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旧州鎮
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 海口市 瓊山区 旧州鎮 ~ 鎮内人口 55万人、一人当たり GDP 49,000 元(海口市 全体)
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崖州城(【初代】瓊山県城、【二代目】舍城県城、【二代目】顔盧県城、珠崖郡城)
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宣徳第(瓊山侯家大院)
定安県中心部(定城鎮)の 古城エリア
を散策後、タクシーをチャーターし、北隣にある瓊山区旧州鎮旧州村へ移動する(路線バス無し)。14 km、20分のドライブで、約 63元。
【三代目】定安県城
と同様、南渡江沿いに築城された河川交通都市だったことが分かる。下地図。
旧州鎮に到着後、本項末尾にある 写真「古城壁跡」の案内板まで、タクシードライバーに乗せてもらうことにした。
その「旧州城遺跡」は、南渡江の右岸から約 600m離れた場所にあった。
唐代に築造された、崖州城跡(瓊山県城、舍城県城、顔盧県城)とする意見が大勢を占めるも、前漢代に開設された朱盧県城跡(紀元前 46年春に閉鎖され、大陸側の 徐聞県城【今の
広東省湛江市
徐聞県】へ転出) とする意見も根強くあり、論争が続けられているという。現在の遺構は、明代に大規模に再建されたもので、南北約 400 m、東西約 290 mの台形に近い長方形型(敷地面積 125,600 m2)で設計され、北東部分がやや出っ張っている。すべてが土塁で築造され、最高で 7mもの高さの盛り土部分も残されており、また四方の外周には外堀が掘削されていたという。
2015年11月29日、海南省政府により史跡指定を受ける。
現在、城跡の西面は徹底的に破壊された痕跡があり、その他の三面が比較的、良好な状態で残っているという。特に、土塁部分は細切れの状態で残存しており、南東へ向かって 51.5 m、南西方向へ向かって 50 m、北西方向へ向かって 50.6 m 分が確認できる。また、西面土塁の外側には、明確な形で外堀跡(長さ約 50 m、幅約 2 m分)も視認できる状態にある。
さらに、古城跡地の地表部分には、多くの縄目模様の 屋根瓦、鬼瓦、青レンガ、壺、皿、お碗、甕などの生活用具や建築資材の破片が散乱しており、いずれも前漢代、唐代~清代に製造された陶器類、石器類という。
旧州鎮からの帰路は、
海口東バスターミナル
へ戻るローカルバスあり(約 1時間のドライブ)。
瓊山区
下で旧州鎮が新設されたのは、1987年という。区の南端部に位置し、区中心部から 27 km離れている。
当地の代表的な歴史遺産は、前述の旧州城遺跡と、清代に建立された 宣徳第(約 12,000 m2)の 2か所で、共に海南省政府から史跡指定を受けている。
後者の宣徳第は、正式名称を瓊山侯家大院といい、旧州鎮包道村に立地する。清代、光緒帝(1871~1908年)が瓊山包道村の侯氏先祖の善行とその品格を称え、この名称を下賜したという史跡である。
また前者の旧州城遺跡に関しては、唐代に築城された 崖州城跡(瓊山県城、舍城県城、顔盧県城)とされる。
海口龍塘鎮にある正方形型の珠崖嶺古城と
、ほぼ形状が似通っているも、その規模に関しては、旧州城側が約 12万m2 に対し、珠崖嶺古城側が約 2.5万 m2 と、圧倒的な隔たりがある点が有力根拠とされる。しかし、両者は明代に海賊対策施設として再建された形跡があり、往時の状態や規模を正確に把握し切れず、前漢時代に建造された 珠崖郡城跡(もしくは、朱盧県城跡)か、唐代の崖州城跡かで、未だに学会論争で続いているという。
ここで前漢時代派の有力論拠となっているものが、旧州城遺跡の東面城壁と北面城壁の中間ポイントで行われた発掘調査により、大量に発見されたという、陶器類、石器類の破片であった。それらの中には、前漢時代や唐代に製造されたものが含まれていたこと、特に縄目模様の屋根瓦が、前漢時代の華南地方で使用されていたものと酷似している点であった。 いずれにせよ、南渡江沿いの旧州地区は、前漢時代から既に人々の生活テリトリーであったことは明らかという。
唐代初期の 621年、珠崖郡が崖州へ改編されると、顔盧県城(今の 海口市瓊山区南東部)に州役所が併設される。
翌 622年、顔盧県が顔城県へ、627年には舍城県城へ改称される。
627年、今の海口市瓊山区旧州鎮に、瓊山県城が新設される。
632年、舍城県城が廃止されると、舍城県役所と崖州役所が瓊山県城内に同時入居することとなる。以後、崖州城として、瓊山県、舍城県、臨機県、万安県、富遼県の 5県を統括する州都として君臨する。
639年、瓊山県が廃止され、また、舍城県が顔盧県へ改称されると、崖州城 兼 顔盧県城となる。
その後、崖州は 742~758年に珠崖郡へ改編されるも、すぐに崖州へ戻されると、五代十国時代も継承され、北宋朝が全国を統一した 972年、完全廃止されて、瓊州に吸収合併されることとなった。
なお、当地での有名エピソードとしては、唐朝廷で 840年から 6年間、宰相を務め権勢を振るった 李徳裕(787~850年)が、政争に敗れて崖州司戸参軍へ左遷後、赴任した当地で病没していることが挙げられる。その他、667年に発生した瓊州での大反乱に際し、黎族の民衆軍によって 顔盧県城(崖州城)も占領されてしまい、789年まで 臨機県城(今の
海南省臨高県
)が、崖州の州都を務めたわけである。
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