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城区 捷勝鎮
訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~
広東省 汕尾市 城区 捷勝鎮 ~ 鎮内人口 6万人、 一人当たり GDP 27,000 元 (汕尾市 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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町はずれの 捷勝鎮バスターミナル
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捷勝所城の 旧市街地 ~ 北門街、南門街、東門街、西門街
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捷勝所城の城壁片 ~ 古城の北西端かけら
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客家の町 と 多くの宗廟
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【豆知識】捷勝所城(捷勝千戸所城) ■■■
海豊市
バスターミナルから、捷勝鎮行きのバスに乗り込む。
15元
、所要時間約 45分。
到着した捷勝鎮バスターミナルは、相当にローカルだった。
バスターミナルと言っても、チケット販売所もなければ、ドアの締まるトイレや待合室もない駐車スペースだけの空間だった。ハリウッド映画のアメリカの田舎町に見られる、大きな屋根とガソリン給油設備だけが付設されたようなイメージで、その他の建造物は一切、ない。
さらに、このバスターミナルの周囲は田畑が広がり、町はずれだったので、どの方角が集落の中心部なのか判然としなかった。やや不安に思いながら、バス降車客数名の後をついていくと、捷勝中学が目に入り、ようやく自分の現在地が把握できた。このまま直進すると、旧市街地にたどり着く算段だ。
【
捷勝所城
】
旧市街地では、まず北門社区の区民センターが交差点に見えてくる(下写真左)。 この外周道路が、かつての城壁跡地である(下写真右)。やや下り坂になっており、古城全体が丘陵地帯の斜面上に築城されていたことが分かる。
そのまま少し東へ進み、古城エリアの メインストリート(下写真左)を南下してみる。 ここも緩やかな下り坂になっていた。北西部分が高台で、南東部分が最も低い地形となっていたようだ。
途中、元帥宮があった(下写真右)。元帥宮は
福建省
と
台湾
の沿岸エリアを中心に信仰されている 武の神・楊戬を祀ったもの。道教神の一人。鄭氏台湾と清朝との戦いが続いた明末清初に信仰が開始されたと言われている。
古城地区は、中央の十字路を境に、北門街、南門街、東門街、西門街と整然と区分けされていた。
下写真左は、東門区の区民委員会の建物。ちょうど、南北中央交差点の横にあった。
下写真右は南門区。引き続き、緩やかな坂道が続いていた。
下写真は西門区の一帯。
西門区にはたくさんの古民家が残っていた。
そして
、この西門区の北西端に城壁の一部が保存されていた。基本的に、城壁はこの外周通り沿いに設けられていたわけだが、現存するものはこの一片のみという。
近代以降の宅地開発が古城エリアを中心に開始されたので、他の都市と同様に、城壁や城門撤去も免れなかったということだろう。
石材の間に粘土が塗り固められ建造されていた。水はけ口と通気口を兼ねた城壁面の穴は、この粘土部分に所々に設けられていたことが分かる。
古城エリア自体はこじんまりとしており、軽く散策しても 30分ぐらいで十分に見て回れる。
なお
、散策道中に気になったのは、林氏廟、蔡氏廟など、各宗族らの祖先を祭った宗廟がたくさん街中に設けられていたことだ。複数の宗族らが共同で古城集落を形成していた背景が伝わってくる。それにしても、これだけこじんまりした旧市街地に、あまりに多くの宗廟があるのは非常に異様だった。
古城エリアの南北メインストリートの、北門街沿いの西側に、打ち捨てられ荒廃に任せた宗廟があったので中へ入ってみた(上写真右)。
古風で立派な土壁が連なっており、味わい深い前近代の手作り製だった(下写真)。
この裏手の中庭に、客家特有の 門神「関羽と 名医・華陀」が残されていた(下写真左)。
筆者が当鎮を訪問したのが午後 13~14時ごろだったこともあり、街中は昼食タイムで静まり返っていた。
14時前ぐらいに古城エリアを後にし、バスターミナルへ向かっていると、 多くの生徒たちも昼食を終えて、学校(先の捷勝中学)へと戻るタイミングだった(下写真右)。
旧市街地には全くといっていいほど、食堂が存在せず、ほとんど雑貨屋やテイクアウト店ばかりであった。 皆、自宅で食べる習慣が根付いており、外で就業する人も昼時には自宅へ帰って食べるのであろう。あまり食堂は流行らないに違いない。
バスターミナルから、そのまま汕尾市総合バスターミナル行きのバスに乗り込んだ。6元、25分。
汕尾総合バスターミナルに到着後、その正面道路の汕尾大道沿いのバス停から、 路線バスで
汕尾市
の中心部へ戻る(1元)。 ここの西向きへ向かうバスは、どれに乗っても市街地へ戻れる。
捷勝所城(捷勝千戸所城)
もともとは捷琅埔と通称されており、南宋末期にはモンゴル軍の攻撃を受け、また、 明代、清代には度々、倭寇の襲撃を受け、そして中華民国時代には共産党軍の攻撃を受けるなど、 度々、戦火に巻き込まれてきた歴史ある土地柄である。
1395年、千戸将の候良が軍民らで構成された 義勇軍を率いて、倭寇の海賊集団を撃破したことにちなみ、捷勝と改称されたという。
明代、 捷勝エリアは広東省東部一帯の沿岸防衛ネットワークの一角を担い、先の倭寇との戦い直後の1395年、 千戸将の候良が主導し、捷勝所城(捷勝千戸城)として正式に築城される。 以後、今日に至るまで 650年近い古城史を紡いできたのだった。
明代、捷勝所城内には守将が一名、軍民 1,200名が居住していた。
当時、高さ 3.41 m、厚さ 5.12 mの城壁(全長 1,573 m)上には、凹凸壁が 44ヵ所、付設されており、周囲は水深 3.41 m、幅 2.73 mの外堀に囲まれていた。
東、西、南、北の四城門が設置され、それぞれに城門楼閣と吊橋タイプの城門橋が備えられていたという。北門以外の三城門には甕城も付設されていた。
城内には四方に伸びるメインストリートが中央部で十字型に交差し、その並びには 所署(金錫都の役所)、鎮撫司(軍事担当局)、吏目庁、軍械局、永積倉、旗纛廟、獄房、土地祠 などの役所群や付属施設が立ち並んでいた。東側の城外には教場が開設され ていた。軍事上では
碣石衛城(今の 汕尾市陸豊市碣石鎮)
の管轄下に属した。
城壁の大部分は土砂と粘土で練り上げられた土壁で、 四城門の周囲のみ石積みで構成されていた。 また、城壁の四隅の角には、角楼も増設されていたという。 さらに城門上には、合計 17門の大砲が配備されていた。
清代後期の 1846年、汕尾から大砲が 2基分、移転されると、城壁上には合計 19門の大砲が配備されることとなった。
水軍船も 2隻、常備されていた。
周囲には付属の軍事施設として狼煙台 が 2ヵ所、新設される。一つは東を海に面する大茅山に、もう一つは西側を海に面する小茅山 に建造された。両者ともに、沿岸 数十 km先まで見渡すことができたという。
その上、海岸から捷勝所城まで 2本の運河が掘削され、 一つは軍水河、もう一つが石狗湖河と呼称された。両者は明代、清代を通じて、 軍事とその他の商用で主な水上交通路を担うこととなった。
時は下って、 1927年11月、彭湃をリーダーとする農民革命軍が国民党政府下の海豊県城を占領すると、 さらに林道文らの一隊が派遣され、この捷勝所城にも攻撃を加える。 すぐに落城し、そのまま城壁類はすべて撤去されて、町は無力化されてしまったという。 上写真の土製の大砲は、海豊歴史博物館に展示されていたもので、この時の攻城戦で威力を発揮したという (翌年春に国民党軍が反転攻勢を開始し、海豊県城や捷勝城塞は再奪取される)。
以後、近代以前の古城遺跡は一切が消失されてしまったわけだが、 現在、北西部分の城壁の一部のみが残存し、地元で大切に保存されている。
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