BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

 中国地図 から ≫ 浙江省 地図 ≫ 湖州市 ≫ 南潯区 ≫
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


浙江省 湖州市 南潯区 ~ 区内人口 310万人、 一人当たり GDP 86,000 元(湖州市 全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  菰城(【初代】烏程県城、菰城県城)
  東遷県城(東安県城)



早くも新石器時代には、原始的な部落社会の存在が確認されているという。
当地を含む江東エリアは、春秋戦国時代を通じ呉国と越国が死闘を演じた地であったが、 最終的に紀元前 334年、越国を滅ぼした楚が全域を併合することとなる。

戦国時代に活躍した四公子の一人として名高い 春申君(黄歇)が、楚の考烈王により紀元前 248年に江東地方の地を与えられると、 一帯は彼の封邑となる。その直後、領地内に 菰城(現在の 湖州市南潯区道場郷窯頭村東苕溪路、金蓋山の山裾にある菰城遺跡。 現在は外城 20万 m2、内城 8万 m2 が残る。下写真)を 築城する。当時、周囲には菰草が生い茂り、城塞が菰草に埋もれたように見えたため、菰城と命名されたという。

南潯区

しかし、春申君の功績で国力を回復させ、紀元前 241年には盟主として 5ヵ国連合軍を率いて秦国を攻めるまでに台頭した楚国であったが、彼の死後、国力は急激に減退し、ついに紀元前 223年、秦に滅ぼされることとなる。

秦占領下の翌紀元前 222年、郡県制が導入され、 江東地方に会稽郡が新設されると、その下には 烏程県、由拳県などの諸県が配される。 このとき、菰城内に烏程県役所が開設されたため、以後、烏程県城となる。 これが現在の湖州市における最初の県城設置となった。
なお、烏程の地名であるが、この地に旧越系の土着住民で、 手広く酒造家を営む烏巾と程林の両家が 存在し、その名が一帯で広く知られていたことから命名されたという。

南潯区

紀元前 210年の始皇帝の死去後、秦帝国が大混乱に陥ると、全国で農民や群雄らが挙兵する(上地図)。 後に表舞台に躍り出ることになる項羽は当初、その勢力を温存すべく、 今の湖州市呉興区愛山広場付近に駐屯基地を設け、 簡易な城塞を建造していた(紀元前 206年ごろ)。今に残る「項王城」遺跡である。

時は下って後漢時代の 129年、会稽郡が 浙江(錢塘江)の南北で分離され、北岸に呉郡 が新設されると、烏程県はこの呉郡に属した(下地図)。

南潯区

三国時代後期の 266年、4代目皇帝の孫皓が呉郡下の 陽羨県、永安県、餘杭県、臨水県と、丹楊郡下の 故鄣県、安吉県、原郷県、於潛県、烏程県の九県を分離し 呉興郡(長年の懸案事項であった 山越族らを平定し、これからますます呉国は繁栄していく、という意味の「呉国興盛」 の文言から命名された)を新設する。郡内を流れる水脈がすべて 項王城跡(今の 湖州市呉興区呉興区愛山広場)に通じていたため、ここに 郡役所が開設されたのだった。

280年、西晋が呉を滅ぼし三国を統一すると、282年に烏程県の東部が分離され、 東遷県が新設される(下地図)。東遷県役所は今の 湖州市南潯区旧館鎮あたりに設置された。
現在、旧館鎮の東部に位置する 東遷鎮(今日はすでに南潯鎮に吸収合併されているが)とは全く 無関係であることに注意したい。
また同年に烏程県の西部も分離され、長城県が新設される(下地図)。
間もなくして、烏程県役所も項王城跡へ移転されることとなり、【初代】烏程県城となっていた旧菰城は廃城とされる。以後、旧項王城が【二代目】烏程県城となり、 呉興郡都を兼ねて、現在に続く湖州市の 中心部(呉興区)を形成していくこととなる。

南潯区

南北朝時代、劉宋政権(420~479年)下の 476年、東遷県が東安県へ一時的に変更されるも、 翌 477年には元の東遷県へ戻される。この時代、基本的に呉興郡は 烏程県、東遷県、 武康県、長城県、原郷県、故鄣県、安吉県、余杭県、臨安県、于潜県の 10県 を統括した。梁朝(502~557年)の末期、呉興郡は一時的に震州へ改称されることとなる(太湖の 古い名称であった震澤から命名される)。

梁朝から権力禅譲を受けて陳朝が建国された直後の 557年、震州が呉興郡へ戻されるも、 北朝の隋が南朝の 陳政権を滅ぼし中国を統一すると(589年)、全国的に郡制が廃止されるに伴い、 呉興郡が湖州へ改編される。同時に、東遷県が廃止され、烏程県に吸収合併される。 以後、湖州は 烏程県、武康県、長城県(今の 湖州市長興区)を統括することとされた。

唐代初期の 621年、李孝恭が 湖州城(烏程県城)の外周にさらに城壁を 建造し、外城と 内城(子城)の二重構造の城塞都市を完成させる(下絵図)。 以後、子城内で脈々と継続されていく湖州衙署であるが、中華民国時代に入ると愛山広場公園へと 整備されてしまうこととなるのだった。

南潯区

唐代中期の 741年、湖州刺史の張景遵がもともとの 東遷県城跡(今の 旧館鎮のあたり)に太湖館を開設する。
翌 742~758年の間、湖州が呉興郡へ変更されるも、再び、湖州に戻される。
774年には湖州刺史の顔真卿が太湖館を東遷館へ改称させる。
794年、湖州刺史の于頔が東遷館と升山館の距離が近すぎるということで、 東遷館を東へ 10 kmにある厳村鎮へ移転させる。
ここに至り、厳村鎮が東遷鎮へ改称され、もともと東遷館があった場所が旧館鎮と 通称されることとなったわけである。

北宋朝が五代十国の統一に乗り出し、974年に南唐を帰順させると、 それまで「敵の敵は味方」として友好関係にあった呉越国も 北宋と直接、国境を接するに至り、978年、呉越国の 5代目国王・銭弘俶は自ら国を献じ、 政権を消滅させる。
こうして江東地方を一滴の血も流すことなく併合できた 北宋朝はその和平を祝賀し、湖州府烏程県下の南東部 15郷を分離して、 新たに帰安県を新設する。両県役所はそのまま 湖州府城(今の 湖州市呉興区)内に併設されることとなった。

南潯区

明代、清代も引き続き、帰安県と烏程県役所は湖州府城内に併設される。

時は下って、中華民国が建国された直後の 1912年、この併存状態だった 烏程県と帰安県が 合併され呉興県が新設されると、今の南潯区エリアもこの呉興県に帰属された。


お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us