m、高さ 3.4m 余りの城壁を完成させる。これは 70年前の城壁サイズより約半分に縮小されていたが、その分、城壁の厚さ、強度は加増されていた
この工事費用の負担も前回同様、官が 30%、民が 70%で決定され、特にその民間負担のうち、当地で大富豪であった余氏がかなりの資金を拠出したという。城壁の完成後も、城隍廟の建立や修築に際し、朝廷は度々、余氏一族に資金提供を打診しており、余氏一族は当地で圧倒的な存在感を持つ一族であったことが伺える。以後も、余氏一族は黄岡城内に居住し続け、時と共に「城内余氏」と称されるようになり、ますます繁栄する中、黄岡城は余半城との異名をとることとなる。

以降も戦火は絶えず、さらに 1662年、清朝により導入された遷界令により、沿海部の住民らが内陸側へ強制移住させられると、黄岡城もこの指定範囲内に含まれたため、いったん城塞は破却される(1664年)。
1672年に遷界令が撤廃され、住民らの復帰が認められると、すぐに潮州長官の宋徵璧が指示し、当時、饒平県長官であった祝大年が主導して城塞の再建工事が着手される(下絵図)。

なお、これより以前の 1669年、南澳島内で詔安県側が統括していた 青澳鎮、雲澳鎮が饒平県の行政区へ併合される。1683年に鄭氏台湾が降伏すると、福建省、広東省の海域は正常化が図られ、その一環で 1685年、南澳鎮が復活設置される。同時に、青澳鎮と雲澳鎮は再び 福建省・詔安県側が統括することとなり、両行政区の混在時代が再スタートする。 1732年に南澳庁が新設されると、最終的に饒平県下に完全に組み込まれることとなる

黄岡鎮

清代を通じ、黄岡城内には黄岡協左営と黄岡協右営の二機関が設置され、都司一員、守備二員、千総四員、把総四員が駐在していた。兵士 1,156名、騎馬 116匹が登録されていたわけだが、これら黄岡協左右営は県下の沿海部の海防拠点網の守備を担当したため、配下の兵士や騎馬はそれぞれ各所に派遣されており、また砲台陣地と大砲もそれぞれに配置して組織的に防衛網を運営していたので、城内にはほとんど駐屯部隊がいなかったとされる。こうした隙をついたのが、清末 1907年5月に発生した丁未黄岡起義の革命騒動だったわけである。

その後、辛亥革命を経て中華民国が建国されるも、中国各地には軍閥が割拠する分裂状態に陥る。この潮州東部地域を支配したのは北洋軍閥らであったが、1925年に共産党東征軍が饒平県域に至るとすぐに駆逐され、翌 1926年、正式に 共産党・饒平県支部が開設される。さらに翌 1927年には 南昌蜂起(1927年8月1日)に失敗した 朱徳、陳毅らの軍が上饒鎮まで南下してくると、共産党全軍による 貴州省、雲南省、四川省への西方移動が決定される(「茂芝会議」の開催。下写真は、三饒鎮を訪問した際、省道 S222号線沿いで撮影したもの。道路標識の一行目に注目)。

黄岡鎮

時は下って、共産党政権時代の 1953年、饒平県の県役所が 三饒鎮 からこの黄岡鎮へ移転される。500年以上を経て、県中心都市が刷新されることとなり、そのまま現在も黄岡鎮が県都を務める。なお、現在は 汕頭市 が管轄する 南澳島 であるが、 1958年11月~1959年11月の1年間は、潮州市下の饒平県に組み込まれていた。

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