BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 汕頭市 金平区 ~ 区内人口 84万人、 一人当たり GDP 35,000 元(汕頭市 全体)


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  潮陽区中心部から路線バスに乗車し、汕頭市金平区に入る(30分、10元)
  礐石汽車客運(西堤)バスターミナル と 地元路線バスの 発着ポイント「西堤碼頭」
  江沢民の直筆という 駅名を掲げる「汕頭鉄道駅」の威容
  105番路線バス ~ バス停「西堤碼頭」から、7天酒店、崎碌砲台(石砲台)、南澳島 へ
  57番路線バス ~ 蓬洲所城跡 と 達濠古城(濠江区)の同時訪問ルート
  【豆知識】蓬洲所城の歴史 と 都市形成 ■■■
  【豆知識】崎碌砲台陣地(金平砲台、石砲台公園) ■■■
  【豆知識】国民革命軍東征軍総指揮部跡 と 北回帰線標示塔 ■■■



潮陽区中心部の「西環城路」沿いから「汕頭行」のバスに乗車する(10元)
東山大道 を経由し、国道 G324に入ると下水工事中なのか、3車線が 1車線になり、非常に混雑していた。工事車両や物流トラック、自家用車にバスが混在し、無法地帯と化した道路だった。
途中、濠江区 の北端を経由し、すぐにまた汕頭礐石大橋を渡る(下写真)。

金平区

巨大な河口部だった。河岸はどこから陸地か分からないような湿地帯になっているようだった。

金平区

バスはすぐに右折して西堤路沿いに入ると、すぐに 礐石汽車客運(西堤)バスターミナル があった。ここから潮州行のバスがある、というので、下車する(潮陽区中心部 から 30分のドライブ)。

金平区 金平区

礐石汽車客運(西堤)バスターミナルから見てみると、真後ろに汕頭礐石大橋が控えており、まさに真上に陸橋が設置されていることが伺えた。
バスチケット売り場で質問するも、潮州 行は一日 3本(8:30、13:30、16:30)のみ運行されており、筆者訪問した 17:10には、潮州行バスはすでに終了していた。

こうした客が多いのだろう、それを見越したバイク白タクが熱心に勧誘してくる。他人と相乗りでよければ 70元で自家用車を手配してもいい、とまで言ってくる。

とりあえず、せっかく当地に下車したし、付近を回ってみたいので、また後で声をかけると言うも、しつこくもおせっかいなぐらい繰り返し説明してくれた。

金平区 金平区

そのバスターミナル脇に船着き場の跡地があった。「ここは船着き場ですか?」と質問すると、すでに船会社は倒産し、その敷地は現在、バス駐車場になっているとのこと。今では皆、自家用車などで汕頭礐石大橋を渡っているのだという。上写真左。

また、ここから 揭陽市普寧市 まで海岸沿いを移動する中距離バスが発着しているようで、客待ちしていた(上写真右)。この近郊路線は夜遅くまで絶え間なく運行されている様子だった。
汕頭(汕頭市金平区西堤路の 礐石汽車客運バスターミナル) → 汕頭市潮陽区和平鎮 → 汕頭市潮南区峡山鎮 → 汕頭市潮南区司馬浦鎮 → 汕頭市潮陽区 → 汕頭市潮南区陳店鎮 → 揭陽市普寧市占隴鎮 → 揭陽市普寧市 の 中心部(流沙広場)、というルートらしい。

さて、バスターミナル前の 西堤路(このバスターミナル前から海濱路へ改称される)を道路向かいへ渡ってみた。何台か地元の路線バスが複数、停車しており、何かヒントがあるかも??と思った次第である。

金平区 金平区

この至平路沿いが地元路線バスの発着ポイントで「西堤碼頭」という場所だった。
なお、この脇に南澳島への路線バス発着の案内板があった(このバス停から、 105番路線バスで 20分に一本運行されているらしかった。14元)。この路線は海濱路沿いを通過するため、7天酒店に投宿すると便利な路線でもあった(市内運賃は一律 2元)。

さて汕頭訪問の初日は、この「西堤碼頭」に停車中の K1路線バスで終点の汕頭鉄道駅まで移動した(上写真左)。①番路線バスは通常ルートに対し、K1路線バスは快速線らしく、たった 4つほどしかバス停が無いようだった。30分ちょうどで終点の汕頭鉄道駅に到着した(2元)。
この鉄道駅前は地元バス発着ターナルも兼ねているようで、6~7ルート程度の地元バスが周回しているようだった(上写真右)。

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なお汕頭鉄道駅には、江沢民の直筆という駅名がでかでかと表示されていた。上写真。

この汕頭鉄道駅は高速鉄道も通っているらしく、30分弱の乗車で 潮汕駅 に到着できた(10元)。実際には 15分ほどの距離だっただろうが、列車の時刻調整なのか、深厦高速鉄道の本線を優先するかのように、一本やり過ごしてから、ようやく潮汕駅に入っているようだった。
なお、汕頭駅からの 普通列車(鈍車)だと 6元だそうだが、かなり本数が少ないらしく、次は夜 22:20発しかないとのことだった。


高速鉄道「潮汕駅」からも、この金平区に直接アクセスできる。

金平区 金平区

潮汕駅南にある潮州粤運中心のにある乗車券カウンターで、バス・チケットを購入する(20元。左端に掲示。窓口は 3つのうち、いずれに並んでも OK)。パスポートを提示する。この便は快速便であるが、ここのチケットを購入せず、直接、バス乗り場へ行くと、181番路線バス(上写真左)に乗車することもできる。これは各駅停車の路線バスで 10元だった。上写真右は、運行ル―ト。


金平区

さて、2回目訪問時、汕頭港・海濱路沿いの 7天酒店(汕頭市政府店)に投宿した。
この河川沿いの海濱路を移動する場合は、南澳島(石砲台公園も通過)を往復する 105番路線バスで最寄りまで移動するか、ホテル正面の利安路を北上し外馬路との交差点まで出てから、バス停「利鴻基」にて路線バスを拾っていくことになる。

この バス停「利鴻基」で岐山客運駅方面行の 59番路線バス(先ほどの礐石汽車客運バスターミナルの道路向かいの 西堤碼頭を発車する)に乗車し、バス停「電視塔」まで移動する。ここで、汕頭大学方面行の 57番路線バスに乗車し、バス停「鮠浦」もしくは「鮠中路口」で下車する(下地図)。

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そのまま北へ 500mほど徒歩移動する。間もなく運河を渡ると、蓬洲所城があった古城エリアに到達する(下地図)。

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また、反対車線で南山湾交通ターミナル方面の 57番路線バスに乗車すると、 濠江区 を直接、訪問することもできる。

 蓬洲所城

蓬洲所城跡は汕頭市金平区鮀江街道蓬洲村にある桑浦山の 山麓(蓬東居委あたり)に立地し、明代初期の 1394年に建造された城塞であるが、現在、城壁は撤去され、ほとんどの石垣が外堀の埋め立てと、民間人の勝手な転用ではがされてしまい、現存する城郭遺構はわずかに東面城壁の一部(全長 13.8 m、厚さ 3.6 m、高さ 4.3 m)と、北面城壁の一部(全長は 5.2 m、厚さ 1.5 m、高さ 3.2 m)だけという。
金平区

城壁遺跡は花崗岩を長方形に加工されて積み上げられており、東面城壁の側面の裏側には古いガジュマルの樹が 1株あり、北面城壁はその根で裏面が覆われていたため、この両面の遺構が今日まで保存され得たというわけだった。しかし、近年は、ますます風化が進んでしまっているという。下写真。

金平区 金平区

明代初期の 1369年、明朝廷は蓬洲都下の厦嶺漁村内に【初代】蓬洲守御千戸所城を建造する。これが、潮州府下にあって建造された 4カ所の所城の最初の築城であった。その他の 3か所とは、𩜙平鎮にある 大埕所城(1394年建造)、恵来県下の 靖海所城(1549年建造)、潮陽区下の 海門所城(1570年ごろの建造)であった。

しかし、1394年にこの厦嶺村で民衆反乱が発生すると、明朝廷は所城の移転を決定し、榕江の東岸にある鮀江都下の埕諸村に新たに所城を築城する。名称はそのまま同じ、【二代目】蓬洲守御千戸所城とされた(下絵図)。蓬洲都内から鮀江都へ移転された後も、旧名が継承されたため、行政区を越えた ちぐはぐな存在となってしまったわけである(これから明代を通じて激化する倭寇の襲撃に際し、厦嶺漁村の人々はこの時の反乱や所城移転を多いに悔やんだに違いない)。

金平区

こうして【二代目】蓬洲所城は 1398年に完成を見る。高さは約 5 mの全面石積み城壁の全長は約 2,000 mとなり、四城門と見張り台四か所を有したという。
また、城外には全長 2,500 m、水深 3.4 m、幅 6.7 mの外堀が四方を取り囲み、海へと通じる水路を兼務していた。こうした水運力は物資の輸送や商工業の振興に寄与するだけでなく、攻めがたく守りやすい地の利を所城に提供したのだった。
その後、明代末期の 1625年、また清代後期の 1803年にも改修工事が施されたという。

蓬洲所城は当初、1,120名の兵士と 24名の上級将軍らが配置されていた。四城門にはそれぞれ担当指揮官が配され、東門には陳、西門には呉、北門には江がそれぞれ担当し、南門に配置された 謝贛南(明建国の功臣の一人)が最高司令官として所城を委ねられることとなる。謝贛南の駐屯は、明朝廷の注目度が相当に高い所城であったことの証左で、以降、謝贛南の子孫らが当地に住み続け、将軍職を継承していったという。

明代の 1560年代、倭寇の襲撃が激化し、沿海地方の村落や城塞は甚大な被害を受けていた。
こうした中、兵部右侍郎兼都察院右検都御史の 翁万達(鮀江都出身)が朝廷に上奏し、隣接する四郷の住民らも所城へ居住することを申し出る一方、住民らも民兵として徴兵に応じることを約束する。

これに伴い、移住を開始した富裕層らは我先にと所城内の土地を購入し邸宅を立てていった。
しばらくすると引っ越しも落ち着き、城内の人口は急増し、縦横に路地裏が発達する。
以後、城内は 三街六大巷(南北路地は街、東西路地は巷)の碁盤の目で構成され、南北路地は 順興街、中興街、原興街と、東西路地は 楊厝巷、八角楼巷、西門巷、市巷、亭脚巷、公婆巷、許厝巷と命名されていた。その他、裏路地として 木坑爺巷、胶走巷、関爺宮巷、文祠巷 なども敷設されていた。まさに、典型的な明代の小規模な城塞集落スタイルであったという。
この中で、許厝巷の中央部に、当地の富裕層らの邸宅や役所群が軒を連ねており、政治、経済の中心エリアを構成していたという。

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以後、明代と清代を通じて、蓬洲所城は 鮀江都、鮀浦巡検司、鮀浦司衙門の各役所が併設された地元の中心都市であり続け、鮀江都内の 人、モノ、カネが常に集まって隆盛を極めたという。それから数百年間で城内の人口も増加し、城中の戸籍は四十余りもの氏族が同居する状態となっていたという。

この間、何度か城壁の修復工事が繰り返されるも、基本的な原型や規模はそのまま保持されてきた。しかし、日中戦争が開始されると、日本軍の攻撃により城壁の半分が破壊され、残存部分も 1958年に撤去されてしまうのだった。

城壁がまだ残っていた時代、蓬城八景という名所が地元で人気となっており、溪東漁火、古寺鐘声、寺前古樹、石洞听琴、晒書留影、獅山垂涎、石龍運眺、石亀飲泉と詠まれていた。しかし、往時に誇ったこれらの名所もいずれも荒廃が進み、その美しさは大いに喪失されているものの、今でも一見の価値は十分にあるという。


 崎碌砲台(石砲台公園)

崎碌砲台遺跡は汕頭市海濱路沿いに現存し、円形に石垣をめぐらせた砲台陣地となっていた。
1983年に汕頭市により石砲台公園として整備され、1988年に汕頭市政府に、翌 1989年には広東省政府により史跡指定を受けることとなる。

時は 19世紀半ば、第一次アヘン戦争と 第二次アヘン戦争(アロー戦争)を経て、清朝政府は欧米列強と南京条約や天津条約などの不平等条約を締結し、沿岸部の主要都市の開港を約束させられると、この汕頭港も開港 10都市の一つに選定されることとなる。
以降、外国籍の商船がひっきりなしに来航するようになり、海防や治安強化を求める民意が高まる中、当時の潮州総兵であった方耀順が海防強化を清朝廷へ上奏し、崎碌砲台陣地の建設が許可されたのだった。
こうして 1874年から工事が着手され、5年の歳月と 80,000 両白銀(現在価値で 1,600万元。当時、中央朝廷内の局長レベルの役人年収は 45両白銀=現在価値 9,000 元だった)をかけて 1879年に完成される。
旧汕頭半島の南東の角部分に立地し、対岸の 蘇安山(今の 汕頭市濠江区 蘇安村)上の砲台陣地と呼応して、敵に対応する戦略的ロケーションとなっていた。

金平区

砲台陣地の総面積は 19,607 m2(直径 116 m)あり、要塞内部(直径 85 m)の面積は 10,568 m2となっていた。この周囲を幅 23 m、水深 3 mの外堀が一周取り囲むスタイルであった。
外壁の高さは 6 m、内壁の高さは 5.15 mで、この差 85 cmが防弾壁となっていた。 2階部分はこの防弾壁に守られた屋外守備隊が配置され、そして 1階部分はさらに分厚い防塁壁に守られた砲座が並び、上下あわせて 18門の大砲(最大飛力は、射程距離が 7~8 km)とわずかな機銃口が設けられていたという。この 1階部分は幅 4.1 mの通路が設けられ、ぐるりと砲台陣地を回れる仕組みであった(一周約 300 m)。

なお、防塁壁の石垣であるが、貝殻や 灰、土砂などを混ぜ合わせて建造されており、要塞門や大砲台座などの重要箇所のみ、規則正しく加工された同サイズの花崗岩が積み上げられていた。ここから地元では石砲台と通称されていたという。

砲台陣地の北東部分には司令官用の台座が設けられ、作戦指揮や兵士らの訓練監督などに使用されていた。その北西部には通路が続いており、弾薬などの輸送経路を外部から見られないように設計されていたという。
また、北東角には淡水井戸が設けられ、当時の守備兵らの生活用水として使用されていたという。井戸は海からわずかに数十 mしか離れていなかったにもかかわらず、淡水が汲み出せたという。


 国民革命軍東征軍総指揮部、政治部旧跡

汕頭市金平区外馬路 207号にある歴史遺産で、国民革命軍の東征軍総指揮部、政治部の旧事務局跡の鉄筋コンクリート建造物は、もともと英国人が経営するホテルで適宜楼と呼ばれていた(1926年建設)。後に戈宝抽紗行と改称される。
1927年8月1日に勃発した共産党による 南昌蜂起(南昌起義)に際しては、共産党の南下部隊の総指揮部所が置かれた場所という。

金平区


 汕頭市北回帰線標示塔

この標示塔は汕頭市金平区鮀蓮街道桑浦山鶏籠山の南山面麓に立つ(1986年6月20日完成)。東の 台湾島嘉義市にある射日塔 から 西の広州市従化区を結ぶ一直線上に立地する。 1994年11月に汕頭市政府によって歴史遺産に指定された。


【 金平区の 歴史 】

金平区は汕頭市政府が立地する場所で、汕頭市の 政治、経済、文化、商業の中心地であり、特に汕頭経済特区は水陸交通の重要な出入口に立地し、大規模に海岸部が埋め立てられており、鄧小平による改革開放政策で重点地区として注目を集めることとなった場所である。

金平区

金平区一帯はもともと、揭陽県の管轄下であった。元代に海岸エリアの交易集落が形成され、明代の 1563年、澄海県 が新設されると、この行政区に移籍される。清代を通じて、澄海県下の鮀浦司が統括した。
中華民国時代の 1921年4月16日、汕頭市が新設されると、澄海県から分離独立し、当初は金園区と命名され、後に金平区となる。


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