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雲南省 曲靖市 麒麟区 ~ 区内人口 76万人、 一人当たり GDP 100,000 元(麒麟区)
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味県城(建寧郡城、寧州城、【初代】南寧州城)
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石城(【二代目】南寧州城、郎州城、石城郡城、石城千戸所城、【初代】南寧県城)
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曲靖府城(【二代目】南寧県城、曲靖軍民府城)
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曲靖市博物館、爨文化博物館
曲靖城跡は、滇池東部エリアの北端である曲靖市の 中心部(麒麟区)に立地し、かつて 味県城、建寧郡城、郎州城、石城 などの名称で、その名を歴史に刻み付けてきた。
投宿した
昆明市 中心部(五華区)
から鉄道で曲靖市まで移動する。
もしくは、北部バスターミナルから(27元)、昆明鉄道駅近くの 「昆明(中央)バスターミナル」からも(30元)、曲靖行のバスが発着している。
なお、この曲靖府城跡であるが、今日では完全に城壁も城門も撤去されているものの、南門とその上の楼閣、隣接する城壁の一部が復元され、毎晩、ライトアップされて曲靖市のシンボルとなっている(下写真)。
しかし、近代以降の都市開発はこの古城地区からスタートされたため、多くの旧市街地の街並みが破壊されてしまっていた。今日、わずかに残る路地名や地名に、往時の記憶が刻み込まれるのみとなっている。西関街、西門街、南城門広場、東門街 など。
【 麒麟区の 歴史 】
紀元前 221年に中原を統一した秦の始皇帝により、間もなく雲南地方も併合されると、王都・咸陽へ続く街道が整備され、現在の曲靖市 中心部(麒麟区三岔あたり)に役人用の 駅舎(官舎)が設置される。
紀元前 109年、前漢朝の武帝が大軍を派兵し、独立の動きを強めていた 曲靖平野一帯(盤江の流域)の労浸族や靡莫族らの地元部族集団を軍事制圧すると、そのまま最大勢力の古滇国をも帰順させ、ようやく前漢王朝の支配体制が再確立されることとなる。
直後に郡県制の導入が図られ、 現在の曲靖市 中心部(麒麟区三岔)に味県城が新設される(益州郡に属した。郡都は
滇池県城【今の 昆明市晋寧区晋城村】
)。下地図。
以降、この味県城は三国時代の 225年から唐代の 755年にかけて、建寧郡、降都督、寧州、南寧州などの 州都(郡都)を任うこととなるのだった。
三国時代の 225年、蜀の諸葛孔明が大軍を率いて南征を決行すると、雲南地方東部の反乱部族の連合軍を圧倒し、リーダーであった孟獲を捕縛して蜀に再帰順させることに成功する。その場所が、現在の麒麟区三宝街道温泉社区にある石宝山とされ、諸葛孔明自らが地元部族長らと面会し、蜀への再帰参を認めたとされる。
最終的に、三路で進軍した諸葛孔明ら蜀軍はこの味県城で集結し、城内に戦勝記念碑を建立する。
同時に、前漢時代から継承されていた益州郡が廃止され、建寧郡が新設されると、この味県城が建寧郡の郡都を兼ねることとされた(下地図)。
その蜀も 263年、魏(後に西晋)により滅ぼされると、270年8月、建寧郡、雲南郡、永昌郡、興古軍の四郡が分離され、寧州が新設される。このとき、味県城が寧州の州都、および建寧郡の郡都を兼務することとされた(下地図)。
時は下って北周朝の治世時代、寧州が南寧州へ改名されると、そのまま味県城が州都を務めた(引き続き、建寧郡の郡都も兼務)。北魏朝によって、現在の甘粛省慶陽市寧県に既に寧州が設置されていたため、これと区別すべく、雲南地方の寧州が南寧州へ、甘粛省側の寧州は北寧州へと改称されたのだった。
581年に北周朝から権力禅譲の形で隋王朝が建国されると、583年、隋朝は建寧郡を廃止し、南寧州だけ残す。引き続き、味県城内にその南寧州総管府が併設された。しかし、間もなく隋朝が派遣した官吏らの横暴な政治に反発して、地元部族らが決起すると、隋朝正規軍とのし烈な攻防戦が繰り広げられることとなる(最終的に、隋朝は雲南支配から撤退する。下地図)。
この時の戦争で味県城が荒廃していたため、隋朝から政権を引き継いだ唐朝は 625年、新たに 石城(今の 雲南省曲靖市中心部から北へ 10 kmにある、白石江公園あたり)を築城し、ここに南寧州役所を移転する。
634年、南寧州が郎州へ改編されると、そのまま石城が郎州都督府の州都となる(717年、郎州は南寧州へ戻される)。このとき、南寧州、恭州、協州、昆州、盤州、尹州、曾州、姚州、西濮州、西宗州,西寧州、豫州、西利州、南雲州、磨州、南籠州 などの 16州を統括した。
以降、前漢時代から続いた味県城は廃城となり、歴史から姿を消すこととなる。
時は下って 751年、752年、755年の三度に及ぶ 天宝戦争(唐朝 vs 南詔国)の結果、唐軍は 20万にも及ぶ兵士を失い、郎州都督府の行政区を含む雲南省東部の支配権を南詔国へ譲り渡すこととなった。直後に、南詔国により郎州都督府が廃止され、石城郡へ改編される(下地図)。
その南詔国も 902年に崩壊し、各部族勢力が割拠する雲南戦国時代を迎えると、937年に段思平がこれらを統一し雲南省西部を基盤とする 大理国(王都・
大理
)を建国するに至る。
この当時、まだ雲南省東部に割拠した爨族らはその態度を明確にせず、時に大陸中国側の 北漢(
四川省
)や 南漢(
広東省
)などの勢力と結びついていた。
そうした中の 969年、大理国の 5代目・国王として段素順が即位すると、いよいよ雲南省東部への侵攻を開始する。ちょうど、この頃、北宋朝が四川省の後蜀を滅ぼし(965年)、また広東省の南漢国も制圧し(970年)、江蘇省一帯の南唐を降伏させて(974年)、全国統一が最終段階に入った渦中にあり、979年に滅ぼされることとなる北漢もその命運は風前の灯火となっていた時代だった。下地図。
971年初頭、いよいよ段素順は 宰相・駙馬に命じ、大軍を東征へ派遣する。滇池の東部 37部の地場部族とこれに与した周辺部族らの連合軍との戦いは数か月にも及び、最終的に彼らを帰順させることに成功する。
その後、大理国は北宋朝に朝貢し、領土の北限を大渡河とし、その勢力圏を確定させたのだった。
曲靖市一中学(麒麟区建設路と環東路)に残る 国宝級の 歴史遺産
971年に大理国により雲南省東部が平定され、当地の 37部族長らが大理国に帰順すると、そのリーダーらはそのまま族長の地位を保証され、石城に集った際、その主従関係を記した 石碑(石城会盟碑、三十七部会盟碑)が建立される。
この主従の誓いは史上、石城会盟もしくは、三十七部会盟と通称されることとなる。
この石碑は 1961年に国家レベルの歴史遺跡として指定され、現在、曲靖市一中学の校庭脇に亭が建てられ、そのまま保存されている。
また、この石碑と並んで、 もう一つ立つのが 爨碑(爨宝子碑)で、正式名称を「晋故振威将軍建寧太守爨府君墓」碑といい、東晋時代の 405年に建立された墓石という。先の石城会盟碑とともに、1961年に国家レベルの歴史遺産に指定されている。
しかし、その大理国も 1254年、モンゴル軍を率いたフビライにより滅亡に追い込まれると、すぐに石城郡が廃止され、1256年、石城(石城千戸所城)内に磨弥万戸府が新設される(1271年に中路総管府へ改編)。
最終的に 1276年、中路総管府が曲靖路総管府へ、石城千戸所が 南寧州(1285年、南寧州は南寧県へ降格)へ改編される。下地図。
明軍が雲南省を併合した直後の 1381年、この【初代】南寧県城内の曲靖路総管府が曲靖府へ改編される。
そして 1387年、 明軍の攻城戦で荒廃していた 曲靖府城(【初代】南寧県城)は放棄され、新たに 旧味県城跡地(現在の 麒麟区三岔)にレンガ積みの巨大な城壁都市が建造される。これが【二代目代】南寧県城(曲靖府城)で、現在の市街地へ続く基礎となった城塞都市である。
【二代目代】曲靖府城
600年以上前の明代にレンガ積み城壁で建造された【二代目代】曲靖府城は、その 城壁(高さ 9 m、厚さ 3 m)の全長が 3,000 m以上あり、城壁上には高さ 1 mを超える凹凸壁が 1,630ヵ所余りも設置されていた。
また、城門は 東門(楽耕門)、西門(勝峰門)、南門(来薰門)、北門(迎恩門)の 4ヵ所が設けられていたが、これら 4方の城門と城内街道は左右対称となっておらず、丁字路が 8ヵ所、十字路が 9ヵ所も設けられた、複雑な都市設計となっていた(城内路地は 合計 38本あった)。当時の城郭都市の市街地設計で典型的な構造だったという。
城の北部には楼郭が二か所建設されており、一つは臨漪楼、もう一つは兆京楼と通称され、また他に鼓楼も設置されていた。
この他、城中には 都天閣、文昌閣、太陽閣、太陰閣、呂祖閣、張仙閣、白衣閣、魁閣、斗閣の 9箇所の閣楼があり、また 武候祠、名宦祠、郷賢祠、忠義孝弟祠、節孝祠、昭忠祠など 10余りの祠所があり、また 関帝廟、文廟、城隍廟、旗廟、東獄廟、火神廟、財神廟、玄墵廟など 20余りの廟所もあり、また寺院も 観音寺、天王寺、報恩寺、圓通寺、正法寺、玉泉寺など 20余りが建立され、宮所もまた 文昌宮、関聖宮、川主宮など 10余りがあった、という。
1394年に再び曲靖府が昇格され、曲靖軍民府となると、その府役所はそのまま【二代目】南寧県城内に併設された(雲南布政司に帰属)。
清代の 1765年、再に曲靖軍民府が曲靖府へ戻されると、そのまま南寧県城が府都を務めた。
中華民国が建国された翌 1913年、全国で府制が廃止されると、曲靖府も撤廃され、曲靖府が曲靖県へ降格され、代わって南寧県が廃止されることとなる。
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