BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年5月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 嘉興市 南湖区 ② ~ 区内人口 70万人、 一人当たり GDP 100,000 元 (嘉興市 全体)


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  嘉興市街地から 歴史博物館へ ~ 8番路線バス 2元(15分)
  呉越八城 ~ 春秋戦国時代、呉越両国が 激突した古戦場と 軍事拠点遺跡
  低湿地帯の広がる 江南地方で発展した、農村の 外周堤防「囲田(圩田)」文化
  嘉興鉄道駅前から 嘉興市バスターミナルへ ~ 19番路線バス 2元(35分)
  上海浦東国際空港から 嘉興市へ ~ 空港バス 70元(2時間)
  嘉興市バスターミナル近くの 馬家浜古代遺跡公園を訪問する
  華麗なる 八佰伴(ヤオハン)商業モールと ”長屋”集落「三塔里」との 残酷なる対比
  真っ黄色の 社殿「血印禅院」と 血の石柱 エピソード
  隋代からの 京杭大運河を「歩く」!
  【豆知識】岳王祠(岳飛)と 岳家子孫のその後 ■■■
  京杭大運河の急カーブと、難所の 守護神「三塔」
  范蠡湖公園の 命名エピソード ~ 越の宰相・范蠡と 絶世の美女・西施
  古城時代、岳家の邸宅があった 旧「金陀坊」地区から、嘉興北バスターミナル へ
  古城外の 北堀(京杭大運河)沿いに発展した 交易集落地区「月河歴史街区」



この日、ホテル前の禾興南路沿いにある バス停「小西門横街」で 8番路線バスに乗る(2元)。15分ほどの乗車で バス停「市博物館」にて下車した(下路線マップ)。
嘉興市博物館は南湖エリアの南隅に位置していた。なお、広々とした 南湖公園(南湖景区)内には 寺院や 廟所、美術館、図書館、市役所、革命記念公園 などが点在していた。

南湖区

嘉興市博物館(開館時間 9:00~16:30、昼休み無)の建物はかなり新しく、周囲の外壁などは未だに整備工事中なぐらいだった。
館内はかなり広く清潔に管理されていた。 1階は古代遺跡関連で、2階 が春秋戦国時代以降の歴史展示スペースだった。呉越間の戦いに関するエピソードに、かなりのスペースが割かれていた(下写真は呉越八城と呼ばれる、両国の激突した古戦場と 軍事拠点遺跡群)。

南湖区

ここで、県城にもなれなかった田舎町の 乍浦所城 が、なぜあれほどに巨大な城域を有したのかを考える材料として、非常に参考になった模型があった(下写真)。

囲田もしくは、圩田という、主に大河の河川沿いや湖水地方など海抜の低い湿地帯に堤防を築き、それで外周を取り囲んで田畑を開墾した土地利用手法である。

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全長数キロ単位の長大な外周堤防には出入口が数か所、設けられており、まさに巨大城郭の規模に匹敵するものだったという。

もともと、この農村地帯を取り囲んだ外周堤防が乍浦鎮付近にあり、海上交易集落として栄えた乍浦港をも内含する形で、明代に巨大な乍浦所城の城壁へと大改修されたとするならば、説明の合点がいくのではないか。。。と妄想した次第である。

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この外周堤防による土地開墾手法は南北朝時代から始まり、唐代には広く各地で利用されていたという。
しかし、外周堤防(土塁)の建造には莫大な費用がかかるため、一般の農民らでは負担し切れなかったわけで、行政機関や地元の有力地主などが費用を投資していた。

水辺の湿地帯や沼地をも取り囲んで農地を開拓していったため、多くの土地はもともとは水底であったこともあり、肥沃な土壌がもたらす農業生産効率は高く、整備に必要な投資財力と豊かな湖水地方を有した江南地方の土地生産力は飛躍的に上昇することとなる。
かつて浙江省内の米生産高の 40%を嘉興市一帯だけで賄ったいたほど豊かな土地柄だったという。

五代十国時代、南唐や呉越国はそろって自国領内にこうした外周堤防の 田畑(囲田)を建設し、中華全土が再統一された宋代に、この耕作手法は全国へ拡散されていったという。

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清末のコーナーでは、平湖市の旧市街地に残る 募氏邸宅(入館料 28元)の 解説・模型も展示されていた。

また、太平天国の乱では嘉興府城も占領され、直後に城内で大虐殺が行われたようで、人口が激減した統計資料が印象的だった。
博物館 の見学終了後、そのまま嘉興鉄道駅までバス移動した。

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嘉興鉄道駅前のバスターミナルでは、始発駅とする多くの路線バスが発着していた。このうち、昨日に上海浦東空港より到着したときに利用したものと同じ 19番路線バスに乗車し、市南郊外に立地する 嘉興市中心バスターミナルを再訪問してみた(約 35分)。2元



 上海浦東国際空港から空港バスで嘉興市へ

前日の 14:00過ぎ、台北 から上海空港に到着した。イミグレ通過後、14:50にターミナル② を出た。
そのままターミナル① の下にあった 長途汽車駅(長距離バスターミナル)を目指す。 15:00、乗車券売り場で嘉興市行のチケットを買う。
ここの人たちは皆、一様に親切でチケットや道順を詳しく教えてくれた。そして、15:10 発のバスに乗車し、5分遅れで発車した。50人乗りぐらいの大型バスに、乗客は 8名程度で、かなりガラガラだった。

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ここから 2時間、車窓には延々と江南地方の水郷農村風景が続くこととなる。上海市と浙江省との省境にある、高速道路上の検問がやや物々しかった印象を受けた。

上海市 や浙江省の農村エリアは 3階建ての巨大な洋館風の家屋が多く、他省に比べてもリッチな土地柄を印象付けられた。浙江省に入ると、やや低層な農村家屋も目立つようになるが、やはり豊かな江南地方に変わりはなかった。

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17:10 過ぎ、嘉興市中央バスターミナルに到着した。
下車後、ターミナル内の売店で地図を買う(8元)。そして、館内にあった地元情報や路線図などを調べた後、17:30に 19番路線バスで嘉興鉄道駅西行きに乗車した(2元)。

嘉興市内の路線バスは、一律運賃 2元と決まっているらしい。地元バスカードや微信アプリをダウンロードしてカード決済にすれば、運賃は 1元となるようだった。学生カードは 0.5元 だった。

19番路線バスは基本的に、途中で紆余曲折はあるものの、越秀南路をずっと北上するルートだった( 97番路線バスは昌盛中路沿いを北上するなど、路線バスごとに市内中心部へ向かう幹線道路ルートが異なるようだった)。市内南部に職業専門学校などがいくつかあるらしく、若い学生たちがたくさん乗車してきた。ちょうど、平日夕方 18:00前とあり道路が混雑して、京杭大運河周辺の橋はなかなか渋滞していた。

京杭大運河を越えた次のバス停が、八佰伴(ヤオハン)ショッピングモールだった。
日本の ヤオハン・グループは 1997年9月18日に倒産したが、日本国内店舗はイオングループが継承し、世界 16か国合計 450もの店舗網は強制清算が進められるも、中華圏ではマカオの 新八佰伴(ニューヤオハン)、上海第一八佰伴、そして 八佰伴中心(江蘇省無錫市)として、ブランド名だけを継承した別企業が同様の小売り業を展開し続けることとなった。つまりは、日系資本とは無関係な完全なる中国内資企業である。そのためか、日本式の百貨店というより、ユニクロ、スタバ、味千ラーメンなどが入居する巨大ショッピングモールのテナント運営会社といった印象だった。

そのまま越秀南路を洪興路で東進し、ここから古城地区に入り、禾興南路を南下して、この途中で下車した(電力博物館前)。ちょうど 巨大ショッピングモールの旭輝広場 が立地する中山東路との交差点エリアだった。とりあえず、街のど真ん中なら、何らかのホテルが見つかるだろう、という安易な考えだった。

そして、周囲の 7天ホテルや如家ホテルなどのチェーン店を回るも、いずれも外国人には対応していない、とのことで拒否される。最終的に、 億(e)代酒店 に宿泊することとなった。

ある程度の値段を覚悟して ホテル・フロントに出向き、一番小さい部屋でいいと言うと、一泊 129元で OKとなった。部屋の広さも、ベットのサイズも、普通に日本のビジネスホテルより十分にゆったりしていた。朝食付といい、朝食券をチェックイン時にもらった。翌日以降は毎日、掃除のときに係の人が部屋に入れてくれる仕組みだった。

なお、もし上海から高速鉄道を利用して嘉興市を訪問される場合は、高速鉄道「嘉興南駅」前のバスターミナルから 93番、もしくは 8番路線バスに乗車されると、一気に嘉興市中心部まで移動できる(2元)。40分。



この嘉興市中心バスターミナル付近に 馬家浜古代遺跡公園 があるというので、徒歩で訪問してみることにした。
バスターミナルで客引きしていたバイクドライバーに料金を確認すると、7元という。とりあえず、地図上では近かそうに見えたので、徒歩で行ってみることにした。

バスターミナル横の 巨大産業道路「万国路」を渡り、しばらく誕堂路を前進だけの単純な道順だった。この万国路と誕堂路との交差点に、三陽精工(本社:大阪市)の工場があった(下写真左)。日系企業が頑張っている様子に勇気をもらう。

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広大な敷地面積を有する工場群の間に残る、農村風景が印象的だった(上写真右)。かつての江南地方の水郷エリアは、どこもこんな感じの水辺が続いていたのだろう。。。

古くから、こうした水脈が一帯に広がっていたわけで、古代人らは船で海や河川での漁業に従事しつつ、また狩猟採集にも適した温暖湿潤の気候に魅せられて、早くから文明圏を形成させ易かった土地柄なのだろう、と推察できた。

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そして、長い一区画を歩き切ると、森林地帯が現れる。ここが遺跡公園という。ちょうど、筆者が訪問した 2018年5月当時、巨大博物館の建設工事中だった。下写真。

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公園内に入ってみるも、実際には リクリエーション・パークという様子で、野外バーベキューと釣り堀、乗馬クラブなどがあるだけだった。

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釣り堀では、どこかの団体が同じゼッケンをつけて、男達だけで魚釣り活動を行っていた(上写真左)。担当者がマイクで大声をはりあげて指示していたのが印象的だった。子供のころの学校行事を思い出してしまった。

遺跡発掘の展示などを期待していた筆者は当てが外れ大きく落胆したが、「原始人バーベキュー」の看板を撮影できたので、とりあえずは一矢報いた思いである(上写真右)。この命名センスはしっかり大陸中国風で、気持ちがほっこりした。
後方の緑地では、馬が放牧されていた。

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1959年2月、地元民が農作業で土地を掘り起こしていた最中に、大量の動物の遺骨と新石器時代の墓地や生活遺物が出土すると、同年 3月以降、浙江省と杭州大学が共同調査を主導し、本格的な発掘作業がスタートされる。2001年6月25日、中央政府によって国家級古代遺跡に指定される。

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こうして政府レベルで定義された馬家浜文化は、7000~5800年前にあった新石器時代の古代文明の一時代を総称したもので、それらの遺跡群は 浙江省、江蘇省一帯に広く分布している。各種の土器や稲作文化の遺物なども発見され、一帯に張り巡らされた水路を農業用水化した土地開墾も行われ、狩猟採集活動とともに、一定の定住生活の跡も確認されているという。

この古代文明は、河姆渡文化(今の 浙江省寧波市余姚市)と、崧沢文化(5800~5300年前)と 良渚文化(5300~4200年前)との間に位置する一時代で、これらの古代文明遺跡が浙江省で相次いで発掘されて以降、黄河流域だけでなく、長江流域でも古代文明が発達したことが証明されたのだった。特に、長江流域で最古を誇る 羅家角文化(今の 嘉興市桐郷市 石門鎮顔井橋村羅家角村民組)では、すでに人の手による稲作活動が確認されており、ここから 2000年間が新石器時代と定義されている。

この長江古代文明圏の一時代を形作った馬家浜文化であるが、この馬家浜郷で発掘されたために、この地名が冠されたのだった。嘉興市内の各地の博物館 ― 桐郷博物館海塩博物館海寧博物館平湖博物館 など ― では、いずれもこの古代文化に関する言及が見られた。

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さて再び、嘉興市バスターミナルに徒歩で戻り、191番路線バスに乗って嘉興市中心部へ戻る。
昨日、気になっていた越秀南路沿いの 八佰伴(ヤオハン)ショッピングモールで下車してみた(下写真左)。
ここから徒歩で、京杭大運河まで戻ってみる。

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運河沿いは旧集合住宅が集まる「三塔里」と呼ばれる地区で、いい雰囲気を醸し出していた(上写真右)。地元の男性が水着姿で屋外で体を洗っていたり、若い男が野良犬を蹴っていじめていたり、年配の女性が入口外で炊飯をやったりと、人々の生活臭が充満し、青空市のごとく曝け出されていた。日本でいう、長屋の生活風景が今もここにあった。

すぐに越秀南路から京杭大運河に至る。この越秀橋上から運河を撮影してみた。下写真
ここから北へ航行すると長江沿いの 鎮江市 へ、反対の南側には 杭州市 へとつながっているわけだ。
運河沿いには、黄色で全面を色づけされた血印禅院という寺院が目立っていた(下写真)。

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血印禅院という名は、やや物騒な印象を与えるものだが、これは明末に当地で起こった悲劇の民間伝承に由来しているという。
1645年、清軍が嘉興府城に攻め寄せてくると、城内は 略奪・阿鼻叫喚の大混乱に陥る。そんな中、現在の血印禅寺の敷地をも網羅する広大な境内を誇っていた 岳忠武廟祠(下解説参照)に数十人の婦女が逃げ込んでくる。
当時、境内に設けられていた禅寺の住職だった和尚が何とか彼女らを救済しようと匿うも、清軍に発見されてしまう。清軍に捕らえられた和尚は花崗岩の石柱に縛り付けられ、一斉に矢を放たれ重傷を負わされた後、焼き殺されたと伝えられている。

境内には赤いシミが残る石柱があり、和尚の体から流れ出た血が石柱にしみ込んだもの、という伝承から、中華民国時代の 1925年、当地に禅寺が建立されると、血印禅院と命名されたのだった。
後世になって血印石柱は、境内から寺の門前に移築されたという。
それが、ちょうど下写真の寺院入口前に見える石造りの門構えである(血印のシミも見える)。

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なお、現在も僧侶の姿に見える赤いシミであるが、実際には花崗岩から生じる紅褐色の天然の模様であることが判明しているという。このため、上記の伝説が本当かどうかまでは確認することは不可能となっている

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そのまま橋下に下り、運河沿いの遊歩道を歩いてみることにした(上写真)。

この遊歩道はとてもユニークで、水上 20 cm ぐらいの地点を歩くこととなり、まさに水面ギリギリを歩いている感覚に浸れる、とても工夫された遊歩道だった。当然、雨で増水すれば使い物にならなくなる。
この水路こそ、京杭大運河なのだが、感傷に浸る間もなく、脇の三塔路沿いの 岳王祠 を通過する。



 岳王祠 と 岳家子孫のその後

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華北を占領した金軍と死闘を演じた、南宋の 名将・岳飛(1103~1142年)は最後、極刑により非業の死を遂げるが、その子や家族は罪に問われず、そのまま存命が許されることとなる。

岳飛ら武闘派を粛正し、金朝へ譲歩に譲歩を重ねて戦闘を回避しつつ南宋朝廷を牛耳ってきた 宰相・秦檜が 1155年に死去すると、すぐに、汚名を着せられ 追放・粛清された武闘派の忠臣らの名誉回復が進められることとなる。

岳飛が刑死した当時、まだ 12歳だった岳飛の 子・岳霖(1130~1192年)は成長し、 1163年に右承事郎として中央朝廷での出仕を許可される(33歳)。その後、中央政界では兵部侍郎などの要職、地方では広東経略安撫使などを務め、南宋朝廷内での岳家の影響力上昇に寄与した。その政務の傍ら、父・岳飛の遺書や遺品整理を精力的に行う。

その次男の 岳珂(1183~1243年)も 父・岳霖の整理作業を引き継ぎ、岳飛関連の調査を行いつつ、1205年に科挙試験に合格し進士になると、同じく中央政界に出仕することとなった。
1217年10月、岳珂は嘉興軍府内の政務官として派遣され、当地に赴任してくる(それまで、岳家は 王都・臨安 に居住していた)。
彼は自身の邸宅を、嘉興城内の南西部にある金陀坊という 地区(現在の楊柳湾路沿いの 嘉興市実験初級中学の校舎あたり)に構え、以後、終生の住みかとする。その後、彼は戸部侍郎、淮東総領制置使などを歴任し、他都市へ赴任するも、この金陀坊の邸宅には家族や親族らが住み続け、以後、彼の末裔は嘉興城内の地元名士として君臨していくこととなった。

この嘉興軍府に勤務中、岳珂は父から継承した 祖父・岳飛の資料整理を終え、その功績を伝える 伝記『金陀粹編』を朝廷に上奏する。その題名は、彼が邸宅を構えた金陀坊の地名が冠されていた。
なお、一部の歴史家からは、岳珂によってまとめられた 祖父・岳飛の活躍話はかなり誇張された部分があると指摘されるも、基本的に大陸中国で関羽と並び、高く評価される忠臣英雄のイメージがこの時に確立されることとなったのだった。
また 1225年ごろ、岳珂は自身の宅地内に岳氏家祠を設置し、岳飛をはじめ、一族を代々祀るようになる。これが今に続く岳王祠の発祥であった。このとき、自らが鋳造した 銅爵(直筆の文言「精忠報国」の刻印あり)も奉納していた。

時は下って、明代後期の 1600年ごろ、岳飛から数えて十八世孫にあたる 岳元声(1557~1628年。自身も科挙に合格し進士になった国家官僚)ら三兄弟が、宅地内の岳氏宗祠が手狭になってきたため、嘉興城外の南西部にある三塔塘の西隣に移築し、京杭大運河沿いの土地に新たに 岳氏宗祠(岳忠武王廟とも通称されることとなる)を建立する。この時、南宋時代に岳珂が奉納した銅爵も移動され、奉納されたという。
その広大な敷地内には小さな禅寺も設けられ、以後も引き続き、岳家一族の手により、岳王祠内で春秋の例祭が執り行われ続ける。

しかし、明末の 1645年、清軍により嘉興府城が総攻撃され、城内外で大殺戮が行われる中、岳氏宗祠も焼失してしまったという。

その後、しばらく再建されることなく放置されるも、清代中期の 1740年ごろ、岳飛から数えて二十三世孫の岳建鑒が岳氏宗祠の再建を決意し、実に三十年以上もの働きかけが実って、ついに 1787年、もともとあった広大な岳忠武王廟の敷地の右半分を使って岳王祠を再建することに成功する。

このとき、一本松のように高くそびえ立った宗祠の本殿を取り囲んだ壁の正面には赤文字で大きく、「精忠報国」と記されていたという。
史書によると、その境内はやはり広大で、正殿、寝殿、東西偏殿 が建ち並び、岳飛の祖父母をはじめ岳飛の夫婦、その子女や配下の部将らがまとめて合祀されていたという。
さらに傍らには、岳家の支祠もあり、岳珂及び嘉興城内の岳家一族男子らも祀られていたのだった。このため、この岳氏宗祠は岳家の邸宅住所の地名をもじって金陀祠とも通称されたという。

なお、岳氏宗祠という名前の通り、この岳王祠は元々は、岳家の祖先を祀った私的な廟所で、あくまでも公的な意味を持つものではなかったが、中国史上の 英雄・岳飛を祀った廟所であることと、嘉興城内の名家であった岳家が手厚く保護してきたため、800年近い歴史の荒波を乗り越えて、今日まで継承し得たのだった。

特に、貴重だった最古の 奉納品・銅爵は岳飛の 孫・岳珂が自ら鋳造したもので、その歴史価値も重要だったわけだが、南宋滅亡後、この銅爵は幾度も紛失されては、また元に戻されてくるという、危うい運命を乗り越えてきたのだった。
この銅爵は清代後期の 1840年ごろ、岳王祠内に確かに奉納されていたことが確認されていたそうだが、日中戦争前に 杭州 へ移送されて以降、戦争の混乱の中で喪失されてしまったという。

その前に、1860年の太平天国軍による嘉興府城の占領と大殺戮のあおりを受け、岳氏宗祠は再び焼失されてしまうも、1870年に一族の岳鴻翔と岳彤らが、再び、岳氏宗祠を元の場所に再建するも、その規模は以前のスケールとは程遠く縮小せざるを得なかったという。

日中戦争を経て、1940年代には岳氏宗祠とその敷地は廃墟と化し、そのまま 1960年代まで放置され、文革時代には家畜牧場へと変えられてしまったという。 1970年代には、当時あった嘉北郷政府により全敷地が没収され岳氏宗祠の建物遺構なども完全に撤去されると、その上に郷衛生病院が建設される。同時に、岳氏宗祠の礎石類は付近の三塔村に開設された瓦筒工場の建物素材に転用されてしまう。
その後も、この建物礎石は今の吉水中学の西面の壁外に放置され続けることとなり、心ある多くの文化人らが地元政府へ岳王祠の境内への再移転を何度も申し出ているという。

なお清末以降、岳家の末裔らは離散し、今の嘉興市秀洲区王店鎮旧岳村や 嘉興市桐郷市濮院鎮、安徽省合肥市下の 3県に散らばって存続し、現在、1万名近い子孫の存在が確認されているという。



そして、三塔が立つ范蠡湖公園まで歩いてみた(下写真)。
古代、ここはちょうど運河が 90度、垂直に曲がるポイントにあったため、航行する船舶の安全祈願、および操舵上の目印ポイントという意味で、三つの塔と茶禅寺が建立されたという。三塔脇に現存する南無阿弥陀仏の石碑はこの禅寺の遺構だろうか(下写真右)。

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三塔はもともと唐代に設置されたもので、以後、度々の修復や建替え工事が施され、最後に 1876年、7階構造の三塔に再建されたものを 1999年に修復して今日に至っている。中間のものが最も背が高く、約 15 mあるという(下古写真)。いずれも、人が上まで登頂することはできないが、各階に鉄製の仏像が祀られていた。

伝説によると、ここはもともと白龍澤という沼地があり、水深が深く、流れも急で、度々、船事故が発生していた。
唐の高僧である雲行雲がここを巡遊した際、航行の安全を祈願すべく、沼を土砂で埋め立てて、小さな塔を 3つ設ける。運河上の船乗りたちはここで 3つの塔を見た時、船の操作に注意を払うようになり、操舵士たちの目印となって事故減少に大きく寄与したという。

上写真右や下古写真に見える、塔前の 2本の石柱であるが、これは船舶が塔と接触するのを防ぐ目的で設置されていたもので、案の定、石柱には大きな擦り傷が複数に残っており、船引きの労働者らが間違って遠巻きに船を引っ張った際についたものという。

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また、この三塔が立つ范蠡湖公園であるが、その名を冠された「范蠡」とは、春秋戦国時代に越国の宰相を務め、臥薪嘗胆の骨肉の争いを制して呉を滅ぼした(紀元前 473年)立役者とされる人物である。 越が呉領を併合した後、傲慢となった 国王(勾践)を前に身の危険を感じ、越国を脱出することとなる。この時、絶世の 美女・西施とともに脱出したとも、共にしばらく、この嘉興の南湖のほとりで隠遁生活を送ったとも言われる。その隠遁生活中に西施が南湖に落ちて死亡したという伝承から、湖脇に西施冢が立てられたという。その由来で明代には既に范蠡湖と命名されていたのだった。
現在はかなり埋め立てられてしまっているという。

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范蠡湖公園内であるが、片面は欧米スタイルの芝生風の公園で犬の放し飼いが似合う場所だったが、道路を挟んだ対岸側は、大陸中国によくある典型的な庭園風の公園となっていた。
ここでは地元 34傑と銘打って、近現代 100年間の地元出身の偉人らが遊歩道沿いに掲示され紹介されていた(下写真左)。

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そのまま范蠡湖公園を後にすると、環城西路に出る(上写真右)。西面城壁が連なっていた場所で、明代、この付近に岳家の邸宅があったわけだ(下地図の楊柳湾路あたり)。

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ここから、 古城地区の 南北メインストリート「禾興南路」まで東進し、バス停「市社保険局」で ⑧番路線バスに乗車して終点の嘉興北バスターミナルまで北上してみることにした(上地図)。

嘉興北バスターミナルの周辺は一気に都市郊外といった趣で、屋外市場や移動客などがごった返して雑然たる風景が広がっていた。

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再び、ホテル側へ戻るべく、嘉興北バスターミナル前のバス停から 8番路線バスに乗って南下する。

途中、気になっていた古民家群が集積するエリアがあったので、バス停「嘉湖骨科医院(月河歴史街区西)」で下車してみる。少し徒歩で南下を続けると、古城北の掘割沿いに古い町並みが保存されていた。時代劇の撮影にも使えそうなぐらい、リアルな古民家群だった。下写真。

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この北面の掘割は古城西面から続く京杭大運河で、往時より多くの船舶がここを通過していたわけである。
清代中期の 1700年代以降に、この京杭大運河の北岸沿いに商家が集う集落地が形成されるようになり、これが月河歴史街区の誕生となる。

京杭大運河に接続するように他に二つの 運河(外月河と里月河)が北に平行して伸びており、その各運河沿いに三つの 街道(中基路、墵弄、秀水兜街)が形成され、商売地区が拡大されていったのだった。
現在、この歴史保存地区内では 江西会館、金魚院、大昌当舗、嘉禾水駅、高公升醤園、財神堂 など 6箇所の見所が指定されているという。

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清代より最も繁華街ストリートだった中基路の中央にはスターバックスも出店されていた(上写真)。夕刻の時間帯、多くの地元民たちがショッピングや散策を楽しんでいた。

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中基路から荷月橋を渡って、旧掘割(京杭大運河)を南下し、古城エリア内に戻ってみた。上写真。
そのまま、たくさんの飲食店が軒を連ねる華やかな少年路を南下し、中山東路からホテルに戻った。


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