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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
四川省 綿陽市 江油市 ~ 市内人口 80万人、 一人当たり GDP 32,000 元(綿陽市 全体)
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江油古城
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江油戍(江油関)と 蜀漢の滅亡戦
前漢時代、涪県(現:
綿陽市
)に帰属した。そして、後漢朝時代の 永平元年(58年)、再編され徳陽県に属することになった。
劉備の蜀軍が漢中を奪取した 219年、魏軍による 陰平郡「
摩天嶺山脈ルート
」による南下にそなえ、その最前線基地として、 現在の江油市からさらに北へ 50 kmほど涪河の上流にあった、陰平郡内の「剛氐道」という地に、軍事要塞「江油戍(江油関)」を築く。場所は、現在の綿陽市平武県南壩鎮の旧市街地一帯に当たるらしい。
この当時、陰平郡は魏領に属し、 この隠平郡役所は現在の甘粛省文県内に設置されてはいたものの、あまりに深い山岳地帯であったため、全域を管轄するには至っていなかったものと推察される。特に今日でも 少数民族(氐羌民族)らが多数居住する地域で、集合体としての隠平郡全体を統治はできていなかったのであろう。
現に、劉備が設置した軍事要塞「
江油戍(江油関)
」は、蜀の「涪城」を通る涪河の河川上流域に設置されており、この時すでに陰平郡の南部は蜀領に属していたようである(陰平郡城はその後、諸葛亮の北伐で何度となく蜀に占領される)。当時の交通路が河川メインであったことを勘案すれば、地図上での行政区割りに限界があったことが伺える。蜀側としては、涪河の河川交通を利用した地の利を生かして、防衛戦線を構築していたものと推察される。
その後、度々の行政区の変更があるも、宋代以降は現在の江油市が県役所の地として立場を確立することとなった。
さて、この軍事要塞「江油戍(江油関)」は、なんといっても、263年の魏による蜀侵攻で、重要なターニング・ポイントとなった場所として知られる。
魏軍により漢中を占領されてしまった蜀防衛軍の姜維ら主力部隊は、漢中郡と益州最北部の梓潼郡との境に築かれた剣閣に立てこもり、魏軍の猛攻を食い止める。総大将「鍾会」はこの剣閣攻略による正攻法を主張したが、副将「鄧艾」は力攻めを避け、さらに西側の自領「陰平郡」の山間部を突破することを提案し、これを遂行する。
このとき、魏の「鄧艾」軍は、剣閣から自領の陰平郡に入り、この地の郡役場「陰平郡城(現、甘粛省文県)」を通過し、ここから急峻な山々を超えて、涪河の上流域である現在の平武県に入り、そこから涪河を南下して、江油関へ迫る。
そして、蜀の対「陰平」側の最前線であった江油関は、魏の強行軍の出現に驚き、城主「馬邈」はすぐに降伏。魏軍はこの地で食料や武器を調達して、蜀の成都を目指すことになる。
休息も束の間、魏軍先方隊は涪河を南下し、涪城(現、
綿陽市
)に迫るも、蜀の防衛を任された諸葛瞻らの守備部隊に、先発隊が撃退される。しかし、なぜか諸葛瞻らはいったん涪城を放棄し、さらに南の綿竹城へ撤退し、涪城と綿竹との間に広がる山間部での迎撃戦を強行することになる。しかし、用兵術に勝る魏将「鄧艾」による伏兵に合い大敗、多くの重要将軍らが戦死。この知らせを受け、剣閣籠城中の姜維も剣閣を放棄し、成都へ急行し、雒城まで到着するも、劉禅による武装放棄の命を受け、蜀漢は滅亡することとなった。
なお、この江油市の古城であるが、城壁はすべて撤去されてしまっているものの、わずかながら、路地にその名残を残していた。魚市、順城街。
また、城の北側には、火薬を扱う職人が多く居住したであろう路地が残っていた。火砲街、生産街。
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