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涪城区
訪問日:2014年6月上旬 『大陸西遊記』~
四川省 綿陽市 涪城区 ~ 市内人口 544万人(市街区 127万人)、一人当たり GDP 32,000 元
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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綿陽古城(涪県城)
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富楽山と 涪城会(劉璋が 最初に劉備を接待した場所)
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平陽府君闕(後漢時代の 墳墓跡)
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蒋琬墓(三国志遺跡)
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越王楼(綿陽市街区の 象徴)
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大学生たちの 家庭教師バイト探し
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ハイテク・トイレ
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南湖公園 と 綿陽空港
劉邦の 前漢時代(紀元前 201年)に広漢郡が設置されて以来、綿陽市は 2200年の歴史を誇る街である。ここはかつて、「涪県」と呼ばれていた。
紀元前 106年、この広漢郡はその郡役所を 雒県(今の
広漢市
)から
梓潼県
へと移される。 そして、後漢の115年、少数民族反乱に対処するため、益州首都機能および広漢郡役所は 涪県(今の綿陽市)へと一時的に疎開され、 益州都としての役割も司っていたこともある。乱の平定後、再び、全機能が転出されてしまったようである。
三国時代、劉備の蜀建国後の 217年、広漢郡の北側が分離され、梓潼郡(群役所は梓潼県城内に設置)が新設される。 さらに 225年、蜀は広漢郡の残りの部分を、東西に分割する。新設した東広漢郡の郡役所は雒県に設置された。 蜀滅亡後、梓潼郡と東広漢郡は廃止され、再び、広漢郡に統一される。
その後、晋や五胡六国時代の戦乱の中、行政区が度々変更される。隋代以降にようやく、 益州地方に平和がもたらされることとなった。
これ以降、涪県は「綿山の南」に位置するということで、「
綿陽の地
」と呼ばれるようになったようである。唐代の 詩聖「李白」は、この綿陽出身。
かつての 綿陽古城(涪県城)については、かつての城壁跡は残されていない。
しかし、ネット上で新聞記事を発見した。それによると、2006年8月中旬ごろ、実験小学と原乳メーカーの食品工場の中間部分を分離する壁の箇所から、 完全な姿の古城壁の 石垣(49 m、高さ 5.7 m、矢打ち壁 1 m、40 cm、広さ 30 cm)が発見された。
このとき発見されたものは、秘密結社化した「白蓮教」の反乱軍が綿州攻撃を計画しており、これに備えるべく、 清代 1800年に、当時の綿州知事が百姓らに命じて修繕させた城壁跡であるという。 わずか 40日で 2.8 kmにも及ぶ城壁の補修を完成させたという。完成当時、城壁の高さは、5.7 m、断面の長さは下辺 9.6 m、上辺 4.2 mで、 5つの城門を持ち、5つの砲台を有するものであったという。
当時の城壁は、涪江三橋から南河路交差点までの一環路南段上、全長 300 m強あったが、 20世紀後半の都市開発の中で、邪魔ということになり、完全に撤去されたという。
この 2006年に発見されたという城壁は、学校内部にあり、通常では見学不可能なようだ(おそらく、かつての実験学校は古城跡東側の一環路南段沿いにあったのだろうが、現在は南側へ移転されている)。
ちなみに、旧城壁都市内でもかつての路地を名残とする名称が複数あった ー 「涪衛街」「順城街」「南河路(かつての堀川跡)」「北街」「西大街」「文廟街」「油房街(古城外南西にあり:油の取扱い路地で火事対策のため城外に設置されたのであろう)」。 ちょうど、古城都市の北側に出っ張る部分があるが、ここは路地名からして、かつてより庶民の市場や生活の場所であったことが推察される。特に、中心通りの 一つ「警鐘路(日本語では『警報通り』!)」 西半分は、今でもごちゃごちゃっとした路地裏街となっており、かつての名残を感じる。
さて以下は、
三国志エピソ-ド
。
211年、劉備軍は涪江をさかのぼる形で、2万の軍勢を率いて荊州より蜀入りし、最初に益州牧の劉璋に会ったのが、この綿陽市、かつての涪州の地である。劉璋が涪州城外の東岸にあった富楽山の上で、 酒盛り会を開いた。このとき、劉備の魏延と劉璋の張任が剣の舞を披露するなどで、 一色触発の酒宴とった(世にいう、涪城会)。 ここから 3年後に、劉備は蜀を奪取すること になる。
この富楽山は今日では、完全に レクリエーション・パークと化しており、 青少年センターや動物園まで開設されている。この公園の入り口には、忠義園という入り口広場が あり、ここに 劉備、関羽、張飛の 3人の巨大立像が訪問者を出迎える。「三国時代」の スタートともいえる桃園の誓いを表現しているようである。
上写真右は、公園の中で発見した「木牛馬(??)」。10元で乗れる子供用の乗り物。。。
この涪城会の翌年には、劉璋との対立が決定的となり、劉備軍が成都へ向けて進軍する際、 葭萌关という場所から出撃して、 この張任が守る涪城を 攻略(張任らは雒城まで撤退)し、 そして、さらに南の成都へと兵を進めることになる。その後、地元の人々は、ここで劉備が酒宴の接待を受けて、 そして蜀の地を収奪する様をもじって、この山の名前を、「富楽山」と呼ぶようになった、 ということである。この山には、「皇叔湖」なる池も残っており、蜀皇帝・劉備にちなんでいる。 冷源洞という石製の洞穴は、劉備が当時、避暑として使ったらしい。
この富楽山の対岸へ芙蓉橋を渡ってみると、ここ「芙蓉漢城」地区一帯は、 観光地化をもくろみ、伝統的な中国風建築を外観とする商店街が配せられていた。
さらに、芙蓉橋の付け根の広場には、三国志エピソードの石碑が複数、飾られていた。
時は下って蜀末、 諸葛瞻らの蜀防衛軍はここ涪城に寄って進軍する 魏軍・鄧艾の先方隊を打ち負かしたが、 その後、この地を放棄して、綿竹城へ戦線を後退させている。
そもそも、この 綿陽(涪城)は 成都~剣閣までの益州北部の移動ルートの要衝であり、 蜀漢は綿陽なくして存在し得ず、と言われるほどのロケーションにあった。 諸葛瞻らがここを死守しなかったことが蜀の滅亡を早めた、という説も多い( もしここに籠城し堅守して、剣閣守備の姜維たちと挟撃できていたら、蜀滅亡は あと数年遅れ得たかもしれない)。
また、この綿陽の地には、蜀宰相「
蒋琬
」の墓所がある。 246年にこの地に赴任中に死去する。この前後、持病があったこともあり、
漢中
に姜維を配置して対魏最前線を任せ、自身はその後背地にあたり、蜀桟道 (剣閣~漢中へ)の入り口として 戦略拠点(蜀の咽喉元、といわれた)であった 涪城に駐屯していたようである。その死後、守護神として涪城を見下ろす 山上に葬られたのであろう。ここから眺めると、涪城(旧綿陽古城)は、 ちょうど人民医院のビルが見える一帯である。 同じく山上にある漢代の 文学者・哲学者・言語学「子雲(前 53年~18年)」の墓所に設置された 楼閣(1988年建造らしい。板敷きでいつ底抜けするか。。。。やや危険)から、市内全域が見渡せた。 この西山公園へは入り口は 2つ、南ルートは遠回り、東ルートは最短距離。
ちなみに、綿陽市のすぐ北西部には、「北川姜族自治県」という場所があり、 三国時代でも時折、その存在が出てくる山岳系民族の末裔たちが居住しているのであろう。地図からすれば、本当に蜀や漢中に接する地域であったようで、 時に友好関係、時に敵対関係となったことであろう。
また、直接的には三国志エピソードには出現しないが、
後漢末
~蜀漢時代(150~250年ごろ)に造営された、お墓や 宮殿、居所、祠等の入り口に設置されていたと見られる「平陽府君闕」は、富楽山の 対岸「芙蓉漢城」地区一帯にある科学技術館の入り口広場に展示されている(写真左)。柱の高さは 5.45 m。左右両柱の差は 26.2 m。騎馬像、生活風景の画像が彫られていたようである。この配置や模様によって、身分等を表現したと考えられている、とのこと。 写真右はこの敷地に建てられた 科学技術館(でかっ、)!入館有料。
また、四川省第二の都市だけあって、市街地エリアは広い。
2006年
の四川大地震の復興事業ということもあり、中央政府が主導して不動産や交通インフラ関連の投資が行き届いているのだろう、市内の広範囲にわたって、都市整備やマンション開発が進んでいた。
また、綿竹~綿陽の一帯は、元来、中国の核研究施設が多く集まるエリアでもある。当然、地元政府は、中央政府から多額の補償金を得ていることもあるだろう。
写真左は 綿陽鉄道駅、写真右はこの街の シンボル「越王楼」。何やら「22世紀の近未来型アジア系ビル」といった形容が似合いそうな印象。この楼閣は、夜には天井や屋根が赤色にライトアップされ、下側の壁面全部が黄色くライトアップされ、まさにアジア系近未来ビルを彷彿とさせる演出のような感想を持ってしまう。
以下、街中で発見した
おもしろ
光景集。
写真右の 郷村基(CFC)は、ケンタッキー(KFC)をかなり意識した名称であろうか。容易に KFCを連想させられる名付け方だった。このチェーン店は、四川省や
重慶市
内などで多数展開されている。
ここは店内での食事方法はユニーク。ドリンク、ご飯のおかわり自由。安い定食は、17元~ある。お持ち帰りは、+0.5元、要。自分でドリンクをくんで飲み物も持ち帰る。
街の繁華街では、「家教=家庭教師します!」の A4一枚のビラをもった学生らが座っていた。アルバイトを探すのも、大変だ(下写真左)。
また、中国のどの都市とも違う綿陽市の特色を挙げるように言われたら、間違いなく
公共トイレ
のハイテクさ、であろう。 ここの公共トイレは全面ガラス張りで非常に清潔。 長虹集団の大通りと人民公園の公衆トイレが最新式だった。
まるで、デザイナー系事務所ビル or カフェ の様相を呈していた。
下の写真は衛生街の一角。この 古本屋(写真右)は書籍以外にも、銅像、椅子、屋根瓦、木製装飾品など、骨董の中古品をなんでも扱っていた。。。。写真左はその向かいにあった、「なぜか」ケーキ屋さんやパン屋さんが集められたおしゃれな一角。いや、この通り、本当にこれだけしかなく、決して繁華街の一角でも、若者が集う通りでもないんですが。。。
シンガポール系資本 Capital City Asiaの ショッピングモール「凱徳広場」は大繁盛であった。テナントに 味千ラーメン、ウォルマートが入る。 1F奥の食べ放題の ステーキ・レストランあり。お手頃で、腹いっぱい食べられる。
2014年6月現在、さらに拡張工事を進めていた。アジアや欧米等へ果敢に投資しているようで、大々的に宣伝されていた。
綿陽空港近くの南湖公園側にあるホテルに
7天酒店
に宿泊した。
ここの 7天酒店は完全に、元ラブホテルでした、という趣である。 このホテルチェーンは、全国各地で加盟店を募集しており、この元ラブホテルの社長もこの地域でいち早く、加盟したのであろう。 このホテルの社長は体格のいいおばさんであった。ヒマな従業員にフロント脇でマッサージさせていた。
部屋のベットは丸く、巨大で、シャワーは二人用、そして夜食やいろいろ選べるコンドームなど(有料商品がこれでもか!というぐらい設置されていた!)、至れり尽くせりの 7天ホテルであった。。。。入り口 ロビーも、いろいろおしゃれな置物がたくさんある。きっともともとオープンしてもあまり客が入らず、周囲にも同様なホテルができてきて、早々とチェーン店に加盟したのだろう。
ここからタクシーで 5分ほどの距離にある綿陽空港。このホテルに泊まっていても、小型の飛行機、および、プライベート飛行機みたいな小さなものが頭上を通過していた。1時間に 2~3本ぐらい。
なお、この南湖地区だが、まだまだ農村から急に開発された感が漂っており、きれいに整備された歩道脇で、元農民の方々が勝手に菜園していた。。。
綿陽市には、長距離バスターミナルが 4つある(客運汽車駅、平政、富楽、南湖)。 それぞれのバスターミナルから、専用で東西南北の各方面へのバスが出ている。なので、北側のターミナルへ行ったら、南方面行のバスは全くない。南湖バスターミナルヘ行けと言われるだけ。事前に、行く場所を決めておいて、バスターミナルもチェックしておくこと。 中国は街自体が巨大な分、バスターミナル間移動だけでも時間と手間がかかる。。。。中国の他の都市ではこのような仕組みは取っていなかった(どのバスターミナルでもだいたい各方面行きのバスあり)が、四川省独特の方式なのだろう。
いつもながらのことであるが、現地の綿陽師範大学は市中心部から相当に離れていた。ちょうど、南側から来る高速道路料金所を出たすぐのところにあった。しかし、市内までバスで優に一時間。 これでは世間や俗世知らずの先生が輩出されてしまうのではないか??
最後に最後、綿陽市の女性たちは、これまでの四川省の中でも一番背が高いと思う。男女カップルでは、ほとんどが同じ背の高さぐらいである。
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