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陸豊市(甲子鎮 / 甲東鎮)
訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~
広東省 汕尾市 陸豊市(甲子 / 甲東鎮)~ 2鎮内人口 31 万人、一人当たり GDP 26,000 元(市全体)
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甲子鎮の 古城エリア「甲子所城」跡地
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甲子所城の北門跡 と 古刹・元皇廟
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古城エリアの メインストリート ~ 北門街、南門街、西門街、東門街
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甲子所城 と 城隍廟
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甲子所城の 歴史 ~ 石帆都の中心都市として
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甲子所城の 全体図
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瀛江を渡って、甲東鎮へ ~ 橋下の巨大な養殖場
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長青要塞跡(長青古堡、甲子角)
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【豆知識】長青古堡
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奎湖要塞跡(奎湖古堡)
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畑倉庫として私物化されていた 歴史遺産!
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【豆知識】奎湖古堡
【 甲子所城 】
甲子鎮バスターミナルから出て、正面見える光明街を南下する。
この町のバスターミナルは、主要幹線道路 S338 沿いの三差路の中央部に位置し、非常に分かりやすく、便利なロケーションだった。下地図。
ちょうど光明街の西側に、古城エリアがある(現場を歩くと、東側にはすぐ空き地が広がっており、西側へ向かって集落地が広がっているのが自ずと分かる)。
適当に西方面の 路地(東新路)に入って直進すると、北門の跡地に到着した。下地図。
この日、
陸豊市
から先に訪問していた
碣石鎮
を後にし、碣石鎮バスターミナルから南塘鎮バスターミナルへ向かうべく、バス・チケットを買う。
本当は直接、甲子鎮行きのバスに乗りたかったが、直行便はないとのことで、南塘鎮で乗り換えるように言われた(15分に一本ある陸豊市行きのバスに乗り、その途中で下車するパターン)。運賃 6元。所要時間 20分。
南塘鎮では、ちょうど大通りが十字路に交差する ポイント(甲子鎮まで 17 km、陸豊市街地まで 20 kmとの道路標識あり)で下車すると、甲子鎮行きのバスが交差点で待ち構えていたので、そのまま飛び乗る。運賃 7元。
30分弱で到着した甲子鎮バスターミナルは、相当に田舎町のバスターミナルだった。トイレは完全にニーハオ式。
北門のすぐ外側は、巨大な古廟(
元帝廟
)と青空市場がある広場だった。
下写真左の元皇廟であるが、南宋時代に設置されて以降、度々、修繕が施され、現在も古城時代を知る数少ない歴史遺産として、陸豊市から指定保存史跡に認定されていた。
上写真右の奥を進んでいくと、下写真左へとつながる。ここから旧古城エリアに入ってみる。
下写真右は、北門跡。目下、地元老人たちの憩いの場と化しており、のどかな光景だった。
そのまま南へと続く
北門街
を直進し(下写真左)、十字路に至る(下写真右)。
古城エリアの メイン・ストリートは、北門街、南門街(下写真左)、西門街、東門街(下写真右)で構成されていた。西門街には甲子鎮第一中学がある。
南門街をそのまま南下していると、左手側に 3つの祖先廟と
城隍廟
が横一直線で併設されている広場に行きあたった。下写真左。
古城エリアから言えば、旧南門外に位置しており、城郭都市の守り神である 城隍廟(下写真右)も、宅地化のあおりを受けて、古城外へと移築されたものと推察される。
甲子所城跡であるが、旧市街地エリアには全く城壁らしいものは残されておらず、前述の路地名や古建築物にわずかな痕跡を感じる以外になかった。
甲子鎮
が、史書に登場する最も古い記述は、前漢朝 5代目皇帝・文帝の治世時代のもので、 古参の 名臣・陸賈(紀元前 240年ごろ~紀元前 170年)が南越国へ派遣され(2度目)、 両国の関係修復が図られた際、配下の将校らにより海岸線の調査が進められた折の、甲子門まで至ったという記録という。
時は下って三国時代の 230年、呉の孫権が将軍の 衛温(?~231年)を派遣して、福建省の沿岸海域や 琉球、
台湾
(夷州)エリアの征服を図るも、風雨に煽られて、甲子門まで流れ着いたとされる。
結局、1年あまりの航海で、目立った成果を得られなかった衛温は孫権の逆鱗に触れ、投獄の後、間もなく獄死することとなる。
北宋時代の 1169年、范有仁が東に流れる 大河・瀛江の河口部に 陸橋(順済石橋)を建造する。 現在の甲子鎮の河口部にある大胆山の 麓(陸豊市甲子鎮東宮社、かつて船着き場があった)から、対岸の 后庭(雨亭村)までの全長約 500 mに及ぶ長大な橋で、橋の両脇には凹凸壁が 105ヵ所、併設されたという。下地図。
1276年、モンゴル軍が
南宋朝の 王都・臨安
を陥落させると、南宋朝の残党勢力らは幼い趙昰を皇帝に擁立し、
福州
から船に乗って福建省沿岸を経由し、広東省まで落ち伸びていった。
この道中、同年 12月末に、 甲子門の地にも立ち寄ったと考えられている。南宋亡命政権は移動の過程で、多くの軍民らに檄を飛ばし、 その傘下の兵力をかき集めている最中であった。このとき、 漁民の鄭復が近隣住民らで組織した義勇兵 509名を伴って、これに合流したという記録が残されている。
彼らは、南宋最後の決戦場となった
崖門
まで付き従ったとされる。最終的に、 1279年2月16日(旧暦)に 宰相・陸秀夫が 7歳の 皇帝・趙昺を抱いて海に身を投じたことで南宋の残党政権も終焉を迎えると、 この激戦の中で、漁民らを率いた鄭復らも全員戦死したとされる。 史書には、帰郷した者は皆無だったとのみ触れられているという。
時は下って、
明代初期
の1394年、千戸将の盛玉により甲子所城の築城が開始される。
さらに 1408年、錦衣衛指揮使司(皇帝直属の 秘密警察・軍事組織)の 花茂(1394年に
碣石衛城
を 新規に築城した人物で、倭寇戦争での功績が評価され、坊廓都の軍事長官から昇進していた)が、 甲子所城にさらなる増強工事を手掛ける。この時、順済石橋が破却され、それらの資材が城壁などに転用されたという。
倭寇襲来が続いた明代を通じ、増強工事も続けられ、1600年ごろには、高さ 5 m、厚さ 8 mを誇る 城壁(全長 1,966 m)が完成し、 その周囲に深さ 3.3 m、幅 2 mの外堀が掘削されていたという。また城壁の上には、1,880ヵ所の凹凸壁が設けられ、 東西南北に楼閣付の城門と外堀の吊り橋が整備されていた。 東側の城外には軍事教練場が整備されていたという。
1540年冬、倭寇の海賊集団が恵来城を占領するも、この時、城内の倉庫内には何らの備蓄もなかったので、海賊集団はそのまま手ぶらで引き上げることとなった。
この襲撃事件後、
海豊県
長官は甲子所城の管轄域内の百戸から一兵士を拠出させる法令を発布し、壮年の民兵からなる百名守備体制が整備される(後に千戸所、つまり徴用兵力 1,000名へ拡大)。
1560年2月23日(旧暦)、倭寇の海賊団 6,000余りが潮州一帯を席巻する。朝廷へ報告された内容によると、その構成員らのほとんどは福建省出身者であったという。
間もなく、
恵来県城
や甲子所城も占領され、住民らはやや東の内陸部にあった龍溪都城へ退避するも、ここにも海賊集団が押し寄せ、避難民の大部分が殺害され、一帯は大被害を被ることとなった。下地図。
なお、この龍溪都とは北宋時代に海豊県下で新設された八都のうちの一角を成した 集落地(県レベルより下部組織に行政単位)で、明代の 1524年、この龍溪都の一部と潮陽県下の 3都半が分離されて、恵来県が新設されている。
1568年、海賊集団(倭寇)が再び甲子所へ侵入すると、千戸将の馬寿は油断している隙に城は攻め落とされてしまい、甲子所城や龍溪都城の一帯は再び甚大な被害を受けることとなる。馬寿は占領の罪を問われて投獄され、そのまま獄死する。
1570年には大日照りに見舞われ、春から初夏にかけて全く降雨がなく、さらに度々、海賊集団の襲撃を受け続けたため、田畑は荒れ果て、荒野だけが延々と続くエリアと化し、住民らは悲惨な生活を強いられたという。
同年9月、一帯の海賊活動を主導し、自ら倭寇と称していた楊老が海賊集団を引き連れて再襲来し、甲子所城を再び占領し、捕虜となった男女らを船で連れ去ってしまう。しかし、翌日に台風の直撃を受け、多くの捕虜が溺死したという。
1571年7月、
恵来県
出身の 林道乾(別名:林鳳)が生活の困窮に苦しむ龍溪都一帯の住民らを組織し反乱を起こすも、間もなく鎮圧される。下地図。
1600年8月23日(旧暦)、恵来県および甲子所一帯で大規模地震が発生する。
1605年3月にも地震があり、さらに 7月初旬には大型台風の襲来により、沿海部の田畑や集落はすべて水没してしまったという。
1620年初め、海賊の袁八老の配下であった林新老が甲子所一帯へ上陸し、守将の允武を戦死させる。
1627年3月にも、海賊集団が甲子所城を攻撃し、守将の葉台を戦死させている。
1635年、海賊の劉香が甲子所城を攻め、守将の洪雲蒸を捕虜にする。しかし、福建省、広東省から鎮圧軍が派遣されると、洪水被害で甲子エリアが疲弊していたタイミングもあり、劉香はとらえられ処刑される。
1641年12月14日夜、恵来地区に再び大型地震があり、高波が甲子所城まで達したという。
なお、軍事機構としては
碣石衛城
が上位で、平海所(恵州市)や
捷勝所
、南海護衛、甲子所、海豊諸千戸 などの千戸所城を統括していたわけであるが(上地図)、行政区画としては、
海豊県
下の 八都(興賢都、石塘都、金錫都、楊安都、坊廓都、石帆都、吉康都、龍溪都)のうち、石帆都の行政役所を城内に有した甲子所城の方が、碣石衛よりも上位にあった。
当時、石帆都の統括範囲は、現在の 碣石、碣北(
碣石
に吸収合併され、現在は消滅)、南塘、湖東、華僑、甲子、甲東、甲西 などに及んでいた。
ちなみに、都(正式名は「都保」)という行政区は、県レベルに次ぐ下部行政区で、現在の鎮単位に相当する。
また、警察的な機能を有した巡検司という役所も、甲子所城内に併設されており、甲子巡検司と通称された(海豊県に帰属)。その管轄域は大抵都と石帆都を担当し、碣石衛城エリアも統括していたことになる。
当時、海豊県下には 3つの巡検司が存在し、それぞれ 汕尾巡検司(後に黄沙坑司巡検司へ改称)、河田司巡検司、甲子巡検司(東海司巡検司から改名)と命名されていた。
すなわち、軍事上では碣石衛が甲子所を統括するも、行政・警察権の区分上では碣石衛城は甲子巡検司、もしくは石帆都に統括されていたことになる。
途中から雨が本格的に降り出したので、旧市街地を離れて、郊外の城塞遺跡を巡ることにした。
甲子鎮内には路線バスが全くないということで、地元民は三輪バクタクシーを乗り合いで使うか、個別にチャーターするのが一般的らしい。
45分ほど、旧市街地内を散策した後、いったん甲子鎮バスターミナルまで戻り、光明街との三差路で暇そうにしていたバイクタクシーに長青古堡までの値段を質問してみた。25元という。
地図で調べて距離がかなりあるのを知っていたので(下地図)、これは安いと二つ返事で飛び乗った。バイクに乗ってから、雨量はますます強まる。
【 長青古堡 】
途中、甲東鎮への橋を渡る。瀛江上にかかる橋下にはたくさんの養殖場が設けられていた(下写真)。中国の河川はいつもながら巨大で、河口部となると、もう海なのか川なのか分からない広大さである。
雨の降りしきる中、デコボコの泥道をぶっ飛ばして、運転手も前面がびしょびしょになりながら長青古堡までドライブしてくれた。
長青古堡
は、海岸線にぽつんとそり立つ岩山上に、こじんまりと設けられていた。
現在は、廃屋となっている軍部か水上警察の施設が城塞内に放置されたままになっていた(下写真)。
ちなみに、長青古堡の裏手には、水上警察の事務所があり、現役で使用されている。
あまりに無人のエリアなのに、こぎれいな事務所が設置されていたので、そのギャップにびっくりした次第である。
城塞の防塁壁は、海に面する側面が石積みと土壁で強化されており(上写真)、その他の3面は土壁のみで防御されていた。
壁上部はすべて土壁で、そこに凹凸女壁と矢狭間が設置されていたようである。
また、この長青古堡の眼下に広がる海岸線もすばらしかった(上写真)。晴れていれば、もっと景観も良かったであろうに。
砲台が建造された当時は、この海岸線上にも小規模な防衛陣地が設けられていたことであろう。
長青古堡
は、長青村の南側の港湾エリアに面した小さな 崖山(標高 5.5 m)の上に建造されており、前面は海に面し、この海側に石造りの城門が一つ設けられていたという。
この南面の海沿いの城壁のみ長方形の石材を積み上げた石造りとなっており、その他の三面は、貝と粘土を混ぜて練り上げた土壁のみとなっていた。
防塁壁上にはもともと凹凸女壁が 50余りあったが、現在では 20余りが残るのみである。建造当時、城塞内には見張り台や、大砲用の砲台、兵舎 6間が併設されていたという。
城塞の広さは、縦 30 m、横 35 mで、その総面積は 1,050 m2 であった。
さてさて、雨足がますます強まる中、続いて、待ってもらっていたバイク運転手に奎湖古堡までの費用を聞くと、 30元というので、これは良心的だと、またまた飛び乗る。
というより、このバイク運転手に待っていてもらえないと、もう他に帰る交通手段がない無人エリアだった。こんな圧倒的有利な状況下で、良心価格を提示してくれる寡黙な運転手に非常によい印象を持った。
雨の中を飛ばすこと 20分ほど、最初は道が分からず、海岸線まで連れて行かれた(下写真)。
雨天で舗装もされていない泥道はぐちょぐちょのデコボコで、筆者のズボンも水しぶきと泥まみれとなっていた。
とりあえず、水宮廟と水力発電の風車、海岸線を 撮影(上写真)。この頃には、雨もやんでいた。
再び奎湖村の集落地に戻り、村内の人々に質問しながら、目的地の奎湖古堡にようやく到着する。
【 奎湖古堡 】
こじんまりした城塞跡だったが、立派な防塁壁と城門が現存するも、目下、横の畑作業用の物置小屋と化しており、門には鍵がかかっていた。 仕方ないので、外周を撮影してみる。下写真。
このような歴史遺産を私物化していいのだろうか。。。
海岸線や町中と違い、 この要塞跡は集落地から離れた田畑エリアに位置したため人手による破損を免れ、 また周囲の雑木林によって風雨のダメージを避けながら、非常に稀なぐらい保存状態がよかった。
これだけ好環境によって守られてきた要塞跡を、
観光資源
として活用するという発想は地元民には無いらしい。
下写真は、物置小屋と化している要塞の城門部分を、鍵穴から撮影したもの。天井が木組となっており、要塞時代、この上に楼閣が設置されていたわけである。
ところで、城塞を見学している最中に、村の自警団の男性が、身分証を見せるように言ってきた。だいたい 15分間ほど、身分証を写真撮影したり、本部と連絡を取り合ったりして、目的や職業を聞かれて、やっと解放された。次回以降は、訪問先の村の所定の場所で一言伝えてから、こういう田舎の見学をしないと、現地語が分からない外部者は怪しまれるぞ、と警告された。
ついでに、この男性に城門の鍵を開けてもらうように頼んでみるが、持ち主でないとダメだと言われ、結局、中は見れず。
この要塞内には、まだ清代の建物遺構などが残っているはずなのに。。。。少しずつ目減りが進む歴史遺産を、今のうちに写真に収めることがかなわず、非常に悔やまれる。
陸豊市甲東鎮奎湖村の南西側にある小さな小山の上に残る
要塞遺跡
で、明代初期の 1369年、付近の碣石衛や甲子所を守備する兵士らが動員されて建造されたものである。
縦 45 m、横 50 mの整然とした正方形で、総面積は 2,250 m2を有し、要塞内に兵舎などが設置されていた。
要塞には城門が一カ所と、その上に一階建ての 楼閣(縦 4 m、横 5 m)が設けられており、物見台と矢狭間で防衛力の強化が図られていたという。周囲を取り囲む防塁壁は、灰と粘土を折り混ぜた土壁であった。
見学後、そのまま甲子鎮バスターミナルまでバイクタクシーで戻った。すべての行程はだいたい 2時間だった。17:00に帰着。
このバイクタクシーの運転手は、雨天の中、よくも忍耐強く泥道ばかりの遺跡訪問に付き合ってくれた。 合計で 90元ほどの言い値であったが、チップを込めて 170元あげてきた。
17:10発のバスに乗りこみ(17元)、18:05に
陸豊市
中心部に帰り着いた。
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