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陸豊市 碣石鎮
訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~
広東省 汕尾市 陸豊市 碣石鎮 ~ 鎮内人口 35万人、 一人当たり GDP 26,000 元 (汕尾市 全体)
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浅澳砲台遺跡 と 防塁壁
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浅澳砲台遺跡の 海岸ラインにちらばる 巨大石は何??
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【豆知識】浅澳砲台遺跡
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碣石湾 と 碣石水軍基地跡
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碣石衛城
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錦江古廟、玄壇古廟、高山寺などの 古刹が健在する古城エリアと 中所街
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【豆知識】碣石鎮の 歴史 ~ 碣石衛城 と 石橋村城の二城塞の並立時代 ■■■
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内憂外患の明末清初の 大混乱の時代、大いに荒れた碣石衛城と 石橋村城
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新生・碣石衛城(1670年~)の 古地図
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碣石鎮の 古刹・玄武山 元山寺
陸豊市
総合バスターミナルから、碣石鎮行きの郊外向け路線バスに乗車する。16元、所要時間 50分。途中、東部郊外の集落地である 博美鎮、内湖鎮、南塘鎮を通過していった。
碣石鎮に到着後、すぐに旧市街地を巡ろうと歩き出してはみたが、よく考えると、旧市街地と浅澳村砲台遺跡は同じ方角なので、先にバイクタクシーで遠い方の砲台遺跡を巡った後に、戻りの道中で旧市街地で下車させてもらう道順を思い至った。
再び、バスターミナルに戻り、バイクタクシーと交渉する。片道 30元。約 15分程度で到着。
思ったより遠く、バイクの運転手が怒っていたので、チップ 20元をつけておいた。
【 浅澳村砲台遺跡 】
浅澳村砲台遺跡は浅澳村の入り口にあり、アクセスが便利だった。
目下、遺跡内は立ち入り禁止なのか入り口が封鎖されており、麓に建つ小学校の正門前にわずかに残る防塁壁を撮影できたのみだった。
この砲台下の小学校校舎あたりに、かつては兵舎が設置されていたという。下写真。
この防塁壁の残骸は、砲台そのものの防護壁ではなく、兵舎を囲っていた防衛陣地用の土壁であった。いちおう、矢狭間や凹凸女壁も設けられていたことが分かる。
せっかく来たのに物足りないので、砲台の小山を一周、巡ってみる。
下写真
は南面を撮影。
前面には巨大石が幾重にも積み重なっており、当時は確かに頑強な砲台だっただろう。
周囲に広がる砂浜エリアと比べても、なぜこの小山部分にだけ巨石が集まっているのか、不思議だった。もともとの岸壁が波で侵食され、自身の一部であった岩がその眼下に積み重なったものであろうか。。。 それとも、兵士らが動員されて、他から持ち込まれたものなのだろうか。。。
下写真は、砲台を北面から撮影したもの。上部にはわずかに石積みの防塁壁が残っているのが見えた。
麓部分には、お墓が複数、設けられていた。写真内の直線的に加工された部分。
ここ以外の海岸線は全面に開けており、現在は海水浴場らしく脱衣場などが設置されていた。
浅澳村の集落地は、砂浜の上に家屋が建てられており、漁村ののどかな暮らしぶりがオープンに展開されていた。
砲台の防衛壁は、建造当時、高さ 2.5 m、厚さ 1.5 mもあったそうだが、すべてはぎとられ、これらの学校校舎や民家などの建物用材として転用されてしまったことだろう。
ちょうどこの浅澳村のバスターミナルは(上写真左)、砲台遺跡の小学校下に位置し、 15分に一本、運行されている。路線バス ①番。4元。だいたい片道 20~25分で碣石鎮バスターミナルまでを往復していた。
上写真右は、古い井戸跡。小学校の前にこんなのを残していると、危ない気もするが。。。
浅澳砲台
は、陸豊市碣石鎮浅澳村の北側の岬部分の岩山の上に建造されており、三方を海に囲まれていた。碣石衛城の海岸線の第一防衛ラインを構成し、明代、清代を通じて、広東省東部エリアの重要な海防拠点の一角を担ったという。
第一次アヘン戦争の直前、欽差大臣の林則徐が自らこの地に視察に赴いている。
砲台要塞は縦 50 m、横 40 mの超大型の 長方形(専有面積 2,000 m2)をしており、防塁壁は不規則な花崗岩を積み上げたもので、防壁の厚さは 1.5 m、高さ 2.5 mもあったとされる。
砲台の南面の麓には兵舎が設置されており、灰と粘土による土壁で囲まれていたという。 今も、矢狭間や銃眼を有した、この防塁壁の一部が現存している。
筆者は路線バス① に 20分ほど乗車後、旧市街地近くの北新大道沿いで下車した。
途中
、大量の漁船が停泊する旧市街地あたりの碣石湾エリアを撮影した(下写真左)。
この湾内の入り江にはかつて碣石水軍基地が設けられており、広東省下の 6大水軍基地(潮州の
柘林
、恵州の碣石、広州の
南頭
、肇慶の恩陽、雷州の白鴿、琼州の白沙)の一角を成していたという。
碣石湾であるが、湾の外側には大型船が停泊できたものの、内側の入り江は水深が浅いわりに広大な面積が広がっており、外海への移動にはやや手間な構造になっていた。また台風の襲来の度、多くの大型船舶が座礁する危険な湾岸エリアであり、船舶の停泊には不向きな地形であったらしい。このため、水軍基地で船舶の多寡がモノを言った当時、小規模な軍船が多めに待機されていたという。
この碣石水軍基地は 1550年ごろに建造されたとされるが、今日、すでに跡形も無くなってしまっており、わずかに歴史文献にその存在を記すのみとなっている。
【 碣石衛城 】
北新大道から一本奥に入った玄武路沿いの 碣石鎮北城学校(上写真右)より、古城エリアへ入り込むと、例のごとく、細い路地が入り組む迷路のような集落地エリアが広がる。
古城エリアのメインストリートは、新馬路と太安大街である。ここが城内の南北と東西の主要街道であった(下写真左)。
新馬路沿いの玄壇古廟は、古城地区で最も有名な廟所という(下写真右)。
下写真左は、古城西エリアのメインストリートであった西関大巷。所々、廃墟となった旧家屋も目立った。
その一本外側を走る新街大巷には、城壁跡らしい壁があったので、とりあえず、写真を撮ってみた(下写真右)。おそらく、西側城壁の一部であろうか??
東門側には 打石廟巷、楼脚巷、天徳後巷 などの路地が連なる中、 最も東端に位置する 水巷口、水朝門(下写真左)などの路地名からは、城内から海路へとつながる水路が掘削されていたことが分かる。
古城
の南エリアでは、謝家囲という路地が数本あり(上写真右)、この一帯には地元の名士である謝氏一家の大豪邸があったのだろうと推察できた。
それにしても、城内には副徳祠や 天后聖廟(上写真左)、錦江古廟(下写真左。地元の歴史遺産に指定されていた)などの信仰神を祀った祠廟がたくさん設置されており、祖先を祀った宗廟はあまり見られなかった。
上写真右は、永安社の祠で古城時代よりここに鎮座するという。この横を通過する龍髭井社車路巷は、 永安社により急に道幅が狭められたため、昔から大混雑のメッカだったという。
狭い旧市街地にあって、高山寺がひときわ大きな境内を有していた(上写真右。 共産党中国の誕生までに、碣石衛城の周囲一帯には 10万を超える身元不明の 遺骨が埋没しており、これらをまとめて供養した善堂を本殿とする)。中所街沿い。
この中所街は、その名の通り、碣石衛城時代から中央通りを成していた。下写真。
この中所街と南渓村との三差路で、碣石鎮バスターミナルまで三輪バイクタクシーに乗ることにした(5元)。 1時間ほどの散策で、かなり疲労した。
今から約 4000~5000年前の新石器時代後期には、すでに
碣石鎮
の半島部南端の田尾山一帯で、人類の生息が確認されているという。
碣石鎮は唐代の 820年に、唐朝廷により石橋塩場を設置されたことから、集落地として発展し、土壁で囲まれた石橋村城が築城されるに至る。当時、海豊県下に帰属され、全域挙げて製塩業が営まれていたという。
南宋時代以降、当地に水軍基地が設置されるようになり、碣石はそのまま嶺南エリアにおける海防の要衝地として成長していくこととなった。
明代初期の 1389年、明朝廷は広東省、福建省の東南部の沿海エリアを倭寇の襲撃から守るべく、南宋時代からの海防拠点を正式に碣石衛として昇格させる。
「碣石」の名の由来は、域内にたくさんある奇怪な石が林立する様が、山東省にある 碣石(今の
秦皇島市
碣石山鎮)の奇景に類似したためという。別称、皆石とも呼ばれたらしい。
明代の 1394年、(坊廓都)指揮使司(坊廓都 地区の軍事担当官)の花茂はさらなる防衛力強化の必要性を上奏し、朝廷から新たに 碣石衛城の築城を許可されると、すぐに城壁建造に着手する。 唐代、宋代からあった 旧集落拠点(石橋村城)から、やや高台の丘陵エリアに新たに築城されたのだった。
高さ 3.3 m、厚さ 5 mを誇る城壁の全長は 3,833 mで、城壁上には 2,262ヵ所もの凹凸壁、そして、 東西南北の城門にはそれぞれ楼閣が設置されていた。城壁の外周には、深さ 3.3 m、幅 3.3 mの外堀が 巡らされる、堅固な城郭となった。
なお、坊廓都は、
海豊県
下の 八都(県の下部行政単位)の一つで、 当時、碣石衛城がその中心集落地を成していた。行政都市としては海豊県よりも格下であったが、 軍事組織としては、碣石衛城は海豊県の海外エリアの最上位にあり、
甲子
、
捷勝
、平海、
海豊
の 4ヵ所の千戸所を統括した。域内の軍籍人口 10,100人を統括する最高機関であった。
なお、軍籍人口では碣石衛城内が最も多く、中所、左所、右所、前所、後所の 5区画で総計 5,600名を有したという。
新碣石衛城が築城された後も、旧城内(石橋村旧城と通称された)には、引き続き、たくさんの住民らが居住しており、 この新旧の城郭エリアの間に位置した新碣石衛城内の西門に庶民の市場が立つこととなる。 しかし、旧城側は度重なる倭寇の攻撃で大きな被害を受け続けることとなった。 特に、明代後期の 1550~1570年ごろ、その襲撃規模は Maxを迎える。
住民らの危機感が極限に達する中、1557年、海豊県長官の張済時は自ら碣石衛城に赴いた際、 旧城(石橋村)の住民らを鼓舞し城壁の強化工事を開始させる。 こうして、旧城の土壁に大規模な修繕工事が実施され、丘上の新碣石衛城とあわせて、 新旧城郭が並存することとなる。碣石衛城では正規軍が駐留し、旧城(石橋村城)には住民らが 居住する自衛集落となっていた。
1562年、碣石衛総兵として喻大猷が碣石衛に赴任すると、沿海部で民兵が徴収され、積極的に軍事教練が施される。
翌1563年、大徳港(今の海豊市と
陸豊市
の一帯の海岸地帯)の戦いで、数千名もの倭寇の海賊集団をせん滅したニュースに中国全土が大きな歓喜に包まれる。
しかし、引き続き、海賊の襲撃は各地で頻発し、1569年、海賊の曾一本が碣石衛城を占領すると、
喻大猷
が再び討伐軍を率いて当地へ赴き、同年 8月には、リーダーの曾一本を捕縛し、処刑する。
明末の 1600年ごろ、候継高が碣石衛総兵官に就任すると、まずは 古刹・玄武山寺の拡張工事を進め、また、碣石衛城の増強工事を手掛けることとなる。同時に、積極的に兵士の教練にも励み、徐々に倭寇侵入の阻止に成功していく。こうして社会は安定するようになり、 当地の社会発展はいよいよ加速することとなる。
南明政権時代、碣石衛総兵官に着任していた張明珍が私利私欲の執政を行い、民衆らの反感を買ったため、潮州七海賊団の一頭領であった蘇成に攻められて捕縛の後、処刑される。こうして、蘇成によって占領された碣石衛城は、以後、民衆らに親しみを込めて老蘇城と通称されるようになる。
1648年正月、蘇成が重病にかかると、副将の蘇利が蘇成を殺害して、そのまま南明政権下の碣石衛総兵官職を継承する。
1650年初め、清朝より平南王に任ぜられていた尚可喜が耿仲明とともに、清軍を率いて広東省北部に侵入すると、蘇利も清朝に帰順し、そのままの 地位を保証される
。
清代初期の頃、沿海の民衆らが海上へ逃亡し、反清活動に参加するのを防ぐために、1655年6月、沿海各省に海岸線管理の強化が通達される。
1661年には海岸エリアの締め付け策がさらに厳格化され、江蘇省、浙江省、福建省、広東省、山東省 の各省の沿海エリアに居民する人々を強制移住させるべく、 海岸から 15~25 kmの居住が禁止されることとなった。
沿海の住民らは過密な移住先で生活の基盤を失い、疫病が流行して、多くが餓死する。 一方で、碣石衛エリアの田畑や民家は荒れ果て、大いに荒廃したという。
1664年、こうした住民らの不満に押される形で、碣石衛総兵官を継承していた蘇利がこれら一連の海禁政策に反対し、 翌 1665年、反清で挙兵すると、広東省東部一帯の民衆らもこれに呼応し、反乱軍は総勢 十数万に膨れ上がる(老蘇兵と通称された)。 義軍軍は東に石帆都と坊廓都、西に楊安都と金錫都の四都という狭く長い沿海エリアに数多くの要塞を建造し、清軍に対抗したのだった。 その中の龍牙寨(海豊県可塘鎮可北郷龍牙村の可北ダム付近。高さ 1.2 mの城壁が 30 m強、現存するという)と 獅地山営寨(その西側の獅地山に位置する)は、非常に堅固な要塞で、今でもその遺構が残されている。
清朝に封じられ広東省に駐在していた平南王の尚可喜は、十万の正規軍を率いて蘇利の追討に向かい、南塘埔での決戦を制し、勝利を収めることとなる。反乱軍の リーダー・蘇利はこの戦闘の最中、清軍の矢にあたって戦死し、烏合の衆であった反乱軍は潰走し、清軍はそのまま碣石衛城、及び外側の石橋村城を接収して、間もなく鎮圧が完了されたのだった
。
この後
、平南王の尚可喜は碣石衛を広東省の東西の分岐点と定め、
恵州府
と
潮州府
の海岸線の重要拠点と再定義し、1669年、新たに碣石衛総兵官として 苗之秀を現地に派遣する。
苗之秀は着任後、明末の混乱で荒廃していた碣石衛城を放棄し、その西隣にあった石橋村旧城を大規模改修する形で、新たに碣石衛城を築城する。下古絵図からは、東門と西門に甕城が付設されていたことが分かる。
1729年、清朝は
恵州府
下に海防軍民同長官職を新設し、碣石衛城内に役所を新設する。こうして、軍民統括の一元管理化が図られることとなった。
1731年、
海豊県
の 東部エリア(石帆都、坊廓都、吉康都の三都)が分離され、
陸豊県
が新設されると、 碣石衛城(坊廓都の中心都市)は以後、陸豊県に帰属されることとなる。
1836年6月、第一次アヘン戦争の直前、欽差大臣の林則徐が碣石衛水軍に出動命令を下し、珠江口での防衛戦に参加させ、穿鼻岩(現在の 深圳市龍崗区南澳鎮)沿岸でイギリス商船団の撃退戦に成功すると、林則徐は直筆の 額「水徳霊長」を地元の 名刹・元山寺へ寄贈し、碣石水軍の功績をたたえている。
碣石鎮バスターミナル前に堂々とそびえたつ、
玄武山 元山寺
を視察してみた。
ここは南宋時代の 1127年に開山し、明代後期の 1577年に現在の規模にまで拡張されたという古刹である。当地で最も有名な訪問スポットと言えるだろう。
境内にはチケット売り場もあったが、無人状態で自由に出入りできた。
さて参拝後、道路を渡って、碣石鎮バスターミナルへ戻った。筆者は、このまま 南塘鎮バスターミナル経由(20分)で、
甲子鎮
へ向かった(合計 1時間弱)。
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