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新界区
訪問日:2018年1月中旬 『大陸西遊記』~
香港 新界区 ~ 区内人口 360万人、 一人当たり GDP 48,000 USD(香港 全体)
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東涌砲台(東涌所城)
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分流砲台(石笋砲台、石壁砲台、鷄翼角砲台、大嶼山砲台)
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屯門(天后廟、青山寺、青山の山頂)
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屯門海戦
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【豆知識】ランタオ島の 歴史
屯門
屯門は急峻かつ要害の地で、かつて、中国王朝らの軍駐屯施設が設置されていた。
域内の主な山は、西側に横たわる 屯門山(青山、かつては杯渡山、英国商人らは堡垒山と称した)で、東側には屯門川河口部を中心に開けた 屯門湾(青山湾、かつては屯門澳と通称された)があり、その東側に九逕山が立地した。そして、正面向かいには ランタオ島(大嶼山)が悠然と控えていた。
これら三面を高い山々に囲まれた屯門湾は、海風を避けられる天然の良港となり得たのだった。
現在、域内の散策ルートとしては、中山公園内にある 20世紀初頭に建築された ホンラウ(紅樓)、明代の 1464年に建立された チンシャン禅院(青山禅院)、キャッスルピーク(青山)の ハイキング・コースが有名である。
屯門
早くも新石器時代、屯門の青山湾一帯にはすでに人類の生息が存在したという。
漢代、屯門には既に塩製品に関する商業交易に携わる港町が形成されていた。
南北朝時代の劉宋朝の治世時代、南海貿易の 中心地・
交州
への中継港町の一つとして栄えた。多くの人材や文物らが、ここを経由して南海航路を往来している。
蒸気船が未だ発明される以前、国内海上交通も、国外交易も共に、帆船が主力であり、常に季候風の影響を受けることとなった。
中東地域、インド、南アジアやインドシア半島、南洋群島らの商船にとって、屯門の港町は海路で中国へ入る貿易ルート上にあり、夏季の南西の風に乗って出航し、北東向きに航行して中国の海域に到着後、まずは屯門一帯に集結してから、順次、
広州
などへ向かったとされる。
また他方、中国より出航する中国籍商船、もしくは、海外籍商船で帰国する便は、冬季の北東の風を待って出航したとされ、屯門を経由して海へと出発し、ベトナムや南洋群島、さらにはインド、中東地域へと移動していたのだった。
唐代初期、ついに港町が屯門鎮へ昇格されると、安南都護府(広州市)の管轄下に帰属された。湾内に停泊する商船らの監視と保護を目的に駐留軍が派遣され、屯門という 地名(駐屯兵の軍営地)の由来になったとされる。これが屯門の名称を文献で確認できる最初であった。
唐代中期の 744年2月、海賊・呉令光が 永嘉県(今の浙江省
温州市
)、台州(今の浙江省
台州市
臨海市)、明州(今の浙江省
寧波市
)一帯を荒らし回ると、南海郡(今の広州市)太守の劉巨鱗が屯門鎮兵らを派遣し、河南尹の裴敦復、晋陵郡(今の江蘇省
常州市
)太守の劉同昇らと協力し鎮圧した記録が残る。
当時、すでに屯門鎮の交易上、軍事上の重要度は急上昇しており、この町を往来する人々の数もますます増加していた。
五代十国時代、劉氏の南漢国により、杯渡山が瑞応山へ改称され、山の北側の麓に軍事要塞を建造されると、靖海都巡が設置される。靖海都巡の長官が屯門鎮一帯の行政を司ることとなり、海岸沿いの漁民や海外船舶などを 監視、統括する業務を担当する。
北宋時代初期、屯門地区には引き続き、屯門砦が設置された。海賊取締りなど治安業務を主とした。
元代、屯門には屯門巡検司が開設され、巡検員一名と、兵士 150名が駐屯した。役所は 屯門寨(軍事要塞)内に設置された。
明代には狼煙台と水軍埠頭が増設され、駐留兵がそれぞれに配置された。
明代中期の 1514年、ポルトガル人が当時、東莞県下に属していた 屯門(青山湾)に強制上陸して占領し、当地の軍事要塞に入居する。他にも、今の マカオ、深圳后海湾や内伶仃島にも次々と拠点を設け、その占領の既成事実化を図る。
これに猛反発した明朝との間で、1521年8月末~9月に屯門海戦が勃発すると、前年より
南頭城(今の 広東省深圳市南山区)
に拠点を移していた広東海道副使の汪鋐の指揮により、屯門の海域でポルトガル人海軍は撃破され、屯門から駆逐されることとなった。
屯門海戦後、明朝廷は、ポルトガルの国旗を掲げたすべての船舶を排除するように全中国戦船に指令を下す。
続いて、新会県(今の広東省
江門市
)下でも、茜草湾の戦役が勃発し、再び、ポルトガル人らは惨敗する。
二度の大戦で敗走したポルトガル人らは、未だに大陸中国内での植民地開設の野望を放棄し切れず、福建省、および浙江省の沿海へと針路を変えることとなった。
以後、1541年までの 20年間、中国の歴史書からポルトガルが広東沿海を襲った記録が途絶える。この緊迫した東アジア情勢の中で、1543年8月、台風で難破したポルトガル商船が種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えることとなったわけである。
最終的に 1553年、明朝はついにポルトガル人の
マカオ
での居住権を認める(ポルトガル人側が明朝に土地賃借料を毎年、納付する契約)。こうして 19世紀半ばまで、マカオはポルトガルの租借地となった(アヘン戦争後に、完全に領土割譲が行われる)。
清代も引き続き、屯門要塞と狼煙台が設置される。
新安県(今の 広東省深圳市南山区の南頭古城)
に帰属された。
東涌砲台
香港空港の向かいにある 東涌地区(新界大嶼山東涌下峰皮村)に、東涌砲台が残る。現在は、香港政府により史跡指定されている。バス停「東涌砲台」駅があるが、地下鉄・東涌駅からでも徒歩 10分程度。東涌砲台と東涌小砲台の 2つがある。
東涌砲台で現存する部分は、面積 70 m × 80 mの広さを有し、現在、花崗石の石材とコンクリート製の台座の上に 6門の大砲が残されている。それぞれ 1805年と 1809年、1843年に製造されたものという(大砲の砲身に清朝年号で刻印あり)。
東涌砲台
清代の 道光年間(1820~30年代)、アヘン密貿易と海賊行為を取り締まるべく、東涌の地に東涌所城が築城される。大鵬右営(今の広東省
深圳市
)所属の水軍が統括した。
1832年(一説には 1817年)に完成した当時、大砲 6門が配備されたという。砲台陣地の入口に掲げられた花崗石の扁額に、道光十二年(1832年)の文字が刻まれており、築造時期を示している。
1898年に英国が新界を租借すると、当地の清朝方の駐留兵も撤収し、そのまま砲台基地は放棄されることとなった。
第二次大戦時、日本軍が香港を占領した時期、砲台基地は日本軍により再建され再利用されている。
大戦後、英軍が香港へ復帰すると、砲台陣地は地元の警察署庁舎として利用され、後に 華英中学校、東涌郷事委員会、東涌公立学校の一部に転用されることとなった。
1979年8月24日に香港植民地政府により史跡指定され、1988年に全面改修が施された。
現在、東涌郷事委員会の事務所も入居する。
分流砲台
(石壁)分流砲台(英語:Fan Lau Fort)は、鷄翼角砲台、大嶼山砲台、石笋砲台とも別称される。
ランタオ島(大嶼山)の南西端の半島部に位置する 分流村(石笋村)の、高さ 70 mの岬上に立地しており、その面積は約 966 m2という。かつて、一帯は「石壁」と呼称されていた(下地図)。
香港エリア内で最初に建造された砲台基地とされる。
東涌市中心部から、ランタオ島路線バス ⑪番、もしくは ㉓番に乗車し、石壁まで移動。バス停「沙咀」が、大嶼山郊野公園(宏貝路)の登山口にあたる(終点・石壁の一つ手前)。下車後、徒歩約 2時間で分流村に到着。
終点の バス停「石壁」周辺には、石壁石刻遺跡あり。
分流砲台
最初の建造年代に関しては諸説あり、明代に海賊対策として設置されたとも、清代にアヘン密貿易の取締り目的で設置されたとも考えられている。
最初に文献上に言及されたのは、『マカオ記略』乾隆刊本(1753年)の中で、「1729年当時、大嶼山には山の南北両面にそれぞれ砲台が設けられてる」との記述という。その内の一つが、現在の分流砲台であることは確実視されており、これが根拠とされ、香港最古の砲台遺跡と断定されるに至ったわけである。
なお、明代後期から、大嶼山一帯は南蛮渡来船が
広州
往復する必須の航行ルート上にあり、これを監督する行政ニーズは当時からすでにあったはず、というのが明代設置説の根拠となっている。
遷界令が廃止された直後の 1684年、清朝政府により要塞基地が再整備されて砲台基地として再スタートをきるも、 100年ほどたった時期に、海賊らに占領されたという。しかし 1810年、その海賊集団も清朝に投降するに及び、再び、清側の要塞として機能することとなった。
以後、今の広東省
深圳市
に残る
南頭城
と
赤湾砲台
とあわせて、珠江東部外周の三大海防拠点と通称されることとなった。
1820年代、分流砲台の駐留兵らに関する史書の記述があり、当時、商人らの寄付を受けたという記録が残る。
1841年の第一次アヘン戦争で広州を占領後、翌 1842年に香港エリアに上陸した英軍駐留兵の記録によると、分流砲台はこの時、すでに廃棄状態であったという。
しかし、1842年発行の『広東通志』と、1879年発行の『広州府志』によれば、分流砲台には常時、 30名の駐留兵が配備されていたと言及されており、両者の記載には隔たりが見られる。
近年の調査により、当基地が実際に完全放棄されたのは、新界が英国に租借された 1900年ごろと断定されている。
1842年時点での英軍調査の折は、これらの砲台基地の守備兵らはすべて逃走するか、撤兵されて、無人状態となっていたと考えられる。
1898年に新界エリアが英国により租借されて以降、砲台基地はそのまま放棄され、荒廃するに任せることとなった。雑草が覆うだけの廃墟遺跡であった砲台基地が再び脚光が浴びるようになったのは、 1981年に香港植民地政府により史跡指定され、修復工事が開始されて以降である。
【ランタオ島の 歴史】
現在、ランタオ島の漢字名は「大嶼島」ではなく「大嶼山」で、山名のみで記述される。これは中国古来の呼称に由来する。
当初、南宋時代までは、大嶼山と香港島などの 36の島嶼エリアまとめて「大奚山」と通称されていたが、明代に至るころには、「大奚山」がランタオ島のみを指すように変化する。
なお、大奚山は 大嶼山、大溪山、大嵛山、大魚山、大漁山、大庾山、南頭島、爛頭島、屯門島、大蚝山、大濠島などとも別称された。 現在の ランラオ島(大嶼山)の英文名である、 Lantauは広東語で「爛頭」もしくは、「南頭」の音を当てはめたものという。
清代の 道光年間(1820~1830年代)、大嶼山に 2つの砲台基地が設置され、兵士が駐留したため、大嶼山に関する記述が、さまざまな歴史書に散見されるようになる。
ランタオ島に人類が住み始めたのは、早くも石器時代とされる。当地で出土された 陶器、捕魚工具、兵器などがこの当時のものとされ、また、分流地区の石圓環、及び、石壁地区の石刻などの遺跡が発掘されている。
東晋時代末期、海岸エリアで民衆反乱を率いた 孫恩、盧循に対し、劉裕の率いる征討軍が平定すると、盧循は部下らを引き連れて大嶼山へ逃亡し、ここで定住するようになったという言い伝えが残る。後に、漁業や製塩業で生活を成し、最終的に使用人に身を落としたという説や、盧亭が半人半魚の生物へ生まれかわったという伝説にまでなっているという。
北宋時代、九龍官富場が新設されると、朝廷は塩の密売の取締りを強化するようになる。
その過酷な税金と束縛に対し、当地で塩業に従事する人々が大規模な反乱を起こすも(大奚山塩民起義。1197年)、間もなく、反乱は鎮圧され、反乱の参加者はことごとく処刑されてしまったという。以後、大奚山一帯の塩田から生産される塩生産高も明らかに減少していくこととなった。
南宋の名臣で学者あった 李昴英(1201~1257年、上絵図)は、その功績をたたえられ、 1254年、番禺県下に食邑として三百戸を授与される。しかし、当時、番禺県内では余分な戸数が算出できたかったため、東隣の東莞県下の一部も供出されたと考えられている。このとき、大奚山湊敷(ランタオ島の南面にある梅蔚、今の梅窝)の村も与えられたと記録されている。
しかし翌 1255年、宦官の董宋臣が朝廷の権力を牛耳るようになると、李昴英の食邑も取り上げられ、故郷の 番禺県(今の広東省
広州市
)へ戻るように指示され、晚年は広州文溪に居住したという。宋朝廷は李昴英に再度の出仕を打診するも、李昴英は拒否し続け、 1257年8月に病死したという。
南宋の末期、端宗ら朝廷一行はモンゴル軍に追われ、海上を漂流する生活を強いられていた。1277年、及び 1278年には、 朝廷一行は 2度、大嶼山に上陸しており、梅蔚(今の梅窝)、及び東涌などで野営のため滞在している。
1279年3月、端宗が大嶼山の北岸一帯で病死すると、宋帝昺が帝位を継承し、その後、新会県(今の広東省
江門市
)下の
崖山
まで逃亡を続けるのであった。
明代中期の 正徳年間(1505~1521年)、ポルトガル人が屯門地区に強引に上陸し、要塞拠点を設置すると、周囲の島々にも次々と拠点を構築し、占領の既成事実化を図る。このとき、大嶼山の大澳村にもポルトガル人の拠点が開設される。しかし、これに激怒した明朝はその勢力を排除すべく、 1521年に屯門海戦でポルトガル人勢力を撃破し、それらの占領地からの追放に成功する。
清代に入ると、対外交易はますます活発となり、大嶼山の北面の龍鼓水道は、外国商旅が広州貿易で通過する必須の交通路となっていく。下地図。
こうした要衝に位置したため、清朝廷は 1832年、大嶼山(ランタオ島)の北面の東涌地区に所城を建造する。これが現在の東涌砲台の起源となる。主目的は、商船の保護と管理、アヘン貿易や海賊行為の取締りであった。
アヘン戦争等を経て、香港、
九龍
が英国に割譲される中、1899年、ついにランタオ島を含む新界地区が英国により租借される。直後に、ランタオ島の南西の岬部分に、嶼南界碑 Obelisk(south)が設置され、英国の主権が宣言されることとなった。
日中戦争時代の真っ只中の 1940年9月、新界エリアの住民らの子弟らが中国共産党直属の広東人民抗日ゲリラ游撃隊 東江縦隊(旧広東人民抗日游撃隊、本部・
東莞県
)監督の下で、港九大隊を組織し、 日本軍の 香港、広東省エリアへの進軍に抵抗する活動を展開していた。1941年末、英国政府が日本軍に降伏すると、香港島が陥落するも、港九大隊は引き続き、日本軍とゲリラ戦を継続した。
1942年4月には、港九大隊の隊員らが 大嶼山(ランタオ島)を制圧し、その本部を移転すると、
マカオ
と
広州
との通信拠点とした。下地図。
1990年代前まで、香港植民地政府は 大嶼山(ランタオ島)の開発を目立って進めることはなく、清代の名残を色濃く残すエリアとして放置されていた。
1989年、時の香港総督マクレホースが、新国際空港の建設を発表し、空港鉄道、及び、青嶼干線と島外の鉄道や道路網との連結が急ピッチで進められるに至り、ようやく大嶼山の大規模開発がスタートされたのだった。
以後、ランタオ島の北西部の東涌地区が、ランタオ島の新中心部として大発展を遂げることとなる。
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