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農安県
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
吉林省 長春市 農安県~ 県内人口 88万人、 一人当たり GDP 80,000 元(長春市 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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農安古城(黄龍府城、黄龍県城、夫余府城、通州城、済州城、龍州城、隆州城、隆安府城)
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農安遼塔(遼王朝時代。長春市農安県黄龍路と 宝塔街との交差点)中央政府指定史跡
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小城子城跡(遼王朝&金王朝時代。農安県小城子郷小城子村)吉林省政府指定の史跡
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花園古城(遼王朝&金王朝時代。農安県小城子郷花園村)吉林省政府指定の史跡
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益州古城(遼王朝&金王朝時代。農安県小城子郷小城子村劉家油房屯)長春市政府指定史跡
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万金塔古城(遼王朝&金王朝時代。祥州の州都。農安県万金塔郷 郷役所近く)長春市政府指定の史跡
↓ 北部遠い
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岳王城跡(遼王朝&金王朝時代。農安県黄魚圈郷八里営子村)長春市政府指定の史跡
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二泡子古城(遼王朝&金王朝時代。農安県青山口郷青山口村二泡子屯)長春市政府指定史跡
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南台子古城(遼王朝&金王朝時代。農安県青山口郷南台子村南台子屯)長春市政府指定史跡
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青山口遼金遺跡(今の農安県青山口郷境内南台子、廟后屯、房身地、新屯など一帯)
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広元店古城(遼王朝&金王朝時代。農安県靠山鎮新城村広元店屯)長春市政府指定の史跡
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南楼遺跡(遼王朝&金王朝時代。農安県靠山鎮新城村南楼屯)長春市政府指定の史跡
↓ 南部(長春市中心部から 123番路線バスでもアクセスできる)
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庫金堆城跡(遼王朝&金王朝時代。農安県開安鎮庫金堆村)吉林省政府指定の史跡
↓ 西部
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順山古城(遼王朝&金王朝時代。農安県新陽郷順山村)吉林省政府指定の史跡
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威州古城(遼王朝&金王朝時代。農安県三宝郷宝城村小城子屯)長春市政府指定の史跡
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大嶺遺跡(遼王朝&金王朝時代。農安県伏龍泉郷大嶺村)吉林省政府指定の史跡
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元宝溝古遺跡(今の 農安県巴吉垒鎮)
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温道溝古城(遼王朝&金王朝時代。農安県伏龍泉郷温道溝村夏家屯)長春市政府指定の史跡
早朝、長春鉄道駅から高速鉄道で
、農安駅まで移動する(8:10発 → 8:47着。所要時間 37分、19元)。普通列車を含めると、だいたい平均 1時間に一本、農安行の列車がある。
なお、都市間バスだと、長春鉄道駅の北側に隣接する長春凱旋公路客運バスターミナルから、早朝 6~7:30、昼時 12:00~13:30の間に、8本が運行されている(21元、所要時間 1時間強)。ほぼ北へ一直線に、82 km移動することになる。
駅下車後、先に帰路の乗車券を購入しておいた(17:42発、17:59発、18:42発、19:32発のいずれかを選択。19元。所要時間は 38~55分ほど)。なお、農安県下から長春行バスは、夜 18:30まで 10分に一本、運行されているという)。
現地到着後、まずは、市街地の南端に位置する、農安県博物館を訪問してみる(上地図)。
続いて、市街地の北面へ移動し、農安古城があった旧市街地区を巡ってみることにした。
城域はだいたい正方形型で設計され、周囲の全長は 3,840 mもあった(東面城壁 936 m、西面城壁 937 m、南面城壁 984 m、北面城壁 938 m)。また、東西南北それぞれの城壁面には、メインの城門が一か所ずつ設置され、さらにこれらに加えて、南門の東側 300 mの地点には小南門が、西門の北側 400 mの地点には小西門が、東門の北側 400 mの地点にも小東門が開設されていたという(合計 7ヵ所の城門があった)。
城壁はすべて土塁構造で、その底辺部分の厚さは 30 mもある巨大さであったが、現在は、高さ 0.5~ 2 m(北面土塁)と 1.3 m分(東面土塁)が断片的に 7ヵ所残るのみとなっている。その他、南面土塁の大部分はすべて喪失されているが、南城門跡より東側の土塁のみ、わずかに残存しているという。西面土塁は、完全に宅地開発されてしまっており、その痕跡を確認することは、完全に不可能な状態であった。
また土塁城壁の四隅には、それぞれ角楼が増築されており、東北端の角楼は高さ 7 mほどの台座が、東南端の方は高さ 3 mほどが残っているが、南西端と北西端の角楼部分はほとんど何も残存していない。
上写真は、農安県第一中学の南側にある、龍潭公園東端の 石碑「農安古城」。吉林省政府指定の史跡となっている。
旧市街地エリアの発掘調査では、遼王朝&金王朝時代の大量の 遺物(陶器、瓷器、銅鏡、銅印、銅銭、石棺など)も発見されているという。
上地図の右端に見える、黄龍府文化園(人民公園)内には、かつて黄龍府城にあった建物群が復元されている。遼太祖の行宮、連行された北宋朝の徽帝と欽帝が幽閉されていた建物、元代の 驛駅(駅伝施設)、その他、遼王朝&金王朝時代の建築群などが見られるらしい。
また、公園北隣には、敷地面積 8,000 m2の境内を有する金剛寺がある(上地図)。定海和尚が 1925年に創建した寺院で、現在、訪問者は 山門(極楽門)から入るスタイルとなっている。正門楼閣の建築美は高く評価されており、正門楼閣上には、横文字の額縁に金大字で「金剛寺」と掲示されている。境内には、鐘楼と 鼓楼、五観堂、僧寮、前殿(天王殿)、後殿、前殿是(大雄宝殿)などの建物が連なっている(建築面積は 2,000 m2)。
続いて、古城地区の南西端にある、遼塔を訪問してみる。かつて、この仏塔は黄龍寺の境内に建立されていたということもあり、現在、千年古寺として黄龍寺が再建され、内部は黄龍府歴史博物館として、一般公開されている(黄龍府城時代の歴史や文化に関する遺物を保存、展示している)。
遼王朝&金王朝時代は、現在の農安県が、史上、最も繁栄を謳歌したタイミングであった。
特に、仏教を厚く信仰した遼王朝の高官らは、その治世時代後期に、数多くの寺院や仏塔などを各地に建立しており、積極的に仏教を支援していたことから、多くの仏教遺跡を今日に残すこととなった。
その代表的なものの一つが、県中心部に残るレンガ積みの 古塔(別称:佛塔、遼塔、金塔、宝塔、黄龍塔、龍湾塔)である。塔座(一辺 7 mの八角形)、塔身(1階部分は、東西の直径 8 m、南北 8.3 m)、塔刹の三部構成により、13階建て(高さ 40~44 m)の八角形型で設計されており、頂上部分の塔刹の高さは 8 mもあり、この頂上部まで 8面体でデザインされていた。特に、すべての階で異なる形状の青レンガが積み上げられており、さらに 平瓦、筒瓦、猫頭瓦、水紋瓦、飛翅瓦など、各階ずつ屋根瓦のデザインまでも異なっているという。
当時、農安県城の西面城壁外 100 mの場所にあった寺院の境内に設置され、遼王朝時代初期の 1023年に完成されている。
その後、古塔は 1000年もの間、風雨にさらされる中で相当に傷んでしまい(下写真)、倒壊ギリギリという状態だった 1953年、ようやく全面修復作業が着手されることとなった。しかし、工事は一時中断され、1983年にようやくかつての風貌を取り戻すこととなるわけである(共産党政権はこの 1953年を全面改修の年と定め、公式見解としている)。以降、多くの観光客が当地に足を運ぶこととなった。
なお、この修復工事の過程で、塔身の 10階内部に小部屋が見つかり、その中に銅製の仏像と菩薩像が二体、木製の 骨灰盒(骨壺)や瓷香盒、細かに仏像が刻印された銀牌飾などの珍しい奉納物が発見される。これらの遺物は、遼代の宗教と建築芸術に関し、非常に重要な資料を提供することとなった。
伝説によると、雲游和尚が遼国に招待され、遼王朝 6代目皇帝の 聖宗(耶律隆緒。972~1031年)と謁見した際、皇帝に対し、「あなたは生まれながらの真の王者で、高い徳の力で天下を治めておられるが、周辺では未だ多くの勢力が割拠し、戦乱の世は終わりが見えておりません。昨夜、我は星の動きを観測していましたら、遼国の領土から 大ナマズ(土龍)の出現が予言されていました。その位置は、この黄龍府城の北東辺りを指していました」と上申する。
これを聞いた聖宗が対応策を問うと、和尚は微笑みながら、「この禍いを逃れるのは非常に難しいですが、一つだけ方法があります。それは、その出口に仏塔を建設することです。龍脈(風水学において、変化の兆しが起こる地脈のこと)を封印することで、引き続き、皇帝の統治下で天下太平を保つことができることでしょう。」と答えると、遼朝皇帝はすぐに黄龍府城の東北郊外に仏塔の建設を進める。
仏塔建設が半分まで完了した段階で、和尚が「土龍がすでに黄龍府城内にまで至っているのを確認いたしました」と上奏すると、皇帝・聖宗主が「これに対策はあるか?」と聞き返す。和尚が言うには、「私は、すでに札を使って土龍を城中に封じ込めました。現在、建設中の仏塔を城中へ移転されれば、封印は完全となるでしょう」。こうして聖宗はただちに建設工事を停止させ、その半分まで完成された宝塔を城内に移築させることにした。こうして完成にこじつけられたものが、現在に残る農安遼塔という。
その建設とともに黄龍寺も創建され、城内において絶大な権力を有することとなったが、現在は、県中心部に通る 黄龍路と宝塔街との交差点に、古塔のみが残されるのみとなっている。この仏塔は、建立当時の黄龍府城、そして今日の農安県に至るまで、永遠のシンボルであり続けたのだった。
その後、遼王朝の治世下で仏教はますます隆盛を極め、1072年3月時点で、長春州(今の
吉林省松原市
前郭爾羅斯蒙古族自治県塔虎城)、泰州(今の
吉林省白城市
洮北区四家子古城)、寧江州(今の 吉林省松原市扶余市石頭城子古城)の行政区には、合計 3,000人もの僧が在籍していたという。農安遼塔は、この仏教大流行時代を象徴する存在で、まさに生き証人とも言える歴史遺産である。
この農安県中心部を散策後、白タクをチャーターして、郊外を巡ることにした。
農安県小城子郷小城子村にある、小城子城跡(扶余王国時代、遼王朝&金王朝時代の城塞遺跡)は、吉林省政府指定の史跡となっており、この小城子郷を中心に北郊外を巡ってみたい(万金塔古城、花園古城、益州古城、小城子城跡、田家坨子遺跡など)。
北端の松花江沿いにある田家坨子遺跡は、総面積約 10万 m2もある広大な青銅器時代の集落遺跡で、内部の住居群はいずれも横長の楕円形の、半竪穴式スタイルであったという(東西 6.1 m、南北 5.3 m)。壁面も 0.4~0.6 mほどの高さが残っているが、西壁の北端はすでに平地されているという。居住の東側中央部には囲炉裏跡も確認されている。また敷地内からは、大量の 陶器、石器、銅器、鉄器などが出土しており、1981年に吉林省政府により史跡指定を受けている。
松花江を見学後、さらに時間があれば東郊外へと廻り、そのまま
徳恵駅
から普通列車で
長春鉄道駅
まで戻ることも可能だろう(16:32発、16:41発、18:15発、18:32発のいずれかを選択。乗車時間 55分、14.5元)。高速鉄道だと乗車時間 23分(運賃 38.5元)だが、長春市街地から遠い長春西駅の到着となり、移動がやや大変となる。
【 農安県の 歴史 】
紀元前 2世紀末、中国東北地方で夫余国が建国されると、数度の遷都が行われる中で、 346年、現在の農安県中心部に王都が転入され、大規模な城郭都市が建造される。夫余国は、前漢朝、後漢朝などの中原王朝へも朝貢し、最終的に南北朝時代の 494年に勿吉族によって滅ぼされるまでの 600年近く、中国東北部に君臨することとなった。
この農安県があるエリアは、西部の草原地帯と東部の丘陵地帯が交錯するポイントで、松花江の河川交通と、南北の陸路交通の咽喉元に位置し、軍事&商業上、非常に重要な立地であった。このため以後の歴史を通じ、東胡族、鮮卑族、穢貊族、肅慎族、契丹族、女真族、モンゴル族などの民族らが、当地の覇権を目論み、幾度も戦争が繰り広げていくわけである。こうして夫余国に続いて、勿吉族(後に靺鞨族へ改称)が建国する 渤海国、遼王朝、金王朝などの諸王朝の盛衰と、運命を共にすることとなった。
その契丹族の勢力も一時期、高句麗によって併合されると、当初は夫余城が開設されていたが、西から迫る契丹族の襲来が続いたため、高句麗は長大な長城を建造して対抗する。この圏外に位置した夫余城は放棄され、「古城」と通称されることとなった(上地図)。
最終的に、中原を統一した 隋王朝、唐王朝に臣従した契丹族は、高句麗遠征にも従軍し、この滅亡に貢献すると、やがて 渤海国(王都は、忽汗城 ー 渤海上京龍泉府。今の
黒竜江省牡丹江市
寧安市渤海鎮)を建国することとなる。以後、古城に 夫余府(扶州)が開設される(下地図)。
926年、その渤海国も、契丹国(947年、遼王朝へ改編)により滅ぼされると、夫余府城はいったん荒廃し、再び廃城となる。しかし、間もなく都市は再建され、黄龍府へ改称されて生まれ変わることとなった(同時に、黄龍県が新設される)。その名称は、遼王朝を興し渤海国を滅亡させた 初代皇帝・耶律阿保機(872~926年)が当地を平定した際、その滞在中に黄龍の夢を見た、というエピソードに由来するという。耶律阿保機は、直後に当地で病死することとなる。
この時代、黄龍府(黄龍府都部署司)の下には、五州(盖州、安遠州、威州、清州、雍州)と、三県(黄龍県、遷民県、永平県)が配され、
東京道(道都は、今の遼寧省遼陽市)
に属した。当時、遼王朝下で設置された六府の中でも、重要な府城として位置付けられ、政治、経済、交通の発展にともなって、府城内の人口も急増し大いに繁栄したという。下地図。
975年、黄龍府城の守将だった燕頗が遼王朝に対し挙兵すると、都監の張琚を殺害する。これに対し、遼朝廷は大軍を派兵して平定に成功する。直後より、黄龍府城内に通州が新設されると、遼王朝が滅亡するまで「通州城」と通称されることとなった(通州安遠軍節度。後に
吉林省四平市
へ移転。上地図)。
遼王朝 6代目皇帝・聖宗(耶律隆緒。972~1031年)が、黄龍府城に立ち寄った際、巨大な仏塔の建立に着手する(1023年完成)。当時、遼朝廷の上層部内では、熱心に仏教が信仰されており、黄龍府城も遼王朝下の六府の一つとして、仏教勢力が手厚く保護されていた。
同時に、聖宗は黄龍府の行政長官以外の高官を廃止し、兵部都部司のみに統一して、兀惹族出身者を任命する。あわせて、武闘派の「鉄驪族」出身の兵士らを、黄龍府城とその配下の各州県城に配置した。
この時代、遼国は最盛期を迎え、黄龍府城下の人口は激増し、配下の行政区は全体的に人口過密となり、周囲には多くの集落が誕生していくこととなる。それらどの集落地からでも、黄龍府城が目視できるほどの距離感であったという。
また、黄龍府城内では、当時、契丹人以外にも、渤海人、漢人、女真人、さらに 鉄驪族、兀惹族、突厥族、党項族などの部族らが入り混じって生活しており、相互に言語が通じなかったとされる。このため、中国語が共通語として使用されていたという。下地図。
渤海国を滅ぼした後、契丹人(遼王朝を建国した民族)は、旧渤海国民らを南へ強制移住させてしまうと、遼河の中流域、上流域、および、松花江の中流域、上流域で人口が激減する。全くの空白地帯となって土地が荒廃してしまうと、牡丹江流域に生息していた黒水靺鞨族がこの旧領地へ入り込んでくることとなった。以後、彼らは女真族と通称されていくわけである。
しかし、遼王朝による過酷な抑圧政策の下、女真族の生活は貧しいままに抑え込まれる。これに対し、女真族は度々、反乱を起こすも、都度、鎮圧されてしまうのだった。
7代目皇帝・興宗の治世下、伊通河沿いに懐徳県が新設されると、祥州(今の 農安県万金塔郷)の州都を兼務することとされる。
1037年、黒龍江の下流地区に節度使を新設すると、勃興する女真族五国部を統括させる(黄龍府に所属)。
さらに 100年が過ぎた 1114年9月、まだまだ反骨精神を緩めない女真族の一派、虎水完顔部の 族長・完顔阿骨打(1068~1123年)が 2,500の部下を集めて、突如、寧江州(今の
吉林省松原市
扶余市)を攻撃する(上地図)。寧江州城の攻略戦で大勝を収めた完顔阿骨打は、配下の部族グループらの支持の下、皇帝を称することとなり、金王朝を建国する。
翌 1115年9月、完顔阿骨打は 名将・完顔類室(1078~1130年)に命じ、遼王朝の重要拠点だった黄龍府城の攻略に着手する。しかし、巨大な城域と高い土塁城壁を誇った堅城に、大いに手を焼かされることとなる。城内に備蓄された食料は充実し、籠城する遼軍も精鋭部隊が配置されていたのだった。この戦闘で、参陣していた阿骨打自身も頭部に負傷を負ったとされる。
総司令官の完顔類室は、遼朝廷からの援軍を遮断すべく、黄龍府城に通じる交通網を徹底的に遮断しつつ、火攻め作戦を立てる。土塁城壁の四隅に増築されていた木製の角楼に対し、配下から決死隊を募って、雲梯上から火薬を投げ込ませ、角楼への引火を図ったとされる。角楼に放火されると、遼朝の籠城軍は大いに混乱に陥る。このまま金軍は、城の南東端から城内へと攻め入り、内部から城門を開けさせて、一気に全軍を城内へなだれ込ませると、遼の守備軍は城を捨てて潰走する。
こうして 1118年、黄龍府城の占領に成功した完顔阿骨打は、ここを金王朝の王都に定める(しかし、間もなく、上京会寧府へ遷都してしまう ー 今の
黒竜江省ハルビン市
阿城区白城。王都建設&拡張には 20年近い歳月がかかったため、実際には黄龍府城が王都として代用され続ける)。
この黄龍府城の攻略戦を指揮した完顔類室の功績は大いに称えられ、阿骨打により万戸に任命され、この黄龍府城の 守備・管理を任されることとなった。
これに対し、遼王朝 9代目皇帝・天祚帝(最後の皇帝。1075~1128年)は、黄龍府城陥落の一報を聞くと、急遽、契丹族と漢民族の 混成部隊・数十万人(70万を号した)を引き連れて、自ら親征し、金軍の殲滅を図る。
当時、完顔阿骨打の率いる金軍の総勢はわずか 2万程度で、遼軍は数で圧倒していたが、その軍内部では士気が上がらず、戦意と団結に欠けていた。戦闘開始直後から、女真軍が決死の覚悟で敵陣へ突入し、遼軍の陣中を縦横無尽に蹂躙すると、遼軍は大混乱に陥る。その直後に、遼軍の陣中から 将軍・耶律章奴が反乱を起こすと、天祚帝はその急報を聞くや否や、すぐに全軍撤退を命じることとなり、そのまま女真軍の猛追を許して、完膚なきまで叩きのめされたのだった。以後も、遼軍は敗戦に敗戦を重ね、そのまま滅亡への道を転げ落ちていったわけである(下地図)。
最終的に 1125年、遼王朝は金王朝に降伏すると、続けて金軍は北宋朝への侵攻を開始し、翌 1126年に北宋朝の
王都・汴梁(今の 河南省開封市)
を陥落させる(下地図)。翌 1127年4月、宋朝皇帝の 徽帝、欽帝の父子、その他の多くの皇族や 皇后、皇女、朝臣、侍女ら三千人余りを捕虜にして、本拠地の黄龍府城まで連行し監禁してしまうのだった(靖康の恥 ー その後、全女子は慰安所に入れられ、性的搾取されることとなる)。
この金軍の猛攻に対抗すべく、長江以南で南宋朝が建国されると、南宋朝と金王朝は度重なる死闘を繰り広げていくこととなる。この南宋軍の中でも、ひと際、活躍した人物が、義勇軍を率いた 名将・岳飛(1103~1142年)であった。
1127年、金軍の最高司令官に任命された 兀术(斡啜、オジュ。?~1148年。初代皇帝・阿骨打の四男)が、大軍を率いて南宋領への攻撃を開始すると、岳飛は、韓世忠(1088~1151年)や 張浚(1097~1164年)らと共に、南宋軍を率いて各地で応戦する。さらに華北地方の旧領奪還を目指し、北伐を開始した岳飛は、鄭州、洛陽などを再奪取し、潁昌の戦いで金朝の大軍を撃破する。
いよいよ 朱仙鎮城(現在の
河南省開封市
祥符区の南西部)にまで進駐し、北宋朝の王都だった開封城まで、わずか 23 kmの地点にまで迫った岳飛に対し、金軍を率いた 最高軍司令官・兀朮は、
開封城
に籠城して迎撃態勢を整えていた。
岳飛は華北地方の義勇軍と密に連絡をとり合いながら、失地回復を目指しており、城内での酒宴の席上、感情の高ぶった岳飛が配下の諸将に向かって、「このまま一直線に、金軍の 王都・黄龍府城をも陥れ、諸君と共に祝杯を挙げたいものだ(直抵黄龍府、与諸君痛飲耳)!」と叫んだという。この岳飛の名言は、目下、地元農安県の住民なら誰もが知るエピソードらしく(四字熟語「痛飲黄龍」)、ターゲットとされた敵地の首府であったものの、地元の誇りとなっているらしい。
1140年、ようやく北宋朝の 旧王都・
開封
に匹敵する巨大城郭を完成させた金王朝は、いよいよ 上京会寧府城(今の
黒竜江省ハルビン市
阿城区南城村)を本格的に王都に定める。あわせて、黄龍府は済州へ改編され、その配下に利涉県が新設される(上地図)。
しかし、山東省にも済州の地名があったことから、重複を避けるべく、黄龍府の旧名称である「龍州」へ再変更されることとなった。
1189年、龍州はさらに隆州へ改称されるも(上地図)、書類上での表記は、引き続き、「龍州」の名称が使用され続けたという。
その後、金王朝の皇族間で権力争いが勃発し、モンゴル族など外部勢力を巻き込んでの内戦により、金王朝の支配力が急低下してくると、1211年、チンギス=ハンが自らモンゴル軍を率いて金領を蹂躙し、さらに内モンゴルにいた 契丹人(かつての遼王朝の残党勢力)らを服属させ、中国東北部へも侵攻してくるようになる。こうして、中国東北部が切り取られ、東遼というモンゴル傀儡の独立政権が樹立される(上地図)。この モンゴル&契丹人の侵攻作戦により、隆州城も荒廃することとなった。
すぐに再建工事が進められ、1214年に隆州から隆安府へ昇格される(上京路に帰属)。間もなく龍安府へ改称された後、1236年に黄龍府へ変更される。この時、あわせて利涉県が廃止される。
1286年には、黄龍府が開元路へ 昇格&改編されると、遼東路と開元路の行政庁が同時開設されることとなった。その後、開元路の行政庁は 咸平(今の
遼寧省鉄嶺市
開原市)へ移転され、黄龍府城が放棄されると、巨大城郭都市はそのまま廃墟となっていくのだった。
今日、農安県下から出土している大量の遺物は、この 遼王朝、金王朝時代のもので、当エリアが最も繁栄を謳歌していた時代のものである。県下には、23もの古城遺跡も残されており、この時代の 軍事面、経済面での隆盛の面影を今に伝えている。
1375年、明朝が遼東都司三万衛を新設すると、この管轄下に組み込まれた。
1403年には、奴爾干都司の亦東河衛に統括され、府城跡地には龍安駅という 驛駅(駅伝施設)が開設される。その後、兀良哈衛に属し、明代末期にはモンゴル系科爾沁部族のテリトリーとなり、彼らの游牧地が広がるエリアとなっていた。
清代初期、郭爾羅斯前旗の所轄地となる。
1791年に移民奨励政策により土地開墾がスタートすると、以降、 1882年まで、中国華北地方から多くの漢民族の農民らが入植してくる。旧黄龍府城跡地に再び集落が形成されるようになると、清朝廷はここに農安分防照磨の行政庁を新設する(
長春庁
に属した)。
いよいよ都市が巨大化してくると、1889年、正式に農安県が新設される。
この「農安」の二文字は、かつて 旧名称「隆安」と「龍安」を組み合わせた造語で、当時、俗称となっていた「龍湾」の発音に由来しており、これが訛って「農安」と命名されたという(
長春府
に帰属)。
中華民国の建国翌年の 1913年9月7日、扶農鎮守使が新設されると、農安県城内に併設される(吉林省に帰属)。
共産党中国時代の 1956年に農安鎮が新設され、1969年に
長春市
に組み込まれて、今日に至る。
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