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甘粛省 隴南市 武都区 ~ 区内人口 60万人、 一人当たり GDP 18,000 元(隴南市 全体)
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武都古城(階州城)
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柳樹城
【 武都古城(階州城) 】
武都古城であるが、現在、北側、西側、そして南西側の城壁が保存されているものの、東側と南側の城壁はすべて撤去されてしまっている。
また旧市街地区は、明清時代の旧家や建築物がまだまだたくさん残されており、歴史保存都市と自称するにふさわしい風情を有する。
しかし、旧城郭都市内の路地名を見渡しても、あまり過去を偲ばせる名称が残されていない様子であった。北運河大橋、濱河路、南橋路、西関小学校、西関幼稚園、旧城山路 など。
そもそも、この城は南北朝時代の 448年、北魏により、今の 旧城山(旧名:仙陵山)の南東側に、 武都郡役所が移転されるに際し、新たに城郭の築城が手がけられたものである。その範囲は、現在の市街区の西半分を占め、 地元では、「旧城」地区と呼ばれている一帯である。
現在も残る鐘楼公園であるが、古城内の東側の河沿いにあったものを移設したものらしい。
唐末期の 892年、階州へと改名されて以降、清末まで継承されていくこととなる。以後も、城内の人口増加に伴い、 城壁は拡大されていったようである。
特に、華北を女真族に奪われた南宋時代に入ると、対金国の最前線基地ということになり、 この 階州城(武都古城)はかつてないほどに重要視されるようになる。
度々、金軍らの攻撃を受けて耐え凌いできた堅城も、ついに 1236年、モンゴル軍の前に落城してしまう。
元朝の時代、荒廃した階州城は放棄され、武都郡役所は、ここからさらに白龍江を 40 kmさかのぼった上流域の角弓郷にあった柳樹城内へ移転されてしまう。
100年の月日が過ぎ、モンゴル軍も北へ撤退し、中原が明朝により再統一された後、武都郡役所は再び階州城内へ再移転されるに至る。
明代の 1371年、当時の州役人であった簡原輔により、全長 1 km、高さ 8 m の石積み城壁と、深さ 1.5 mの外堀を持つ城郭へと 大改修が施された。さらに 1570年代に入り、城郭は拡張され、西面、北面の城壁をさらに外側へ移設し、土壁の城壁が建造された。この大工事により、全長 4 km、高さ 6.6 m の城壁を有する都市へと変貌する。その外堀の深さは以前同様、1.5 mのままとされた。
このまま清朝まで継続利用されるも、清朝後期の 1879年に起こった大地震の際、城壁が破損してしまい、一部の城壁が木材で補強(高さ 10 m、幅 2.5 m)されて、そのまま近代まで持ち越されることになる。
中華民国時代に入っても、城壁の撤去は最小限にとどめられ、1990年後半においては、西門(長治門)から 北門(望辰門)に至る 城壁部分に修繕工事が施されている。
古くから、この武都古城は狼煙台が併設されていたといい、山岳地帯の南北へ情報伝達する上で、戦略上、非常に重要なロケーションにあったということであろう。
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