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訪問日:2018年 5月下旬 『大陸西遊記』~
浙江省 嘉興市 海寧市 ~ 市内人口 86万人、 一人当たり GDP 100,000 元 (嘉興市 全体)
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嘉興鉄道駅から(深緑色)普通列車で 海寧駅へ 9元(20分) ~ 嘉興駅の駅舎設計に感心 !!
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海寧駅前に直結された バス発着所 ~ 塩官鎮行や 長安鎮行、市街地(硖石鎮)路線 など
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海寧市博物館 が誇る 歴史遺産「三女堆(三女墩)」~ 三国時代の 墓所遺跡
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【豆知識】孫権の 三女・孫魯育 ~ 政治(二宮事件)に翻弄された 39年の生涯 ■■■
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西山公園端に残る、日中戦争時代の トーチカ遺跡(硖石日侵華砲楼)
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硖石鎮 旧市街地の西端に立地した 西関橋と 百盛購物広場
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硖石鎮 旧市街地の南端に立地した 南関厢街 ~ 洛唐河(長水市塘河)沿いの歴史風景地区
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【明末清初の 歴史秘話】 ~ 水運交易集落・硖石に 城門(関所)、水門、城壁が建設される
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【豆知識】硖石鎮の 歴史 ~ 長安鎮からの王座奪還と 海寧市の中核都市 へ ■■■
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硖石鎮 旧市街の シンボル「西山」
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【豆知識】海寧市の 歴史 ■■■
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【豆知識】三国時代、陸遜 が土地開墾した 秋水庵エリア ■■■
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【豆知識】塩官鎮城(海寧県城、海寧州城)の 今昔 ■■■
ホテル
から
嘉興鉄道駅
まで バス移動し、前日に購入していた乗車券で普通列車に乗車してみた。
嘉興駅の駅舎構内は
杭州
方面行と、
上海
方面行という東西の進行方向で 待合室(改札口を兼ねる)が分かれており、非常に分かりやすい構造だった。下写真。
下写真左は杭州方向の待合スペース。一番奥にトイレがある。
深緑色の普通列車にて、20分ほどで海寧駅に到着する(9元)。下写真右。駅ホームと列車のスケールは、さすが大陸中国サイズだった。
海寧駅前
もまた非常に便利で、すぐ正面には観光地で有名な 塩官鎮(109番)や 長安鎮(T311番)への路線バス発着所が設けられていた(駅前の西立交路沿い)。下写真右。
この西立交路が東へと方角を変える地点から、硖石街と名称が変わるのだが、海寧市街地(硖石鎮)内の各所を回る 路線バス(いずれも小型バス)の発着所となっていた。
乗車者数、バス発着頻度ともに圧倒的に多い地元民用の小型バス乗り場が隅っこに追いやられ、1時間に 1本程度しかない観光客向けの大型の路線バスが駅前の一等地を占有する、ちょっと非効率な配置設計となっていた。。。
そんな中国らしい非効率さが気になりながら、硖石街を東進し、西山路沿いの海寧市博物館まで徒歩で訪問してみた。駅舎から 5分ほどの距離である。
海寧市博物館
内であるが、他の嘉興市の郊外地区と比較すると、かなり貧弱な展示内容だった。
目当ての郷史関連は地下 1Fに展示されていたが、いずれも発掘されたものを羅列しているだけで、海寧県城跡(海寧州城跡)の歴史に至っては、地図掲示だけだった。
しかし、館内の案内人スタッフは皆、丁寧な案内や解説を心がけてくれて、親身だった。
ここで、三国時代の 呉初代皇帝・孫権の 第三女「孫魯育(約 216年~255年)」夫妻の 墳墓「三女堆(三女墩)」が海寧市長安鎮にあることを説明された(下写真)。海寧市域でも屈指の歴史遺産のようで、貴重な後漢末~三国時代の埋葬品などが展示されています、と地下 1Fのスタッフが強調していた(下写真が発掘品の一部)。
現在、その墓所遺跡は長安鎮の海寧中学校内に立地し、現在、天井部に保護カバーが敷設されているという(内部面積 22 m2)。1982年に海寧県指定に、1989年には浙江省指定の史跡に選定された、ということだった。
長安鎮は塩官鎮と共に距離も遠く、路線バスで片道 1時間以上かかるといい、この日は訪問を断念した。
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孫権の 三女・孫魯育、政治に翻弄された生涯
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215年、劉備が益州を占領すると、同盟契約に基づき、孫権は荊州の返還を劉備に要求するも、両者は折り合いがつかず対立する。関羽率いる劉備軍と魯粛率いる孫権軍が
益陽
で対峙するも、最終的に湘水の東西を境界線として劉備方が荊州の東半分を孫権へ譲渡することとなる。
一方で、孫権は
漢中
侵攻を進める曹操の後方を侵すべく、自ら出撃して合肥の戦いで曹軍に戦いを挑むも、名将・張遼、ベテラン将軍の楽進と李典らに迎撃され、命からがら呉へ逃げ帰ることとなる。
そんな三国鼎立が未完であった混沌期、孫権の第三女として 孫魯育(約 216年~255年)が生まれる。步皇后(步練師。?~238年)との間で誕生し、字は小虎と命名された。
彼女は後に呉第 3代皇帝となる孫休の異母姉であり、また彼の妻となる景皇后朱氏の母親となる人物だった。
孫権はその後も、219年に関羽討伐と荊州全土の併合、222年に夷陵の戦いで劉備率いる蜀軍を撃破、226年に士徽の乱を平定して
交州
の直轄支配化を進めるなど、着々と領土を広げ、ついに 229年、呉を建国し、初代皇帝に即位する。
この時、王都に定めた建業城で祝賀パーティーが開催され、孫権は 朱据(36歳。呉郡の 名門・朱氏当主)に、自身の三女である 孫魯育(13歳)を嫁がせる決定を下す。
朱据は元来、質実剛健・清廉潔白・質素倹約で有名で、孫権からも非常に高く評価され、219年に死去した呂蒙の後継者の一人として 校尉(上級武官)に任じられていた人物だった。
この王都での縁談にあわせて、朱据は左将軍に昇格され、あわせて雲陽侯として 雲陽侯国(王都は今の
江蘇省鎮江市丹陽市
。雲陽県下の行政区を領地とした)を分与される。
このとき、朱据は侯国王となったため、その妻となった 孫魯育(13歳)は 朱公主(後に朱皇后)と呼ばれるようになる。 5年後の 234年、一女をもうける。この娘が後に 3代目皇帝・孫休の 妻(景皇后朱氏。234~265年。 最終的に 4代目皇帝・孫皓により暗殺)となるわけである。
241年、孫権の長男で皇太子であった 孫登(33歳)が病死すると、その遺言により、翌 242年、異母弟の 孫和(19歳)が皇太子に指名される。
しかし、孫和の実母である大懿皇后と、孫権の 長女・孫魯班(全琮と結婚したため、全公主と通称された)は不仲で、常に忌み嫌っていたという。このため、孫魯班(全公主)は皇太子の孫和を廃止させ、魯王の 孫霸(孫和の弟)を皇太子に挿げ替えたいと常に合作していた。この時、妹だった 孫魯育(朱公主)は特に 姉・孫魯班(全公主)を支持するわけでもなく、どっちつかずな上、夫の朱据は強硬な孫和支持者だったため、姉妹関係も悪化することとなる(二宮事件)。
このとき、孫和支持派の主メンバーは 前丞相・陸遜(すでに 245年死去)をはじめ、朱据、大将軍・諸葛恪、太常・顧譚、会稽太守・滕胤、大都督・施績、尚書・丁密などで、対する孫霸支持派の主メンバーは、現丞相・步騭、大将軍・呂岱、右大司馬・全琮、左将軍・呂据、中書令・孫弘らであった。まさに呉の家臣団を二分するお家騒動となっていた。
240~250年ごろ、孫魯育(朱公主)の一人娘がその異母弟である孫休に嫁ぐと、王妃となる(景皇后朱氏)。
246年、孫権が重病に倒れ、政務がとれなくなると、中書令(現在の秘書長に相当)の劉弘が詔を牛耳ることとなる。また同時に、孫権の信任の厚かった朱据は驃騎将軍へ昇格される。
249年、陸遜の後を継いで丞相にあった步騭が死去すると、夫の朱据が丞相に昇格される。
しかし翌 250年、夫の朱据が皇太子の廃止問題に反対した罪で百叩きの杖刑を受け、あわせて新都郡丞に降格される。その直後、中書令・劉弘の讒言により、死刑とされる。あわせて、孫和が皇太子から外され、代わって末弟の 孫亮(243~260年)が皇太子となる。
朱据の処刑後、雲陽侯国は廃止され、もとの雲陽県へ降格される。
34歳で未亡人となった孫魯育はすぐに、車騎将軍の 劉纂(生没年不詳)と再婚する。
劉纂はかつて 尚公主(孫権の二女)と結婚していたが、すぐに早逝してしまっており、朱公主がその後妻として、劉家との婚姻関係維持を目的に降嫁されたのだった。
252年、孫権が死去すると、いまだ 10歳だった末子の孫亮が 2代目皇帝に即位する。太傅・諸葛恪が政権を独占するも、後に孫亮の意向を受けた皇族の孫峻がクーデターにより諸葛恪を暗殺すると、続いて孫峻の専横政治がスタートする。
255年、孫儀らが密かに蜀からの使者の到着時にあわせて孫峻の暗殺を企てるも、その内部情報が露見し自殺に追い込まれる。
これに絡む一連の処刑は関係者数十人にも上り、孫魯育もこれに連座して処刑されることとなる。彼女らの遺体は、
王都・建業城外の 墳石子崗(今の 南京市雨花台区雨花台風景公園あたり)に広がる無名墓地
にまとめて遺棄されたという。
この暗殺未遂事件の後、呉朝廷は引き続き、孫峻が牛耳ることとなるも、翌 256年に孫峻も病死してしまうと、続いて孫綝が専横政治を継承する。
すでに成人に成長した 2代目皇帝・孫亮は孫綝の専制政治を疎ましく思ったため、孫綝の排除に乗り出すとともに、自らの親政を欲するようになる。これにあわせて、異母姉の 孫魯育(朱公主)の処刑について真相究明の調査をスタートさせたのだった。
姉・孫魯育の刑死が、長姉の 孫魯班(全公主)の讒言が原因だったことを突き止めると、孫亮は直接、孫魯班を呼び出し、孫魯育の死因について詰問する。孫魯班は巧みに言い逃れし、朱据の二人の息子である朱熊と朱損の讒言であると罪を擦り付けてしまうのだった。
ちょうど間に悪いことに、朱損は孫綝の妹の夫であり、孫亮は孫魯班の言い訳を利用して、虎林督の朱熊と外部督の 朱損(二人は別の母の子)の処刑を決定する。
丞相・孫綝がこれをいさめるも、孫亮は納得せず、左将軍の丁奉を派遣して朱熊と朱損の処刑を強行したのだった。
こうして、孫峻の専横政治時代に 異母姉・孫魯育が濡れ衣を着せられて処刑されたことが晴れて証明されたわけだが、これ以降、皇帝・孫亮と 丞相・孫綝との対立は完全に表面化し、258年、孫綝は 2代目皇帝の孫亮を廃止させ、代わりに孫休を 3代目皇帝として擁立することとなる(呉景帝)。
間もなく、景帝は 丞相・孫綝を排除し、さらに孫綝三族を処刑すると、孫峻と孫綝らの残った一族らを皇族から除名し、故峻と故綝へと改名させ、王都・建業から追放してしまったのだった。
あわせて、孫峻の棺が掘り起こされ、共に埋葬されていた印綬を奪うと、別のボロ棺に再埋葬される。これは、自身の姉であり、また 前皇帝・孫亮の姉でもあった孫魯育を殺した罪を償わせるものであった。
こうして 264年10月、孫魯育の遺体は 3代目皇帝・孫休によって、丁重に海寧の地に埋葬し直されたというわけである。
孫権の子供たち
長男 孫登 (209 ~ 241年) 229年の呉建国時、皇太子に即位
長女 孫魯班 (?~?)
次女 孫氏 (?~?) 劉纂に降嫁(劉公主)、早逝。
次男 孫慮 (213 ~ 232年) 鎮軍大将軍、建昌侯に封じられる。
三女 孫魯育 (216年?~ 255年)
三男 孫和 (224 ~ 253年) 皇太子となるも、後に南陽王。孫亮の即位とともに処刑。
四男 孫霸 (?~ 250年) 魯王に封じられるも、孫権により処刑。
五男 孫備 (?~ 270年) 斉王、章安侯に封じられるも、4代目皇帝・孫皓により処刑。
六男 孫休 (235 ~ 264年) 3代目皇帝(景帝)
七男 孫亮 (243 ~ 260年) 2代目皇帝となるも、強制的に退位させられ、会稽王として任地に赴く途上で自殺
博物館内
に掲示されていた、海寧市内の史跡案内地図を見まわしていると、先の硖石街と西山路との交差点に、 日中戦争時代の トーチカ(硖石日侵華砲楼)が保存されていることを発見したので、続いて、ここを訪問してみることにした。
そのトーチカ遺跡は博物館前の西山公園端の用水路沿いにひっそりとたたずんでいた。下写真。
2階建てぐらいの高さを有するレンガ積みの塔で、この中に立て籠もって銃火器で応戦していたのだろう。
博物館内の遺跡地図によると、海寧市内には同様なトーチカ遺跡がいくつも紹介されていた ― 許村日侵華砲楼、長安日侵華砲楼、周王廟侵華日軍砲楼、斜橋火車駅及侵華日軍砲楼など。
そのトーチカ脇の水路で地元女性が洗濯していた。。。。
下写真
(西山橋から撮影)。
奥に見える橋は西関橋。対岸には百盛購物広場という地元ショッピングエリアが広がる。
ちなみに、西関橋はちょうど硖石鎮の集落地の西端にあたり、かつて城門が設置されていた場所である(下地図)。城門は東西南北に一か所ずつ設けられていた。
そのまま用水路上の西山橋を渡って西山路沿いから紫陽路の一帯に広がる百盛購物広場の歩行者天国のショッピングエリアを突き抜けて南進すると(上地図)、工人路にたどり着く。
この通りは、新開発のショッピングモール地区となっており、愛琴海購物公園などの洋風モールには スタバ、マクドナルドなどが入居していた。その向かいには KFCも進出し、お決まりのロケーションを占有していた。
ちょうど、このど真ん中にあったバス停が 下記「東方商厦(老風祥銀楼)」。
ここを通過する 6番路線バスは、海寧鉄道駅とバスターミナルとを結ぶ主要幹線ルートのようだった。
この先にある南関厢街エリアを訪問してみるといい、と博物館員さんから助言をもらっていたので、ここから自転車三輪タクシーで移動することにした(10元)。10分弱で到着する。
この南関厢街は、洛唐河(
長水市塘河
)と麻涇河との合流地点に立地しており、かつて 洛唐河(長水市塘河)沿いに交易集落都市として発展した硖石鎮の最南端部に相当する。旧市街地の他エリアは都市開発されてしまったが、この南端部だけは開発に取り残され、古民家群がそのまま残存され得たのだった。
現在、海寧市政府が肝入りでが歴史地区として 修復、復元作業を手掛けており、かつての水郷風景を楽しめる空間に生まれ変わりつつあった。
上写真左は、洛唐河(長水市塘河)にかかる虹橋上から南側に位置する南関厢街エリアを眺めたもの。
上写真右は、洛唐河(長水市塘河)沿いにあった 南関厢船着き場跡地。
筆者の 訪問時(2018年5月末)も未だ再開発中で、どんどん新しい ショップや バー、喫茶室などがオープンし出した矢先といった感じだった。
そのまま 洛唐河(長水市塘河)の西岸沿いの西南河街を南下し、修復された古民家群を愛でながら石畳の路地を進んでいると、東岸へ渡る橋の下で、のぼり旗を立てた「魚市」を発見した(下写真)。
そこでは、明らかに地元の河川で釣ってきたと思われる淡水魚を、おじさんたちが売っており、近所の人たちなどが積極的に買いに来ている様子だった。きっと、水郷時代もこうして運河沿いに魚市が立っていた名残だろうと妄想してみた。
洛唐河にかかる橋から、洛唐河(長水市塘河)と麻涇河との合流地点を臨んだもの。
そもそも当地が「
南関厢街
」と呼ばれるようになった由来であるが、この運河沿いの「硖石鎮」は古くから発展した交易集落であったが、特に全盛期を迎えたのは清末から中華民国時代のわずかな期間だけだった。
明末、朝廷の無力化と倭寇の襲撃で、江南地方の経済と治安が大いに悪化しており、 これを見かねた当地の地元名士の 周宗彝(1600~1645年)が、集落地内で寄付を募り(最終的に銀計 1,300両を集めた)、自分たちで関所や城門を設置して、自力での治安維持を図るように住民らを説得する。
彼は 1639年に科挙の末端試験である郷試に合格して、挙人となった秀才で、地元名士の威光とこの学位により当地で一定の発言力を持っていたのだった。
こうして、それまで運河沿いに東西南北に広がってバラバラに集落地が形成されていた硖石鎮に、初めて集合的な城壁と城門の設置が手掛けられることとなる。
硖石鎮へ通じる東西南北の陸路ルート上に 関所(関厢)が 4箇所(現在、南関厢だけが現存する。下写真)、また、水路には水柵が 42箇所(乾季には水が干しあがる運河にも設けた旱柵 35箇所を含む)が建造されたのだった。
これらの関所や水門は西寺の鐘を合図として、早朝に開門し、夜に閉門するルールで、主に強盗や海賊対策を目的とし、日中の安全な交易活動の保証を企図するものであった。
しかし、1645年春、清軍が南明政権の
王都・南京
を落とし、さらに江南地方へなだれ込んでくると、
硖石鎮
も戦火に巻き込まれることとなる。
このとき、地元リーダーとなっていた周宗彝は、さらに家財を投げ売って私費をつぎ込み、義勇兵を募集して軍事訓練を施し、硖石鎮の自衛を図ることとなる。こうした自衛軍は南明朝廷から公認され、周宗彝は職方員外郎に任じられる。しかし、1645年夏(旧暦 8月15日)、いよいよ清軍が硖石鎮へ攻め寄せると、その実弟の周启琦とともに、戦闘の中で殉死してしまう(下写真右)。
居残った周家の親族ら 42名(妻・卜氏、妾・張朱衣と王紫衣、赤ん坊・周明球とその乳母ら)も、東横港橋あたり(硖石鎮中心部から南西へ 5 km)にあった別荘内の池で集団自決したという(上写真左)。後世の人々は、その池を「節義池、青蘿池」と呼び称えるも、大変残念なことに、今から数十年前の都市開発で破壊されてしまったという(現在、その上に小区凉亭が一つ設置されている)。
周宗彝とその一族の故郷への献身的なエピソードは、鉄の意志に貫かれたものだったと評され、後世、同郷出身の張宗祥によって 人物伝『鉄如意館』が出版されている。
また、1712年には同じく同郷出身の許汝霖により 紫微山(今の西山)の泗洲殿西に令原祠が建立されるが、もともとは周孝廉祠と命名されており、まさに郷土のために身を捧げた周宗彝と周启琦の兄弟を記念し祀ったものだったという。その後、荒廃するも、1842年に再建されている。
もともとは京杭大運河から派生する水路沿いの小さな 水運交易都市「峡石」に過ぎなかったが、唐代初期に「硖石」へ改称されると、655年に硖石鎮へ昇格される。
引き続き、鳴かず飛ばずで水運交易都市の一つに過ぎなかった硖石鎮だったが、当地の中核都市として頭角を現すようになるのは、清代も末期となった頃であった。
清末の太平天国の乱では海寧市一帯も戦火に巻き込まれる(下地図)。
このとき、京杭大運河沿いに位置し、当エリアの最大都市として君臨してきた長安鎮が大ダメージを受けることとなる。多くの家屋が焼失され、繁華街の路地網は荒廃してしまったという。
そもそも硖石鎮は、江南地方の主要都市である
呉江(江蘇省蘇州市)
や
青浦(上海市青浦区)
、
蕪湖(安徽省蕪湖市)
、
巢湖(安徽省合肥市)
などを往来する米運搬船が必ず通過するルート上にあり、夜に硖石鎮付近を運行する場合、必ずここで停泊して夜を明かし、翌日早朝に長安鎮下の米市場へ運び込まれるパターンだったという。
太平天国の乱を経て、長安鎮の米市場が衰退していくと、これに反比例して硖石鎮内の米市場が台頭し、一帯の中心都市として栄華を誇ることとなる。
主たる米の倉庫群は南関厢から北の米市街に点在しており、特に、南関厢街区には塩官県下の 4郷の食糧が集積され、郷貨行米店が軒を連ねたという。
この清末から中華民国時代の 1920代まで、南関厢内の郷貨米行業は最盛期を迎え、毎日、輸送船が百余りも入出港し、附近の 伊橋、張店、馬橋、湖塘、丁橋、芦湾、豊土、博土 などから米が搬入されていた。
米市場の隆盛に伴い、飲食店や雑貨屋などの商店街も形成され、一大都市に成長していく。
しかし、中華民国時代後期の内戦と日中戦争により、江南地方の物流ネットワークは寸断され、米市場や倉庫街も多いに衰退を余儀なくされる。
硖石鎮の中心部は荒廃し、わずかに 南端分(現在の 南関厢歴史街区)で、 20軒あまりの商家が引き続き、営業を続けていたが、共産党時代に交通網の再整備とともに都市開発が進むと、運河を使った水運交易は壊滅し、かろうじて生き残っていた 20軒も廃業に追い込まれ、完全に無人化し廃墟となったのだった。
2009年1月、地元政府により、この放置された廃墟の商家街が再着目され、修復計画が策定されると、早速、同年 6月より復元工事が着手される。
整備が完了すると、街路と河川沿いの街路との二本の路地を中心に、石畳の路地を張り巡らせた南関厢歴史街区として再生される。主な見どころは、関帝廟(かつての会源寺)、紗業公所跡地、呉其昌・呉世昌兄弟の 生家(両名は著名な歴史学者で当地出身)、紅学館、南関厢、人民路入口広場、廊棚水景、深宅大院、香樟古樹、大瑶橋、塘橋跡地、南茶亭 などが挙げられている。
なお、筆者が当地を訪問し感心したのは、博物館を兼ねる南関厢の建物下に、清末の 消防用具「洋龍房」が展示されていたことだった。火災の際、龍水ホースの下を水の容器に入れて、水圧差を利用して 10 mぐらい先まで水を飛ばすことができたという。また、人力により水圧調整も可能となっていたという。
さてさて、ここから路線バスや自転車タクシーも見当たらないので、徒歩で先ほどのショッピング地区まで戻ることにした。
さっき自転車タクシーが通過した路地を思い出しながら、とりあえず北へと歩みを進めると、
15分
ほどで到着できた。
この硖石鎮エリアの目印は、西山公園であろう。山頂にいかめしい展望台を有する標高 46 mの子山だが(下写真左)、旧市街地のどこからでも見える立地だったはずだ。今日では高い建物で遮られてしまっているが、往時には圧倒的な存在感を放っていたに違いない。下写真左は 西側(博物館前)から見たもので、下写真右は 南側(ショッピング地区)から見たもの。
このショッピング地区の中心部に位置する バス停「東方商厦(老風祥銀楼)」から ⑥番路線バスに乗車し(2元)、約 5分で海寧鉄道駅に到着できた。下車ポイントは、もちろん硖石路沿いの停留所。鉄道駅まで結構、離れていた。地元民の利便性は二の次にされている印象だ。
そのまま海寧駅から普通列車で
嘉興駅
まで戻った(20分)。
ちなみに、下地図は
「嘉興市バスターミナル」
と「海寧市バスターミナル」とを結ぶ 181番路線バスのルート図。「海寧市バスターミナル」から ⑥番路線バスに乗って、硖石鎮の旧市街地や海寧鉄道駅まで移動できる。
【
海寧市の 歴史
】
約 6000~7000年前の新石器時代、すでに海寧市一帯には人類の生息が確認されているという。
春秋戦国時代を通じて、越国、呉国、楚国など、次々とその支配者が変わり、現在の海寧市エリアは 武原郷、隽李郷、御儿郷の管轄下に分かれて統括されていた(下地図)。
秦代には、海塩県と 長水県(後に由拳県へ改称。今の
嘉興市平湖区
)の行政区に分かれて帰属する。
漢代、当地でも沿岸部の塩田開発が進み、塩官鎮の集落地が形成される。
後漢末の 204年、若き
陸遜
が幕府令史の職にあるとき、孫権により海昌屯田都尉に任じられると、実質的に
海塩県
行政を司ることとなった。この時、現在の塩官鎮の南 10 kmの海岸沿いの 集落(現在の塩官古城がある塩官村)に都尉役所を開設する。
あわせて、屯田部隊として二千人余りの人夫を引き連れて、海塩県下で大規模な屯田開発を進めることとなる(今の 海寧市の秋水庵あたり。下写真)。
海塩県
下での治世時代、陸遜は後漢末の黄巾の乱で土地を離れた流民らを糾合して、農地開墾を奨励し、農業振興を図りつつ、また彼らから兵士を募集して水軍を組織し、日夜練習に励んだという。この間、五行八卦の陣形などを利用して水軍操舵訓練を実施し、以降、ここで訓練を積んだ八卦水軍は、陸遜と共に多くの戦線に出撃し、芳しい戦果を残していくこととなる。
陸遜の土地開墾が今日の 海寧市(当時は海塩県下にあった)の基礎を作ったことは事実で(上写真)、近年、海寧市では彼の功績を称えて、八卦湖記念公園が造園されたという。
223年、呉の孫権により、
海塩県
と
由拳県
の一部ずつが分離され、塩官県(塩官鎮より昇格。先の陸遜が開設した都尉役所のあった海岸沿いではなく、現在の塩官鎮人民政府あたり)が新設される(呉郡に帰属)。これが現在の海寧市一帯での最初の県役所開設となった。
南北朝時代末期の 558年、陳朝の武帝により呉郡の一部が分離され、海寧郡が新設される。塩官県、海塩県、
前京県
の三県を統括した(下地図)。
なお、この時、誕生した「海寧」の地名の由来であるが、当時すでに沿岸部で見られる銭塘江涌潮は観光名所となっており(下絵図)、全国から多くの訪問客らが当地に足を運んだという。その波が作り出す奇景を表現した「海洪寧静」の文字から命名されたという。
その南朝を率いた陳政権も 589年、北朝の隋により滅ぼされると、いよいよ全国再統一が成る。その直後に、旧陳領の行政区改編が行われ、郡制が廃止され州制が採用されると同時に、海寧郡が廃止される。
このとき、塩官県(現在の 塩官鎮人民政府あたり)、銭塘県(今の 浙江省杭州市上城区)、余杭県(今の 浙江省杭州市余杭区)、富陽県(今の 浙江省杭州市富陽区)、于潜県(今の 浙江省杭州市臨安区于潜鎮)、武康県(今の 浙江省湖州市德清県)の 6県が分離されて、新たに
杭州
が新設される。当初、州都は余杭県城が兼ねるも、 590年に銭塘県城へ移転される。さらに翌 591年、現在の杭州市中心部の銭塘県城が大規模改修され、巨大な州城が築城されることとなる。
唐代初期の 630年ごろの一時期、塩官県(現在の 塩官鎮人民政府あたり)が廃止され、銭塘県に吸収合併されるも、650年に復活設置されると、南 10 kmの海岸沿いの 集落(現在の 塩官古城がある塩官村)へ移転される。直後に県城の築城工事が着手される。
唐代中期の 733年、塩官県は 余杭郡(唐代を通じ、何度か 杭州 ⇔ 余杭郡 と改名を繰り返した)へ移籍される。
五代十国時代、呉越統治下で杭州に属して以降、北宋時代にもこの行政区が踏襲される(両浙路。上地図)。
1138年、南宋朝を建国した高宗が王都を
臨安府城(杭州)
に定めると、塩官県は王都近郊に立地したことから、王都 直轄領(畿県)に組み込まれる。
なお、この宋代には江南地方の南岸エリアで地盤沈下が進み、多くの土地が海底に沈むこととなる(上地図の茶色部分)。
元代の 1295年、塩官県が塩官州へ昇格される。1329年には海寧州へ改称される(杭州路に帰属)。
明代初期の 1369年、海寧州は海寧県へ降格され、そのまま
杭州府
に属した(下地図)。
清代中期の 1773年、海寧県が再び海寧州へ昇格される(引き続き、
杭州府
に帰属)。上地図。
中華民国が建国された直後の 1912年、全国で州制が廃止されると、海寧県へ改編され、浙江省の直轄となる。
長い歴史を通じて、
海寧県
の県役所は、海岸沿いの塩官村にある古城地区に開設されてきたが、日中戦争の期間中、日本軍の戦火を避けるべく、より内陸部の 袁花鎮(今の 海寧市治硖石鎮の南東 14 km)にある田舎町や、さらに県外へ移転して避難されていった。
終戦直後の 1945年、硖石鎮内に海寧県役所が復活設置される(一時的に塩官鎮内へ再移転されるも、1949年6月、再び硖石鎮内に戻される)。以後、硖石鎮が海寧県の県都として君臨し、1986年11月、海寧県が海寧市へ改編されると、市の中核都市としてますます発展していくこととなった。
結果的に近代都市開発に取り残された 旧海寧県城(今の 海寧市塩官鎮塩官村)の旧市街地は、往時の古民家群や城壁、水門の 一部(下写真)、外周の掘割を今日まで残すこととなったのだった。
この 塩官県城(海寧州城)の城壁は、唐代初期の 630年に一時廃止された後、 650年ごろに復活設置された際に県役所が海岸沿いに移転されると、はじめて築城工事が着手され建造されたものだった。以後、何度も修繕と拡張工事を経る。
清代には城壁の全長が 5 km近くに達し、5城門 ー 東門(春熙門)、西門(安戍門)、南門(鎮海門)、北門(拱辰門)、東小門(宣徳門)ー、そして 3水門 ー 北門(拱辰門)の西隣、東小門(宣徳門)の北隣、西門(安戍門)の南隣 ー が設けられ、四角形となっていた。下絵図。
1958年、大部分の城壁と城門が撤去されてしまうも、 北門(拱辰門)と 南門(鎮海門)だけが残される。しかし、この両者も 1970年代後半に道路拡張とバスターミナルの建設工事に際し、撤去されてしまうこととなった。
現在、北門(拱辰門)の西隣にあった水門とその東脇に残るわずかな城壁のみが残存し、海寧市の指定遺跡として保護されている(上写真)。
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