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塔洋鎮 / 潭門鎮 / 博鰲鎮
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 瓊海市(塔洋鎮 / 潭門鎮 / 博鰲鎮) ~ 市内人口 55万人、一人当たり GDP 63,000 元(市内)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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【三代目】会同県城(瓊東県城。今の 瓊海市塔洋鎮)
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聚奎塔、東関廟、西関廟
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【二代目】会同県城(今の 瓊海市潭門鎮の中心部・旧県村)
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【二代目】楽会県城(今の 瓊海市福田鎮鳳頭村、新潮村あたり)
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【三代目】楽会県城(今の 瓊海市博鰲鎮朝陽郷旧県の万泉河沿い)
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【四代目】楽会県城(今の 瓊海市博鰲鎮朝陽郷楽城村、万泉河の 中州エリア)
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楽城古街道、城隍廟、南霸天 邸宅跡(『紅色娘子軍』の 悪玉ラスボス・モデルの人物)
早朝より、
海口市 瓊山区(中心部)の 高速鉄道「海口東駅」
から高速鉄道に乗車し、瓊海駅に到着する(20分に一本あり。46分、40元)。駅前のバス乗り場から ⑥⑪番路線バスに乗車し、瓊海市 中心部(嘉積鎮)へ至る(約 2 km)。
市街地の メインストリート「東風路」沿いの「文明園」か「元亨街(瓊海バスターミナル)」で下車すると、この同じバス停か、道路向かいのバス停から、瓊海市郊外へ移動するローカルバスを拾うことができる。
この日はこの 中心部(嘉積鎮)を 2度経由し、郊外各方面を往復することとなった(下地図)。
まず、道路向かいのバス停から、北へ向かう「塔洋鎮」行の郷村バスに乗車する(北へ 6 km)。
塔洋鎮下車後、とりあえず真っ先に、市街地の南側にある塔洋鎮歴史文化展覧館を訪問する(下地図。前門街の南端)。当地の 歴史、文化、習俗に関する展示が充実し、必見の博物館となっている。
その後、旧市街地区の散策をスタートする。当地は、元代末期の 1350年代~1950年まで、【三代目】会同県城の県都を務めた地だけあって、旧市街地には多くの名所旧跡が残されており、瓊海市地元では「古邑小鎮」と別称されている。その代表的な歴史遺産は、町の西はずれにある 聚奎塔(下地図。明代末期の 1605年建立)をはじめ、東関廟や西関廟であり、また無形の伝統芸術である「瓊劇」も全国レベルで知られるという。しかし、肝心の古城遺跡である城門や城壁は一切、残っていない。
地名に刻み込まれた往時の記憶も、わずかなものであった(城東街、城西街、前門街、東門茶店、南塘村、東橋村、北壇村 など。下地図)。なお、古城地区の郊外にあたる南塘村と北壇村には、明代風の建築スタイルを残す、青色レンガの屋根瓦と白壁で構成された古民家群が複数、現存するという。
瓊海市 中心部(嘉積鎮)から北東 6 kmの地点にある塔洋鎮の中心部は、かつて【三代目】会同県城(元代の 1350年代~1950年)が開設されていた場所である。
元代を通じ、海南島は部族反乱が頻発しており、元朝廷は度々、県役所の移転を余儀なくされていた。この一環で、1350年代に会同県の県役所が、太平都斗牛郷(今の 瓊海市潭門鎮の 中心部・旧県村)から、当地へ移転されてくる。
当初は、簡易な城塞だけであったが、明代の 1550年、会同県長官の陳儒によって、初めて本格的な城郭都市が建造される。この時、城壁の全長は 1,333 m、高さ 5 m、厚さ 3.4 mの規模に拡張され、北門(拱極門)、東門(賓陽門)、南門(萃和門)の 3城門が配されていた。その他の詳しい情報は伝わっていないという。
以後、共産党時代の 1950年に嘉積鎮へ移転されるまで、実に 600年余りに渡って、会同県の県都を務めることとなった。 現在は、城郭都市の遺構はほとんど残っておらず、しかも会同県の名称すらも存続されていない。
なお、当地必見の観光名所が、かつて瓊東八景の一角をなした、聚奎塔(上写真)である。明代末期の 1605年、会同県 長官・盧章が主導して建立されたもので、 400年以上もの歴史を有する貴重な歴史遺産という。 海南島でも保存状態の良い伝統的建築物の一つとして、現在、海南省政府により史跡指定を受けている。
伝説では、県長官の盧章が塔建設の際、夢を見て、青い衣を着た宵霍と名乗る者が詩を詠みながら、「奎塔插天連甲第」と謳っていたということで、聚奎塔と命名されたという。今日に至るまで、聚奎塔は塔洋鎮の道標、象徴として機能し、塔洋鎮地元民たちから深く愛着を持たれるシンボルとなってきた。
なお、「塔洋鎮」の地名にも大きく関与しており、この聚奎塔と城下町の周囲に広がる美しく広大な 田園風景(大田洋)から命名されているという。
再び、郷村バスで瓊海市 中心部(嘉積鎮)の「元亨街(瓊海バスターミナル)」へ戻ってくると、続いて潭門鎮を目指す。
このバスターミナル近くで、チケット販売屋が「潭門行!潭門行!」と大声を張り上げているので、この ⑮番郷村バスに乗り込む。発車後、だいたい約 40分で到着する。
この潭門鎮中心部が「旧県村」で、かつての 古城地区(【二代目】会同県城。元代の 1312~1350年代)である。軽く散策後、西側にある南海博物館を訪問する。
この博物館周辺の 新潮村、風頭村あたりも、古城地区(【二代目】楽会県城。元代の 1287~1294年)に相当する。
ここから白タクをチャーターし、海岸線を巡りながら、博鰲鎮まで南進してみる。大通り「濱海大道」ではなく、あえて写真撮影のため、浜辺沿いの一般道を走ってもらう。
博鰲鎮役所を過ぎて、万泉河を遡り、そのまま大橋を渡って万泉河の巨大な 中州「楽城島」へ移動してもらう。ここの楽城村で下車する(下地図の城隍廟前で)。
この中州島は、ヤシの木などの熱帯性植物が豊富に生息し、まさに、南国の楽園といった場所だった。その中央部に位置する楽城村の旧市街地が、かつての【四代目】楽会県城(元代の 1300~1950年)跡地、というわけである。
この楽城古街の入口に、2004年7月27日、瓊海市政府により「楽会朝陽古墟旧跡」と記した、石碑が設置される(下写真)。ここが、かつての楽会県城の南門外に相当する。
今日、当地に現存する楽城古街道(全長 323 m、道幅約 10 m)と 古城壁遺跡は、明代に整備されたもので、現在、海南省政府によって史跡指定を受けている。この青レンガや青石で舗装された古街道の両端には、往時からの商店街が軒を連ねており、現在、これらの屋根瓦付の建物群は、そのまま住民らの宅地として転用されている(主に清末~中華民国時代に建設されたもので、海南島の典型的な建築スタイルという。これらの屋根瓦は、強い日光を遮る効果が期待されていた)。そして、この曲がりくねった細い街道の端っこに、東西 4.42 m、南北 8 mほどの古城壁の土片が残されているわけである。
なお、先の古街道入口の近くに城隍廟が立地しており(1369年建立)、 650年の時を経た今もなお、線香の煙が絶やされることはないという。下写真。
ちなみに、この城隍廟は日本人とも関係がある場所だった。
日中戦争が勃発した 1939年、早々にも日本軍が海南島を占領すると、当時、楽会県役所が開設されていた楽城島に、日本軍の一部隊が駐屯してくる。ある年の旧暦 1月15日、楽会県城内の城隍廟で城隍神が街を練り歩く儀式が執り行われた際、同時に廟内で瓊劇の鑑賞会が催されることとなった。当地に駐屯していた日本軍幹部らが列席中、突如、中国軍のゲリラ部隊が乱入し、手榴弾を一つ日本軍幹部らへ投げつけるも、不発に終わる。そのままゲリラ部隊は姿を消し、結局、一人の犠牲者を出すこともなく混乱は収拾されるも、その混乱の中で銃弾を受けた瓊劇団員の一少女が絶命することとなった。もし、この手榴弾がさく裂し、日本軍にダメージを与えていたならば、島民全員が日本軍の報復を受けていたわけで、当時、不発に終わった手榴弾は、城隍神の慈悲、として地元民から感謝され、同時に、絶命した若い団員は、城隍神夫人として廟内に祀られることとなった、という。
万泉河が海へとつながる出口部分に位置する、中州の 島「楽城島(約 2~3 km2)」の中央部分に、かつて【四代目】楽会県城が築城されていた。
元代中期の 1300年、海南島で頻発していた原住民反乱に耐えかねた元朝廷は、この中州島へ県役所を移転させてくる。そのまま 1950年まで県都を務めたわけだが、この城郭都市が本格的に建造されたのは、明代後期の 1572年であった。
副使の陳復昇、県長官の張網が主導し、大規模に城壁を刷新することとなった。全面を石積み城壁に作り変え、完成された城壁の全長は 1,240 m(一辺約 340 m)となり、 東門と西門の 2城門が設置される。
1577年、県長官の彭大化が、城壁の外周に外堀を掘削する。
1650年、県長官の 王懐仁、陳蕃、李時興らの三代にわたり、城壁の全面改修工事が進められていく。この時、南門が新たに増設され、来薫門と命名されるも、後に閉鎖されることとなる。下絵図。
1684年、県長官の張結縁が再び、南門を再設置する。
1716年、県長官の謝鉷が城門の外側に子城を増築し、あわせて城門上に楼閣を建設する。
1940年、日本軍が海南島に上陸してくると、楽会県城の城壁の一部が撤去され、 かわりに 炮楼(トーチカを兼ねた小さな砲台陣地)が建設される。以降、楽会県城跡には断片的な城壁基台だけが残されるだけとなった。
1958年、大煉鋼鉄の高炉建設に際し、その資材に城壁の残余資材が転用されてしまうと、四百年以上もの間、君臨してきた県城は完全に姿を消すこととなった。
現在、楽会県城跡にはわずかな城壁遺構と、青石板で整備された 街道跡、古井戸、そして城隍廟が残されるだけとなっている。
かつて楽会県城内、県署(県役所)、安楽書院、城隍廟、関帝廟、先農祠、武帝廟、万寿宮、天后廟、三聖廟、盂蘭廟、楽陽会館 などが設置されていたが、現存するものは城隍廟だけとなっている。今でも多くの人々が当地の城隍廟を参拝し、線香の煙が絶えることはないという。
現在、この中州島内には、約 300戸、1,200人余りの住民が生活している。
また、楽城島の北門村にある南霸天の旧家も、隠れた名所という。
南霸天は中華民国後期に実在した典型的な地主階層の人物で、 文化大革命時代に流行った 1960年制作映画『紅色娘子軍(上写真)』の悪玉ラスボスのモデルとなった人物である。この映画を見れば、中華民国時代の 1930年代の海南島の庶民生活や貧富の格差を垣間見ることができる。当時、国民党政権とコネを持つ 悪徳地主・南覇天に対し、共産党配下の ゲリラ部隊「紅色娘子軍」に参加した 少女・呉瓊花が、農民らの協力を得て追い詰めていき、処刑するまでを描いた勧善懲悪ストーリーとなっている。
もともとは中華民国時代に建設された大邸宅であったが、現在、全く手入れが施されず、長年、荒廃したまま放置されているという。しかし、わずかに残る建物は、海南島独特の建築スタイルを有し、史跡としても十分に評価されているという。
古城地区を視察後、徒歩で万泉河の大橋を渡り、土手沿いに旧県村を目指す(上地図)。このまま万泉河沿いを東進できればベストだろう。
この旧県村が、【三代目】楽会県城(元代の 1294~1300年)跡地、というわけである。
帰路は、抑大村までやや北上し、郷道 358号まで出て、 ②番路線バス(瓊海市 ⇔ 博鰲鎮)に乗車すると、瓊海市中心部まで戻れる。あとは市街地を軽く散策し、そのまま
海口市 瓊山区(中心部)
まで高速鉄道で戻るか、都市間バスで戻ることにした。この日は、朝から晩まで、瓊海市内で過ごす一日となった。
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