BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2018年 5月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 嘉興市 平湖市 ~ 市内人口 70万人、 一人当たり GDP 100,000 元 (平湖市 全体)


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  嘉興市中心部から 平湖市へ ~ 161番路線バス 10元(60分)
  平湖県城エリアの 中心部 ~ 新華南路沿いの バス停「関帝廟」と 県后底
  新旧が見事に共存する 関帝廟ショッピング街 ~ 現代にタイムスリップした 関帝廟と月老祠
  平湖県城を南北に貫通する 東西メイン水路「嘉興塘河」と 城隍廟、魯公亭
  【二代目】海塩県城が沈む「東湖」から、環城東路沿いに 水洞埭エリアへ
  北面の 掘割跡(北城河緑道)と 北門跡地(北門橋、北城路)
  松風台公園内 と 樹齢 1200年の大イチョウ(唐代 842年~)
  清末の水郷空間を実体感できる 南河頭(旧・鳴坷里)地区
  清末の 1897~99年に建設された 豪商の 邸宅「莫氏庄園」、入館料 28元!
  南面の 掘割・城壁跡と 南門橋(建国南路沿い)
  南面城壁沿いの「勤倹路」と 平湖市最古の 石橋「秀源橋」、古城時代からの南水門跡
  東西メイン水路「嘉興塘河」の西端に復元された、西門脇の水門と 城壁、掘割
  【豆知識】平湖県城(当湖鎮城)の 歴史 ■■■



ホテル から路線バスで 嘉興鉄道駅 前まで移動し、その前の城東路の西向き車線沿いのバス停で 161番路線バス(平湖行)を待つ。15分ほどでバスに乗車できた。ここから約 1時間のドライブとなる(平湖まで 10元)。
発車後、バスは線路をくぐって嘉興駅の南側へ移動し、甪里街をひたすら東進することとなる。すぐ右手には平湖に通じる 河川(平湖塘河)が走っており、傍らに続く古民家群が織りなす水郷風景が、非常に良い雰囲気を醸し出していた。錦帯河路との交差点まで、この絶景を堪能できる。

ここから 幹線道路・三環東路の陸橋を通過し、さらに錦帯河路を東進し続けると、途中で「雀墓橋遺跡」というバス停を通り過ぎた。後で調べてみると、新石器時代の集落遺跡ということだった。
そのままバスは大橋鎮という集落地に到達する。ここには、嘉興市 中心部(南湖区)との間を往来する路線バスの 発着ターミナル(大橋鎮公交枢紐駅)があった。

平湖市

そして、さらに高速鉄道と高速道路 G60(瀘昆高速)の陸橋を越えると、いよいよ工場地帯に突入する(道路名も九里亭大道へ変わる)。舗装道路ではあるが、管理が不行き届きなのか、ガタガタの産業道路で、たくさんのトラックが行き交い、土ぼこりが舞う悲惨な環境だった。あちこち工事中だったので、将来的にはきれいな舗装道路に整備されるかもしれないが。
この通りには、222番路線バスも同じルート上を運行していた(嘉興鉄道駅前 ⇔ 南湖区新豊鎮ルート 一律 2元)。上地図の左上。

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この新豊鎮が 嘉興市南湖区 の最南東部に位置しており(上地図)、東に隣接する平湖市中心部まで残り 25 km と表示されていた。平湖市域に入ると、九里亭大道は城南西路へと名称が変わる。まさに、一直線道路で嘉興市南湖区と平湖市をつなぐ道路だった。
いよいよ平湖市街地に入ると、城南西路から梅園路へ右折する。そして、当湖西路沿いの バス停「中医院前」で下車した(ちょうど 1時間の乗車)。下地図。

ここから古城エリアまでは、新華南路を北上するだけだった。 ちょうど、当湖西路と新華南路との交差点に ホテル(豪庭大酒店)があったので、ロビーにてトイレを借りた。下地図

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そして、新華南路沿いの白金漢爵大酒店前にあった バス停「園丁新町」で ⑥番路線バスに乗車する(2元)。3分ぐらいで古城エリアに突入し、あれよあれよという間に バス停「関帝廟」に到着してしまい、急いで下車した(下写真)。

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古城エリアを南北に貫くメインストリート新華中路は、片道 3車線の非常に広い道路だった(下写真)。
この街は道路脇のあちこちに周辺地図が設置され、バス路線も隅々にまで行き渡り、大陸中国では珍しく、旅行者に親切な街だと感心した次第である。

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さてさて、バス停「関帝廟」の裏手にある県后底から路地エリアへ踏み入ってみる(下写真)。
ちょうど、この一帯は明代中期の 1430年に新設された平湖県城内のど真ん中に位置していた。

この北側の一区画を占める平湖市当湖中心医院の敷地辺りに、かつて平湖県役所が開設されていたものと推察される。

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県后底の路地を東進すると水路に行き当たる。かつての 城内運河&県役所の掘割の名残だろう。かつて、城内には下水道を兼ねる水路が網の目のように張り巡らされていた(下写真)。

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そして、県后底の南側に広がる、関帝廟ショッピング街を散策してみる。ここは、古城エリアにおける 最繁華街(歩行者天国)となっていた。下写真。

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そんな一等地にあっても、関帝廟や月老祠などの廟所が残されており、歴史地区と現代空間との理想的な融合スタイルだと、またまた感銘を受けてしまった。他の都市では、こうした廟所は都市開発のあおりを受けて撤去されてしまうことが多い中、ますます平湖市が好きになってしまった。

関帝廟内では、結構リアルな 関羽像、関平像、周倉像が安置されていた(下写真右)。

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ここから古城を南北に分断する 東西水路(嘉興塘河)沿いの解放中路を東進してみた(下写真左)。すると、建国北路との交差点の前方に巨大な社殿が目に飛び込んでくる。
その社殿は赤や金色で装飾された派手なもので、すぐに城内でも由緒ある重要な寺院なのだと推察できた。近づいてみると、ここが城隍廟だった(下写真右)。

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筆者の 訪問時(2018年5月末)、城隍廟の周辺一帯は大規模開発中で(下写真)、廟所裏手の水洞埭エリアに古民家群を再建し、まさに観光地化しようとする真っ最中だった。
その昔、この周辺は城隍廟の門前町として多くの古民家や商家が立ち並ぶ庶民の生活空間だったのだろう。現在、北門区と呼ばれるエリアに相当する。

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また、そのまま解放中路を東進し、環城東路の交差点に至る途中で、魯公亭という中国庭園によくある休憩施設があった(1999年建設)。下地図。

ここは、平湖県城の歴史上、最も傑出して清廉潔白だった 役人・魯宗道(966~1029年)を記念して建てられた 亭(休憩所&展望所)という。彼は北宋初期、亳州下の 譙県城(今の 安徽省亳州市譙城区)に生まれ、1000年に進士に合格し、国家官僚として採用されると、1003~1006年の 3年間、海塩県長官として当地に赴任することとなった。その統治方法が非常に評判が良かったため、 1017年に 右正言(朝廷直属)に抜擢される。その歯に衣を着せぬもの言いで上司にも意見した彼の姿勢を評価して、時の 皇帝・真宗から「魯直」とあだ名されるまでだったという。彼は晩年、この東湖沿いに隠遁し余生を送ったとされる。

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せっかく東端の環城東路にまで行き着いたので、そのまま広大な 淡水湖「東湖」を見学してみることにした。湖の南側に東宝塔や巨大な社殿を有する報本塔の遠景が見えた。下写真。

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なお、この東湖であるが、もともとは陸地であったエリアが後漢時代の 127年に地殻変動により地表が陥没して湖が誕生し(この時、【二代目】海塩県城 が湖底へ沈没し、多くの人々が犠牲となった)、当湖と通称されるようになったものである。東晋時代の 401年に東武湖へ、さらに東湖へ改称され今日に至る。
再び、環城東路まで戻り、そのまま北上する(下写真左)。

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観光地化のため大規模土地開発中の 水洞埭エリア(上写真右)と城隍廟の遠景を撮影し、さらに北上する。すると、北面の 掘割跡(北城河緑道)に行きついた。下写真。

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ここから、掘割沿いにぽつんと残る 1930年代築の許家老宅を愛でながら(上写真の古民家)、西へと歩みを進める。かつて北側城壁が連なっていた場所だ。この路地沿いには老北門食堂などの店があり(下写真。北城路)、かつて北城門があった付近と推察される。

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下写真は、北面の掘割上にかかっていた北門橋。

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そして西隣にあった建国北路との交差点で(下写真左)、小さな公園に突き当たる。ここが松風台公園で、中には老人たちが涼を取りながら碁に興じていた。また、小川を挟んで、普花唐の建物が見えた(下写真右)。

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この松風台公園で有名なものと言えば、樹齢 1200年もあるというイチョウの木らしく、唐代の 842年に建立され、当地で名をはせた 巨大寺院・徳藏教寺(別称:北寺)の境内に、古くから立地したことが伝えられている。


南宋時代初期に高僧の竹庵禅師が当湖に移住し、徳藏教寺の住職を 50年余り務めた際、徳藏寺の裏手に池を造成する。その形状が月のように湾曲していたので、地元民から山月池と呼ばれるようになり、同時にその畔に 松風台(幅 4 m、高さ 18.6 m)という巨大な亭が建設されたことに由来している。
さらに時は過ぎ、山月池を取り囲むように、雨花亭、竹庵、浦花堂、菊坡、梓樹坪などの庭園施設が整えられ、当地で有名な観光名所となっていく。

南宋末期には 趙孟堅(1199~1264年)など、たくさんの詩人や画家が当地を訪問し、多くの作品を残すこととなる。しかし、その後の戦乱を経て、松風台一帯の庭園や池は荒廃し、また、境内にあったイチョウの木も落雷や風雨にさらされて枯死してしまい、共産党中国が誕生した当時には、松風台にはイチョウの木の株と庭園の一部の土盛りだけが残される惨々たる荒れ様だったという。


ちょうど松風台公園の前に バス停「松岡台」があったので、路線バスを待っていると、タクシーが通りかかったので、そのまま飛び乗ることにした。

平湖市

後部座席には男女カップルの先客がいたが、彼らにはメーター価格が適用され、筆者は白タク代金 8元で南河頭新村まで乗せてもらうことになった。

5分程度の乗車後、人民西路沿いで下車し、路地をさまよいながら城内運河である 南河頭 まで行き着く。下写真。

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すると、一気にタイムスリップしたかのような古民家集落地帯が眼前に広がる。下写真。
ここの古民家は 清末~中華民国初期に建設されたものといい、一帯はかつて鳴坷里と呼ばれていた。地元民らは当時から、南河頭と呼称したという。

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この 南河(通称:甘河)の両岸に形成された伝統的な木造家屋と 石畳、狭い路地が織りなす牧歌的な水郷風景は、実に見事だった。
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南河(甘河)沿いの両岸では、往時の石材が使用されたままの全長 300~250 m の石畳の路地や、莫氏、葛氏、張氏、陸氏、陳氏、徐氏 など当地の名門一家の旧家が整然と残されていた。また、南河沿いの船着き場や石橋なども当時のままという。今でも多くの住民らが普通に生活を営んでいた。

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この江南地方特有の水郷風景が評価され、2000年2月から、この南河頭一帯は浙江省により歴史文化保護区に指定されている。特に、当時の原風景をそのまま残す楊居弄や北台弄などの路地は、非常に高い評価を受けているという。

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そのまま東進していると、莫氏庄園 という豪商の邸宅が博物館として公開されていた(下写真)。入館料を質問すると、28元という。なかなか高額だったのでビックリした。

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この邸宅は清末の 1897~99年に建設されたもので、その敷地面積は 4,800 m2(建物面積は 2,600 m2)あり、70もの部屋で構成された清末の 富豪・莫放梅の大豪邸という。四方は高い白塀で囲まれており、中国江南地方の水郷によく見られる園林を隣接する封閉式民家の典型という。下写真。

平湖市

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なお、上写真の莫氏庄園の模型は 嘉興市博物館 にも展示されていたので、わざわざ内部を見学する必要もないだろうと思い、そのまま パス した。

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そのまま直進すると建国南路に行き当たる。この道沿いに南門橋があった(上写真)。
下写真は、この南門橋上から外堀跡を眺めたもの。かつてここに長大な南面城壁が連なっていたわけである。

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さて、南門橋の手前に勤倹路があったので、この路地を北上して、古城地区の 南北メインストリート「新華中路」に戻ることにした。途中、花鳥市場を通り抜け、路地に入りこんでいく(下写真左)。

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この南側には先ほどの掘割が並行して走っており、上写真右の緑地公園にはかつて南面城壁が連なっていたわけである。

そして、勤倹路は 城内運河「南河」に行き着くと、そこに秀源橋があった。下写真。

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この秀源橋は、平湖市内で唯一現存する石組の橋で、南河頭地区に残る古い 5橋 ー 他に 永凝橋、迎瑞橋、鳴喜橋、利市橋 ー の中でも筆頭格の扱いを受け、平湖市の指定保存遺跡となっているという。

最初に架設されたのは明代後期の 1553年で(平湖県城の城壁が本格的に築城されたタイミング)、当時、南城橋と呼称された。清代には秀源橋と呼ばれ、他にそのまま南城橋や南水門橋とも俗称されたという。現在の橋は 1821年に再建されたもの。

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上写真は、秀源橋から 北側(上左)、南側(上右)を眺めたもの。南側には 南水門閘駅(下地図)があり、古城地区内の水量や水流を調整する水門が設けられていた。

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そのまま 新華北路 との交差点に至ると、時間短縮のため三輪自転車タクシーを捕まえて乍浦鎮行きのバスが止まる最寄りのバス停まで乗せてもらうことにした。
途中、解放西路へ左折して西進していると、運河「嘉興塘河(下写真左)」にかかる水門のような城門を発見した(下写真右)。

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かつての 西城門(毓秀門)脇にあった水門が復元されたものという(1998年)。ちょうどラッキーな発見だった。
ここは西面城壁と掘割があった場所で、城内運河と西面の掘割が合流するポイントである。下写真。

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そして、さらに三輪自転車タクシーで環城西路を西進して、環城西路との交差点を北上する。ちょうど、この環城西路が 城内運河「嘉興塘河」を渡る地点に架設された橋が、西門大橋という名前だった。



 平湖県城

6000~7000年前の新石器時代には、東湖周辺ですでに古代人類の生息が確認されているという。

春秋戦国時代には呉と越との紛争が絶えない、国境地帯に位置した。
当時すでに、武原郷という集落地が形成されていたという。
紀元前 223年に楚国を滅ぼした秦国は、翌紀元前 222年に【初代】海塩県 を新設する。このとき、武原郷(今の平湖市域)一帯はこの行政区に属した。

秦末から前漢時代初期、地殻変動により大規模な地割れが発生し、【初代】海塩県城が新たに誕生した柘湖の湖底に水没してしまう。多くの人々が犠牲になったとされる。
新しい海塩県役所が、 当地の 武原郷城(今の 平湖市当湖街道沿いの東湖の湖底)に移転され開設されることとなる。直後より、県城として大規模改修工事が着手される。
これが史上初めて平湖市内に県城が開設された瞬間だった。

しかし、後漢時代の 127年に再び地殻変動が起こり、【二代目】海塩県城(武原郷城)が湖底へ水没してしまい、再び多くの人々が犠牲となる。そこで形成された窪地に水が流れ込み、湖が誕生する。当時、当湖と命名された。現在の東湖である。
また新しい海塩県役所が、斎景郷の 故邑山(今の 平湖市乍浦鎮のあたり)の山麓にあった 故邑城内 へ 移転・再設置される。これが、【三代目】海塩県となった。

平湖市

東晋時代の 341年、【三代目】海塩県の県役所が、故邑城内から 馬嗥城(今の 海塩県武原郷の南東部)へ移転される。 これが【四代目】海塩県となる。
最終的に唐代の 717年、海塩県役所が現在の 旧市街地(武原鎮)に移転されてくる。これが【五代目】海塩県となる。


時は下って、明代中期の 1430年、海塩県下の 大易郷、武原郷、斎景郷、華亭郷の 4郷が分離され、平湖県が新設される(浙江承宣布政使司下の嘉興府に帰属)。県役所はそのまま当湖鎮城内に併設されることとなり、新たに県城が築城されることはなった。
なお、平湖の由来であるが、漢代に起こった地殻変動により土地の沈下や隆起などが発生し、河川の浸食作用も加わり一帯に平坦な地形が形成されたため、とされる。
以後の地殻変動や行政区の変更はなく、そのまま今日まで継承されることとなった。

しかし、倭寇の襲撃が激化する中、ついに 1553年、平湖県城(当湖鎮城)の大規模改修工事が着手される。1556年には東城門と北城門外に甕城が増築され、最終的に 1566年、高さ 8.33 m、幅 6.67 m の城壁が全長 4,500 m にもわたって平湖県城を取り囲み、さらに城壁上には高さ 1.7 mの凹凸壁が 112箇所設けられることとなる。城門は 5箇所設けられ、それぞれ 東門(啓元門)、西門(毓秀門)、南門(豫泰門)、北門(豊亨門)、南西門(小南門)といい、その外周には掘割が巡らされた。また水門も 5箇所設けられ、西南北面の城壁沿いに一か所ずつ、東面の城壁沿いには巨大水門一つと、もう一つ小さな水門が湯家浜沿いに設けられていた。

平湖市

時は下って清末の 1851年、太平天国の乱が勃発すると、1860年6月についに太平天国軍が 嘉興府城 を占領する。その際、上海へ進軍中だった 名将・李秀成(1823~1864年)の率いる部隊により平湖県城も落城している(下地図)。

太平天国の戦役後、屈指の経済先進地域だった江南エリアは荒廃し、都市や城塞は廃墟と化した。農村経済や交易ネットワークの崩壊は民衆の不満を一気に高め、清朝に反発する農民一揆が頻発し、社会は大いに混乱することとなる。

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清朝が打倒され中華民国時代に入ると、さらに城門が新設され、近聖門(新東門)、救国門(新北門)の 3か所が増設される。また、水門も一か所増えて、桃李門(水洞埭。今の 環城東路と解放東路との交差点あたり)が設置された。

国共内戦を経て共産党時代に入り、都市人口が急増すると城内が手狭となったため、すべての 城門、城壁が撤去されてしまうのだった。

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上写真は共産党中国時代の平湖県城の航空写真。東湖は小さく、周囲は田畑だけが広がっていた。
1998年、かつて 西城門(毓秀門)脇に設けられていた水門だけが復元される。


しかし、三輪自転車タクシーの運転手は結局、バス停が分かっていなかったので、汽車北駅(北バスターミナル)近くで下車し、普通の自動車タクシーに乗り換えて、そのまま直接、乍浦鎮 へ移動することにした(66元)。
ここのタクシーはきちんとメーターを立てて、紳士的な対応をしていたのに驚かされた。40分弱で到着できた。

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