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陵水黎族自治県 陵城鎮
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 陵水黎族自治県 陵城鎮 ~ 県内人口 37万人、一人当たり GDP 26,000 元(県全域)
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陵水県城(【二代目】万安州城 & 万全郡城、陵水鎮城)
投宿していた 三亜市中心部(吉陽区)の 7天ホテルから出発し
、まず午前中に 高速鉄道「三亜駅」より東進し、陵水駅へ向かう(20~30分に 1本。23元。所要時間 21分強)。前日に、ホテル近くの三亜市吉陽区内で、乗車券を先に事前購入する。陵水駅で下車後、旧市街地(陵水河の西岸側は陵城鎮、東岸側は椰林鎮)までは非常に近い。
もしくは、
ホテル近くの三亜市バスターミナルから
、陵水バスターミナル(中長距離バス専用。陵水県駅前)へ直接、行くこともできる。むしろ、電車やバスの乗り換え手間を省ける分、この選択肢が現実的かも(30~50分に 1本、18元。所要時間 90分)。この途中を通過する
海棠湾鎮、藤橋鎮
などでも乗降車可能かも確認したい(もし、乗降車可なら、陵水 → 三亜の復路を利用したい)。
なお、この都市間バスだと、陵水市に入る前に海南環島高速道路を下りて、建設路沿いに市街地の各ポイントごとで客を下車させていくので、陵水河を渡河する前に下車すれば(特に、陵水バスターミナル【近郊路線バス専用】前で)、直接、旧市街地(西岸側の陵城鎮)へアクセスできるメリットは大きい。下地図。
旧市街地では、陵水博物館(陵城鎮中山東路)や、古城地区(城隅古廟、城東路、城中路、城南村小学校、城南幼稚園、慶善庵、天后宮、龍王廟、張鴻猷旧家 など)を散策してみる。
なお、旧市街地の南端には、南門嶺という小山が見える。この頂上部には、1983年に設置された南門嶺革命烈士紀念碑が立地している(1990年7月、県政府により史跡指定)。
下写真は、城隅古廟(新建路の南端に鎮座する)。
旧市街地の城内路 20~22号に位置する「張鴻献の旧家」は、清代中期の 1795年に建設された富豪邸宅跡という(下写真)。もともと、海南島瓊山エリアの名士出身だった張鴻献の祖父が、清代中期に一家をあげて陵城鎮へ移住し、当地でも大成した一族であった。 1960年撮影の 中国大ヒット映画『紅色娘子軍』で、ラスボスとして登場する 悪徳地主”南霸天”のモデルの一人とされる、金持ち地主の典型的屋敷と考えられている。1990年7月、邸宅跡が県政府により史跡指定を受けている。
同じく旧市街地内に残る龍王廟であるが、清代初期の 1697年に建立された廟所で、先の旧家同様、1990年7月に、県政府により史跡指定を受けている。
ひと通りの見学後、地元の陵水バスターミナルから、
西隣の三亜市海棠区藤橋鎮へバス移動する
。。。しかし、直接に海棠区藤橋鎮へアクセスできるバスは、午前 8:10発の 1便のみで、午後移動だと白タクをチャーターすることになるかも。
陵水黎族自治県エリアでは、早くも新石器時代に人類の生息が確認されているという。
前漢時代の紀元前 110年、武帝により中国華南地方が平定されると、そのまま駐留部隊が海南島に上陸し、珠崖郡と儋耳郡の 2郡、および配下の 16県城を新設する。この時、現在の陵水県エリアは、珠崖郡下の 山南県(今の陵水黎族自治県内と目されるも、正確な場所は不明)に統括された。しかし、地元部族らの反乱が相次いだため、紀元前 46年、珠崖郡や山南県など、すべての役所機関が閉鎖され、前漢朝の直接統治が放棄される(大陸側の雷州半島に開設された、合蒲郡により間接統治が図られる)。
唐代初期の 622年、海南島に崖州、詹州、振州の 3州が新設されると、今の陵水県エリアは、
振州(州都は 寧遠県城 ー 今の 海南省三亜市崖州区崖城鎮)
に統括される。662年、
万安州(州都は、631年に開設されたばかりだった 万安県城 - 今の 海南省万寧市大茂鎮旧州村)
が新設されると、この万安州へ移籍され(万安県、陵水県、富雲県、博遼県 の 4県を統括)、五代十国時代もこのままの行政区が踏襲される。
なお、721~785年の間、万安州の州役所が陵水県城へ一時的に転入されると、州都を兼務することとなった(742~757年の 10年間のみ、万全郡へ改編)。
北宋時代の 1073年、万安州が万安軍へ改編されるも、引き続き、万安県、陵水県、富雲県、博遼県の 4県を統括した。
南宋時代の 1136年、万安軍が廃止されると、陵水県は瓊州に組み込まれるも、 7年後の 1143年に万安軍が復活設置されると、再び万安軍に属した。元代もこのままの行政区が踏襲される。
海賊の襲撃が激化した明代初期の 1418年、陵水県指揮(地方の軍司令官)の張恕により、南山所城が築城される。全長 1,146 m、高さ 6 m、幅 5 mの城壁上には、凹凸壁が 399ヵ所、兵舎が 8棟、楼閣付の城門が東西南北に 4か所、設置されていた。下絵図。
また、城壁の外周には外堀も掘削され、その全長は 1,322 m、幅 3 m、深さ 2.3 mの規模であったという。
1436年、瓊州府長官の程瑩(1381~1488年。
湖北省黄岡市
羅田県鳳山鎮出身。 1415年には明朝廷使節団に加わり、日本を訪問している。1435年から足掛け 14年間、瓊州府長官を務め、地元部族長を介した土司制度を廃止し、海南島における直轄体制を確立する)が、陵水県役所の南山所城への移転を決定すると、この南山所城が陵水県城を兼務することとなり、以後、今日まで陵水県の県都として君臨していくわけである。
1468年、陵水県指揮の舒翼と、千戸の王玉が、レンガと石積みの城壁へ大改修すると、同時に、城壁と西城門が数十センチほどかさ上げされる。
清代初期の 1673年、県長官の高首により、県城が大規模修繕された記録が残されている。
中華民国時代に入ると、長い間にわたって城壁の補修作業が滞り、城壁の大部分が倒壊、もしくは、レンガ材や石材が住民らによってはぎ取られていくようになる。最終的に、わずかに南城門のみ残される状態であったが、その南門も文化大革命期に撤去され、すべての城郭遺構が喪失されてしまうのだった。
この共産党時代初期の 1954年1月、陵水県は海南黎族苗族自治州に組み込まれていたが、 1987年12月、海南黎族苗族自治州が陵水黎族自治県へ改編され、今日に至るわけである。
なお、陵水河をさらに下っていくと、河口部に椰子島という小島がある。清代中期の 1785年1月13日、この小島の北東部に水口廟が建立されると、 1869年にさらに拡張され、正殿、中庭、前庁と大門までが増設される。この廟所は今でも現存しており、1990年7月に県政府によって史跡指定を受けている。
なお、陵水河は地元では大溪河と通称され、その昔は、陵木丹水、陵柵水、陵拱水とも呼称されてきたという。海南島内でも第 4位の長さを誇る河川で、保亭県賢芳嶺に水源を発する。
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