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鼎城区 韓公渡鎮
訪問日:2014年5月中旬 『大陸西遊記』~
湖南省 常德市 鼎城区 韓公渡鎮 ~ 鎮内人口 47,000人(区内 85万人)、
区市街地 一人当たり GDP 23,100 元(農村地帯 9,400 元)
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(漢寿)索県城
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三国時代の索県城史
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中国の農村風景
韓公渡鎮は、
常徳市
街区から 北東へ 25 kmのところにある。共産党中国建国(1949年)以前は崇孝郷に帰属する一つの村に過ぎなかったが、1956年に韓公渡鎮として行政区を新設されることになった。 1984年に再度、崇孝郷に編入されるも、1992年に現在のような鎮として存続することになっている。鎮の南には、冲柳河が流れる。
常徳
市街からの交通ルート。
市街地を東西に運行される路線バス ①(このバスは、長めの車体にタイヤ 3列、乗降ドア 3つを有する巨大さで、なかなか世界に類を見ない大型バス)であった。この東側の発着ターミナルまで行く。こんな巨大なバスが 10~15分間隔で、市内の狭い所から大通りまで運行されているのには驚きだ。
ちなみに、このバスの西側発着所には、職業訓練学校や 薬物依存者隔離施設(下写真右)があった。
この
東側バスターミナル
は、さらに東側方面の農村地帯へ向かう中距離バスの発着所でもあった。ここから韓公渡鎮行バスに乗車、だいたい 25分に 1本の割合で往復されている(片道 8.5元)。
韓公渡鎮までバスで1時間。韓公渡鎮の中心部は非常にシンプル。3つの主要道がそれぞれと交わる三角形部分が繁華街である。それ以外は、すべて村落である。
ガードレールもない下写真左のような道をぶっとばすので、対向車とすれ違う時、結構、スリルがある。途中、道路脇の溝に転落した自動車とその運転手を目にした。
この韓公渡鎮バス終点からバイクタクシーで 25元にて、城址村へ向かった。
道中、この農村地帯は、水が豊富であることがよく分かった。あちこちに 用水路、池、湖、川がある。また、近年、改築か新築された家屋は、すべて高床式の住居構造になっていた。
昔からの家屋は 1F部分がそのまま地面に接する 1階建ての住居であったが、虫の侵入が激しいということで、高床式構造へどんどん建て替えされている、とのこと。
韓公渡鎮の南側地域で、日中戦争跡、および、紀元前の春秋戦国時代の戦場跡と地元民が言う場所も視察してみた。その昔、戦場になったのかどうかも資料や碑文がないので定かではないが、のちの歴史検証に委ねる意味も込めて、ここに記録する。また、日中戦争時に日本軍がここへ来たという地元民の言葉は、遠からぬ歴史でもあるので、真実性がありそうだ。歴史の保存作業が待たれるばかりである。今では、畑と草地と墓地だけである。
日中戦争時代の「常徳会城」と言われる常徳攻略作戦図。ここでは、青色で記された日本軍の進路には、韓公渡鎮は含まれていないのだが。。。
さて、目的地の
城址村
に到着。下の写真の道路が二手に分かれる場所になっている所が、ここが村の中心部。
この道を常徳市側に行ったところに、漢時代の 行政庁「索県城」跡があった。
ただし、城址村はすべてが田畑と農家で、ここにかつて、城跡や都市があり、人々の往来があったのが全く想像すらできない村落風景が広がる。地元住民に城跡の位置を聞くと、皆、よく知っていたので、場所はすぐに教えてもらえた。
古城は都合良いことに、村と常徳市街地とを結ぶ唯一の道路沿いにある(余計な右折、左折は不要)。この道路脇に、古城跡を示す石碑が建つ。その後ろに広がる緑の部分が城壁跡であり、農道を通って、内部へ向かう。
今は見る影もない農村地帯と化してしまったこの 索県城(漢寿城)が、 後漢時代の 134年より、今の
湖南省
、
湖北省
、
貴州省
など一帯(荊州)を統括する 行政都市(荆州刺史)であったとは、俄かに信じがたい情景である。
周囲には土塁跡や堀川跡が巡らされ、その原型がなんとなく分かる状態で残されていたが、内部は完全に農地と化していた。
近くの住民らに話を聞いてみると、自分たちで開墾した、ということだった。
ちょうど、城壁都市内は、どうやら、城壁都市は左右の部分に分かれていて、中央部にも土塁が盛られていたらしい。外郭土塁の周囲には堀川もそなわる、本格的な城郭都市の原型が眼前に留められていた。
城は大小に二分されており、東側がやや広かったらしい(東城 東西 600 m × 南北 450 m、西城 東西 300 m × 南北 600 m)。東城の北側に行政庁が配されていた。城壁は粘土質の土塁であったらしい(高さ 3~4 m、広さ 10~15 m)。四方の堀川は広さが最大 30 mあるところもあったという。城門は東西南北にそれぞれ一つずつ設置されており、4角には見張り台として、より高い 土楼(8 m)が築かれていた。
それにしても、今ではこんなに農村地帯になってしまった田んぼのど真ん中に、
1900年前
、広大な面積を誇る荊州を統治する行政府があったとは信じられない。この一帯には、多くの湖や 小川、池などが点在しており、かつては河が流れて水運に恵まれた土地だったのだろうか。
時は、三国時代。後漢朝皇帝「霊帝」の没後の 189年、荊州刺史「王叡」の後任として、劉表が荊州刺史に任命される。しかし、長江南岸は地方豪族が割拠し、治安もままならぬ状態となっていたようである。このため、荆州刺史のある 漢寿城(索県城)へ行くことを止め、荊州北側の宜城に入城し、荊州北部を治めるのがやっとの状態であった。後に、荆州役所を宜城近くの襄陽城に移す。208年、劉表はこの襄陽城にて荊州牧として病死する。
荆州刺史の不在となった漢寿城は、地方豪族の襲撃や略奪を受け、荒廃したことであろう。
関羽が呉の呂蒙との戦いで最後に立て籠る、漢代に打ち捨てられた古城跡地の「麦城(春秋戦国時代は楚国の一都市であった)」も、索県城と同じような経緯の廃城跡であったものと推察される。
城址村からは、前述の城址跡村中心部まで戻って
常徳市
行バスに乗車してもよいし、もしくは、索県城の碑文前で待っていれば、通行途上のバスに 乗車(6.5元、30分ぐらい乗車)できる。
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