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楚雄彝族自治州 禄豊県
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
雲南省 楚雄彝族自治州 禄豊県 ~ 県内人口 46万人、 一人当たり GDP 58,000 元(禄豊県)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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禄豊博物館
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禄豊県城(秦臧県城、碌奉甸。金山古鎮。古城エリアの 旧市街地)
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【初代】羅次県城(次賧県城、羅部、羅次州城。仁興鎮)
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【二代目】羅次県城(碧城鎮)
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碧城魁閣楼(清代の 1670年着工、1693年完成。 1861年に焼失するも、1887年再建)
金山バスターミナルから西側の商業エリア内、その徒歩圏に禄豊県博物館と禄豊恐竜博物館がある。
見学後、南正街沿いに北へ向かうと、古城地区に至る。
古城地区に残る地区名や路地名が、かつての城郭都市の様子を今に物語っていた。南正街、金山古鎮、西門村、北門村、中所営、南門村 など。
【 禄豊県の 歴史 】
前漢朝 7代目皇帝・武帝が雲南地方を武力併合すると、紀元前 109年、秦臧県(今の 禄豊県中心部の金山鎮)が新設される(益州郡に帰属)。後漢時代までこの行政区が踏襲された。下地図。
三国時代の 225年、蜀の諸葛孔明が南蛮遠征により雲南地方を併合すると、益州郡が建寧郡へ改編される(引き続き、益州に帰属)。秦臧県はそのまま、建寧郡(味県【郡都】、同楽県、談槁県、牧麻県、漏江県、同瀨県、昆澤県、新定県、存邑県、同并県、万安県、毋单県、新興県の 13県城を統括した)に属した。
なお、孔明は南征時、滇池(今の昆明市)へ向け、西側ルートから迫った(帰路は東側ルート)。その途上で、この秦臧県城を攻略している。下地図内の斜線エリアがまさに孟獲らとの戦闘地域で、秦臧県城はその中心に立地していたことが分かる。
以後も秦臧県が継承され、西晋時代には寧州下の建寧郡に、東晋時代から南朝の梁朝治世時代まで寧州下の建都郡に、北朝の劉周朝時代には南寧州に属した。
隋代に入ると、南寧州総管府に属し、唐代初期には剣南道求州に統括され、南詔国の版図下に入ると、禄豊県(秦臧県から改名されていた)が龍和城へ、羅次県が次賧県へと改称される(拓東節度下の求州に属した)。
大理国の統治時代、禄豊県は碌奉甸へ(上地図)、羅次県(今の 雲南省禄豊県の北東の山間部にある仁興鎮)は羅部へ改称される。また、最初は 鄯闡府(今の 雲南省昆明市)に、後に 威楚府(今の 雲南省楚雄彝族自治州 楚雄市)に統括された。上地図。
元代に入ると、碌奉甸が再び禄豊県へ昇格され、1275年に中慶路下で安寧州が新設されると、これに属した。
また同年、羅次州が新設されるも、1287年には羅次県へ降格される(中慶路に帰属)。
1290年に
安寧州(今の 昆明市安寧市連然鎮)
の管轄下へ移籍される。
明代に入って、羅次県役所が、今の禄豊県仁興鎮から南下流の禄豊県碧城鎮へ移転される(二代目県城)。
1382年、
安寧州(今の 昆明市安寧市連然鎮)
が雲南府下に移籍される(上地図)。
1500年、羅次県が雲南府に直轄される。禄豊県の方は、そのまま雲南府下の安寧州に属した。下地図。
清代中期の1725年、禄豊県も雲南府の直轄下へ編入される。
以後、中華民国時代も含め、雲南府(省)に統括され、共産党中国時代の 1960年9月、羅次県が廃止され、禄豊県に吸収合併される。
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