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陸豊市 東海鎮
訪問日:2017年4月下旬 『大陸西遊記』~
広東省 汕尾市 陸豊市 東海鎮 ~ 市内人口 150万人、 一人当たり GDP 27,000 元 (汕尾市 全体)
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陸豊県城
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陸豊県城の歴史 と 古絵図
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清代初期建立の 大西門北極廟
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古城エリアの路地 と 保昌塞
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城壁跡 ~ 保昌六巷と 金釵三巷
汕尾市
霞洋バスターミナルから陸豊県行きの都市間バスに乗車して、現地入りした(城北バスターミナル)。バスは一時間に 1本ずつ運行されていた(運賃 15元。1時間)。
ここからバイクタクシー 8元で、陸豊汽車総合バスターミナルの真横にある 7天酒店に、一泊 149元で泊まることにした。朝食付といい、7天酒店で朝食が勝手に含まれている支店は初めてだった。
翌日、人民路から螺河にかかる人民橋を渡って(下写真左)、陸豊県城が立地した古城エリア一帯を散策してみた。
人民橋を渡ってすぐのところに、中国人民銀行の支店があった(
上写真右
)。中国の中央銀行の地方支店は、こんな田舎町にも開設されているのだなと感嘆した。。。
その並びには陸豊県東海鎮の行政庁舎や警察署などがあり、所謂、官庁街のようだった。
これらを過ぎた 路地(栄尾中巷)から、狭い住宅街へと入ってみる。途中、天主堂(キリスト教会)があった。下地図の緑ラインが移動経路。
その路地の突当りの広場が警察関連施設となっており、さらに左折して、より狭い 路地(神農一巷)をあてどなく突き進んでいくと、いつの間にか古城エリアにたどり着いた。。
【
陸豊県城
】
下絵図は、かつて存在した陸豊県城の全景図。
それまで、
恵州府
下の
海豊県
下の 都(鎮)集落地でしかなかった当地に、県城が新設されたのは、清代中期の 1731年とされる。海豊県下の東部 3都が分離され、陸豊県が新設されたのだった(引き続き、恵州府に帰属)。
比較的歴史の浅い県城ではあるが、古城エリアを起点に近代以降の宅地開発が進んだようで、例にもれず、城壁も城門も完全撤去されてしまっていた。
しかし、路地名や地名には古城時代の多くの名残が感じられた。環城百貨、西環路、城東大街、城東市場、大街 など。 上地図の古城地区の西門上を通る馬街は、かつての主要街道に由来を発するようだ(下古地図)。
古城エリア
は本当に狭苦しい路地に、民家がひしめき合っている状態で、そんな中にも祖先を祭った宗廟や神廟などが、あちこちに設置されていた。
上写真右は、大西門北極廟で、最初の建立は清代初期の 1661年という。当時は風神廟と呼称されていたという。宣仁奉風泊や水仙翁などの諸神を祀っていた。県城が新築された直後の 1735年に再建された当時、清朝も中期を超えた時期で、この時流行していた北極真面武元天上帝を奉じたため、北極廟と通称されるようになったという。また、大西門佛祖宮とも別称された。門構えや装飾は清代からの遺物という。
また、保昌一巷沿いには天后宮が設置されており、ここは旧市街地の人々が催しをする広場を兼ねていた。筆者が訪問した日も、京劇が上演されており、村人たちの視線が気になったので、写真撮影は控えておいた。
その天后宮の裏に、
保昌塞
の解説板があった(下写真)。1742年に広西省
梧州府
下の容県長官が当地に立ち寄った際に、祝辞に謳った歌が刻印されていた。
また、古城エリアの路地名は、非常に意味深い名称がたくさん見られた。
馬厝巷(馬姓の宗廟が鎮座した地区か)、媽宮仔巷(かつて媽宮が祀られていた地区か)、馮厝巷(馮姓の宗廟が鎮座した地区か)、灰町(火を扱う店が軒を連ねたのだろうか??)、魚腩町(魚をさばく店が軒を連ねたのだろうか??)などなどの路地名から、かつての古城時代の記憶が色濃く刻み込まれている印象を受けた。下写真。
窮屈な路地街の中でメインストリートの一つを成し、バイクの往来がひっきりなしだった土籠街であるが(ページ最初の地図参照)、その南端に市場が開設されていることもあり(下写真左)、モノを運搬する牛車や籠持ちなどの往来があった通りであろうか。
そのすぐ南側に環城路が走る(下写真右)。
そんな
古城エリア内を 1時間近くウロウロし、ようやく 保昌六巷と金釵三巷の 2箇所で、古城時代の城壁跡を発見できた。
この土壁に無数に開けられた水はけ口と通気口は、まさにこの汕潮エリアの古城で度々目にしてきた、石材と土で固めた城壁と同じ構造となっており、かなりの確率で、城壁面の一部と思われる。
ここは古城エリアの路地群の真ん中にあり、もう自分がどこにいるのか全く分からないポイントであった。かつては 4~5 mもの高さを誇った城壁も、民家に侵食される形で、内部が堀えぐられ、城壁の一部のみが路地面として残されているだけであった。
さて、先のローカル市場南ある環城路沿いから三輪タクシーで、7天酒店まで戻った。
それにしても、陸豊市は特に市中心部で、外部からの 観光客(というより、当地に観光目的で立ち寄る訪問者自体も珍しいだろう)には非常に分かりにくい交通網であった。 路線バスはほとんどなく、三輪タクシーがメインの移動手段だった。
どちらかと言うと、郊外へ出向く路線バス網がメインで、市街地ルートはそれら乗客らの乗降用ポイントとしてのみ、ついでに走行されており、市街地内を移動するためのものではなかった。これまでの大陸中国の旅路の中でも、屈指の散策しずらい街だった。
上の「中国銀行前バス停」は、ちょうど市中心部の人民路と北堤路との交差点にあたる。ここを起点にされると、郊外や市中心部を含め、とりあえず、路線バス移動が可能である。筆者は、螺河上流の
大安村
から戻る際、ここで路線バス⑧ を下車した。
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