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訪問日:2018年1月下旬 『大陸西遊記』~
広東省 東莞市 虎門鎮 ① ~ 鎮内人口 65万人、 一人当たり GDP 87,000 元(東莞市 全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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虎門口鎮城跡(虎門 林則徐 紀念館)
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沙角砲台
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定洋砲台
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威遠砲台
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靖遠砲台
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鎮遠砲台
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蛇頭湾砲台
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南山頂砲台
虎門中央バスターミナル(虎門中心区客運駅)に到着すると、とりあえず、虎門鎮の最も繁華街である 東方時代広場・黄河時装城の一帯まで移動した(バイクタクシー 10元)。ここには、突出した 高層ホテル(美思威楽頓酒店、Mels Weldon Dongguan Humen Hotel)がそびえ立っており、虎門鎮内で唯一、きれいなトイレが使用できる場所と言える。
虎門林則徐紀念館
黄河時装城バス停前から、タクシーで虎門林則徐紀念館へ移動する(20元)。入館料は無料だった(パスポート提示要)。
この博物館はかつての虎門鎮城の跡地に開設されており、清末に 虎門防衛ライン統括本部(広東水師総督府)が開設されていた場所である。 清代から発展した虎門鎮の旧市街地の南面に位置し、周囲には今でも旧家屋が所々に見られる。
博物館のすぐ東側には大人山が迫り、西側には 鎮口河(太平水道)が流れる、かなり狭いエリアであった。もともとの旧市街地は大人山の北側に広がっており、清朝の庁舎は 河岸(太平水道)エリアの湿地帯を整備して建設されたものと推察できる(下絵図)。水運交通網が活かしやすい立地が選択されたのだろう。
この地は、まさに 1839年6月3~25日の間、 清朝から派遣された欽差大臣の 林則徐(1785~1850年)が英国商船から没収した大量のアヘンを破棄した場所である。当時、虎門口鎮城の河川沿いに廃棄処理場が設けられ、アヘンを石灰と混ぜて中和させ、池へ投棄し、そのまま 河川(太平水道)を伝って海へと流れ出る仕組みであった(下絵図)。
現在、この博物館の中庭には、廃棄に使用した池が再現されている(下写真左)。
下写真右は、発掘調査で出土した当時の廃棄池の遺構。
最終的に、英国側の外交圧力に屈した清朝は、林則除を罷免し、新疆ウイグルへ左遷することとなる。当地はその英雄を祈念する博物館となっていた。
なお、アヘン戦争後、英国政府の請求により、 清朝廷は破棄したアヘン代金も全額弁償している。
博物館内では、イギリスとのアヘン貿易の実態が細かく解説されていた。大陸中国内への流通ルート、年間販売数などの統計資料が豊富であった。驚いたことに、アヘン戦争後の 1858年より、 アヘンは(単なる黙認ではなく)合法商材と認定され(上海で締結された『中英通商章程善後条約』)、1917年まで普通の商品として大陸中国で流通されていたらしい。また、英国以外にアメリカも、ちゃっかりアヘン貿易を手がけたことなども新発見だった。
また、総督府の背後にあった大人山には、清代には狼煙台などが設置されていたのではないだろうか。まさに、虎門口鎮城(博物館)のすぐ後方に迫る地形だった(下写真左)。
下写真右は、太平水道にかかる 鎮遠大橋上(虎門大道)から大人山や博物館エリア一帯を撮影したもの。
なお、珠江河口部の一帯を俯瞰地図で見てみると、さすが大陸河川のスケールと仰天されることであろう。下記の地図に記されているように、河口部にはいくつもの大小の砂州と島々が形成されており、その一つ一つがすべて巨大で、自分たちが今、河川の島上にあるとは到底、想像すらできない規模である。
現在、かなり河口部では埋め立てが進んでいるとは言っても、その数と規模はやはり圧倒的である。この虎門砲台基地群も、俯瞰して見れば、すべて河口部の「島」上に建造されていたことが分かる。
博物館を出た、すぐ前に バス停「則除公園」があり、ちょうど路線バス 3A番の終点駅になっていた(下写真)。ここからバスに乗車し、中心部の黄河時装城バス停まで戻る(2元)。 だいたい 4つ目ぐらいのバス停で、所要時間は 10分だった。
続いて、黄河時装城バス停から 路線バス⑩番に乗車する(3元)。約 30分ほどで、終点の沙角砲台に到着できた(下地図は地元の路線バスマップ。掲載されていない路線も多々ある)。
沙角砲台
虎門砲台遺跡といえば、虎門大橋の真下にある
威遠砲台
を指すことが多いが、 実はこの周囲には、たくさんの砲台基地が設置されており、それらは清末に虎門塞と総称されていたのだった。
さて、威遠砲台に継ぐ、大規模な砲台公園として整備されている沙角砲台遺跡を訪問してみた。
虎門鎮の中心部にあたる、黄河時装城バス停から 路線バス⑨、⑩に乗車すると到着できる (⑩の方が近道で、移動時間を節約できる)。
沙角砲台
沙角砲台は、
広州
を経由する珠江が海へと注ぐ河口部の東岸に 位置し(虎門鎮沙角社区)、1800年の建造以来、対岸の大角砲台とあわせて、虎門河口部の第一道防衛ラインを 担ってきた。
虎門に赴任しアヘンの没収と廃棄処分を手掛けた欽差大臣の林則徐は、1838年冬、部下の鄧延楨とともに沙角砲台を訪問し、当地の波止場でも没収アヘンの破棄処理を実施している。
第一次アヘン戦争当時、
鎮遠砲台
で陣頭指揮をとった関天培は、三江口協副将の陳連升を派遣し、 600名の守備隊とともに沙角砲台を守備させた。
1841年1月7日(旧暦12月15日)、
シンガポール
より派遣された 英国艦隊が、虎門第一防衛ラインの 沙角砲台(大砲 72門配備)と対岸の 大角砲台(26門配備)へ一斉攻撃を開始する。
この時、沙角砲台側に 3隻の戦艦と 4隻の商船戦闘艦に乗り込んだ 英軍艦隊(1,461名)が作戦展開し、 強力な火力で清軍を圧倒し、沙角砲台は瞬く間に陥落する。守将の陳連升父子と駐留兵の大部分が戦死することとなった。
たった一日の戦闘で、第一防衛ラインに配備された 1,000名前後の清軍のうち、戦死者は 291名、負傷者 456名、不明者 10名を数える被害を被るも、英国は上陸兵 2000名前後のうち、戦死者はゼロ、負傷者 41名を数えるのみであった。
この戦闘前、守将を務めた陳連升と守備兵らは砲台基地の至る所に、自分たちの思いを書き残しており、後世、その一部が英雄たちの歌として曲の歌詞に採用されていることとなった。
現在、沙角砲台遺跡としては、瀕海台、臨高台、捕魚台、節兵義墳(殉国兵士らの墓地)、林公則徐紀念碑、功労砲、クッペル大砲、没収アヘンを破棄した波止場跡などが残されている。
定洋砲台
虎門中心部から、路線バス B3に乗車して、終点の「三門口一路」で下車。そのまま進行方向を太平水道沿いに南へ 1 kmほど進むと、鵝義山の山裾に到着できる。
定洋炮台は、別名、鵝夷砲台、鵝義山砲台とも呼称される。清朝末期の 1881年春に、
威遠島
の南東の端に位置する鵝義山の山頂に建造され、ちょうど東莞城下を経由する太平水道が 珠江の河口部へと流れ出るポイントを抑えるものであった。南に位置する沙角砲台と相互に作用して、 第一と第二防衛ラインを補完するポジションが期待されていた。
定洋砲台には大砲 3門が配備され、二つの主力砲はともに、山面を掘削した坑道内に設置され、また、坑道内の 3部屋は兵舎や弾薬庫を兼ねた。
虎門鎮【後編】 >>>
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