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訪問日:2019年4月中旬 『大陸西遊記』~
雲南省 昆明市 禄勸彝族苗族自治県 ~ 県内人口 33万人、 一人当たり GDP 19,000 元(禄勸県)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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昆明市街地 から 禄勸県へ バス移動する(1時間強、29元)
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武昆高速道路から見た、雲南省の田舎風景 ~ 富民県大麦竜村の 万佛山・慶寿寺など
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禄勸県屏山鎮の 旧市街地マップ
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【二代目】禄勸州城(禄勸県城)を歩く ~ 北街、新街から 屏山鎮中学へ
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東門跡 ~ 東街と五星街の交差点、その脇に 屏山鎮バスターミナルを発見する
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南門跡 ~ 南街と 新街との交差点
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正街の見事な 古民家ストリート
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北門跡 ~ 正街と 北街(北門巷)の交差点と 佛門神堂殿
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武定河沿いの 禄武路(国道 108号線) ~ 武定県へ移動する(20分、40元)
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【豆知識】禄勸県の 歴史 ■■■
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【豆知識】羅婺部の 易龍城(易龍県城、簡籠県城) ■■■
今の 禄勸県雲籠村
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【豆知識】初代・禄勸州城(掌鳩甸、石陽県城、武定府城)■■■
今の 禄豊県屏山鎮南甸村
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【豆知識】二代目・禄勸州城(禄勸県城)■■■
今の禄豊県屏山鎮の旧市街地
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鳯家古鎮(禄勸県 国道 108号線沿い 崇得郷小輯麻村)
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鳯家城(鳯氏土官の本拠地の一つ。禄勸県屏山鎮中心部から北西 20 kmの古城遺跡)
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北 60 kmの山岳集落・武定県環州郷(明末の古城塞跡、清代の彝文崖刻遺跡など)
昆明市 中心部(五華区)にある 地下鉄駅「五一路」
の交差点から、
タクシー
に乗って西北部バスターミナルへ移動する(昆明市内のタクシー初乗り料金は 8元)。普吉路をそのまま北上するだけの約 20分弱のドライブで到着できた(19元)。
そして、バスターミナル前のバス停で下車すると、チケット売り場で 禄勸(禄勸彝族苗族自治県 屏山鎮)行の郊外バスの乗車券を買う(29元)。
乗車時間は決まっておらず、乗客がいっぱいになり次第、出発する仕組みだった。 40~50人乗りぐらいの大型バスなので、実質的に 50~60分に一本発車というスタイルになっているようだった。筆者は 11:30過ぎにガラガラの車内に座ったが、実際にバスが出発したのは 12:15であった。
バス乗車時に運転手がチケット半券をちぎって乗客数をカウントしているようで、その半券が切られずに座っている人がいて、乗客数と座席数が合わないとかで大騒ぎしていた。これは帰りのバスも同じ仕組みで、きちんとチケット数と座席数があわないと出発できない仕組みのようだった。帰りの折は、10分弱もこの不一致問題で発車できずにいたぐらいだ。
さて、バスはターミナルを発車後、そのまま 高速道路「
武昆高速
」に上る。
途中に見える山々は、いずれも木が生えておらず、乾燥した土と岩肌が露出する、険しいがノンメリした形状だった。そんな山合いに、所々に小規模な集落地が点在していた。
特に、道路脇の絶壁や崖などは全部が全部、舗装されているとは言えず、いつ岩や土砂が崩落してきてもおかしくない危険な状態ばかりだった。天災などで道路が寸断されると、山岳地帯の集落地は瞬く間に孤立することになるだろう。
村々は、ほとんどが三階建てのコンクリート住宅となっており、結構、農村部は豊かな印象を受けた。ただし、これらコンクリート壁には鉄骨は入っていないと思われるので、柱は木製か、もしくは何も無い、ことが考えられる。
木造土壁の古民家も所々にあったが、ほとんどが廃屋であった。
また、村々で見かけた老婆たちが日常的に民族衣装を着ている姿には感銘を受けた。
高速道路の北面に座っていると、
富民県の 中心部(永定鎮)
から北 6kmあたりの場所に、山頂に高い塔を持つ寺院の門前町が目に飛び込んできた。下写真。
後で調べてみると、ここは富民県下の「大麦竜村」という集落で、後方の寺院は万佛山の慶寿寺というらしい。清代中期の 1700年ごろに建立され、すでに 300年以上もの歴史を有する古刹という。
さらにしばらく進むと、富民県羅免郷にある料金所で高速道路を降りる。ここから国道 108号線を伝って北上し、途中の村々を通過しながら、一路、禄勸県の 中心部(屏山鎮)へ向かった。
山間の一般道でよくあるパターンなのだが、巨大なトラックが徐行しながら山道を走行するので、毎回、バスや自家用車が対向車線とにらみ合いながら追い抜きしなければならず、都度、冷や冷やさせられた。
さて、禄勸県の 市街地(屏山鎮)に入る辺りに、鳯家古鎮という民族村みたいな観光地があるようだが、バスはこれを逸れて禄大路を右折する。禄大路沿いからバスは適宜、乗客らを下車させていった。
この禄大路の路肩にある街灯が伝統民族を彷彿とさせる赤茶色デザインとなっており、少数民族の土地、というアピールポイントを最大限に利用しようとしている印象を受けるも(下写真左)、これも最初の 5分程度だけで後はその街灯も姿を消してしまう。大陸中国らしい竜頭蛇尾の地元アピールだった。。。と思っていたら、後で旧市街地のあちこちでも見かけることとなった。
下写真右は、山間の道路沿いに多く見られる未舗装な絶壁面。
そのまま
禄大路を直進し、すぐに町はずれの禄勸バスターミナルに到着した。 1時間強のバス乗車だったので、バスターミナル内でトイレを借りる。
そして、ターミナル外にいるバイク白タクが声をかけてきたので、古城地区の北街あたりを指定すると、10元という。5分強のドライブで到着できた。
バイク移動の道中にも、白タク運転手がどこへ向かうのか?などと話かけてくるので、正直に
武定
に行くつもりだ、と回答すると、30元で乗せて行ってやる、と営業してきた。話を聞くと、両都市は 20分程度の距離らしい。とりあえず、お願いするつもりだと伝えると、筆者から目を離すまいと、その後の街歩きで後からずっとバイクでついて来ることになった。。。
当地は「彝族」「苗族」との共同自治県だけあって、住民の中で少数民族の占める割合が高いはずなのだが、そんな特徴的な土地柄をアピールする郷土博物館は現地には無いので、とりあえず、旧市街地だけを見学することにした(
上地図
)。
さて、後方よりずっとついてくるバイク白タクを横目に、北街と五星路との交差点から古城地区の散策をスタートする(上写真左)。
まず北街の坂道を上り、カラフルに装飾された古民家を左折する(上写真右)。この古民家は、左手が新街、右手が北街の分岐ポイントになっていた。
新街を直進し(上写真左)、屏山鎮中学の正門を通り過ぎる。ちょうど、自宅での昼食タイムを終え、午後の授業に再登校してくるジャージ姿の 中学生たち(上写真左の青ジャージ)をたくさん見かけた。
続いて東街を左折する(
上写真右
)。この先の五星街の交差点付近に、かつて東門が立地していた。
五星街より東は、坂道がさらに急になっていた。東街はさらに麓の秀屏路までまっすぐ延びている(下写真左)。
この五星街沿いにかつて東面城壁と外堀が連なっていたのだった。全体的な地形として、西から東へ向けての丘陵地帯に古城地区が建設されており、城郭都市全体が斜面上に立地していたことが分かる。
そして、この五星路沿いを南下していると、たまたま地元バスターミナルを発見した(
上写真右
)。ここからは、
武定県
などの郊外路線も発着していた。
そのまま 南街(永平路)との交差点に至ると(上写真左)、道路を西へ渡り、写真中央の赤い電気調節機の上へと続く 坂道(南街)を登る。この斜面あたりに民族衣装ショップが複数あり、地元の 高齢・中年女性たちが平時から身にまとっている民族衣装を販売しているらしかった。その脇に、地元の図書館も入居する、真新しい建物の青少年センターが立地していた。
そのまま南街は坂道を上り続けるも、筆者は平たんな通りの新街を直進することにした(上写真)。ちょうどこの南街と新街との交差点に、かつて南門があった。
新街
を北上し、先ほどの屏山鎮中学脇の東街との交差点に至る。
続いて、この東街を左折し(下写真左)、西へ向かって坂道を上ることにした。
その坂道の先に正街があった。ここの南北ストリートは急に雰囲気が一変し、木造の古民家が軒を連ねる路地で、まだまだ多くの家屋がそのまま現役で店舗や住居として利用されていた。
上写真右はその南側を眺めたもの。この先は南街と交差することになる。
上写真はその北側。北側の方が古民家が多い印象だったので、そのまま北街との交差点まで踏破することにした。
とても風情のある路地で、丘陵斜面上の一番上に立地していたため、斜面下へ下へと発展する都市開発に取り残されてしまったエリアであった。
そして、北街との交差点に到達した(
下写真左
)。ちょうど、ここに北門が立地していたわけである。
北街はここから西は行き止まりとなっているが(下写真右)、その 50 mにも満たない短い坂道の路地は「北門巷」へと名称が変わる。
さてさて、そのまま北街の坂道を下ると(下写真左)、最初にバイク白タクを下車した北街の 麓ポイント(下写真右の奥に停車中のタクシーあたり)に戻ってこれた。
なお、この北街沿いに古い廟所らしい門構えを見つける(
下写真
)。ここが、佛門神堂殿なのだろうか。
ふと思いついたので、後ろからずっとついてくるバイク白タクの運転手に、「この街には城隍廟は残っていますか」と質問してみると、「聞いたことがない」とのことだった。
とりあえず、30分ほどの古城散策となったが、後からバイクタクシーがついてくるので、落ち着いて思索にふけることもできず、そのままバイクの後ろに乗って
武定県
へ向かうことにした。
上写真は、バイクタクシーが五星路を西進中に撮影したもの。
禄勸県城の後方には高い山脈がそびえ立っており、西側の防衛ラインを形成していたのだろうと妄想してみた。
下写真は、
武定県
と禄勸県との結ぶ 主要幹線道路・禄武路(
国道 108号線
)。ちょうど両都市を結ぶ武定河沿いに道路が敷設されていた。
高い山々と、豊かな水流という自然環境に育まれる形で、この 両都市(禄勸県屏山鎮と 武定県)は 2500年もの間、雲南省北東部に大勢力を築いた彝族の主要本拠地の一角を成してきたのだった。
古くは紀元前 700年代から当地に住み着いた彝族の祖先らが独自の民族文化を開花させ、大理国(王都・
大理市
)の治世下で、三十七部族連合の一角を構成し、中原の 北宋朝、南宋朝に対抗する連合王国内にあって絶大な影響力を振るったという。
バイクは、ひたすら 禄武路(国道 108号線)を西へと進む(下写真)。 5~6分ごとに、禄勸ー
武定
間を往来する路線バスを対向車線で目にした。実際には運行間隔は 10分に一本で(7:00~20:00)、運賃は 2元という(20分程度の乗車時間)。
さて、いよいよ
武定県の 市街地(獅山鎮)
へと至るべく禄屏線へ左折すると(旧城村)、すぐに何やら古城砦をイメージした、料亭、マンション群、商店街が複合的に入居する巨大開発地区があったので、写真撮影しておいた。
上旧城村にある 武定雲南彝家大酒店ホテル辺りだと思われる
。下写真。
ここから坂道を下る形で獅山大道に入り、武定河を超えると、いよいよ
武定県
の中心地区に至る。そして、獅山路との交差点でバイクを降ろされた。ちょうど 20分ぐらいのドライブとなった。頑張ってくれたので、40元あげておいた。
このまま武定県の古城地区を散策後、当地のバスターミナルから直接、
昆明
の西北部バスターミナルへ戻った(1時間10分、35元)。ちょうど 2か所を巡る理想的な三角ルートだった。
【
禄勸県の 歴史
】
戦国時代から秦代にかけて、古滇国の版図下に組み込まれた。
紀元前 109年、前漢朝の武帝により雲南省東部が併合されると、新設された 益州郡(郡都は、
滇池県城【今の 昆明市晋寧区晋城鎮】
)と 越嶲郡(郡都は、越巂県城【今の 四川省凉山彝族自治州 西昌市】)に分かれて統括された。
三国時代の 225年、南蛮平定を成功させた諸葛孔明により建寧郡が新設されると、これに属す。西晋朝から南北朝時代にかけては、寧州に帰属した。
隋朝の治世時代、南寧州総管府下の昆州に属した。
唐代初期も引き続き、南寧州総督府に統括されるも、632年に戎州都督府の管轄下に移籍される(649年以降は、戎州都督府下の求州に帰属。下地図)。
南詔国の 治世時代(737~902年。上地図)、雲南省東部(東爨烏蛮族の勢力圏)で 37の有力部族拠点が承認されると、現在の禄勸県域には 3部が立地することとなった。すなわち、羅婺部、掌鳩法块部、洪農碌券部である(下地図)。
なお、彝族はもともと東蛮七部族のうち 生蛮磨弥殿(磨弥)部族に属し、雲南省曲靖市宣威市一帯に割拠したが、時とともに昆明側へ移住を続け、順次、現在の
尋甸県
など各地に大小の集落拠点を形成していった。こうして、磨弥部族の勢力圏は西へと拡大していくこととなる。
その後も西への大移住は続き、今の
富民県
、
禄豊県
、羅次県などにも順次、集落地が形成される。その過程で、今の
武定県
や禄勸県域にも入植が進み、最終的に前述の 羅婺部、洪農碌券部と掌鳩法块部の 3大集落地が形成されていった、というわけである。
大理国時代後期の
1174年
、18代目国王・段智興が、彝族の 大族長・阿歴(阿而)を羅婺部の長に任じると、和曲州(今の
武定県
旧州村)を併合し、羅婺部は 37の大部族集落の筆頭格に位置付けられるようになる。
各エリアの彝族の族長らは連合して集合体を維持しており、当時、その族長会議で選出されていた大族長が 阿歴(阿而)であった。部族どうしの結束は強く、兄弟親戚のような大家族集団を形成していた、と史書は伝える。
直後に、 阿而は自身の本拠地の 山間部(今の 禄勸県雲籠村)に易龍城を築城する。
モンゴル軍が侵攻し翌 1254年に、大理国王が降伏すると、さらに翌 1255年、雲南省東部で最強を誇った羅婆部もモンゴル軍の武力に屈し降伏に追い込まれる(下地図)。
1257年、降伏した羅婆部族の 族長・矣格はそのまま羅婆万戸候に封じられ、禄勸、
元謀
、
武定
と 四川省の最南端にある凉山州会理県の一部をその支配地として追認されることとなった。
同年、戦火により荒廃した 易龍城(今の 禄勸県雲籠村)は放棄され、新たに
易陬籠(上地図。今の 武定県中心部の獅山鎮旧城村あたり。地元語で「籠」は城塞集落の意で、もともと環濠集落が存在していたことになる)
へ中心拠点が移転されて、羅婺万戸府が開設される。
1271年、彝族の統括するエリアが拡大され、現在の
貴州省
最西部の黔西南州 普安県エリアまでも内包されることとなり、あわせて羅婺万戸府が北路総管府へ改編される。
さらに 1276年、北路総管府は武定路へ改編され、引き続き、彝族の族長子孫らが統治者としての地位を継承していった。
また 1289年、
禄勸州
(現在の 禄豊県屏山鎮南甸村。地元部族語で掌鳩甸と呼ばれた集落拠点があった)が新設される。
同時に、北部の山間に立地していた彝族のかつての 旧本拠地(元羅婺部。易龍城跡。今の 禄勸県雲籠村)に 易龍県(簡籠県)が開設される(地元語で「籠」は城塞集落の意)。また、他方では 石陽県(現在の 禄豊県屏山鎮南甸村)も新設されると、易龍県と共に禄勸州に属した。つまり、石陽県城は禄勸州城を兼務したことになる。下地図。
明代初期の 1381年、明の朱元璋が大軍を派兵して、雲南省内のモンゴル勢力を駆逐すると、翌 1382年、武定路が武定軍民府へ改編される。
この時、元代に開設されていた
武定路城【今の 武定県中心部の獅山鎮旧城村】
が攻城戦により焼失してしまったため、 武定府役所が近くの 石陽県城【現在の 禄豊県屏山鎮南甸村】内へ再移転される。以後、二州四県(禄勸州 と 和曲州)を統括することとされた(上地図)。
1384年、易龍県(今の 禄勸県雲籠村)が廃止され、禄勸州の直轄地に組み込まれる。
1389年
、今の禄勸県 中心部(屏山鎮)の旧市街地に、新たに禄勸州城が建造される。
1507年、石陽県(現在の 禄豊県屏山鎮南甸村)が廃止され、禄勸州の直轄行政区に吸収合併される。以後、禄勸州下には県行政単位がなくなる。
この改編は、明の中央朝廷が地元部族長による間接統治体制を排除する目的で、徐々に行政職を減少させていったことに由来する。こうした官職の減少により、権限が縮小されていった各地の部族長らは、反明で挙兵し武力闘争に訴えるも、各個撃破されていくこととなった。
この過程で、普渡河巡検司巡検も廃止される(上地図)。
ついに 1567年、地場豪族の 鳳氏(明皇帝から姓を下賜されていた)が世襲した武定府の長官職も取り上げられ、禄勸州長官職のみが残される。州役所は引き続き、今の禄勸県 中心部(屏山鎮)の旧市街地に開設された。
そして、新たに武定府の長官として、明朝廷から中央官吏が派遣されてくる(改土帰流)。
あわせて、その府役所は、地場豪族・風氏のおひざ元だった 旧禄勸州城(今の 禄勸県屏山鎮南甸村)から、今の
武定県 中心部(獅山鎮)
へ移転されることとなる(1570年)。こうして禄勸県屏山鎮南甸村が武定府城として機能した 184年の歴史が幕を閉じたのだった(下地図)。以後、廃城となる。
清代の 1700年、武定府が
武定直隷州
へ降格されるも、引き続き、
元謀県
と 禄勸県(同年に禄勸州から降格。県城はそのまま今の禄勸県 中心部(屏山鎮)の旧市街地に立地。これにより、地場部族の間接統治体制は完全に消滅することとなる)の二県を統括した。
同時に、和曲州も廃止され(上地図)、武定直隷州に吸収合併される。
中華民国が 1912年に建国されると、禄勸県はそのまま
武定直隷州
に帰属される。翌 1913年に滇中道が新設され、武定直隷州が武定県へ降格されると、禄勸県は滇中道に直轄された。 1915年に滇中道が廃止されると、禄勸県は雲南省に直轄される。
共産党中国時代の 1958年4月、楚雄彝族自治州が新設されると、最初、禄勸県は武定県と共にこれに帰属するも、1983年9月9日、
昆明市
に移籍された(武定県と分離)。
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