ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
中国地図 から
≫
雲南省 地図
≫
昆明市
≫
富民県
≫
訪問日:2019年 4月中旬 『大陸西遊記』~
雲南省 昆明市 富民県 ~ 県内人口 17万人、 一人当たり GDP 35,000 元(富民県)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
昆明市街地 から 富民県へ バス移動(40分、10元)
▼
富民県の 中心部(永定鎮)の 古城地区マップと 富民バスターミナル
▼
環城南路から環城西路へ 螳螂川を渡る ~ 風流漂う黎陽橋からの絶景
▼
雲南省中部の高原地帯から 長江へと流れ出る 螳螂川
▼
濱河公園内の「紅軍長征過富民紀念碑」~ 中国共産党の長征と 富民県
▼
【二代目】富民県城エリア(黎陽路と 農貿路の交差点)から 【初代】富民県城跡へ(20元)
▼
【初代】富民県城(利浪駅、黎瀼甸、馬挙龍城、梨灢城、黎瀼千戸所城)の 今
▼
湿地公園と螳螂川
▼
湿地公園脇の 毓秀路で出くわした、香港式アフタヌーン・ティー!
▼
北城河路を 歩く ~ 【二代目】富民県城の北面の 外堀跡
▼
古城エリアを 歩く ~ 永定街と 西街、農貿路のショッピング街
▼
古城対岸の 古民家エリア ① ~ 逢源路から菜街、そして 永定街へ
▼
永定橋 ~ アジアの喧騒と無秩序が充満する 商店「橋」と 両岸の静寂空間とのコントラスト
▼
古城対岸の古民家エリア ② ~ 菜街から 前街、横街、后街へ
▼
富民バスターミナル、分かりにくい ロケーションならがら、行き届いた サービスと施設
▼
【豆知識】富民県の 歴史 ■■■
筆者は
この日、
昆明市西部にある眠山森林生態公園を視察後、 地下鉄駅「眠山」の東隣にある人民西路沿いの バス停「眠山」から 151番路線バス(始発は西部バスターミナル)に乗車し、終点の西北部バスターミナルを目指した
(2元)。下写真。
この西北部バスターミナルで富民行の チケット(10元)を買い、バスに乗車して乗客が集まるのを待つ。
いよいよ乗車率 100%に達しバスが発車すると、ひたすら一般道を走行し、乗車時間 40分で富民県下のメインストリートである環城南路と、古城エリアの入り口である永定街との交差点に到着した(下地図)。
富民客運バスターミナル(富民県永定鎮)は永定街のやや裏手に立地しているため(
下地図
)、下車ポイントは環城南路沿いだった。帰路で分かったことだが、周囲の住宅地が密集する中で、富民バスターミナル自体が狭いスペースしか有せず、乗客やバス待機の敷地を十分に取れないためのようだった。
とりあえず
、そのまま環城南路沿いを西へ進んでみると、螳螂川を挟んで環城西路へと名称が変わる(上地図)。下写真は、螳螂川にかかる黎陽橋。
この黎陽橋の両脇には、休憩スペースが広く設けられた風流漂う遊歩道が付設されていた。たくさんの地元の中高年層の方々がたそがれ、マッタリとおしゃべりを楽しんでいた。下写真。
橋上
に立つと、晴天に映える山々と河川、市街地の遠景は絵画を見ているように美しかった。
下写真は、黎陽橋の北面。ちょうど永定鎮の古城地区エリア一帯。この先は富民県域を越えると、螳螂川は普渡河へと名称を変える。そのまま金沙江と合流し、長江へとつながることとなる。
下写真は、黎陽橋の南面。この先は、
昆明市安寧市
青龍水神嶠景区という高原地帯の水源地へと遡る。
黎陽橋
の西端で、環城西路(環城南路)沿いの濱河公園前に小鳥を売買する地元民たちが ガヤガヤ、マッタリと商談していた(下写真。別名:翠鳴小苑)。
その公園入口の門前に、「紅軍長征過富民紀念碑」の案内板が掲げられていた(下写真右の中央部に見える白色側面壁にある黒い石板)。この濱河公園内に巨大な長征紀念石碑が設置されている。
1935年4月、国民党軍に圧倒され
貴州省
まで逃げ延びていた中国共産党は、旗下の紅軍に対し、金沙江より四川省西部へ進路をとり、国民党に協力する四川軍閥軍との衝突を回避して、この西部の山岳地帯に 共産党支配地域(ソビエト解放区)を樹立する作戦を命令する。
この途中で、普渡河(富民県の中心部を流れる螳螂川から名称が変わる)を渡河すべく、紅軍の各部隊は富民県エリアに侵入し、単に通過して北西の
禄勸県
、
元謀県
を経て、その北を流れる金沙江を渡河する作戦ルートを採用する。ここで、目的地の四川省西部エリアの山岳地帯に到着する算段だったわけである。下地図。
そうとは知らない 雲南軍閥(滇軍)旗下の民兵らは、この紅軍の進軍ルートに立ちはだかり、散発的な戦闘が各地で繰り返されることとなった。この過程で、紅軍長征は二度、富民県エリアを通過し、戦闘のため、のべ四日間に渡って同地に駐留することとなる。
このわずかな期間内にも、紅軍は確かな足跡を当地に残しており、指揮本部跡地や地元少数民族と接触を謀った解放委員会の活動拠点跡、東村郷小松園での古戦場などは、富民県で歴史遺産指定され保護されている。
その一環で、この黎陽橋の西岸にある濱河公園内に 1999年 4月12日、 16 m × 16 mの巨大な長征紀念石碑が設置されたというわけだった。
さて
、黎陽橋の左右両サイドを往来し、ゆったりした地元民の生活時間に触れた後、いよいよ古城地区を目指すことにした。
環城西路(下写真左)の一つ目の交差点から 黎陽路(下写真右)沿いに東進してみる。農貿路との三差路に至ると、客待ちタクシーが並んでいたので(この農貿路の北側に当地のショッピング繁華街が広がっており、その出入口附近に相当した)、ここでタクシーをチャーターし、旧県路まで往復してもらうことにした(20元)。
環城南路から旧県路へと右折すると、すぐ正面に真新しい建物の党学校があった(下写真)。ちょうどタクシーに乗車してから、5分強程度のドライブだった。
昆明行知中学校は、さらに先の旧県路が左折した先に入口があった(下写真)。
そこまでの運転は不要なので、この交差点でしばし下車させてもらうことにした。
まさに
、畑地帯のど真ん中を開発した形になっていた。ここからさらに南の山沿いに見える集落地が、大営鎮 旧県村だった(下写真)。後方に見える山は、天馬山。
ちょうど、この筆者が停車した交差点から、天馬山の山麓にある旧県村へ向けて、やや太めの水路が流れており(下写真)、かつて古城時代の水路か、外堀の一部を担ったものと妄想してみた。
天馬山の山裾部分あたりに築城されていた県城との因縁からか、後方の周囲の山は「老守山」「天宝営」、その脇には「倉前村」などの地名が残っている(下地図)。
ここには、古くから地元部族の集落地があったと考えられており、その存在が初めて史書に記されたのが、唐代初期の 624年で、ここに 利浪駅(役人専用の中継宿場町)が開設されたということだった。635年には黎瀼甸へ改編される。
南詔国の統治下の 775年、馬挙龍城(別名、梨灢城)が築城される。以後、現在の富民県一帯を統括する拠点として君臨し、最終的に元代の 1267年、黎瀼千戸城が設置され、ついに 1275年に富民県城へ改編されるに至る。
しかし明代後期の 1614年、県役所が螳螂川の北岸へ移転され、現在の永定鎮に【二代目】富民県城が築城されると、以降、そのまま寂れることとなり、旧県村と通称されていくこととなったのだった(下地図)。
なお、旧県村のやや南側に覚海寺という古刹がある(上地図)。
元代に建立されたと考えられており、清代後期の 1862年に太平天国の乱のあおりを受けて焼失されるも、1887年に再建される。 1985年に富民県政府により歴史遺産保護指定を受けたという。
さて
、再びタクシーに乗って旧県路と環城南路との交差点に戻り(下写真)、元の旧市街地へ向かわず、途中の富興路を北上して湿地公園入口まで送ってもらうことにした。
タクシー下車後、湿地公園入口から螳螂川まで徒歩で戻り、改めて富民橋上から螳螂川と古城エリア一帯を写真撮影してみた。下写真の 螳螂川(南側)の先に見える橋は、永定橋。ちょうど、【二代目】県城エリアの中央部に相当する。
なお、上写真の螳螂川沿いには螳川西路と螳川東路が両岸に整備されているのだが、その螳川東路の南隣に「前街」があったのには驚かされた。
これは、先の古城地区のバスターミナル前から続く古い路地なのだが、この富興路までつながっている長すぎる距離に度肝を抜かれたのだった。旧市街地の路地は普通、短めなのが一般的なのだが、この「前街」はかなりの距離、東西に延びていることになる。
上写真左は、螳螂川の北側。新興開発地区となっており、真新しいマンション群が立ち並ぶ。
さて、湿地公園入口に戻り、少し公園内を散策してみた(上写真右)。空気も澄み、のどかな時間と自然環境が広がる理想的な空間だった。
筆者の前調査では、この湿地公園内に地元の郷土博物館が立地するはずだったが、公園案内地図を確認しても見あたらず、公園正門附近を掃除する初老男性に質問しても「
無い
」の一言だった。
仕方ないので、湿地公園脇の毓秀路を北上する(上写真左)。
すると前方に、巨大な城門を模した建造物が忽然と姿を現した(上写真右)。もしかすると、これが地元博物館かと期待したが、後述する北城河路沿いのショッピングストリートなどを開発した、地元の不動産会社の事務所兼応接室らしかった。
筆者の 訪問時点(2019年4月中旬)では、まだまだ整備中で見学者や訪問者は皆無だった。警備員と清掃係の二人だけが、巨大な建物の一階スペースに常駐しているだけであった。
その隣には、この殺風景な新興開発区とは全く似ても似つかない、香港式飲茶の アフタヌーン・ティーを供するカフェが営業中だった。こんな田舎町に流星のごとく出現したモダンな喫茶室に驚き、じーっと内部を覗いていると、そこで飲茶中の地元民たちとばったり目が合ってしまった。ついでに、博物館の有無を問いかけてみた。すると、現在工事中で今年 7月ごろに開館予定とのことだった。
そのまま話の流れで、富民県の特産品 ヤマモモ(楊梅)で作ったアイスクリームを勧められたので、注文してテイクアウトした。どうやら、ここで飲茶している 3人が店長一味で、バイトらしきスタッフの女の子がアイスクリームを入れてくれた。あまりにローカル色溢れる地元民たちとはかけ離れた、優雅な雰囲気に強烈なインパクトを受けたことを、今でも覚えている
。
博物館探しは諦めて、先の喫茶室の真正面に広がる 古民家ストリート「北城河路」を西進して、徒歩で旧市街地まで戻ることにした。
地元政府が旗振り役となり、観光地化を図った伝統デザインの古民家風建物が軒を連ねるも、どこも無人となっており、本当に客を呼び込めるのか、全く予想がつかない空っぽ状態だった。
なお、この 路地名「北城河路」は、かつて古城時代にここを北面の外堀が掘削されていたことに由来する。実際に直進を続け、古城エリアへと至ると、細い水路が流れていた(上写真右)。
また、先の湿地公園とこの北城河路、そして螳螂川に囲まれた広大な土地は、広大な窪地となっており、往時にはこの周辺まで湿地が広がっていたと推察される(上写真の右手側が古城地区)。
北城河路も旧市街地に至ると、商店街が広がるようになる(
下写真左
)。
途中、永定街や西街などの南北ストリートと交差した。下写真右は西街で、そのまま直進すると螳螂川まで通じている。
下写真左は、永定街との交差点南側。この先に螳螂川や永定橋がある。
下写真右は交差点北側。ちょうど地元の中年女性たちが繁華街へショッピングに出かける最中のようだった。きれいにドレスアップした民族衣装が印象的だった。
さらに北城河路を直進し続け(下写真左は北城河路沿いに発見した古民家。土壁が白く塗装されており、比較的裕福な邸宅跡かと思われる)、環城西路との交差点まで行き着くと、螳螂川方向へ南下する。
環城西路沿いを散策中、警察署(公安局交警大隊)の脇を流れる細い水路が目に飛び込んできた(下写真右)。かつての城内水路の名残かと思われる。
環城西路をそのまま直進し続けると、先ほどタクシーをチャターした農貿路との交差点に到達した(下写真左)。
この農貿路の北側には、巨大な屋外市場、露店ショップ街、歩行者ショッピングストリートが連なる巨大な繁華街エリアが形成されていた(下写真右)。上の客待ちタクシーらは、ここでの買い物客らを待っていたのだと合点がいった次第である。
そして
、そのまま再び黎陽橋を渡って螳螂川を南下し、黎陽橋のすぐ南脇にある逢源路に入り込んでみる。ちょうど入口あたりに大きな イスラム寺院(清真寺)が立地していた(下写真左の右端に見える緑色の文字)。
この周辺には、花屋や棺桶屋などが軒を連ねており、大陸中国では不吉な商売ということで、常に町はずれに立地されていたようだった。
途中から菜街へと名称が変わり、だんだんと生鮮野菜などを売る露店が多くなっていく(上写真右)。
さらに進むと、街らしくなってきた(下写真左)。
そのまま永定街との交差点に到達する。下写真右は、交差点から北側を臨んだもの。奥には古城地区の入り口を示す「富民」門が見える。
この永定街は人や車、バイクが往来する無秩序なストリートとなっており、それでも事故が起こらない微妙な棲み分けが中国らしくて凄い。
下写真
は、永定街が螳螂川を渡るために架橋された永定橋。中央部がバイク専用道で、両脇が歩行者専用道になっていた。その両脇のさらに外側は 2階建ての商店ビルが乗っかっており、両サイドからタレ流される大音量の広告宣伝ミュージックが入り乱れて、まさに無法地帯の様相を呈していた。
そんな橋上の喧噪も、永定橋から一歩はずれれば、美しい自然風景が広がっており、そのコントラストが面白かった(下写真)。大音量の宣伝も全く聞こえない。
下写真は永定橋の遠景であるが、この様子からは先ほどの ショッピング・ストリートの様子は想像だにできない。
永定橋の北岸沿いには緑地公園が整備されており、日中から時間を持て余す多くの地元民らでごった返していた(下写真)。
かつて、北岸にあった富民県城の城壁はこの河岸沿いに建造されていたのだろうか。。。と妄想してみた。明代末期に旧城村から移転された県城であるが、今日、城壁や城門はすべて撤去されてしまっており、路地名にほんのわすかだけ古城時代の記憶が残されるのみだった(北城里など)。
そして
、再び永定橋の南岸まで戻った(下写真左。永定街と濱河路との交差点から撮影。右端には菜街との交差点も見える)。
次の菜街をさらに東進してみることにした(下写真右)。
下写真左は菜街の東端。ここから、前街と横街に分かれる。菜街沿いから東部にかけて、多くの古民家が残されていた。
上写真右の建物から左へ入ると、前街がスタートする。先ほど、湿地公園近くの富興路で目にした前街の東端にあたる。
このまま前街を直進するとかなり距離があることは明白なので(下写真左)、菜街の三差路へ戻り、横街を南下して環城南路を目指した(下写真右)。
明代後期に富民県城が北岸へ移転されてくると、南岸に庶民の商業エリアが発展したものと推察される。その名残りがこの 前街、菜街、横街などの路地名に刻み込まれている、というわけなのだろう。
横街の途中に、后街との三差路があった(
下写真左
)。
こうして横街が環城南路へ至るとすぐ右隣に、先ほど昆明から郊外バスで下車した停留所があった。
そこでバス待ちの人に、ここから
昆明
行のバスが発車するのか質問すると、その永定街の交差点奥と言われた。
永定街との交差点周辺を探してみても見当たらず、再び、周囲の人に質問してみると、その後方の商店裏に入口があるという。本当にわかりにくい入口だった(上写真右)。
富民バスターミナル内では、昆明行のチケットを買い求める人たちが 30~40人ほど長蛇の列をなしていた(10分ぐらいで順番が回ってきた)。
ちょうどバスターミナル内に トイレ(比較的清潔だった)があり、コンパクトながら便利なターミナルだった。
列に並んでいる間、バスターミナルの待合スペースを見回していると、
禄勸
行の郊外バスが案内されていた。10:30と 15:30 の一日 2本のみの運行だった。当地は完全に昆明への移動が前提みたいなバス発着所となっていた。
筆者がバス乗車券を購入した直後に、ちょうど昆明行バス 2台が同時に到着したので、合計 60~80人ぐらいの乗客たちがバスに殺到し次々と乗り込んでいく。
バス乗車券には 2台のバス車体番号が振り分けられて印字されており、これにより乗客たちが乗るべきバスが指定される仕組みだった。筆者が外国人ということもあり、乗車時のチケット確認のスタッフが「車体番号」を示して、教えてくれた。最初は何のことを言っていたのか不明だったが、2台のバスを見て合点がいった次第である。
バスは乗客で一杯となるとすぐに発車する。そのまま一般道を通って、昆明西北部バスターミナルに戻ってこれた(約 40分)。往路と同じく、一般道だけを走行した。
そして、西北部バスターミナルから ①番路線バスに乗車し(2元)、ホテルがある
昆明 中心部(五華区)
まで戻った。
【
富民県の 歴史
】
現在の富民県一帯は、春秋戦国時代から秦代にかけて、楚出身の 大将軍・庄蹻が地場部族らを武力制圧し建国した 古滇国(紀元前 277年~紀元前 109年)の版図下に長く組み込まれてきた。
前漢時代初期まで古滇国や地元有力部族らが割拠し合うも、紀元前 116~111年に ベトナム勢力「越」に組し、且蘭国や夜郎国などの部族王国らと共に前漢王朝に反旗を翻すと、紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により 郭昌(北方の匈奴遠征や中国華南の平定戦でも活躍した)を総大将とする大軍が派兵され、武力併合が決行される。紀元前 109年にようやく雲南地方が再平定されると、懲罰的に数万人の原住民らが斬首処刑されたと史書に伝わる。
直後に中央集権体制を確立すべく、すぐに 益州郡(郡都は滇池県城)が新設される。
その管轄下には、
滇池県(今の 昆明市晋寧区的晋城鎮)
、勝休県、俞元県(今の 玉溪市澄江県の南部)、同労県、
昆澤県(今の 昆明市宜良県北古城)
、
谷昌県(今の 昆明市官渡区黑土下凹村)
、
連然県(今の 昆明市安寧市)
、
味県(今の 曲靖市麒麟区三岔
)、毋棳県、賁古県、来唯県、律高県、双柏県(今の 雲南省楚雄彝族自治州双柏県の南東)、
秦臧県(今の 楚雄彝族自治州禄豊県)
、弄棟県、雲南県、叶榆県、比蘇県、不韦県 が配された(益州刺史部に帰属)。
このとき、今の富民県一帯は秦臧県の県域に統括された(下地図)。
以後、後漢時代、三国時代、西晋時代、南北朝時代を通じて、 秦臧県が継承され、益州郡や 建寧郡、寧州建寧郡、寧州晋寧郡などに帰属された。
唐代初期の 624年、今の富民県下旧県村に 利浪駅(役人専用の中継宿場町)が開設されると、635年に黎瀼甸へ改編される(下地図)。
775年、唐朝の遠征軍を三度にわたって排除し雲南省を独立させた南詔国は、省東部で強大な勢力を保持していた東彝烏蛮族の現地支配を追認し、王国傘下に組み込むことに成功する。
この時、富民県一帯の支配を許された地元部族長により、環濠集落・黎瀼甸が大規模に改修され、馬挙龍城(別名、梨灢城)が築城される。
大理国の 統治時代(938~1253年)、馬挙龍城(梨灢城、梨灢甸)は
拓東節度使の鄯闡府
に統括された(上地図)。
元代の 1267年、梨灢甸が 黎瀼千戸所(今の 富民県旧県村)へ改編される。
1275年、黎瀼千戸所が【初代】富民県へ昇格される(中慶路に帰属)。
このエリアは二毛作が可能な富裕な土地で、そのあり余る豊さをたたえて、富民県と命名されたという。 以後、昆明府城が立地する滇池盆地に至る交通ルートの北の要衝となり、大いに発展していくこととなった。下地図。
明代初期の 1382年、中慶路が雲南府へ改編されると、富民県はそのまま雲南府に属した。
1574年、富民県の県役所が螳螂川の 北岸(今の永定鎮の旧市街地)へ移転されるも、間もなく河川氾濫があり、1582年、旧県城跡地(今の旧城村)へ再移転される。しかし、飲料水の確保が不便だったため、 1614年、再び螳螂川の北岸へ戻される。
このとき、土壁による城壁が建造され、永定県へ改称される。
清代に入り、永定県は富民県へ戻され、そのままの行政区が踏襲された。
中華民国時代に雲南省が成立すると、その直轄地となり、共産党中国時代の 1958年に昆明市域に組み込まれる。
1922年から城壁の撤去工事が着手され、そこで生じた土砂や石材を使って外堀が埋め立てられてしまったという。
© 2004-2024 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us