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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
広東省 揭陽市 普寧市 ~ 市内人口 56万人、 一人当たり GDP 30,000 元(普寧市 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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揭陽市中心部(榕城区)から 路線バスで 普寧市洪陽鎮の 旧市街地へ
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普寧県城(安寧県城、洪陽古城)と 東西南北の城門跡
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城隍廟、文昌閣、方方紀念館、華厳寺
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普寧学宮(洪陽学宮)、崇文書院、百里橋、東畔街の龍慶庵、接龍橋
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培風塔
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徳安里旅遊景区
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紅宮 と 八一南昌会議紀念館(流沙鎮に開設された共産党拠点遺跡)
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【豆知識】普寧市の 歴史 ■■■
揭陽市 中心部(榕城区)
からアクセスする場合、普寧市 中心部(流沙鎮)まで行く必要はなく、その半分ぐらいの距離にある洪陽鎮を訪問することになる(下地図の ①)。
揭陽総合バスターミナル
から普寧商品城への路線バスルートのうち、
途中にある 洪陽公交車バスターミナルで下車する
(逆に、
洪陽公交車バスターミナル側 から見たバス路線
)。
下地図にある培風塔と徳安里旅遊景区と記された地点で、旧県城の視察とともに、これら両ポイントも巡ることとなる。特に前者の培風塔は、広東省指定の歴史遺産となっており、壮麗かつ独特な建築スタイルが高く評価されているという。後者も、全国でも非常に珍しい府第式巨型建築物が連なる集落地となっており、一見が価値がありそうだ。
この揭陽市普寧市洪陽鎮にある 東村、南村、西村、北村の全域に渡って、かつて普寧県城が立地したわけである(下地図)。その城郭遺跡は洪陽古城とも通称される。
明代後期の 1575年、6代目・県長官として赴任してきた劉鈍が新たな県城をこの地に定めると、すぐに城郭都市の築城が着手される。
以後、明代、清代、中華民国時代の三時代 400年弱も県都を務めることとなり、旧市街地には旧跡が多く保存されているという。
旧市街地には、普寧市指定の史跡が 6ヵ所もあり、壮麗かつ神妙な世界観を漂わせる華厳寺、清末に林則徐が立ち寄り投宿したという文昌閣や、普寧学宮(洪陽学宮)、再建された 普寧県城隍廟、方方紀念館などが挙げられている。
その他、崇文書院、百里橋、東畔街の 龍慶庵、接龍橋などもあるという。
さてさて、肝心の普寧県城であるが下の地図の通り、北西側から南東側へ向かって設計されており、東西南北の四城門を有していた。
特に、北門(拱極門)と 南門(迎熏門)は直線上にあり、城郭都市の背骨にあたる中軸ラインを成していたという。
この線の中央部から後方にかけて、后山、県衙(県役所)、太平橋、南門街 と連なっていた。
また、東門(凝和門)と 西門(阜財門)も直線上に立地し、前山を通過するラインを形成して、その東西に庶民らの市場が配置されていた。両ラインは中央部で交差し、そのポイントがちょうど 県衙(役所)前となる構図であった。
【 普寧市の 歴史 】
普寧市一帯は、前後漢時代には南海郡下の揭陽県に統括され、東晋時代の 331年に南海郡の東部が分離された際、東官郡と共に
潮陽県
が新設されると、以後、この潮陽県に帰属していくこととなる。
時は下って、明代の 1563年1月、
潮州府
下の
潮陽県
にあった 洋烏都、减水都、黄坑都の三都が分離され、安寧県が新設される。この時、その統括地域は非常に広大で総面積は約 1,000 m2にも至ったという。
2年後の 1565年、初代県長官に任命された趙鉞が赴任していくると、最初の安寧県役所は潮陽県貴嶼にあった豪商の邸宅内に入居することとなった。
それから 10年後の 1575年、安寧県役所が 厚嶼(現在の洪陽鎮。もともとは経明と通称されていた)へ移転され、県城の築城が開始される(1586年に完成)。この県役所の移転にあわせて、普寧県へ改称されるに至る。
以後、清代、中華民国時代を通じ合計 374年もの間、現在の普寧市洪陽鎮が県都であり続けた(広東省下の
潮州府
に帰属)。
この間の 1582年、洋烏都と减水都の二都が分離され
潮陽県
側へ移籍されると、普寧県下には黄坑都のみ残されることとなり(面積 456 m2)、同時に黄坑都は 黄坑上、黄坑中、黄坑下社の 3地区に分割される。
また清代の 1732年6月、
潮陽県
波水都下の 170村と、貴山都の西半分である 93村、そして洋烏都尾段の 45村を分離して普寧県側へ移籍させると、もともとあった黄坑都下の 357村とあわせて、普寧県の統括域は約 1,052.25 m2へ倍増されることとなった。
中華民国が建国されると、府制が全国が廃止される。これに伴い、普寧県は
潮州府
から広東省の直轄へと改編される。
国共内戦が最終段階に入った 1949年7月1日、普寧県域まで勢力を伸ばした共産党軍は流沙鎮に普寧県人民政府を設立する。
なお、この流沙鎮であるが、練江を水源とする寒媽水、及び、その主要支流である三坑水が合流する三角州エリアとして土地は肥沃で、1712年に最初に周囲の郷村から流民が移り住み、清末の 1888年に流沙虚の集落地として認知されるという遅咲きの都市であった。
この時、未だ洪陽鎮側には国民党方の普寧県役所が存続されており、両支配体制時代となる。しかし、同年 10月に旧県城側も共産党軍により占領されると、普寧県の県都はそのまま流沙鎮が継承され、洪陽鎮側は以降、洪陽区や 普寧県第一区、洪陽郷、洪陽人民公社などへ再編が繰り返され、最終的に 1986年12月に洪陽鎮に落ち着くこととなったのだった。
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