BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年1月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 広州市 南沙区 ~ 区内人口 20万人、 一人当たり GDP 150,000 元(広州市 全体)


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  蒲洲山砲台
  大角山砲台
  下横檔島 砲台遺跡
  永安砲台(上横档島)
  大山乸の 狼煙台跡
  南沙博物館(大角山公園内に併設)
  南沙天后宮
  姑蘇園
  百万葵園



南沙区


 蒲洲山砲台

広州市南沙区の珠江沿いにある港前大道の突当りに大角山がそびえ立つ。ここから北側に向かい合って立つ蒲洲山との間には、現在、南沙天后宮などを始めとする海浜公園が整備されている(下写真は大角山の山頂から山裾一帯の海浜公園を見下ろしたもの)。

清末、この南北に向かい合う二つの 山(大角山と蒲洲山)の河沿いに砲台基地が建造されていた。

南沙区

下写真は、珠江対岸の 虎門(威遠)砲台から眺めたもの。

南沙区

蒲洲山は標高 50 mの小さな丘陵部を成しており、この東面と南面上の山頂部に砲台が配備されていた。その最初の設置は清末の 1885年で、アヘン戦争後のことであった。
その後も 中華民国、共産党中国により、随時、駐屯基地として利用されていったわけである。

南沙区

特に、本遺跡の見どころは大砲基台 3ヵ所で、1号基は台形状の扇形、2号と 3号基は台形状の円形となっている。総面積約 769.55 m2の砲台基地内には弾薬庫跡も見られる。

それぞれ各基台にはドイツ製のクルップ式大砲が 配備されており、後ろから砲弾を詰めるスタイルであった。さらに、トンネル壕や弾薬庫などが設けられ、各砲台を連結させていたという。


 大角山砲台

南に位置する大角山にも砲台が建造されており、北側の蒲洲山砲台と相互に機能し合うように設計されていた。両者あわせて「大角砲台」と総称され、東莞市側に残る沙角砲台とで、珠江河口部の東西両岸にあって、虎門水道の入り口を守備する第一防衛ラインを形成するものであった。

北側には虎門砲台の第二防衛ラインを形成する下横档砲台などが控える(下地図)。

南沙区

今日、見られる砲台基地の遺構は清末の 1885年に改修された時のもので、展示されているドイツ製のクリップ式大砲もこの時代のものである。



 大角砲台

珠江河口部の西岸の先端に位置する二つの 小山(大角山と 蒲洲山)の山裾や山頂一帯に建造された砲台基地群の総称である。合計 9つの 砲台基地(振陽、振威、振定、安平、安定、安威、安勝、安盛【流星】、蒲洲)が設置されており、今日、完全に消失した振陽基地を除く、 8ヵ所が現存する。
これら 8ヵ所では、大砲基台や 坑道、要塞城門、火薬庫、兵舎などが残されており、唯一、これらの主役であった大砲類だけがすべて消失されてしまっている。

建造当時、 ちょうど大砲の 火力(有効射程距離 1,000 m、最大飛距離 2,000 m)が交互に効果的に作用し、虎門の河口エリア全域が射程圏内となるように設計されていた。

そもそも、大角砲台が建造されたのは 1830年であり、当時は、単に大角山の山裾の珠江沿いに配備された軍事要塞の一つに過ぎなかった。その要塞基地の周囲は 310 mで、砲眼が 16ヵ所設置され、鉄砲が 16丁配備されていた。

アヘン戦争前の 1839年、当地に赴任した林則徐により海防ラインの再整備が図られ、当砲台基地でも強化工事が図られることとなるも、2年後に英海軍により占領され、徹底的に破壊されることとなる。現在は当時の跡形すら残っていない。

南沙区

1841年1月7日(旧暦 12月15日)に、珠江河口部に接近したイギリス艦隊が突如、大角砲台(当時、大砲 26門配備)、および対岸の 沙角砲台(大砲 72門配備。守将は三江口協副将の陳連升)への艦砲射撃を開始すると、 両岸部の砲台も全力で応戦する。
しかし、イギリス軍の圧倒的な 火力(有効射程距離 1,500 m、最大飛距離 4,500 m)により、大角砲台の前面の防護壁、さらには山側の城壁までもが被弾により倒壊し、さらに大砲は 6基が破壊され、火薬庫も大破して火薬が爆発し、医務室を含む兵房 14部屋が延焼してしまう。別の兵舎 3部屋も倒壊するなどの大被害を被る。

ここに至って、イギリス軍は数百士名の兵士を大角山の後方から上陸させ、倒壊した防護壁から次々に砲台基地への侵入を図る。
砲台守備を司っていた千総の黎志安は残存兵力を指揮して イギリス軍らと奮戦するも、敵に奪われることを防ぐべく、まだ使用可能な大砲 14基を海中へ廃棄した後、 負傷兵らを伴って砲台基地を脱出する。
その後、砲台基地を占領した英国軍により、完全に破壊されてしまったのだった。

この第一防衛ラインの戦闘はわずか一日で決着がつき、清側の両岸の守備兵計 1,000名前後のうち、 戦死者 291名、負傷者 456名、不明者 10名という被害に対し、英軍上陸兵 2,000名は負傷者 41名のみ、という圧倒的な戦果となって集結する。
この後、広州城まで降伏開城させた英軍は、1842年8月29日の南京条約締結 により、ようやく全軍を撤退させることとなる。翌 1843年、清朝により大角砲台が再建されるも、1856年の第二次アヘン戦争時、再び、イギリスとフランス連合軍により破壊されてしまうのだった。

清末の 光緖年間(1875~1908年)、沿岸各所に西洋式の大砲が配備されることとなり、大角砲台も 1885年に、周囲の虎門防衛ラインの各砲台基地とともに改修工事が施される。
現存する砲台基地遺跡はいずれもこの時のもので、当時、外国から直接、輸入されたコンクリート資材や鉄鋼板のみが使用されて建造されたという。今日、ドイツ製のクリップ式大砲を含め、10ヵ所ほど当時の遺構が確認できる。

清朝より政権を引き継いだ中華民国時代にあっても、この砲台基地は重要防衛拠点として認識され、守備兵が常駐された。

日中戦争の初期、日本軍は空と海から砲台基地を急襲し、大角山の山裾の南東部に開設されていた船着き場から上陸して瞬く間に占領してしまう。
その後、日本軍は大砲の砲身などの部品を持ち去り、基地跡地には使用不能な大砲一基のみとその他の大砲台座のみが残されただけだったという。現在でも、日本軍の戦闘機の爆撃を受けた際の弾痕跡が残る。

共産党中国が建国されると、大角砲台には代わりに人民解放軍が駐留するも、1956年に駐留軍が東莞へ移動されると、砲台基地内のトンネル壕は中学の校舍として一時期、利用されるも、通学が非常に不便であったため、間もなく学校も廃止されて、以後、完全に放棄されることとなる。

鉄生産奨励の時代にあった 1958年、砲台基地に残存していた大砲台座や鉄製の部品類はすべて当地の人々、さらには外部からやってきた人々により持ち去られ、別の鉄製品へ改鋳されていった。

文化大革命が始まると、最後に残されていた大砲一基も持ち出されてしまい、ついには大砲台座と坑道など、コンクリ-ト建造物のみが残されることとなったのだった。

さらに、文化大革命の時代、当地は海に囲まれていたため、さらに田畑を造営すべく、大角山自体も爆破されて、大量の石材が採取され、次々に周囲の海の埋め立てに転用されていったという。
砲台基地の一つであった振陽基地は 1972年当時、まだ残存していたというが、この爆破工事により平地化が進められていく過程で消失されてしまう。
また、振威台基地の坑道の正門前には元々、広々とした広場が存在したが、この爆破工事により、現在、坑道の正門のスペースは 2 mと満たない範囲しか残存していない。

この爆破工事と石材の搬出は大いに大角砲台を破損させることとなったが、ようやく 1994年、広東省人民政府により各遺構を含む周囲 150 m内を文化保護区に指定され、香港返還が成就し広東省沿岸部で武装解除が実施された 1997年、本格的な修繕工事が開始されたのだった。この時に、現在見られる大砲や城門が復元されている(もともとの砲台基地の城門などはすでに消失してしまっていた)。



 下横档砲台

下横档砲台は虎門砲台に構築された第二防衛ラインを形成する主力で、珠江の河川中央に形成された 孤島(下横档島)上に建造されていた。四方を完全に河川に囲まれた、まさに浮沈艦要塞の様相を呈するものであった。

東岸の 虎門砲台(東莞市)との距離は 1,000 m余り、 西側の 大角砲台(広州市)との距離は 2,000 m余り、北の上横档島との距離は 600 m余り、という絶好のロケーションにあった。アヘン戦争当時の清軍の大砲の射程距離は 1,000 mで、最大距離が 2,000 mとされており(6分間に 1弾丸を発射)、ちょうど対岸どうしの火力が有効に機能できる位置関係にあった。

南沙区

上写真は、虎門砲台(東莞市)から見た下横档島の様子。
この小島は総面積が 0.0670 m2で、島内では東西二つの小山が隆起し、中部は低地となっている形状であった(下地図)。

南沙区 南沙区

第一次アヘン戦争(1841年)時点には下横档島上には全く砲台基地が設けられていなかったという。当時、設置されていた 虎門砲台と 大沙砲台、大角砲台だけでは珠江河口部の防衛に不十分と判断されたため、英軍が撤退した 1843年に、急きょ、土、石材、レンガを組み合わた防塁壁を有する砲台基地が築造されたのだった。
しかし、第二次アヘン戦争で英仏連合軍により破壊されて以降は、しばらく放置されることとなる。

清末の 1885年に虎門防衛ラインの再建工事が進められた際、ここも改修が加えられ、 海外から直輸入されたコンクリート資材や鉄鋼板で砲台基地が再設置される。このとき、ドイツ製のクルップ式大砲が 9門、配備されたという。
また、島の中心のやや北側に 官舎、兵舎、倉庫群が設置されていた。

南沙区

日中戦争の最中、下横档砲台は日本軍の戦闘機による爆撃を受け、その後に上陸した日本軍に占領されている。この時に大きく損害を被った島内の様子を撮影した写真が複数枚、残されている(上写真)。

1984年に防護壁の一部と 大砲一門(砲身の長さ 2.9 m、2,500 kgの鉄製の大砲)が復元されており、今日、虎門大橋や珠江の対岸から目にすることができる。
しかし大変、残念なことに、1994年に広東省人民政府が全島を保護区域に指定し、現在は上陸禁止の島となっている。


 大山乸の 狼煙台跡

大山乸の狼煙台遺跡は、広州市南沙区黄閣鎮大井村にある大山乸の山頂に残されている。
標高 224 mを誇り、南沙区内では第二の山となっており、山頂からは南沙地区、及び、珠江の河口部一帯を完全に俯瞰できる位置にある。ここの山頂は海岸線の防衛ラインの一端を成し、現在、南沙区内に残る唯一の狼煙台遺跡という。

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最初は建造されたのは明末清初と考えられており、現在残る狼煙台は高さ約 4 m、底辺部の直径が約 13 mの規模で、総占面積は約 40.82 m2という。


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