ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究所 情報
中国地図 から
≫
四川省 地図
≫
南充市
≫
高坪区 青居鎮
訪問日:2014年6月上旬 『大陸西遊記』~
四川省 南充市 高坪区 青居鎮 ~ 鎮内人口 2万人(高坪区 60万)、市内 一人当たり GDP 19,000 元
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
王平墓(三国志遺跡)
▼
青居城(淳祐故城、順慶府城)
▼
二郎廟
南充市の東側の高坪区にある高坪バスターミナルから、農村地方行バスで 6.5元(20~30分に一本、往来あり)。 市内から 18 km南に位置する南充市高坪区青居村へ。
「永安郷 叫呼バス停留所」で下車して、来た道を 3分ほど戻ると、
南充市
方面右手に「
王平墓
」なる石碑がある。その横の細い道をひたすら登っていくと、王平墓がひっそりとある。周囲には、地元民の墓も点在している。現地の住所は、「南充市永安郷臨江村鳳凰山」といえば通じる。
三国時代の孔明死後の蜀において、特に重用された王平は、対魏最前線の漢中を守る呉懿を補佐する立場で、同じく同地に駐屯する。それから 3年後に呉懿が死去すると、漢中を統括するようになった。この翌年より、蜀の 宰相「蒋琬」も漢中に滞在し、北伐を練っていた。しかし、蜀宮中では彼の考える黄河下りによる対魏戦略に反対する意見が多く、出兵は見送られる。それから 5年後の 243年、蒋琬は病により
漢中
から
涪県城
へ任地を移す。最前線の漢中防衛は姜維と王平に任される。
蒋琬死後の翌年の 244年、魏帝の曹爽は、10万の軍勢で漢中進行を図ったが、王平の建策により撃退に成功する。孔明亡き後の蜀にあって、「南中に馬忠、永安に鄧芝、漢中に王平あり」と、3方面の守備に当たる蜀の名将軍らは「平安三侯」として称えられた。
248年に病没。その爵位は息子の王訓が継承した。
元来、「王平墓」は目印として木板に記されただけのものだったらしい。この南充郊外の山道の路端にあったようである。それが、近年の道路拡張工事にともない、山の奥側へ移動された、ということである。
彼の死亡場所は明らかにされていないので、なぜこの地に葬られているのかは不明であるが、彼の埋葬地である当地に、蜀の鎮護国家を期して、当時、「永安」や「鳳凰山」といった縁起のよい地名が付けられ、今日まで継承されてきたのであろうと推察される。
時は下って、清代に、この山中まで墓参りが遠いということか、南充市高坪区の白塔公園内にもう一つの墓所が設置される。というわけで、現在、二つの王平墓が存在していることになる。
また、
王平墓
から更にバスで 10~15分ぐらいの先に、最も標高の高いバス停がある。
そこが、青居城(淳祐故城)である。
1235年、モンゴル軍が益州の省都
成都
まで侵攻する。この時、すぐに撤退するが、その後も、度々、益州に入り込んできては略奪、殺戮を繰り返していた。
このため、1243年より、益州、巴州の両州行政庁を
重慶府
に移転する。そして、長江、嘉陵江、渠江、沱江の沿いに、その両岸ごとに 9年間かけて山城タイプの 20もの要塞が新築された。川沿いに防衛戦を張り巡らせることで、連携を高めようとしたのである。また、騎馬軍団と火薬を多用するモンゴル軍に対抗するため、急峻な山頂が要塞建設に選ばれた。
この青居城も、この山上要塞の一つであった。 3年かけて峻嶮な岩肌を切り開き、城壁をはりめぐらせた。そして、順慶府という行政庁を設置する。 土塁の高さは 4.3 m~6.3 mで、厚さは 1 mぐらい。城門は 2箇所、設置された。
青居城は、
合川釣魚城
とあわせて、「防蒙八柱」の一つに数えられ、重要防衛線とされた。 1258年、皇帝 モンケ・ハンの率いるモンゴル軍が青居城を攻撃、南宋の防衛将軍の 劉淵(防衛兵 3,000人)は、これをよく防ぎ、モンゴル側の 都統(軍司令官)であった段元鑒を戦死させる。
しかし、援軍の期待はできず、翌年、降伏する。
モンゴル軍はそのまま南下し、翌 1259年には重慶府を陥落させ、続いて
合川釣魚城
を攻撃するも、皇帝 モンケ・ハンが陣中で死去することにより、遠征軍は撤退する。
翌年の 1260年、モンゴル軍の占領地最前線となった青居城はそのまま元軍に利用され、南都元帥府が設置された。
これ以後も、度々、モンゴル軍の襲来が四川省を襲う。
1278年、モンゴル軍の最後の攻勢があり、翌年には釣魚城はついに落城する。青居城の順慶府は引き続き、行政庁とされた。
「青居城」は、南宋の淳祐年間に築城されたので、別名、「淳祐城」とも呼ばれる。写真では分かりにくいが、城壁跡、城門後、宋時代の石碑や石像類が多数、残存している。しかし、大部分は草に覆われてしまって見えない。
青居城の最も高い 位置(入り口から最も奥側)から、下に流れる嘉陵江の絶景が見渡せる。写真は嘉陵江にある 三角州「大中貝」。
城の裏側には、水汲み場跡あり。岩から滴り落ちる水滴を下の 2つの石桶で受け止める仕組み。
とりあえず、バス終点の青居鎮まで行ってみた。そこでは、山を切り開いて、ダムを作っていた異様な光景を目にすることができた。
最後に、
南充
→ 永安郷へ行くバス経路の道中に、
二郎廟
を発見した。進行方向左側。どうやら、四川省に多い廟らしい。
重慶
や
遂寧市
でも見かけた。
そもそも、二郎廟の由来とは、秦の時代、成都平野に流れ込む岷江の洪水を防ぐべく、堤防「都江堰」が築かれる。そのとき、その構築を指揮したのが、当時の秦国配下の蜀郡郡守である李冰とその息子であった。この堤防の完成により、四川省では洪水被害が激減し、まさに「天府の国」と言われるまでに豊かな土地へと変貌していく。堤防「都江堰」の建設途中に父親の李冰が亡くなり、その次男が後を継いで完成までこぎつけた。人々はこの李氏の次男坊を「李二郎」と呼んでいたことから、その完成を記念して、灌江口という場所に、「二郎廟」が建設されたのが始まりとされている。そして後世、「李二郎」は、二郎神の楊戬の化身である、という伝説が広がり、「二郎廟」に「二郎神」が奉納されるようになったという。これが四川省中に拡散し、各地に「二郎廟」が建設されていった、ということである。
© 2004-2024 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us