BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年6月上旬 『大陸西遊記』~


上海市 浦東新区 恵南鎮 ~ 区内人口 560万人、一人当たり GDP 66,000 元(上海市 全体)


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  奉賢区南橋バスターミナルから 南滙バスターミナルへ バス移動 8元、1時間半
  南滙県古城の南側の 掘割(護城河)
  古城東面の掘割 と 旧東門
  古城地区の 繁華街「東門大街」から入城 ~ 西門大街と 北門大街、南門大街 まで
  古城遺跡公園 ~ 古鐘園
  【豆知識】南滙県城(南滙嘴中后所城)の 歴史 ■■
  【豆知識】川沙県城(川沙撫民庁) ■■
  牛肚湾巡検司の 役所跡



この 恵南鎮 へは、南橋バスターミナル(上海市奉賢区) から路線バスで到着した。その乗車時間は実に 1時間半かかった(運賃 8元)。

南橋バスターミナルでは、建物の内部が左右に大きな待合スペースに分かれており、左手側は 奉賢区 から北 / 南 / 西 の三方面ルートを走行する路線バスを網羅し、右手側は東方面ルートの路線バス専用となっていた。
筆者はこの右手側の待合スペースから路線バスに乗車したわけだが、出発から 25分で 青村 を、45分で 奉城 を通過した。バスはひたすら南奉公路沿いを東進し続けた。

南滙区 南滙区

結局、南滙バスターミナル(上写真左)に到着できたのが、18:20だった。
空港行きの路線バス ⑧(乗車時間 60分強。運賃 6元)の最終発車時刻を確認すると 18:40といい(この日は日曜日だった)、乗車できる十分なタイミングだったが、南滙県城跡の見学を優先して、空港バスはスキップすることにした。

そのままバスターミナルを出て、正面の 南祝路 を南下する。
最初は、南祝路と 沪杭道路(滬杭道路)の交差点付近に見えた 浦東運河(上写真右)が古城の堀跡かと勘違いしてしまった。ちなみに、沪杭道路が浦東運河を渡る蕩湾湾橋上から撮影したもの。

南滙区 南滙区

しかし、どうやら古城地区の南岸にいることに気づき、再び南祝路まで戻って、衛星東路を西進してみる。
上写真左の 運河(衛星東路沿い)が、南滙県城跡の南面の 掘割(護城河)に相当するわけだ(下地図)。

南滙区

そして、この衛星東路と垂直にクロスする運河が、古城東面の掘割である(下写真左)。この城河沿いを散策してみようと、沿河径西路(運河路)まで下りて、北上してみた。この先に見えるネオンが光る場所が、旧東門である。
下写真右は、旧東門から南側を眺めたもの。

南滙区 南滙区

東面の 掘割(護城河)沿いはきれいな遊歩道が整備されていた(下写真)。

南滙区 南滙区

いよいよ旧東門跡地から、古城エリアに入城する。このあたりは、 東門大街 といい、現在の 恵南鎮(旧南滙区)で最も繁華街となっている場所だ。これは、古城時代に東門付近に庶民の市場が開設されていた名残という。

南滙区 南滙区

そのまま城内を進むと、東門大街の南北には 三八路、農工北路などの路地が入り組むが、なんとなく古城時代の名残かな。。。と妄想しながら西進を続ける。
そして、最初の信号を有する南北の幹線道路に行き当たる。ここから北側が北門大街で、南側が南門大街となっており、この交差点が旧古城地区の中心部に相当するわけだ(下写真)。

南滙区 南滙区

東門大街もまた、ここから西門大街へ名前を変える(下写真左)。

南滙区 南滙区

ちょうど古城地区の南西側にある 古鐘園(恵南鎮人民政府の辺り)には、城郭時代の鐘楼が残されているという。清代中期の 1726年に上海県下の長人郷エリアが分離され、南匯県が新設されると、その県城となった遅咲きの城郭都市だったわけだが、今では城壁や城門は全く残されていなかった。
最低限、古鐘園も見て回りたかったが、もう時間も 19:00を過ぎ、完全に夜となってしまい、城内散策は諦めざるを得なかった。

そのままバスターミナルに戻るも、バス・ターミナル施設自体が閉鎖されており、タクシーで空港まで向かうことにした。
当地では東門の バス停横(上写真右)に、整然と並んで客待ちするタクシー乗り場があり、非常に便利だった。タクシーに空港まで依頼し、第二ターミナルまで送ってもらう。35分程度のドライブで運賃 75元だった。
上海市内の南側から空港にアクセスすると、そもそも交通量も少ないので、高速道路をブンブン飛ばしてくれた。上海浦東空港に到着後、屋内 Wifi は国際電話でも SMSを受信して、ネット接続でき、スピードは全く問題なかった。


上海市浦東新区恵南鎮(旧南滙区)の 歴史

今の浦東新区恵南鎮(旧南滙区)は、かつて上海市下の一行政区である南滙区を形成していた(2001年1月9日~)。しかし、2009年に北に隣接する浦東新区に吸収合併されて南匯区は消滅し、浦東新区下の一鎮に落ち着くこととなる。

もともと、この浦東新区一帯が陸地化されたのは唐代初期と考えられており、西部から徐々に土砂が堆積して陸地となり、人々が居住するようになったわけである。時とともに、陸地はさらに南東方面へ拡張されていき、浅瀬の海岸線が桑畑や水田へ作り変えられていったのだった。
唐代初期まで、信義郡下で 昆山県(今の 江蘇省蘇州市昆山市。南北朝代の梁朝の治世下の 535年に新設)の管轄下にあったが、唐代後期の 751年に 華亭県(今の 上海市松江区)が新設されると、この行政区に組み込まれる。下地図。

南滙区

今の上海市は、もともと長江と 銭塘江(杭州湾)の両河口部が形成する砂州が拡張され形成された広大な平原上に立地している。
北側の長江が河口部で海水へと通じる際、海流に押される形で河水が南に方向を変え流れ出て、南側の 銭塘江(杭州湾)と 交差(交匯)し、その土砂を堆積させて陸地を出現させていったのだった。その自然砂州の巨大化作用は 2000年以上も継続され、(下地図は、紀元前 221年当時の秦の始皇帝時代のもの)、唐代にはその先端部分の海岸エリアは南滙嘴や、海曲、南沙などを呼称されるようになっていたという。

南滙区

北宋末期、金朝より華北が占領され、多くの軍民が長江以南への移住を余儀なくされる。その過程で、江東エリアの人口も激増することとなった。1127年に南宋が建国される。
南宋時代初期の 1172年、華亭県 長官の邱崇が海岸エリアの防潮堤の修理工事を手掛けており、この頃、現在の恵南鎮全体の陸地化がすでに完了していたと考えられる。

南滙区

また、当時すでに江東地区は製塩業が盛んになっており、この南宋時代に下沙塩場という監督役所が設置されることとなる。以後も、製塩業で繁栄するも、清末の 1835年ごろに古来からの製塩方法が停止されると、900年の歴史を誇った下沙塩場も廃止されるに至る。

南滙区

1279年に南宋朝を滅ぼし、中国全土を統一した元朝は 1292年、 華亭県 の北東部を分離し、上海県(現在の上海市中心部)を新設する。管轄下には 高昌郷、北亭郷、海隅郷、新江郷、長人郷の 5郷が配された。この長人郷エリアが黄浦江から東の海岸線までのエリアを指し、現在の浦東新区に相当したのだった。

元末~明代にかけて(前期)倭寇の活動が活発化すると、江東エリア(松江府 の統括範囲)は特に大きな被害を受けることとなる(下地図)。

南滙区

朱元璋が 南京(応天府)を王都とする明朝を建国した直後の 1386年、海岸エリアで猛威を振るっていた倭寇の襲来に対処すべく、当時、陸地化して地盤が固まり、多くに人々が居住していた南匯嘴エリアに、正方形型の 城郭都市「南滙嘴中后所城」が建造される。城内には役所機関が設けられ、城郭の東面の港湾地区に住民らの商業市場が配された。現在、東門エリアが商業地区となっている由来は、この築城当時の住民配置から起因している。

この時代、明朝直轄の駐留軍が配置された 金山衛(今の 上海市金山区)を中心に、上海市一帯には 6箇所の千戸所城が存在した。この南滙嘴中后所城に始まり、 青村中前所城(今の 上海市奉賢区奉城鎮)、呉淞江所城(今の 上海市宝山区)、宝山所城(今の 上海市浦東新区高橋鎮の北部)などであった。下地図。

南滙区

明代後期の 嘉靖年間(1522~1566年)には、上海県の南部エリアを分離して、新しく県役所の新設が建議されるも、上海県下の 六団村(今の 上海市浦東新区)出身の学者であった喬鏜らが強硬に反対したため、県城への昇格は見送られることとなった。



 喬鏜 (生没年不詳)と 川沙城

喬鏜は、明代の最高学府である国子監に就学し(太学生と通称される)、学者を目指した人物だったが、倭寇の襲来が激化する 故郷・上海県下の 六団村(今の 上海市浦東新区)にあって、 1553年、地元住民らを武装させて軍事訓練を施し、自衛活動を展開すべく民兵の募集をはじめる。

その本拠地を 川沙洼(今の 川沙鎮の真東に位置する港町)に開設した。地元の上海県に上奏し、海岸部に深い濠を掘削し、海から上陸してくる倭寇の侵入を防ぐことを提起すると、県に採用され、濠掘削の総責任者の任を拝命する。

その時、掘削された濠は老護塘の東側に位置し、北は 九団黄家湾(今の 上市海浦東新区高東鎮の沿海部)から南は 一団(今の 上海市南匯大団)までの全長 45 kmに及ぶ長大なもので、御寇河や備難河と通称されるようになる。
他方で、引き続き地元有志らの民兵を組織し、倭寇との戦闘を続行した。

南滙区

1555年の 1月と 8月には、民兵と官軍の増援部隊を率いて、倭寇ら千人余りを討ち取る戦功を挙げる。この勝利により、五品衔(中極殿大学士の一種)の称号を下賜された。
1557年には川沙城の築城責任者に任じられ、数か月に及ぶ突貫工事により、川沙城を完成させると、いよいよ陸の防衛戦線は強化され、倭寇はこの防衛ラインを突破することができなくなる。

南滙区

最終的に、大規模な土木工事費用の負担を嫌った地元の一派から恨まれ、死に追い込まれることとなるも、その子の乔木がそのリーダー職を継承し、引き続き、地元で倭寇戦争を展開した。

喬鏜はその死後も地元住民から絶大な称賛を受け続け、川沙城内に仰徳祠が設けられ、大事に祀られているという。


時は下って清代中期の 1724年、両江総督の 査納弼(?~1731年。満州出身の軍人)が清朝中央政府に建議し、上海県下の 長人郷(今の 上海市浦東新区)を分離して、独立県の新設を奏上する。

朝廷内での審議の結果、1726年、清朝政府により批准され、南滙県が新設される。その県城は 南滙嘴中后所城(南滙城と通称された千戸城)が援用されることとなった。このとき、上海県南部の長人郷とあわせて、下沙塩場エリアも分離されて、南滙県に組み込まれる(そのまま同じく江蘇省に帰属)。下地図。

南滙区

県城が設置されると、史上初めて住民人口調査が着手される。
1790年の記録によると、南滙県下全体で 448,338人が記録され、清末の 1862には 48万人余り、国共内戦後の 1948年には 52万と、人口の増加率は非常に緩慢だったようである。

南滙区

清代後期の 1810年、上海県と南滙県から一部が分離され、川沙撫民庁が新設される。
辛亥革命が勃発し清朝の支配から解放された 1911年、地元軍閥政権により川沙撫民庁が川沙県へ昇格され、そのまま江蘇省に帰属された(上絵図)。 1958年に江蘇省から上海市が政府直轄都市として独立すると、以後、上海市に属した。


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