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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 海口市 龍華区 ~ 区内人口 70万人、一人当たり GDP 49,000 元(海口市 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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海口所城
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騎楼老街
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冼太夫人廟
この日、
投宿先の 7天ホテルから、旧府城エリアへ移動し
、ここから ⑩番路線バス(海南中学 ⇔ 龍華総駅)に乗車して、騎楼歴史文化地区と海口所城跡を目指してみた。下写真。
ちょうど 5 km ほど北に位置していた。
騎楼歴史文化地区に到着後、まずは海口非遺文化展示館を訪問してみる。かつての古城模型が展示されているためだ。その他、天后宮、中国海南票証博物館、海上絲綢之路(シルクロード)慈善博物館、邱氏老宅 なども見て回る。
当時のメインストリートである 仙橋路、振東街、閘門街、臙脂園后街にあった騎楼群は、今も現役で使用されており、昔日の栄華を垣間見ることができる。清末の開港後、特に中華民国時代に東南アジアで流行った植民地風建物が多数建設された名残りで、往時の文明開化時代の生き証人というわけだった。下写真。
続いて、海口所城跡地を歩く。
ちょうど騎楼歴史文化地区の一部を成しており、新民路と博愛路の一帯である(下地図)。 1925年にすべての城壁が撤去されており、今日、わずかに城内にあった関帝廟や 井戸跡(龍井)などが残るのみだった。
しかし、古城時代から継承されている路地は今も健在で、それぞれの名称からルーツがたどれるという。
繡衣坊
かつて 科挙合格者(進士)や地元名士らの邸宅が集中したエリア。彼らが好んで着用した衣類から命名されている。
達士巷
旧名は鄭宅巷で、当地の 名士・鄭家の創業者が 技術家(達士)出身であったことに由来する。
居仁坊
明代には千戸府の、清代には千戸府と参将署の役所が、西門街沿いに開設されていた(上地図参照)。
彼ら官吏や軍人らのための馬屋が設けられていた場所が、この「居仁坊」という。当初は「馬房村」と通称されていたが、官吏の屋敷や官舎などが軒を連ねる、風流ある路地に「馬房村」の名前はふさわしくない、ということで、清代末期に「居仁坊」へ改称されたという。今日でも、文明開化の風情を色濃く残す路地として、その名前に恥じない路地となっている。
聯桂坊
古城時代、南門外に位置し、当時、水田内に城壁が連なっていたことから、「田辺村」と通称されていたという。
白沙坊
旧名は、蕃坊、番坊、蕃巷などといい、もともと細い路地で、かつて対外交易の積み荷が大量に並べ置かれた一角という。
なお、下の古絵図は、明代初期 1400年ごろの龍華区の地図。かつては、ほとんどが海であったが、現在は桁違いに埋め立てが進んでしまっていることが分かる。当時、この海岸線ギリギリに、倭寇対策として海口所城が築城されたわけである(1396年完成)。
明代初期の 1394年、初代皇帝・朱元璋(1328~1398年)に請われる形で、広東省沿岸における倭寇対策のトップに就任していた広東都指揮の 花茂(1332?~1410年。
安徽省合肥市
巣湖市出身)により、 24か所の衛所築城プランが朝廷に上奏される。直後より、
碣石衛所
、広海衛所、神電衛所、
平海衛所
などの築城が開始されると、その一環で、この海南島北部にも海口衛所の建造工事が着手されることとなった。
翌 1395年、明朝廷は安陸侯の 呉傑(建国の 功臣・呉復【1321~1383年】の子)に、この海口所城の建設を命じると、呉傑は千戸の崇実興に工事を担当させて現場作業を進めさせる。そして約 1年の工期を経て、翌 1396年に完成を見る。
火山岩石を積み上げて建造された頑丈な城壁は、全長 1,848 m、高さ 5.7 m、厚さ 5 m弱で、城壁上には凹凸女壁が 653ヵ所、兵舎が 19ヵ所、設置されていた。さらに、東西南北の 4城門上には楼閣が配された。
所城内は当初、東門街、西門街、南門街、北門街の 4街道のみが、整備されただけだった(上絵図)。
北東側は海に面し、城壁から海岸線まで 30 mという距離だったことから、外堀は掘削されていなかったが、その他の南東側から北西側の三面には、しっかり外堀が設けられていたという(全長 1,549 m、幅 5 m弱、深さ 1.7 m)。
その後、明代の 1418年と、清代の 1667年に、大規模に補修工事が実施された記録や、また 1488年に、城内十字路の中央部に四牌楼が建設された記録などが、細かく史書に言及されているという。
また時と共に、城内には駐在した役人やその親族らが増加し、街の路地が細かく分岐されていくこととなる。
所城が築造された最初は、東門街、西門街、南門街、北門街の四街道のみしか整備されていなかったが(明代の千戸府、清代の同知署、参将署などは、すべて西門街沿いに開設されていた)、 1488年に、街道が交差する十字路の中心部に四牌楼が建設されると、城内はさらに細かい路地が増設されていき、四牌楼街、仙橋路、振東街、閘門街、胭脂園角路、谷街、福興街、関上街、関尾街、新興街、城角滂路、青竹街、双塘尾路、被直街、得勝沙街、大街、港口街、大廟前街 などが誕生していくこととなる。
中華民国時代の 1924年、軍閥勢力・粤軍の将軍だった 鄧本殷(1879~1960年?。
広西省防城港市
防城区茅嶺鎮出身)が、海南島の瓊崖地区を占領すると、すぐに大規模な都市開発に着手し、沿岸部の好立地に位置していた海口所城の解体を命じる。
翌年早々にも撤去完了されると、それらの城壁石材は沿岸部の堤防建設に転用されることとなった。現在の 6車線の海岸線 大通り「長堤路」こそ、この時に整備された堤防であり、また同時建設された波止場跡という。当時、この沿岸には東南アジアや
広州
からの交易船が数多く停泊していたという。
海口市龍華区中心部から南へ 23 kmの地点にある新坡鎮内に、冼太夫人廟(上写真)が建立されている。
明代の 進士・梁雲龍(兵部左侍郎まで出世した人物)が、1602年に創建したもので、冼太夫人(522~602年。黎族リーダーで、”巾帼英雄”として知られる、海南島でも最も有名な歴史上の人物の一人)を紀念した廟所である。
冼太夫人は、広西省側から兵を引き連れて海南島へ上陸し、島内の黎族の抗争を平定し統一した人物で、その後、南朝方の梁王朝に帰順して、朝廷から
崖州役所(今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)
の開設を許可されることとなる。こうして、それまで無法空間だった海南島における、中華帝国の直轄統治を復活させたわけである。
その後、彼女は民衆のための政治を心がけ、稲作や大陸文明の伝播に努めた。島内の生産高も向上し、地元部族らの争いも霧消し、島内で久々の平和が実現されたという。この海南島の中華帝国への再併合事業を称え、また、黎族と漢民族とを平和裏に融合させた功績を紀念して、後世にわたって、この冼夫人廟が守られてきたのだった。現在の廟所は、前後の 2つの建物から成る、二段構成で設計されている。
海口所城跡と騎楼地区を散策後、北の海甸河沿いの長堤路から、 ③番路線バスに乗車する(1元。下地図)。そのまま西進し、海口西バスターミナル近くの海秀西路沿いで下車する(秀英区)。もしくは、⑥ or ⑦ or ㉚ 番路線バスでもOK。
ここから 55番路線バス(秀英区政府 ⇔ 馬村港。下地図。5元)に乗り込み、「老城路口」で下車する。
このまま、海南省澄邁県老城鎮を訪問してみる。 このバス停の北側に、澄邁県老城中学、老城橋などが立地しており、かつての【二代目】澄邁県城の旧市街地が広がっているわけである
。
帰路は、再び 55番路線バスで海口西バスターミナル近くまで移動後、 ①番路線バスでホテル近くの、
旧府城エリア
まで一気に戻ってこれた。
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