BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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三亜市(中心部)吉陽区 ~ 区内人口 46万人、一人当たり GDP 43,000 元(吉陽区)


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  臨川県城(臨川鎮城)



三亜鳳凰国際空港から、三亜市街地への移動は、 8番、24番、27番路線バスが便利である。
このうち、8番と 24番路線バスが、三亜市バスターミナル近くを通過する(下地図)。バス停「創業大厦」で下車後、すぐ南の群衆街沿いにある 7天ホテル(三亜步行街美食広場店)で投宿する(6泊)。
吉陽区

翌朝、同じ 24番路線バスに乗車して東へ移動し、3つ目のバス停「鳳凰嶺景区」で下車する(上地図)。この南側が、臨春鎮である。この日、臨春嶺森林公園を散策はせず(山頂にある瞭望塔から市街地を一望したいが、南面からはアクセスできず、山の西面へ回り込まないと、入園ムリだったため)、東側の狗嶺の 遠景撮影(紅沙トンネル上)や、臨川県城跡を散策してみる。

以下の赤丸のどちらかが、旧市街地(臨川県城跡地)かと思われる。

吉陽区

唐代初期の 622年に、狗嶺の中腹あたりに臨川県城が開設されて以降、五代十国時代の南漢王朝の治世下の 950年ごろまで、臨川県都を務めるも、その後、県役所は廃止され、今の 三亜市崖州区崖城鎮 に新設された寧遠県に吸収合併されることとなる(以後、臨川鎮へ降格)。

なお、この県名は「臨川水」から命名されており、当時より、北東部の黎峒から端を発し、途中で三亜河と合流して海へ至る大河であった。


この吉陽区の地名であるが、これは唐代初期の 628年、今の三亜市藤橋鎮に吉陽県が新設されたことに由来している(延徳県【今の 海南省楽東黎族自治県黄流鎮】の東半分が分離・新設。振州に帰属)。北宋時代の 1117年、珠崖軍が吉陽軍へ改編され、海南島南部一帯の行政区名にまで採用される(ただし、軍都は、一貫して崖州古城が兼務していた )。

なお、同じく三亜市中心部を構成する天涯区であるが、清代の 1733年、崖州長官の 程哲(生没年不詳。今の 安徽省黄山市 歙県出身。 1724~1728年の 6年間、崖州府長官を務めた。翌 1729年、広東塩運司へ異動する)が、「天涯」という文字を直筆すると、清末になって地元の文化人がその文字を、巨大な石上に刻印させる。その巨大岩が未だに海岸部に残されており(下写真)、ここから現在の地名が名付けられたという。

吉陽区

なお、吉陽区には、日中戦争に絡む史跡が残されている。ちょうど吉陽区の東端に位置し、非常にアクセスが困難な場所にある(高速鉄道「亜龍湾駅」の南側に位置する、田独鎮新村の北東 1 kmの黄泥嶺あたり)。

1939年2月10日、日本軍が海南島を占領すると、直後より、軍の支援を受けた 石原産業(本社は 大阪市。東証 1部【4028】に上場中。かつて紀州鉱山などを経営)が、田独鉱山(地下トンネンルの全長は約 100 m、横幅 50 m)の採掘に着手し、同年 7月には、その鉄鉱石を日本の八幡製鉄所へ輸出するようになる。
この急ピッチな鉱山開発と、積み出し港「楡林港」の整備のため、海南島の民衆だけでなく、上海広州厦門汕頭香港台湾朝鮮半島、インドなどから徴用された労働者たちが酷使されたのだった。しかし、労働環境は過酷を極め、徴用工らは病気や栄養失調、暴行などによって毎日、死傷者を出し、その遺体は鉱山近くでまとめて焼却処理されていたという。

1945年冬、田独鉱山が国民党政権によって接収されると、万を数える人骨が発見されることとなり、以降、「万人坑」と通称されていた。1990年1月17日に三亜市政府により、また 1994年7月に海南省政府により史跡指定を受けており、現在、鉱山トンネルの北西 500 mの地点には、「日寇時期受迫害死亡工友紀念碑(高さ 2.6 m、直径 1.72 m)」の紀念碑と、犠牲者供養のための骨塚(縦 0.92 m、横 0.85 m。コンクリート製)が設けられている。

その他、吉陽区には古代遺跡も発見されており、中でも亜龍湾沙丘遺跡や落笔洞遺跡が代表的である。
先述の田独鉱山に近い 亜龍湾遺跡(田独鎮海坡村の東約 4,000 m にある亜龍湾の海岸沿い)であるが、 海岸線から 15 mほど離れた高台(標高 15~20 m、南北約 2,000 m、東西約 15 m)に位置している。1957年の調査により、新石器時代から、前漢時代、唐代、宋代など、さまざまな時代の遺物が発見され、1990年1月、三亜市政府によって史跡指定を受けている。特に貴重なものとして、新石器時代の 夾砂粗紅陶(通風のよい酸化炎焼成の窯で焼き上げた、煮炊きの器)、(泥質)紅陶圈足碗や、漢代に製造された泥製の灰陶千字戳印紋、網格紋、方格紋、水波紋などが注目されている。

また、田独鎮荔枝溝落笔村の東 1kmにある落笔峰の南面の 洞穴遺跡「落笔洞遺跡」からも、今から 1万年前の石器類や、動物や人間の骨などが発掘されており、 2001年6月に中央政府により史跡指定を受けている。この洞穴自体は、自然に形成された石灰岩の 洞窟(入口は南向き)で、不規則な台形型をしており、幅 10 m、奥行き 14.5 m、高さ約 13 mの空間で、面積は約 145 m2 という。



とりあえず、旧市街地を散策後、同じ バス停「鳳凰嶺景区」に戻って、反対車線から 55番路線バス(崖州区の南山文化観光区 ⇔ 鹿回頭風景区)に乗車する。やや西へ移動し、高速鉄道「三亜駅」で下車する(下地図)。
ここから、普通列車に乗車し、西隣 65 kmにある崖州駅まで移動する(1時間半に一本、所要時間 15~20分、13元)。この駅前に、崖州古城が立地している

もしくは、三亜市中心部(吉陽区)の三亜市バスターミナルに戻り、ここから崖州行の都市間バスを利用するのがベストらしい(クーラー無バス 10元、クーラー付バス 11元。所要時間は 1時間強)。 崖州古城前で直接、下車できる

吉陽区

吉陽区




 三亜市での滞在予定

① 三亜市バスターミナル近くの 7天ホテルに投宿。
  ホテル南側にある、三亜市博物館と三亜市海上軍事博物館を訪問する。

② 翌日午前、24番バスで吉陽区の臨川県跡を訪問後、ホテル近くの三亜市バスターミナルに戻り、
  都市間バスで崖州へ移動する(11元、1時間強)。午後に崖州古城、南山地区を散策する

③ ホテル近くの三亜市バスターミナルから、都市間バスで陵水県へ移動する。
  現地の陵水博物館、旧市街地を散策後、白タクで三亜市海棠区藤橋鎮へ西進する(都合のよい郷村バスがない)。
  海棠区藤橋鎮東渓村と旧市村で、吉陽県城跡を散策し、33番路線バスで三亜市中心部へ戻る。

④ 午前中に、三亜市中心部の博物館を見学後、高速鉄道「三亜駅」まで移動し、「金月湾駅」へ北上する。
  下車後、白タクをチャーターして、東方市感城村にある 九龍県城(感恩県城)跡地を訪問する

⑤ 午前中に、三亜市中心部の博物館を見学後、高速鉄道「三亜駅」まで移動し、「棋子湾駅」へ北上する。
  下車後、白タクをチャーターして、古昌化城(昌城郷昌城村)と 旧県村を訪問する



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