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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 海口市 瓊山区(中心部)府城鎮 ~ 鎮内人口 11万人、一人当たり GDP 42,000元(府城鎮)
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瓊州府城(瓊州城、【二代目】瓊山県城、【三代目】舍城県城)
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鼓楼、瓊台書院、東面城壁、瓊台福地坊、美舎河、紅城湖
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海口五公祠
海口美蘭国際空港に到着後、21番路線バス(機場交通枢紐駅 ⇔ 銀灘花園)で、高速鉄道駅「海口東駅」近くの バス停「山高村口」で下車する。
ここから 1 kmほど北東にある、7天ホテル(海口動車東駅駅振興路店)へ移動する。 海南島の 北部、東部全域を周遊すべく(末尾参照)、一週間滞在することにした。
初日は、このホテル前の「大園路」をまっすぐ北へ 1.4 kmほど徒歩移動し、古城エリア(鼓楼街、海口海瑞故居、胡文虎游泳池旧跡など)に行き着く。さらに北東方向へ進んで、美舎河の対岸にある「海口市博物館(海口五公祠の向かい)」を訪問する(下地図)。
もしくは、先のホテル最寄りの バス停「山高村口」から、47番路線バスに乗車して、終点「紅城湖」まで移動し、ここから徒歩で西進して、博物館を訪問することもできる。
なお、この紅城湖路沿いにある「紅城湖公園」は、古城時代の北面外堀を大改修したもので、現在、市民公園として一般公開されている(下地図)。
博物館見学後、再び西進し、本格的に古城エリアを散策してみる。
この旧市街地こそ、北宋時代初期の 972年に築城されて以降、海南島内の 政治、経済、文化、軍事の絶対的中心地として君臨してきた、瓊州府城跡というわけである。
惜しくも、つい 30年前の 1983年、都市開発のあおりを受け、城壁の大部分が撤去されてしまい、現在の鼓楼街南端にあった 南門(靖南門)や小西門(子城の城門)、北面城壁上の望海楼などの歴史的建造物が、すべて喪失されてしまったという。現在わずかに、東城門(東門里に現存)、西城門(忠介路草牙巷に現存)、そして長さ約 110 mの石積み城壁の 一部(高さ 1.2~2 mと幅 5.2~5.9 mのみ。大陸側の城郭と異なり、海南島の城壁は島内に豊富にあった火山岩石がメインであった)と、鼓楼と瓊台書院のみが、城郭時代の遺構として残るのみ、となっている。
特に、東門付近の城壁面は、民家の壁面に同化する形で残存されており、ちょうど城壁の 湾曲部分(もともとの全長は、東西約 74 m、南北約 276 mあった)で、東面城壁の貴重な遺構となっている。また、この東門外には、幅 25~30 m、深さ 2 m程度の美舎河が流れており、これがかつての東面外堀跡という(下地図の右端に見える河川)。これらの府城遺跡は、現在、海南省政府によって史跡指定を受けている。
現在、政府大院の官舎と瓊山中学の敷地が、清代に 府署衙門(府役所)が開設されていた区画である(下地図。現在の福地后横街と 文庄路の間)。広大な府城内にあって、中央のやや北寄りに位置していた。
この場所こそ、北宋時代に瓊管安撫司署が、元代に瓊州軍民安撫司署が、明代と清代には瓊州府役所があった場所で、建城以来、政治の中枢部を成してきたわけである。中華民国時代に入っても、瓊崖の最高行政機関や 軍司令部(瓊崖綏靖処、瓊崖鎮守府、瓊崖道、瓊崖行政委員公署、広東南区善后公署 など)は、いずれもここに開設されていた。
また、この瓊州府城内には、 瓊山県役所と 舍城県役所(1071年に廃止)も併設されており、清代の 瓊山県役所(県衙)は、府衙(府役所)のちょうど南西あたりに立地していた。現在、県前直街(旧名は県前街)と 県后街に囲まれる一角である。下地図。
なお、当時の瓊州府城は、東西に一直線に連なる道路、府前街(今の文庄路。上地図)と、鎮台前街(今の忠介路。上地図)を主軸に構成されており、雷瓊兵備道署、瓊州府署、提督学院行署、瓊州鎮総兵署(鎮台署。瓊州府鎮標総兵官の行政庁)、瓊山県署(県役所)などの各庁舎が立ち並び、また、玉皇廟、天寧寺、三公祠、県学宮、瓊台書院 などの宗教施設や教育機関も、軒を連ねていた(上地図)。
この東西に貫通する街道を中心に、枝葉に別れる形で「七井八巷十三街」が形成されていたわけである。
府前街は、文字通り、府署門(府役所)前の大通りで、そのまま東へ進むと 東門(朝陽門)と 東門街に通じており、また、南門街(今の鼓楼街)を南進すると、南門(南靖門)へと直結されていた。
対して、鎮台前街は、清代に新設された 瓊州鎮総兵署(鎮台署。瓊州府鎮標総兵官の行政庁)が立地していたことに由来する。ここは、大西門へ直結する北勝街と北門街に通じており、府城西半分の最重要な街道であった。
また、靖南街は南面城壁沿いにあり、尚書街を北上すると、府署(府役所)大門へと通じる小道を成していた。その他、北帝街(今の中山北路)、丁字街(今の中山路)、馬鞍街などもあり、「十三街」を構成していた。
これに枝分かれする形で、「八巷」、すなわち、8つの路地が開設されており、それぞれ 蛋巷、打鉄巷、仁和巷、関帝巷、少史巷、達士巷(当時、多くの地元名士の一族らが集住したエリア)、草芽巷、双龍巷と命名されていたという。このうち、今も現存している 進士坊、舉人坊、貞洁牌坊、北勝街、馬鞍街 などの石畳路地には、馬車の車輪跡などが今日でも残されている。
これら 市街地「八巷十三街」が、七地区(七井)で区分けされていたわけである。
なお、現在の鼓楼街にある 鼓楼(別称:譙楼、文明楼。上写真右)は、もともと明代の 1372年、府役所前の文庄路の南面に創建されていたが、清代の 1788年に現在地に移築されて以来の歴史を誇る、貴重な古城遺跡である。楼閣部分は、明代、清代を通じ幾度も建て替えられてきたが、鼓楼の台座部分は、明代中期の 1481年に築造されて以来のもので、縦 28 m、横 24 m、高さ 6.39 mにもなる。この両拱門は横 4.6 m、高さ 7.1 mもの規模を誇り、門上に「海南壮観」と「奇甸文明」の表札が掲げられている。
そもそも、鼓楼(鐘楼)とは、城内の住民に日々の時報や急報を知らせる重要な役割を担ったもので、かつてはどの城郭都市内にも設置されていた。
また、府城内には、寺、観、庵、石塔、祠堂、廟所があちこちに設置されていたという。例えば、社稷壇、開元寺、天寧寺、玉皇廟、城隍廟、雷廟、玄壇廟、灶君廟、黎母廟、馬王廟、泰華廟、孵恵伯廟、仁孝祠、孝義廟、東昌廟、三賢祠、蘇公祠、五公祠、などである。
特に関帝廟は、府城内で最も標高が高かった抱珥山上に建立されており、この山の脇に瓊台書院が、その前に瓊台福地坊という祠が建立されていたという(上写真)。上地図。
そして、府衙(府役所)の東隣には、学宮(孔子廟)が開設されていた。この 瓊台書院(上写真)を兼ねる施設は、海南島における最高学府で、清代の 1710年に創建されたという(清末に中学堂へ改編される)。この他、府城内には 東坡書院、同文書院、奇甸書院、西洲書院、崇文書院、粟泉書院など、複数の書院が開設されていた。
その他の古城時代の遺構はすべて撤去されてしまっているが、現在の河川名や 路地名、地名などには、当時の記憶がしっかりと刻み込まれていた(府城中学、綉衣街、大路街、尚書直街、県前直街、県后街、洗馬橋路、洗馬橋西三巷、東門路、東門三横里五横巷、東門外、東門里、東門第一幼稚園、東門第一小学校、東門百貨、北門官市、北勝街、北官幼稚園 など)。
なお、現在の東門社区一帯は、古城時代、緑地公園エリアに相当していた。下地図。
城内の市街地は、西面と南面を中心に展開されていたことが分かる。
北宋時代初期の 972年、当地に【二代目】瓊山県城が築城される以前、
【初代】瓊山県城は、今の海口市瓊山区旧州鎮に立地していた
。 唐代の 627年に開設されて以降、632年に瓊州役所が併設されるようになると、以後、【初代】瓊山県城は、瓊州の州都を兼ねつつ、別に舍城県の県役所まで同時入居する、複合行政都市となっていた。
そして、北宋時代初期の 972年に【二代目】瓊山県城が築城されると、そのまま瓊州の州役所、および舍城県の 県役所(1071年に廃止)も再入居される。
当初、工期がわずか 1年余りだったこともあり、城壁の全長は 1.5 km程度の、こじんまりした城塞であったという。
1369年、明朝がモンゴル勢力を駆逐して海南島を接収すると、兵部侍郎・孫安が官兵 1,000余りを引き連れて瓊州城に入城する。翌 1370年、海南島全域を司る 最高行政庁・瓊州府役所(元代に設置されていた乾寧安撫司から改編)が開設されることとなり、より権威付けを図るべく、孫安は瓊州府城の大規模化を朝廷に上奏し、すぐに工事が着手される。
現場作業は、主に衛指揮の張荣が担当して進められ、北西角と南東角を中心に拡張される。この時、城壁の全長が 1,998 m、高さ 10.7 mにまで強化される(1372年完成)。あわせて 3城門が設置され、東門は朝陽門、西門は順化門、南門は靖南門と命名された(それぞれに城門楼閣も増築される)。なお、防衛上の理由から、海側の北面には北門が設けられず、北面の城壁上に物見櫓としての「望海楼」のみが増設されていた。
以降、大陸中国の最南端に位置する府城として、海南島の 政治、経済、文化、軍事の絶対的中心都市として、君臨していくこととなる。
1376年、さらに拡張工事が進められ、城郭の東側が延伸される(城壁 1,132 m分)。 2年後の 1378年に完成されると、東門は朝陽門から永泰門へ改称される。
この時に完成された城壁は、全長 4,172 m、高さ 8.9 m、厚さ 9.3 mという、巨大さであった(東西約 1,400 m、南北約 700 m の楕円形)。また、城壁上には凹凸女壁 1,843ヵ所、櫓や兵舎など 57棟が設置される重装備で(特に、東西南北それぞれの四隅にも角楼が設けられ、守備の要とされていた)、外周には全長 4,428 m、幅 10.7 m、深さ 2.7 mの外堀が掘削されていた。三城門外には、それぞれ瓮城が増築されていたという。下絵図。
さらに 5年後の 1384年、海南衛指揮の桑昭が、西門外に土壁 1,266 m分を増築し、子城を建造する(子城には 西門、南門、北門の 3城門が配された)。以降、府城は内城と外城の 2段構成となり、最終形態が完成する(上絵図)。
1473年、副使の涂棐重が、これら子城の 3城門をそれぞれ、 東門=体仁門、西門=帰義門、南門=定海門 と命名する。
1477年、僉事の陳昭が、城外のさらに外周部に 土塁「馬防壁」を建造する。この時代、海南島全域は度重なる海賊団の襲撃を受けており、特に防衛力強化が迫られていた時期であった。
1558年、府長官の李慎が、子城の城壁を土壁から石積み城壁へ大改修するも、間もなく台風被害により倒壊してしまう。すぐに参議の曹天佑と、瓊山県長官の曾仕隆が協力し、再度、子城の城壁復興工事が手掛けられる(1565年完成)。この時、石積みで完成された子城の城壁は全長 1,039 m、高さ 4.7 mとなり、その厚さは以前より加増され 3.7 mとなっていた。あわせて城壁上には、 642ヵ所の凹凸壁が設置されることとなる。
明代末期の 1605年、瓊山大地震が発生すると、城壁と楼閣の大部分が倒壊してしまうも、すぐに再建される。
1641年、府長官の蒋一鳴が、東門外の甕城を石積みへ大改修すると、甕城の城壁面は全長 26.6 m、高さ 4.7 mとなる(この城壁上には 42ヵ所の凹凸壁が設置)。これに対し、南門外の甕城の城壁は全長 13.3 m、高さ 4.7 mで、凹凸壁は 30ヵ所のみであった。
清代もこの最終形態が踏襲されるも、度々、台風被害を受け、城壁は幾度も損壊するも、歴代の駐在役人らが自腹を切り、また役所名義で借金して、何度も修築作業が繰り返されることとなった。
1855年、巡道の黄鐘音が、それまでの粉砕した小石をメインに積み上げていた凹凸壁面を、加工した板状の石材で積み直す工事を手掛け、あわせて、城門上に櫓を増築する。これが府城の城壁建設における、最後の大工事となった。
このまま城壁群は、中華民国時代中期にまで残存されていたが、 1928年、府城内の街道が拡張されると、西面の子城と北面の 土塁「馬防壁」が撤去される。さらに翌 1929年、陸軍営長の陳済南が北面の城郭部分を撤去し、練兵場を建設してしまうなど、瓊州府城の城壁は順次、喪失されていくこととなった。そして 1983年、残っていた城壁や 城門、楼閣などの大部分も、都市開発のあおりを受け、すべて撤去されてしまうわけである。
なお、古城地区の北東部に位置する海口五公祠であるが、海南第一楼とも称され、千年近い歴史を有する海南島の 歴史、政治、文化に貢献した人々を顕彰する場として、清代後期の 1889年に建立されたものという。
学圃堂、観稼堂、西斋(五公精舍)、東斋、蘇公祠(上写真)、両伏波祠、洞酌亭,浮粟泉、瓊園、そして、新しく建立された五公祠陳列館、で構成されており、敷地面積は 66,000 m2、建物面積は 6,800 m2という。
夕方、高速鉄道「海口東駅」で翌日の乗車チケットを購入しておく。ついでに、乗車口なども確認したい。
この高速鉄道「海口東駅」前の 7天ホテルを拠点に、海南島北部一帯を巡ってみる。早朝出発。三角ルート。
① 海口市瓊山区(府城跡、鼓楼街、紅城湖)、海口市博物館(五公祠)
海口市瓊山区 → 路線バス → 海口市博物館
②
海口市美蘭区(海南省博物館)
、
海口市龍塘鎮(珠崖嶺城跡)
海口市瓊山区 → 69番路線バス → 美蘭区 → 69番路線バス → 海口市龍塘鎮 ー 珠崖郡(瞫都県)城
③
海口市龍華区(海口所城跡、騎楼地区)
、
澄邁県老城鎮(旧市街地、永慶寺)
海口市瓊山区 → 路線バス → 龍華区 → 路線バス → 澄邁県老城鎮
④
澄邁県(澄邁県博物館、金山寺、旧市街地、南渡江)
、
臨高県(旧市街地、文廟)
海口西バスターミナル → 澄邁県(金江鎮)バスタ → バス → 臨高県(臨城鎮)バスタ → 高速鉄道
⑤
定安県(定安県博物館、古城跡、旧県衙、南渡江)
、
海口市瓊山区旧州鎮(旧州城遺跡)
海口東バスターミナル → 定安県バスターミナル → タクシー → ローカルバス
⑥
瓊海市(塔洋鎮旧市街地、塔洋鎮歴史文化展覧館、聚奎塔、博鰲鎮朝陽郷旧県村・楽城村、潭門鎮旧県村)
高速鉄道 海口東駅 → 瓊海駅
⑦
文昌市(古城跡、文昌歴史文化展館、孔廟、蔚文書院、文南老街)
、
万寧市(大茂鎮旧州村、東山嶺)
高速鉄道 海口東駅 → 文昌駅 → 万寧駅
⑧
昌江県 昌城郷昌城村(古昌化城、趙鼎衣冠墓、峻霊王廟遺跡、至来県城)
高速鉄道 海口東駅 → 棋子湾駅
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