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九台区
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
吉林省 長春市 九台区~ 区内人口 60万人、 一人当たり GDP 80,000 元(長春市 全体)
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遼金古城跡(今の 九台市北城子街鎮)
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三泉城古遺跡(今の 九台市恩育郷)
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松江山城(遼王朝&金王朝時代。九台市莽卡郷松江村)吉林省政府指定の史跡
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和気古城址(遼王朝&金王朝時代。九台市卡倫鎮和気村)吉林省政府指定の史跡
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慶陽遺跡(新石器&青銅時代、遼王朝&金王朝時代。九台市苇子溝鎮慶陽村)吉林省政府指定の史跡
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上河湾山城群(前漢時代~遼王朝&金王朝時代。九台市其塔木鎮北山村、城子街鎮大溝村、上河湾鎮于家店村、石羊村、紅朵溝村、双合村、西溝村、玉峰村)吉林省政府指定の史跡
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八家子古城(遼王朝&金王朝時代。九台市其塔木郷八家子村小学西側)長春市政府指定史跡
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趙家溝古城(遼王朝&金王朝時代。九台市上河湾鎮趙家溝屯)長春市政府指定の史跡
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孟家溝遺跡(青銅時代、遼王朝&金王朝時代。九台市上河湾鎮西溝村)長春市政府指定史跡
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干溝上屯遺跡(遼王朝&金王朝時代。九台市上河湾鎮干溝村)長春市政府指定の史跡
長春鉄道駅前
から、399番路線バス(九台駅行)に乗車する。高速道路を経由し、バス停「卡倫中澳城」で下車すると、さらに東進すべく、354番路線バスに乗り換えて、バス停「湖畔香湾」まで移動する。下地図。
ここから、道路反対側にある「和気堡」を散策してみる。もし、白タクを捕まえられれば、白タクで「吉林工商学院」の北隣にある、「九台区卡倫鎮和気村」へ行ってもらう。この村内に「和気古城跡」がある。実際の場所は、現地の人に確認しないと分からない。ネット空間にも参考となる現地写真は一切なく、貴重な撮影写真となるだろう。
和気城跡
遼王朝&金王朝時代に築城された城塞で、土塁城壁で四方を囲まれていた。
その土塁城壁の全長は 1,714 mで、東面と西面城壁のアガサは各 407 m、南面と北面城壁は 450 mの長方形型で、その高さは 2 mで統一されていたが、北面のみ 3 mと高めに設計されていた。その土塁城壁の底辺部分の厚さは 15~20 m、頂上部は 2 mと広めで、騎馬も整備されていたという。
また、土塁城壁の四隅には、縦横各 10 m幅の 角楼(櫓)が増設されていたが、南東と南西の角楼はすでに損壊してしまっており、跡型も残っていない。現在、北東端に残る角楼のみ、完全な状態で保存されており、南東端の角楼遺構は、なんとか生き残っている程度の状態である。そして、ここから 200 m離れた南面城壁沿いに、城門が一つ設置されていた。
この城門前には、全長 16 mの土塁城壁が半円形で増築された甕城が、今も現存する。
さらに城壁上には全面、凹凸壁が設置されていたが、現在、北壁上に不規則な間隔でその一部が残るだけとなっている。特に、北面城壁に残る、3つの 馬面(城壁面のでっぱり部分。縦 2 m、横幅 10 m)は必見である。また、土塁城壁から 5 m離れた位置に、15 m幅の窪地が四方にわたって残っており、当時の外堀跡とされる。
また、かつてこの古城エリア内に、壮麗な伽藍の道教寺院「朝陽宮 道観」が建立されていたという。現在、その遺構は一切残っておらず、史書だけで目にすることができる。
清代後期の 1796年に建立されるも、1946年に撤去された寺院で、その敷地面積は約 1万 m2もあり、正殿など 5棟、西面に宿舎など 3棟、他に鐘鼓楼などの建物が、南向きの設計で配置されていたという。また境内は高さ 2 mの壁で囲まれており、南面中央に楼閣付の正門が設置されていた。この楼閣上に「朝陽宮」という巨大な表札が掲げられていたという。往時には、多くの参拝者や 修行僧(道士)が出入りし、隆盛を極めていたらしい。
そのまま、白タクで 鉄道駅「卡倫駅」まで送ってもらい、ここから普通列車で「九台駅」へ移動したいが、
長春
ー
吉林
間の普通列車は 1日三本しか運行されていないので、非常に不便である。
このため、いったん先ほどの バス停「卡倫中澳城」に戻り、399番路線バスで九台区へ移動することにした。
ちなみに、「九台駅」へは直接、
長春鉄道駅
から九台南駅までの高速鉄道もあるが(一日 2本)、本数も少なく、かつ南駅は九台区中心部からかなり遠い。この駅前の西営城鎮にも何らの古城跡もないため、長春 ⇔ 九台の移動は、 399番路線バスがベストであった。
九台鉄道駅から北へ 700 mの距離にある、九台公路客運中心バスターミナルに到着すると、ここから 郷村バス(城子街、沐石河、上河湾行など多数あり)に乗って、各地方を訪問できる。
筆者はまず、上河湾鎮の中心部にある上河湾客運バスターミナルを目指してみた。現地到着後、白タクをチャーターし、南へ 4 kmにある懐徳堂村の、懐徳堂后山山城跡② を目指すことにした(下地図)。
なお、こんな山奥にある上河湾鎮の発祥であるが、1679年、山東省から王民が一族を連れて移住してきたことが始まりとされ、以後、王氏を中心に城北永智社九甲に集落を形成したという。また、地名の由来であるが、ある狩人が河湾子で一匹の虎を負傷させたエピソードにちなみ、「傷虎湾」と呼称されるようになり、後に発音が同じ「上河湾」の漢字へ改められた、とのことだった。
懐徳堂后山山城跡②への道中、ついでに途中を通過する石羊村に、石羊嶺山頂の山城跡①があるというので、立ち寄ってみることにした(上地図)。山裾には小さな小川が北へ流れており、そのまま上河湾河へ注いでいた。
さらに南進し、懐徳堂后山山城跡②を見学後、続いて東へ移動してもらい、「樺樹嘴子村」を訪問する。ここにある、樺樹嘴子西山城跡③も見学してみたい(下解説コラム参照 ①②③)。
そのまま北上し、上河湾鎮の中心部へ戻りつつ、できれば北へ 1.8 kmの場所にある「北城子村」の北城子古城へも行ってみたい(上地図)。
なお、この上河湾鎮と南隣の城子街鎮との間に広がる山岳地帯には、まだまだ幾つもの 山城群(下解説「上河湾山城群」を参照)が残されている。南隣の「城子街鎮」の大溝村にも、遼王朝&金王朝時代の 城塞「城子街古城」が残っており、そのまま地名の由来になっているという。
これらの山城群の現地写真は、中国サイトにも一切、掲載がなく、筆者が撮影した写真は、大変に貴重なものとなった。
上河湾山城群
長春市九台区下の、其塔木鎮(北山村)、城子街鎮(大溝村)、土們嶺鎮(二道溝屯、荒山、西山、石龍、金家屯、二道溝嶺東、李家屯など)、上河湾鎮(于家店村、石羊村、紅朶溝村、双合村、西溝村、玉豊村の東山城跡など)に、小規模な山城跡が 20ヵ所ほど残されており、それらの現場から遼王朝&金王朝時代の遺物が数多く発見されている。
この一角は、
長春市
と
吉林市
との間にあって、平野部と山々が交互に連なる盆地エリアで、特に東部と南部に高めの山が集中し、長白山山脈を形成している。その東隣に流れる大河・松花江を中心に、盆地エリアには沐石河、霧開河、飲馬河などの河川が、北へ向かって並行して流れている。
この盆地エリアに密集する形で築城された山城群であるが、いずれも水陸の交通の要衝を抑える、見通し効く山頂に立地されており、かつ守備に適した地の利が考え抜かれた設計となっていた。相互にも視認できる距離にあり、連携をとって補完し合っていたと考えられている。
それら山城の城壁の全長は 100 m~300 m程度のもので、その面積も最小のものはわずか 200 m2余り、最大のものでも 1,000 m2程度である。さらに、形状も 円形、楕円形、長方形、三角形など多種多様で、城壁の多くは土と石を混ぜた土塁で築造されているが、一部は山の斜面の地形をそのまま城壁に転用しているものもあった。
なお、これらの山城群跡の築城時期に関しては、目下、学会で 3説が有力視されている。
1つ目は、前漢王朝時代に勃興した夫余国が築城したもので、その後、高句麗、渤海国、遼王朝、金王朝時代へと継承されてきた、というもの。
2つ目は、靺鞨族の一派であった 粟末靺鞨族(渤海国を建国)が築城したもので、遼王朝、金王朝時代まで継続利用されてきた、というもの。
3つ目は、山城群自体が、遼王朝、金王朝時代に築城された、というもの。
特に、遼王朝が渤海国を滅ぼすと、渤海国を構成していた 女真族(靺鞨族から改称)は、遼王朝側へ積極的に帰順した熟女真族と、旧渤海国時代からの土着文化を継承しようとした生女真族に分裂することとなる。両者は、松花江の東西で分断され、松花江の西岸の盆地エリアに居住した熟女真族派により、一帯の山城群が整備されたと考えられている。しかし、現在、東岸の吉林市側には特に類似する山城跡は見つかっておらず、このアンバランスさも疑問視されている。
さらに考古学調査によって発掘された遺物鑑定により、これらの山城群の築城はもっと古い時代だったことが確認されており、懐徳堂后山城跡、樺樹嘴子西山城跡、董家屯東山城跡などからは、青銅時代の遺物である、粗い砂で製造された赤茶色の陶器破片や四棱錐形鼎足、円錐状鬲足などの破片も出土している。これらの遺物は、吉林市、長春市一帯でよくみられる 青銅時代文化(西団山文化の一系統)のそれと類似することから、この台地エリアの複数の山頂部には、西団山文化後期、つまり紀元前 200年前後に、すでに何らかの城塞集落が存在していた、と指摘される根拠となっている。その出土品の中には、もちろん、遼王朝、金王朝時代の遺物も発見されており、山城群は後世にわたっても使用され続けた、という推論されている。
なお、この台地エリアの北側には、巨大な平原が広がっており、ここにも遼王朝&金王朝時代に築城された多くの平城跡が残されている(九台区内の 北城子古城、三台古城、
徳恵市内の 梨樹園子古城、趙家溝古城、布海鎮后城子古城、楊家大橋古城、梁家屯古城など
)。これら山城跡と平城群との距離が近接していることから、相互に密接に連携が図られていたと考えられている。下地図。
ただし、それらはいずれも小規模で、大規模兵団の駐屯基地には不向きだったこと、また交通の要衝ごとに築城されていたことなどから、単なる軍事拠点という目的ではなく、何らかの行政管理施設も兼ねた拠点だったと指摘する意見も提起されている。
なお、これらの山城群のうち、
西隣の徳恵市との間に位置する、梨樹園子古城(徳恵市大房身鎮梨樹園子村)と 楊家大橋古城(徳恵市楊家大橋村)に関しては
、
徳恵公路客運バスターミナル(徳恵鉄道駅に隣接。市内外の各鎮や村へ向かう郷村バスの発着所)から、上河湾鎮行バスが 1時間に一本ある郷村バスに乗車し(7~9元。最終便は 15:20発)、省道「S 303」を東進する途中で、郷道「X 026」との三差路あたりで下車すると、 そこで待ち構える白タクに頼んで訪問するのがベストであろう
。下地図。
石羊嶺山城跡 ①
上河湾鎮の中心部から南へ約 500 m の位置にある、石羊嶺山の山頂にあり、その東面の山裾下には小さな小川が一本、蛇行して北へ流れ、そのまま上河湾河へと注いでいる。
城塞自体は、不規則な楕円形で設計され、南北 37 m、東西約 36 mという小規模なものであった。城壁は土と石を混ぜ合わせた土塁で建造され、北面が高く南面が低い構図であった。また、城壁外には 2~3 m幅の道が四方を取り囲んでおり、城内には大小さまざまなサイズの円形の穴が 18ヵ所、発見されている(長い歴史の中で、土中に埋もれてしまっている)。その他の城郭遺構は一切、現存していない。
かつての考古学調査により、城外の北斜面上で赤茶色の陶器破片や、石斧などの石器類、粗い砂で製造された土器類の破片も見つかっているという。
懐徳堂后山城跡 ②
上河湾鎮の中心部から南へ 4 kmの距離にある、懐徳堂の 后山(城小山 ??)の山頂に位置する。
城塞は不規則な台形型で設計され、東西 102 m、南北 66 mという小ぶりなものであった。西面城壁は山の斜面をうまく加工して整備され、東面と北面城壁は土と石を混ぜ合わせた土塁が積み上げられていた(現在、高さ 1 mほどが残存)。また南面城壁は自然の絶壁を転用しただけであったという。城内では、円形に掘削された穴が 50ヵ所、また赤茶色の陶器破片なども発掘されている。
樺樹嘴子西山城跡 ③
上河湾鎮樺樹村にある、地元民が西山と呼ぶ山頂に立地する。山肌が露出する峻険な岩山を利用して築城されていた。
城塞は不規則な長方形で設計され、東西 36 m、南北 21 mという極小サイズであった。西面城壁は、小石が隆起した山斜面を加工して築造され、東面、北面の両城壁は土と石を混ぜて積み上げた土塁(内面の高さは 1 m、外面は 3~4 mほど)が張り巡らされていた。城塞の南西端には城門が一か所、設置されていたことが分かっており、城内には規則正しく配列された円形の穴が 17ヵ所、発見されている。現在、壁外には周囲を取り囲む、幅 2 mほどの通用道が整備されている。
松江山城跡
莽卡満族郷松江村の小錦州屯の西側にある山頂に位置し、南から北へと流れる松花江が、山裾の南東面をぐるりと巡りながら蛇行する。
吉林市
側からアクセスした方が近い。
遼王朝&金王朝時代に築城された台形型の山城で、東西幅 26 m、南北幅 25 mという、中学校のプールサイズである。現存する土塁城壁の高さは 2 m~3.5 m、城壁底辺の幅は 6 m~10 mサイズで、北東角に城門が一か所、設置されていた(縦 3.5 m×横 5.5 m)。また、城塞の西面と北面の外周部に 1 m間隔で二重の堀(幅 4 m)が発見されており、さらに北面の山斜面上には 2本の側溝(幅 2.3 m)もあり、そのまま山裾の真下まで通じていたことが確認されている。
【 長春市九台区 の歴史 】
紀元前後には、扶餘国の支配地に組み込まれ、扶餘国が滅亡すると、靺鞨族下の諸部族が割拠するエリアとなっていた。698年以降は、靺鞨族が建国した渤海国の支配地に組み込まれ、
扶餘府(今の 長春市農安県)
に統括される。
926年、渤海国を滅ぼし、遼王朝が中国東北地方を支配すると、引き続き、東京道
黄龍府(今の 長春市農安県)
の管轄区に属した。
金王朝時代も、上京路済州(遼王朝時代の黄龍府から改編)に統括される。 1189年に済州が隆州へ、1215年ごろに隆安府へ改編されるも、今の九台区一帯は、一貫してこの隆安府に属した。
元代には 開元路(当初、開元路の役所は
黄龍府城
に開設されていたが、後に今の
遼寧省鉄嶺市
開原市へ移転される)に、明代には奴児干都司に統括された(下地図)。
清代初期の 1670~1681年にかけて、柳条辺壁(新辺)が、現在の吉林省一帯にも大規模に建造される。
これは、漢民族とモンゴル族の人々が、「神聖なる」満州族の土地に流入することを阻止するために、清朝が築造した長大な土塁壁で、現在の吉林省内には出入り口用の関所(辺門と通称された)が 4か所、開設されていた。この 4辺門を含め、南北あわせて 28か所の 辺台(関所と兵士駐屯所)が設置されており、今の九台区の中心部は、その 28辺台の一つがあった場所で、最北端の 法特哈門(第一関所)から数えて九番目の辺台だったわけである。清代中期にかけて、この辺台の内外両側に門前町とも呼べる集落地が徐々に形成されるようになり、九台の関所でも、上九台と 下九台(晒爾台)の町が誕生したという。
満州国が建国された直後の 1932年、永吉県、
徳恵県
、
長春県
の 3県の一部が分離され、「九台県」が新設される(吉林省に所属)。県役所が、この下九台に開設されたことに由来する命名であった。
満州国崩壊後の 1945年10月、九台鎮へ改編された後、1947年6月5日に九台県に戻される。 2014年12月20日、
長春市
に組み込まれると、長春市九台区となり、今日に至る。
なお現在、240ヘクタールもある巨大森林公園として整備されている八台嶺風景区であるが、その名の通り、関所「八台」が開設されていたことに由来している。この自然保護区の中心を成す最高峰の 山・八台嶺(鹿鼎山)には、かつて烽火台も設置されていたという。
漢方薬草の材料がたくさん生息するという、この山中には、地元神にまつわるエピソードが多い「狐仙洞」という洞窟や、「古驛村落」というテーマパーク(東北地方特有の 漢族、満族、朝鮮族、蒙古族ら多民族融合の文化活動が誇示されている)が立地する。
そもそも清王朝は、満州民族の発祥の地である中国東北地方を「皇帝一族の 出身地(龍興の地)」と定め、南からの漢民族、東からの朝鮮族、西からのモンゴル族の流入を防止すべく、 1638年より、境界用の堀の掘削に着手していた(満州語で「辺」と通称された)。その堀の掘削工事と同時進行で、沿道に柳の木を植樹しつつ延伸させたことから、後に「柳城」「柳条辺」と通称されるようになっていく。最終的に、「柳条辺」建造工事は 1681年に完成を見ることとなり、実に 43年を要する大事業となった。
その工事は、二期に別れて作業が進められていた。
1661年までに完成された、一期目建造の土塁と堀は「老辺」と称され、威遠堡(下写真左。今の
遼寧省鉄嶺市
開原市)を基点に、東は
遼寧省丹東市
鳳城市から、西は 山海関(今の
河北省秦皇島市
山海関区)までの全長 1,000 kmを結ぶものであった(上地図)。
二期目の工事は 1670~1681年に進められた「新辺」の建造で、威遠堡から東北へ向かって、現在の吉林省を貫く、全長約 345 kmの土塁壁であった(上地図)。寧古塔将軍(行政庁は、今の
黒竜江省牡丹江市
海林市長汀鎮古城村にあった寧古塔城遺跡。清朝廷直轄の
盛京(遼寧省瀋陽市)
以北の、中国東北部の軍事、政治、経済のトップ行政機関だった)が作業を担当した。
なお、この全長 1,300 km強にも及ぶ「柳条辺」であるが、その土塁自体は幅 1 m、高さ 1 mほどの小ぶりなもので、その上に 1.7 m間隔で、柳の木が 3本ずつ植林されていた。植樹作業は、等間隔で 13 cm四方の穴が掘られ、高さ 2 m強の柳の木が植えられて行ったという。その際、土中に 0.7 m埋め込まれ、外部には 1.4 mの高さ分が出るように統一され、さらに隣接する柳の枝どうしが絡み合わされて、縄で連結されていた(插柳結縄)。また、土塁壁の外側には幅 2.7 mの街道が整備されており、その脇を幅 1.7 m、深さ 2.7 m の堀が延々と掘削されていた。
なお、一部の「柳条辺」は、かつて明朝が整備した長城がそのまま修繕され援用されており、ここには柳の木は植樹されず、堀も掘削されていなかったという。
この土塁壁「柳条辺」は、明代の石積みの長城と異なり、軍事目的ではなかったため、堅固で峻険な地形や設備は全く装備されていなかった。単に、立入禁止区域を示すフェンスの役割を担っただけで、区域内を「辺内」、それ以外を「辺外」として区分けしていたという。
ただし、この境界ラインの入退出は、特に厳格に管理されていた。
「柳条辺」沿いに、一定間隔ごとに 関所門(辺門)が配置され、住民や商人らの出入りがコントロールされていた。老辺の方では 16か所の辺門が、新辺の方では 4か所が開設され、各門には見張り台や城門楼閣まで設置されて、兵士が駐在し、軍事統制されていたという。また、辺門の両側には小部屋が併設されており、片方は取り調べや収監用のスペース、もう片方は巡差らの宿舎となっていた。
その官舎には、文官と武官の両者が駐在していた。半武装の兵士が 30~40名ほど関所門を監督し、文官らが通行人の検査を担当していた。当時、辺門を通行する者は、必ず地元当局が押印した 印票(通行人の氏名、年齢、民族、風貌などを記されていた)を携帯する決まりとなっており、都度の検査を経て通行が許可されていた。また、印表には通行が許された辺門も指定されており、違反者は問答無用で罪に問われたという。
なお、「柳条辺」は、単に通行人を管理する関所機能以外にも、同時に東北地方全体の街道管理をも兼ねており、辺門以外にも、 300余りの 辺台(土塁壁の管理支局)と呼ばれる駐在拠点が壁沿いに設置されていた。彼らは、土塁壁の見回りと修繕業務を主な任務としており、それぞれに 千総(正規の駐屯基地である「営」の下部組織にあたる、「汛」クラスを統括した武官職) 3~4人が配置され、台丁として指名された地元民 150~200らを監督していた。清朝廷は、これら辺門、辺台の官兵らに対し、厳格な業務規定と処罰を設けて、任務に当たらせていたという。
二期目の工事で建造された新辺には、合計で 29ヵ所の辺台が開設されており、現在の九台区内には9ヵ所が立地していた。西から東へ順番に見ていくと、
第 19台は二台子、今の東湖街道腰站村二台屯。
第 20台は飲馬河台子、今の東湖街道荊家村で、飲馬河の西岸辺り。
第 21台は土台子、今の九郊街道上台子屯(最北端から、第 9番目の辺台)。
第 22台は八台子、今の苇子溝鎮八台村(最北端から、第 8番目の辺台)。
第 23台は七台子、今の城子街鎮七台村(最北端から、第 7番目の辺台)。
第 24台は六台子、今の城子街鎮六台村(最北端から、第 6番目の辺台)。
第 25台は五台子、今の上河湾鎮五台村(最北端から、第 5番目の辺台。今日でも「小五台」とも別称される)。
第 26台は四台子、今の上河湾鎮四台村(最北端から、第 4番目の辺台)。
第 27台は三台子、今の上河湾鎮三台村三台屯(最北端から、第 3番目の辺台)。
最終的に、「柳条辺(新辺)」はここから東へ続き、松花江を渡河して、現在の
吉林省吉林市
舒蘭市法特鎮へと通じていた(下地図の右端)。
漢民族、モンゴル族などの流入阻止を目論んだ「柳条辺」の設置と管理であったが、実際には 伯都訥(今の
吉林省松原市
寧江区にある伯都訥古城)の八旗官兵らが、囚人を含む民間人らを募集して農地を耕作させるなどしており、清代中期までは全体的に管理が緩かったという。
しかし、1736年4月に封禁政策が厳格化されると、生活に困難した 旗人(満州族の兵士ら)を東北地方へ送り返して自活を促すことが優先され、その他の民族らの入植は一切、厳禁とされる。1738~1741年の期間中、満州族以外の立ち入りは全面禁止されていたが、人口激減で間もなく破綻をきたし、再び緩やかに他民族の入植を受け付けるようになっていく。
それでも遅々として進まない中国東北地方の開発に対し、北からロシア帝国の影響力が増してくると、いよいよ清朝も国境防衛と東北地方の経済発展の急務を悟り、 1840年以降、順次、東北地方の土地が解放され、新移民の土地開墾が解禁されていく。以降、東北地方の人口は順調に増加し、柳条辺の土塁壁も完全に形骸化されていくこととなった。
1860年以降は、東北地方の全面開放が成り、柳条辺は完全に歴史の舞台から姿を消し、中国東北地方は「関東地区」と呼称される新時代を迎えるわけである。
現在、吉林省政府から史跡指定を受けている柳条新辺跡であるが、各地に断片的に残されている。主なものは、
四平市
鉄東区、
梨樹県
、公主嶺市、
伊通満族自治県
、
長春市
九台区、
徳恵市
、舒蘭市などで見られる。
なお、他民族が混在する中国東北地方だけあって、イスラム教徒の町まで存在していた。それが、長春市九台区胡家回族郷である(上地図)。
吉林省内にあるイスラム教徒の主要な居住地区の一つとされ(1964年5月14日新設)、清代初期の 1679年に、イスラム教徒の集団が移住してきて、集落を形成させたことに端を発するという。入植後、すぐに平屋建てのイスラム礼拝堂が建立され(今の清真寺道南河岸あたり)、それが今日まで継承されている、近現代の 重要史跡「百年清真古寺」で、目下、吉林省政府により史跡指定を受け保護されているわけである(2014年)。
ここは現在、胡家回族郷「蜂蜜村」と呼ばれる集落で、この 500年近い歴史を誇るイスラム礼拝堂(蜂蜜営清真寺)が村のシンボルとなっているわけだが、1898年、大洪水で礼拝堂が水没してしまうと、地元イスラム教徒らの寄付によって再建されるも(1909年)、文化大革命期、徹底的な破壊を受けることとなった。現在の礼拝堂は、 1985年に政府補助により再建されたものという。
再建された本堂は、300~400人の礼拜者を収容できる巨大さで、その後方には、 2階建ての望月楼が直結される。望月楼の窓の上には、青色の四角形のレンガに「礼塑先天、清真古教」の大きな八文字が彫り込まれ、非常に目立つデザインとなっている。また、礼拝堂の建物は細部にわたる装飾も見事で、青と緑を基調とする壮麗な外観は見る者を圧倒する。
礼拝所前には、白色の大理石を用いた碑文が設置され、清代からの歴史や、大洪水後の再建時の寄付者リストなどが刻印されている。そこには、共産党時代前、平時の宗教活動の收入以外に、耕作地を 82ヘクタール有し、年貢として 123石の収入があったことまでは言及されているという。
なお、「蜂蜜村」の地名であるが、当地の住民が伝統的に、清朝廷の皇宮へ納める蜂蜜を生産する業務を司っており、住民らは蜂を養殖して生計を立ててきたことに由来する(「蜂蜜営」と呼ばれていた)。当地には住民管理のため、打勝烏拉総管衙門が開設されていたという。
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