BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年 2月上旬 『大陸西遊記』~


上海市 青浦区 ~ 区内人口 550万人、 一人当たり GDP 66,000 元 (上海市 全体)


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  松江区 → 地下鉄「洞径駅」→ 青浦区へ 路線バスにて 30分、5元
  青浦博物館と 「上海市民第一号」の 人骨解説
  青浦県城跡地エリアの 東門橋と 東掘割 ~ 城中東路 と 環城東路の交差点
  古城地区に残る「碼頭街」 ~ かつての城内運河と 運河市場街の 記憶
  青浦県城の 南半分を俯瞰する ~ 城内運河、県役所、書院、運河市場街、東面城壁と 掘割
  「碼頭街」と「宝慶街」とをつなぐ 陸橋が語るもの
  青浦県城の南掘割と 対岸に立つ 万寿塔(1742年建立)
  古城地区の 中央部 ~ 城中南路、城中北路、城中東路、城中西路の交差点
  青浦県城の北堀割 と 城北大橋 ~ 城中北路を直進
  城隍廟 と その霊苑跡地(現在の曲水園)
  青浦県城の北半分を 俯瞰する ~ 北城門、東城門、城隍廟と その霊苑、北東面の掘割と 城壁
  【豆知識】青浦区の 歴史 ■■■
  【豆知識】古代大河・呉淞河が生み出した 青龍鎮、その栄枯盛衰 ■■■



宿泊した 7天ホテルがあった 地下鉄「松江新城駅」から九号線を北上し、地下鉄「洞径駅」で下車後、路線バスに乗り換える。
事前調査して、この地下鉄駅の北側を通る沈磚公路沿いのバス停に、青浦区へ行く路線バスが停車するはずなのだが、どこにもそれらしい標識がなく、最初は不安であったが、同じくバス停で待っている地元民や通行人に確認して、やっとこの場所で合っていることが分かった(下写真左。中央の高架立橋は地下鉄 九号線)。

青浦区 青浦区

ここで待つこと 15分ぐらいで青浦区行きの路線バスが来る。 30分弱のドライブで、5元だった。
外青浦公路公園路のバス停で下車する(上写真右)。

青浦区

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ここから 青浦 ②番路線バス に乗車する(1元)。そうすると、運転手が丁寧に博物館裏手のバス停を教えてくれて、うまく下車できた。

ここの青浦区博物館はかなり内容が充実していた(下写真左)。
青浦区は上海市域でも最も早くに陸地化が済んだ場所で、新石器時代の人骨や集落遺跡が発掘されているという。そのため、当地で出土した人骨が、「上海市民第一号」という解説とともに展示されていた(下写真右)。
また、古城模型や中国人の姓に関する解説コーナーも非常に興味をそそられた。

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博物館は 16:30に閉館らしく、16:20には警備員が館内を巡回し出し、追い出される。
ここから再び路線バスに乗車し、青浦県城跡地を目指すのだが、地図情報が不足し、現在地がつかめず苦労を強いられた。

諦めてタクシーを探し、古城エリアの 東門橋 を指定すると、そのまま北上する形で 10分弱で到着できた。どうやら、筆者は南郊外をさまよっていたらしかった。城中東路沿いで下車する。
下写真は、東門橋と 東掘割。

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この東門橋を渡ると環城東路がある(下写真左)。下写真右は、環城東路から 東門橋を見たもの。

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そのまま、古城地区の 東西メインストリート「城中東路」沿いに中央部へと進み、ショッピングエリア街に到達すると、碼頭街を南下してみた。下写真。

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地元ローカルな屋内外の市場が広がる庶民エリアで、なかなか見応えがある。
「碼頭街」という路地名から推察できる通り、古城時代、ここに城内運河が流れ、その運河沿いに船着き場や 商家、倉庫、市場が開設されていたわけである(下の模型写真)。

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ここから南側には古民家などが点在する、だだっ広い地区が広がっていたが(上写真左)、間もなく、古い住宅地が撤去され、ニュータウンが建設される予想図が掲示されていた(上写真右)。
上海市松江区の古城エリア南部で目にしたニュータウン が今、まさに開発されようとしていた。

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すでに多くの古民家が撤去されてしまっており、無機質な白壁だけが延々と続く無人エリアになり果てていた。路地名には 県前街、学前街などの案内が掲示されており、かつては青浦県役所や 書院(県立学校)が軒を連ねたエリアであったことが伺える。

下の模型写真 の中央に見える、城内運河西岸沿いに立つ建物群が、青浦県役所や書院である。

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1573年に青浦県が復活設置された際、県長官の石継芳が県役所の東南側に立地した礼義塾という私塾を県立学校へ改編したという。

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さて、碼頭街をひたすら南下するも、途中で行き止まりとなったので、左手側にあった橋を渡る(下写真)。
橋と言っても、その下は単なる空き地が広がるのみの空間だったが(三段上の写真右)、古城時代、ここに城内水路が通り、その周囲に商人らの船着き場や商店らが軒をつらねていた様子が目に浮かんだ。古城解体と共に埋め立てられて住宅地となっていたのだろう。

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橋を越えて東側へ移動すると、宝慶街に至る(下写真左)。ここは城内運河の東岸沿いの繁華街に位置し、今でも風情ある古民家が軒を連ねるエリアだった。

この通り沿いに宝慶寺があった(下写真右)。

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明末の 1600年ごろに創建された当時は千佛閣という仏教寺であったが、清代初期の 1652年に道教寺へ改編され、 1850年にいったん破却される。1868年に元の場所に再建され、関羽像などを安置されたため、地元では関帝廟と通称されるようになったという。古民家群の宝慶街沿いに立地したため、2009年に修築工事された際、青浦古城地区に残る唯一の仏教寺として宝慶寺へ改称され、今日に至るという。 2004年2月に上海市史跡に指定されている。

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そのまま直進していると、環城東路に行きあたった(下写真左)。
この外に流れる河川がかつての南面の掘割である(下写真右)。

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堀川の対岸には、1742年に最初に建立されたという 万寿塔(上写真右。別称:報恩塔、南門塔)と万寿塔院があり、博物館でみた模型風景を重ね合わせてみた(下の模型写真)。
もともとは南堀川の治水を祈願するために、地元名士らの寄付で三角州上に建設された簡易なものだったが、その後も何度も建て替え工事が施され、現在の塔は高さ 32.9 mとなっているという(2009年完成)。

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そのまま環城東路を西進してみる(下写真左)。この視界の中に、かつて南城門と吊り橋があったわけである。
南北メインストリート「城中南路」に至ると、そのまま北上して、再び城中東路まで戻った。下写真右は、城中南路と県前街との交差点付近。

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下写真は東西メインストリート。ここを基点に東側が「城中東路(下写真左)」、西側が「城中西路(下写真右)」。まさに、古城地区の中央部にあたる交差点。

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そして、そのまま「城中北路」を北上すると、東方購物広場という巨大なショッピング地区に出くわす(公園路と 三元路の間)。その周囲にはスターバックスなどもあり、おしゃれな空間が開発されていた。下写真左。
さらに北上すると、城北大橋まで至る(下写真右)。

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下写真左は、北面の掘割跡。川幅 50mぐらいはありそうだった。
下写真右は城北大橋上から古城エリアを眺めたもの。

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そして、東方購物広場前の公園路沿いを東進すると、城隍廟が立地していた。地元の青浦区指定の史跡として保護されていた。下写真。

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また、その東隣には曲水園という中国式の庭園公園があった(下写真左)。
現在、公園は水路で囲まれた空間となっており(下写真右)、当初より水の豊富な庭園だったという。もともとは清代中期の 1745年に建立された城隍廟の霊苑として整備された境内広場で、当時、青浦県城内に住む全住民から一文ずつ資金を供出させて整備された経緯により、一文園と通称されていたという。 1798年、正式に曲水園と命名されたわけだが、これは園内にあった 池(現存せず)の湾曲具合が水のようにしなやかだったという風景に由来するという。

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そのまま公園路を東進すると、東面の掘割跡 に到達する(下写真左は青浦橋から北側を撮影したもの。ちょうど左手側に曲水園の緑地帯が見渡せる)。
下写真右は青浦橋から南側を撮影したもの。奥に見える橋が最初に入城した「東門橋」である。

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下模型は、北門側から古城東半分を眺めたもの。
北門すぐの位置に城隍廟とその 霊苑(今の曲水園)があったことが分かる。
また、東城門、北城門ともに吊り橋を有する城門で、東城門付近は農地が広がっていたようである。

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この先の青松路沿いで地元の知人と合流し、自家用車で 松江新城駅 の 7天酒店まで送ってもらえた。

 青浦区の 歴史

長江と銭塘江による土砂の堆積で、河口部に発展した三角州は長い時間をかけて延伸され、7000年前にはすでに上海平原の西半分が出現されていたという。 この時、現在の上海市域の中で最初に陸地化が完了したのが青浦区一帯であった。
すでに 6000年前には古代人類も生息を始めていたという(馬家浜文化)。

青浦鎮東側にある趙巷郷崧澤村と北東部の重固郷福泉山で 紀元前 3900~前 3200年頃の新石器時代の集落地遺跡が発掘されている(1957年)。

馬家浜文化時代(紀元前 5000~前 3700年頃)から文明度がさらに進展しており、一部の古代人らがさらに東部の海岸線へ移動を続け、ようやく定住の地を定めて、新しい生活環境に適合していく過程で、文明を進化させたと考えられている。この時代、石器や骨器類の他に、玉器や 鼎(陶器)などの使用もスタートし、崧沢文化時代と中国では命名されている(1982年)。続く良渚文化時代(紀元前 3500~前 2200年頃。下写真)の一つ前に相当した。

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西周時代から春秋戦国時代にかけて、今の青浦県一帯は呉国の版図下に組み込まれた。
紀元前 514年に 長水県(県城は今の 嘉興市南湖区 )が新設されると、ここに属した。

戦国時代下の紀元前 473年、越国が呉を滅ぼすと、現在の青浦区一帯も越国に併合される。
その越国も紀元前 355年に楚により亡ぼされると、今度は楚の版図下に組み込まれた。
楚の末期の紀元前 248年、考烈王を擁立し、国勢の回復に尽力した 丞相・黄歇(春申君)が呉の地を与えられると、その領地に属した。紀元前 238年にクーデターにより春申君とその一族郎党が処刑されると、再び楚の国領として接収される。

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紀元前 223年に秦が楚を滅ぼすと、翌紀元前 222年、呉越の地に 会稽郡(26県城を直轄。郡都は 呉県城 ー 今の 江蘇省蘇州市)が新設される。長水県(紀元前 210年に由拳県へ改称。下地図)は、この会稽郡の東端に位置した。
なお、由拳県への改名の理由はいくつか指摘されているが、有力説としては、秦の始皇帝が当地を巡遊した際、旧呉国、越国、楚国の地元民や風土が持つ反骨精神に気分を害したことから、十万人の労役者を駆使してその地形を破壊的に変えてしまい、あわせて軽蔑的な名称をつけた、というエピソードが挙げられている。

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前漢時代初期の紀元前 154年に呉楚七国の乱が平定され、前漢朝による直接統治体制が確立されると、現在の青浦県域は会稽郡下の 類県(紀元前 207年に疁県から改称。最終的に 536年に昆山県へ変更されることになる)に属した。

後漢時代の 129年、会稽郡が南北に分離されると、類県は北側に新設された呉郡に属した(下地図)。

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三国時代の 219年、呉の孫権が当時、上海平原の大河であった呉淞河沿いの集落地に、軍港を開設する。この時、主力艦・青龍が入港したことから、以降、この集落地は青龍港と通称されていくこととなる。

同年、陸遜が荊州で関羽の討伐に成功し、華亭侯に封じられると、現在の上海市一帯は陸家の領地に定められる
さらに後日、陸遜は類侯にも封じられており、現在の青浦区一帯も陸家の封地に組み込まれることとなった。
229年、由拳県が禾興県へ改称され、242年にさらに 嘉興県 へ改称されると、今の青浦区エリアはこの嘉興県に属した(揚州呉郡に所属)。下地図。


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時は下って 南北朝時代の梁朝統治下の 507年、呉郡が分離され信義郡が新設されると、類県は信義県へ改称される。青浦区一帯もこの信義郡下の信義県に属し、引き続き、その南端に位置した。

536年に信義県から 昆山県(旧類県城)が 分離・新設されると、これに帰属する(上地図)。

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557年、梁朝から王位禅譲により陳朝が建国されるも、内政は安定しなかった。その間に、北朝で北周朝から隋朝が建国され、北からの圧力がいよいよ増す中、587年、呉郡が呉州へ改編される(配下の県域はそのまま継承される)。

2年後の 589年、北の隋朝が陳朝に対し総攻撃をしかけると、瞬く間に防衛線は突破され、陳朝は滅亡に追い込まれる。こうして、300年ぶりに南北朝の統一が成就されたのだった。直後に、呉州が 蘇州 へ改称される。信義郡も蘇州へ組み込まれ、また 信義県、昆山県も廃止されて、常熟県に吸収合併される。
598年に再び、昆山県が復活設置される(蘇州に帰属)と、そのまま昆山県に属した。

唐代中期の 746年、青龍鎮が新設される。
751年、嘉興県の東端と、海塩県の北端、昆山県の南端が分離されて、華亭県(今の 上海市松江区)が新設される(江南東道下の蘇州に帰属)。以降、青浦区エリアは、この華亭県の北西端に位置することとなる(下地図)。

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唐末に各地で農民反乱が頻発するようになると、全国で治安が乱れ、あわせて強力な軍事力を バックに有する群雄が割拠するようになる。
この混乱の最中の 880年、王騰が 華亭県城 を拠点に反唐で挙兵すると、現在の青浦区一帯もその版図下に組み込まれるも、間もなく鎮圧されると、再び蘇州の管轄区に再編入される。

897年、銭鏐が配下の 武将・願全武を派遣し華亭県城を占領すると、以後、呉越国(907年に正式に建国)の領土となる。
917年、銭鏐は 蘇州 を中呉府として王都に定める。
924年に 嘉興県城 に開元府が併設されると、華亭県も開元府に属した(932年、開元府が廃止されると、華亭県は中呉軍に帰属)。
939年、嘉興県城内に秀州役所が併設されると、本県域はそのまま秀州下の華亭県に属した。

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北宋時代の 997年、呉越国が北宋朝に帰順すると、その旧領土は両浙路へ改編される(上地図)。
1074年、両浙路が分離され浙東路と浙西路が新設されると、本県域は浙西路下の 嘉興府 華亭県に属した。



 古代大河・呉淞河が生み出した 青龍鎮、その栄枯盛衰

現在の青浦区の中心部から北東へ 14 kmに位置する青龍鎮は、今でこそ、古民家群と石畳の路地が残る水郷集落の観光地となっているが、かつては上海平原の北部にあって、圧倒的な存在感を有する大都市であった。

呉郡や蘇州の 中心部・太湖エリアの経済開発が進むと、太湖から東の海へと通じる 大河・呉淞河(松江、松陵江、笠澤とも別称された)は、1000年もの間、水運の大動脈として機能することとなる。
その河川沿いの中間地点に立地した青龍鎮はかなり早くに発展の糸口をつかみ、新石器時代から河畔に集落地が形成されており、以降も水運の重要拠点であり続け、上海市域にあって、最も古くに誕生した交易港と言われる。
後漢末に呉の孫権がここに軍港を開設し、戦艦・青龍の母港としたことも、当地のロケーションに目を付けたからであった。

唐代の 746年、水運交易集落がいよいよ青龍鎮へ昇格されると、唐朝廷による直接関与が始まる。

北宋時代の 991年、再び青龍鎮が設置されると、水陸巡検司および鎮将の役所が開設され、治安と徴税業務が国家直轄で行われることとなる。
1030年代後半には、文臣理鎮事が開設され、華亭県役所 の右職副がこの任を兼務した。
1077年の記録によると、青龍鎮での税収は合計 15,879 貫 400 文といい、これは当時の華亭県下の商業税収の約半分を占めるほどに巨額だったという。

こうした事実を受け、1107年には北宋朝廷直轄の監鎮理財官が設置され、治水事業と 市舶(税関)管理業務を司ることとなる。特に、対外貿易の事務管理、国内業者と海外業者との通商許可事務、外国船の停泊埠頭の指定、積み荷類の引き渡し確認、などを担当したとされる。
その他、都市人口の拡大に伴い、鎮学校、税務局、監獄、官倉 などが次々と新設されていき、まさに独立した県レベルの機能を装備していくこととなる。

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この北宋、南宋時代には特に、福建省、広東省、ベトナム、日本、朝鮮(新羅)などからの外国船が数多くが出入りし、国際都市となっていたという。

1113年には、華亭県城内に市舶務の役所が開設されると、青龍鎮の海外貿易事務管理を専門とした。また同時に、市舶場という支部が青龍鎮現地に開設される。
翌 1114年、秀州が嘉禾郡へ改編されると、青龍鎮は通恵へ改称される(南宋時代の 1127年、青龍鎮へ戻される)。

南宋時代の 1131年、朝廷は青龍鎮内に専門監督機関である 市舶務(貿易管理事務局)を開設する。翌 1132年、さらに両浙市舶司が 王都・臨安府城 内から 華亭県城 へ移転されてくる。
こうして、青龍鎮はますます国家が関与する 交易港へとその地位を上昇させていくこととなった。

元代の 1292年に上海県が新設されると、青龍鎮はここに統括された。

しかし、これに反比例するかのように、この北宋~元代にかけて、上海平原の大河だった呉淞河を使う水運活動は徐々に衰退していくこととなる。その理由として、上海東部エリアの陸地拡張で海岸線までの距離が増したこと、さらに、河川の土砂堆積が進み大型船の入港が困難となったこと、そして、呉淞河から枝分かれしていた支流群の水脈も細り(南唐朝から北宋時代にかけて隆盛を極めた園田の水利事業が保守整備されなくなり、大量の外周堤防の土砂が水路へ流れこんでいったという)、水運機能が失われていったことが指摘されている。

また、太湖から海岸へ至る河道として、南を流れる黄浦江が主流となっていく時代でもあり、元代に両者のバランスは逆転し、明代に至ると完全に後者が圧倒的な水運の要として君臨するようになる。
こうして元末の 1356年、青龍鎮市舶司が廃止される。

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その後、元末明初の兵乱で青龍鎮は大いにダメージを受け、さらに 1540年ごろには倭寇の襲撃が激化し、壊滅的な打撃を被ることとなる。明末までに市街地は 90%も縮小されていたという。

未だ青龍鎮が健在であったギリギリのタイミングで、1542年に青浦県が新設されると、その県都を青龍鎮が務めることとなるも、城壁が建造されることはなかった。そのまま 1553年に青浦県が廃止されると、青龍鎮へ再降格される。

1573年に青浦県が再設置された頃には、青龍鎮の凋落ぶりは明らかで、名称も青浦鎮へと変更されることとなる。
この時、県役所は南西に立地した 唐行鎮(今の青浦区の旧市街地)に開設されることとなった。

清代を経て、共産党中国が建国された当時には、青龍鎮は単なる郷村集落の一つになり下がっていたという。数多くかった寺院もわずかしか残されていなかった。
近代以降も都市開発から忘れ去られることとなり、それが故に今日、その旧市街地が観光資源となって再活用されることとなっているわけである。


南宋時代、華北を占領した金軍に対抗すべく、韓世忠が華亭県の北側の海岸や河川沿いに軍事要塞を多数、建造している。

元代初期の 1277年、華亭県が昇格され、華亭府が新設されると、翌 1278年に松江府へ改称され、江浙行省に属した

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1292年、華亭県下の北東部の 5郷が分離され、上海県が新設されると、今の青浦区エリアの半分は上海県の西部に組み込まれ、残り半分は華亭県の北部に位置した。

元末の群雄割拠の時代、呉王を称した張士誠の勢力圏に組み込まれていた(下地図。本拠地・蘇州)。張士誠が敗死すると、1367年、松江知府の王立中も朱元璋の明国に帰順する。こうして明朝による江南地方の平定が成る。

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翌 1368年、朱元璋が 南京 を王都に定めると、江南行省が廃止され、松江府が王都直轄の直隷中書省の管轄下に置かれる(1380年に中書省が廃止されると、直隷六部の直轄下へ改編)。

1421年、永楽帝により王都が 北京 へ遷都されると、江南地方は南京直隷省となる。このとき、青浦区一帯は引き続き、松江府 に属した。

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明代中期の 1500年代中期、倭寇の襲撃が激化し、現在の青浦区一帯もそのダメージを深刻に受けるようになっていた。
1542年、華亭県 の北西部にある修竹郷と華亭郷、および上海県の西部の 新江郷、北亭郷、海隅郷の 5郷が分離され、青浦県が新設されると、県役所が 青龍鎮(今の 上海市青浦区白鶴鎮青龍鎮)に開設される。しかし、1553年にいったん廃県となる。

1573年に再度、青浦県が復活設置されると、今度の県役所は 唐行鎮(今の 青浦鎮旧市街地)内に開設される(松江府に帰属)。
翌 1574年から城壁の築城工事が着手され、最終的に 1575年に完成されると、以後、今日に至るまで青浦県城を務めることとなる。

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なお、北宋時代まで小さな一村落に過ぎなかった「唐行鎮」であるが、 西隣の淀山湖から流れ出る 小河川「横泖」の途上に位置していたため、もともとは横渓と通称されていた、という。
しかし、北宋・南宋時代を通じて、太湖を水源とする呉淞河が細り、主要水路としての役目を終えていくと、逆に南ルートの黄浦江の水運が活発となっていく。これに近かったため、横渓の集落地は徐々に発展のための波及効果を得ることとなる。

もともと唐家一族が数多く当地に住んでおり、元代以降、竹木の 伐採、販売、輸送業務業を江南地方向けに展開すると、その事業は成功し、市街地は徐々に拡大されていったという。こうした中で、唐行鎮と通称されるようになる。

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清代初期の 1645年、南京 が江南省へ改編され、承宣布政司が新設される。
1656年、松江府 は江南布政使司に帰属し、1672年に右布政使司として分離されると蘇州城内に開設される。
1667年、江蘇布政使司に再度、統一されて、これに帰属する。こうして、青浦県は江蘇布政使司下の松江府に属した。
この頃、青浦城内の 商業地区(太平橋より北側)で大火災が発生し、数十もの家屋が延焼したという。

1724年、青浦県下の北亭郷と新江郷が分離され、福泉県が新設されるも(下地図。県役所は青浦県城内に併設)、1743年に廃止され、そのまま両郷は青浦県に再吸収される。

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清代後期の 1852~53年、周立春(1814~1853年)と 周秀英(1835~1855年)の父娘が、農民への重税に反対し反乱を起こすと、一帯の農民や上海小刀会の勢力を糾合し、南下して 南滙県城、宝山県城、嘉定県城、上海県城、青浦県城の 5県城を占領するまで勢力を拡大するも、清朝廷軍により鎮圧されることとなる。これを率いたリーダーの父娘も極刑に処せられた。

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また 1860年、太平天国軍が江南エリアへ東征してくると(上地図)、青浦県城は 2年余りもの間、太平天国軍により占領される。

清軍は英仏連合軍の協力を得て、江南地方の平定戦を進める中で、この青浦県城へも猛攻を加えるも、幾度も撃退され、一時は「鉄の青浦」とまで称えられたという。
しかし、その頑強な抵抗がさらに苛烈な砲撃ターゲットとされ、城内は焼け野原となり、完全に廃墟と化したという。庶民らは日常のマーケットも開設できない状態だった、と史書は語る。

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中華民国時代、青浦県は江蘇省に属する。この頃、北門外と小西門外は、庶民の米市が開設され非常に賑わったという。

日中戦争時代、青浦県城は日本軍による空襲を受け、再び多くの家屋が焼失されてしまうも、共産党時代に入ると、すぐに都市開発が着手され、古城地区の中央部に城中路が敷設されると、これを主軸に東西南北に道路網が整備される。同じタイミングで城壁も撤去され、環城路へ改修されることとなった。

1958年、江蘇省下から上海市へ移籍される。以降、今日に至るまで青浦区は、青浦鎮、朱家角鎮、練塘鎮、金澤鎮の 4鎮と、農村 19、漁村 1ヵ所から構成される。


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