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訪問日:2015年 5月下旬 『大陸西遊記』~
陝西省 漢中市 漢台区 ~ 区内人口 56万人、 一人当たり GDP 24,000 元(漢中市 全体)
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漢中城(南鄭県城)
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虎頭橋(魏延斬首の地)と 魏延墓
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拝将台(韓信を大将軍に任命した場所)
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古漢台(南鄭県役所跡)
【 漢中城(南鄭県城) 】
漢中市は、かつて南鄭県と呼ばれていた。『三国志』にも漢中の同義語として南鄭城の名は何度も登場する。南鄭城内には漢中郡役所が併設されていたためである。
ちなみに、南鄭県の名は今でも使用されており、漢中市の南西にある一郊外地区の地名に残る。
南鄭古城は現在、西門横の城壁の一部のみ、復元・保存されているが、その他の城壁や城門は完全に撤去されている。しかし、かつての古城時代の記憶は、現在の道路名や地名にしっかり刻み込まれていた。周公巷、北大街、東大街、西大街、西環路、老虎橋街(かつて堀川があった)など。
秦代に南鄭県の県城としてスタートし、後漢初期に漢中郡の郡都となって以来、今日まで漢中盆地の中心都市であり続けたわけであるが、秦代に設置された当時の城郭は、現在の 王観営村(古ぼけたテレビ塔が建つ)一帯にあったと考えられる。
三国時代の孔明死後の混乱期、この漢中城付近で楊儀の率いる蜀軍との戦闘に敗れ逃走していた魏延は、その眼前にあった小川に架けられていた老虎橋の近くで、馬岱により討ち取られることとなったわけである。
隋代の 612年、南鄭県城はより南西側へ 移転・新築され、漢江のほとりの現在の位置に築城される。これが今の漢中市 中心部(漢台区)の旧市街地区である。その後も適宜、城郭の拡張工事が進められていったという。
明代には、府長官とした赴任していた費震によりは、宋時代の漢中城が大幅改修され、今日に残る規模へと拡張されることとなる。後に明朝 初代皇帝・朱元璋の王子が漢王に封じられ漢中城へ派遣される。これにあわせて、城内に「王府」と呼ばれた居城が建設される。その王府跡の石碑は、現在、蓮花池公園内に残されている(上写真)。
その後も王府の敷地はますます拡大され、その規模と豪華さはますます増幅されていったようである。その敷地は、南は現在の西大街から北は城壁まで、西は北教場糧庫までにも及んだという。その面積は、当時の漢中城の 3分の 1を占めていた。現在、天漢大道と東大街の交差点付近にある石獅大酒店付近がかつて王府正門のあった場所であり、その門前に 2匹の獅子の石像が備えられていたので、この地名が今も残されているという。
また、現在に残る祥瑞巷は、かつての王府前に通っていた 第一巷(路地)であったらしい(現代に入り、蓮湖路の工事でほとんどが撤去されてしまった)。
ちなみに、西域の瑞王藩国の使節との面会も、この漢中城内にて漢王により実施されている。
その豪華絢爛な王宮も、明末の李自成を中心とした民衆反乱の渦中にあって、庶民らに破壊されてしまったという。同じく、清末の 1863年春には、太平天国軍が漢中城西側より攻撃を開始し、同年 8月に漢中城を占領の後、南鄭県長官であった周蕃寿を処刑するなど、城内は大いに破壊と混乱をきたしたという。しかし、後に清軍により鎮圧される。
上は、拝将台内の博物館で目にした古い写真。数十年前までは北側の城壁が残されていたらしい(蓮花池公園近く)が、その姿も今や写真でしか拝むことができないとは非常に残念である。
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交通アクセス
西安空港からバスで4時間半。
空港バス時刻表
を参照。ちなみに、筆者が訪れた2015年夏のバス時刻表は、
西安空港 → 漢中市 12:00、14:00、16:00、18:00、20:00
漢中市 → 西安空港 6:00、8:00、10:00、12:00、14:00
筆者は、漢中市から西安空港までをバス移動してみた。
漢中市の 高速バスターミナル(漢中高客駅)から 8:00発の 空港直行バス(105.5元)。途中に一回、トイレ休憩あり。
秦嶺山脈の急峻な山々を突き抜ける最初の 3時間は山道のくねくねとトンネルばかりの道のりだった。しかし、ラスト 1時間は関中平野へ入り、それまでとは一転して、ひたすら小麦畑の平原が続くこととなる。
西安空港に昼 12:30到着。4時間半の行程であった。
ちなみに、筆者は天水市からバスで 10時間かけて漢中入りし、ここから西安空港までバスで戻った次第である。
漢中市街地では、タクシーが大量に走り、簡単に乗車できる。別客との乗合は日常茶飯事。
余談であるが、四川省に近いだけあって、同じ陝西省の
西安市
や甘粛省の
天水市
とは違い、美人が多い街であった。
【 虎頭橋(魏延斬首の地)と 魏延墓 】
孔明死後の蜀において、楊義と対立した魏延は、この南鄭城の郊外で楊儀の率いる蜀軍に敗れ、そのまま馬岱によって殺される。ちょうど魏延が討ち取られた場所がこの虎頭橋である。
その屍は、魏延の部下らによって持ち去られ、さらに 3 kmほど北の 石馬坡(今の漢中鉄道駅の南側)に密かに埋葬される。後の発掘で、三国時代に珍しい巨大墓として認定され、魏延墓と確定された。後に蜀内では魏延は古参の建国の忠臣であったという声が高まり、宰相の費禕により改めて丁重に葬られたとされる。
【 拝将台 】
劉邦が項羽により漢中の一地方軍閥へと追いやられた際、この場所で「国土無双」と評された韓信を大将軍に抜擢し、その勢力を拡大させるきっかけを作った地である。その後、韓信は疾風のごとく秦嶺山脈を走破し、無防備であった陳倉城を攻め落として、中原への突破口をこじ開けることとなる。
なお、周囲の通りは古い家屋がまだまだ普通に使用されている庶民の街であった(建国路沿い)。下写真左。
下写真右は、拝将台の建物の一部に入っていた幼稚園の門構え。威厳と由緒ある幼稚園に圧倒された!そのすぐ横に DAIKIN(大金空調)の販売店があった。。。同じく拝将台の建物の一部。
【 古漢台(漢中市博物館) 】
この漢中城内で最も高い台地一帯には、歴代の南鄭県役所が設置されていたという。当時の役所の敷地はもっと広大であったわけであるが、あくまでもその一部が今日も残されている、という感じである。特に、清代も高台の麓一帯に役所があり、その高台上に建設されていたこの 建物(上写真右)は、当時、官僚らの遊興施設となっていたらしい。上写真左は古漢台東門。
このすぐ東側に、バス停の東門口がある。古城時代に東門があった一帯。
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