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訪問日:2014年11月中旬 『大陸西遊記』~
広東省 東莞市 莞城区 ~ 市内人口 832万人、 一人当たり GDP 67,000 元(市全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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東莞県城
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漢王朝時代の 木製棺桶レプリカ
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人民公園 と 城壁跡
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東莞学宮 と 学問所
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東莞県役所跡
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城壁時代の小川跡 と 市橋
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西門(迎恩門)
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東莞の工場労働者 と 給与
東莞南城バスターミナル
に到着。
ここから、市内バスで東莞市人民公園まで向かう。青色のバスは東莞の他地区へ行く中距離バスで、 黄色の車体のバスが東莞域内の単距離バスである。ここで、C3の路線バスに 乗車(一律 2元)。
ここから 20分ほどで人民公園南門広場に到着する。科学館、(歴史)博物館、 子供図書館分室、人民公園入り口などがそろう地区である。ここは昔、南門があった。
下左写真は
南門跡
一帯。旧市街地の入り口となっている(南城路)。最初に、この南門跡にある東莞博物館を視察した。かつての城壁都市のジオラマや出土遺品などが展示されていた。下写真右は、漢王朝の時代の木製棺桶の複製品。かなり分厚い材木が使用されていたようである。
続いて人民公園へ入る。ここは城壁都市の当時から、小高い山や 池(「塘」と呼ばれた)があった場所で、庶民らの憩いの場所であった。城壁はちょうどこの小山の外側を囲んでいた。
入園してすぐの場所に
サル飼育場
があった(下写真左)。サル飼育場に積み上げられている石は、かつて城壁を構築していた部材の一部であろうか。 見物客たちがたくさん放り投げたと見られるペットボトルやゴミなどが飼育場内に無数にころがっていた。
また、公園の東側にはいくつか池が整備されている(下写真右)。 この小山部分には城壁時代から「塘」と呼ばれる池が複数あった場所で、それらが整備されて、今日の姿に変形させられている。
人民公園
をそのまま突き抜けると、 公園東門広場の出口から外へ出られる。この一帯がかつての東門の外側にあたる。 正面には東門路が一直線に伸びる(下写真左)。ちょうど、かつて堀川があった場所である。 そして、右手に見える高層マンション群の手前あたりに、城壁都市時代に、東莞古城一帯で有名であった 学校「東莞学宮」が開学されていた(下写真右)。
その他、城壁都市内でもたくさんの 学問所(書院と呼ばれた)が開設されていた。北宋の時代から学問所の設置がはじまり、明代、清代になると中国全土に相当程度、普及されていったという。こうした学問所は、地元から科挙試験を通して中央政界へ人材を輩出すべく、地元行政庁や資産家らが積極的に支援し開設されていったものである。
さて、東門跡を通り抜けて旧城内へ入る(下写真左:東正路)。一つ目の南北の通りが、
県正路
となる。かつての東莞県行政庁があった場所である(上の地図では、「懸署」と記された地点)。その昔、政府役人らの居住区や官庁があった名残からか、現在でも非常に閑静な住宅街を形成しており、通り沿いには書店や絵画学校などもあった(下写真右)。清末時代から続くと思わしき、古民家も改修された形で点在する。そして、通りの突当りのかつて「懸署」が設置されていた場所は、現在でも同じく、新安県庁や行政出張所などの地元共産党の役所敷地となっている。
そして、県正道の突当りの東西の通りが、万寿路である。この一帯は、高級官僚や資産家らの居住区となっていたようである。また、通りには城壁都市内で最も大きな「資福寺」もあった。現在、この通り沿いには 小学校、中学校などがあり、学生街となっている。若い生徒らが集う通りだけあって、お店も 文具店、本屋、おもちゃ屋、補修教室などが複数、見られた。
そして、そのど真ん中に、秋葉原「東莞支店」とも言えそうな一角を見つけた。『ガンダム』、ミニ四駆、『スパイダーマン』『進撃の巨人』や『ワンピース』などなど、海外製の フィギア、プラモデル、雑誌を扱う趣味系ショップが数軒並んでいた(下写真上段)。特に商業地域でもない場所に、この手のアニメ系ショップがひしめく姿は、ちょっと異様に映った。東莞の旧市街地は古風な風情が漂うのに、この日本直輸入の ガチャガチャ・マシーンや アニメ・ポスターまで置いている風景には度肝を抜かれた。その間々に、中国らしい製品を扱う地元のおもちゃ屋もあり、そのギャップがおもしろかった(下写真下段)。
そのまま万寿路を西へ進み、東正路と 南城路(新分路)、
市橋路
の交差点を抜けて、市橋路沿いに西門を目指した。この途中、市橋精品一条街(北側)と 市橋河商業街(南側)という南北の細い露天商通りを発見(下写真)。その名前から明らかなように、城壁時代、ここに「市橋」という橋がかけられ、その下には城壁都市を南北に流れる水路があったわけである。当時の城壁都市内を流れる水路は、生活用水の排水溝としての機能があったわけで、下流になればなるほど匂いや汚れもすごかったであろう。
下写真は、東莞古城内の市街地の様子。
この旧「市橋」を境に、市橋路から西正路へと名前が変わる。そして、その先に
西門(迎恩門)
がそびえ立っていた(下写真左)。
下写真右は、清末に破壊された城門楼閣が 1958年に再建された当時のもので、まだ甕城の一部が残り、登り階段が設置されるなど修繕が施されていたことがわかる。今日では甕城は完全に撤去され、城門の両端城壁も取り除かれてしまっている。現在、目にする城門楼閣は 2004年12月に大改修されたもの。
下は、西門側から見た城壁都市の全貌。
この東莞古城は、前述の 西門(別名、迎恩門:かつてあった甕城部分の城門に「迎恩」の文字が掲げられていたことに由来)の城門と楼閣以外は、完全に城壁すべてが撤去されているが、旧市街地内の路地名にはかつての名残が色濃く残されていることが分かる。倉前街、西城楼大街、南城路、県正路、東門路、市橋路、西正路、東正路 などである。
なお、当時からの東西主要道路であった 西正路~市橋路~東正路沿いは、今日、繁華街として整備されているが、一歩、路地へ入れば、そこは数十年過去へタイムスリップした感覚に襲われる。大通りとは打って変わって古風で簡素な住宅が所狭しとひしめき合い、狭い路地が迷路のように続く。所々、住人がいなくなって廃屋となった家々が点在していた。
現在、旧西門付近にある「西城楼大街」一帯が ショッピング・エリアの起点となっている。ピザハット、マクドナルド、焼肉&寿司店などもあった。
そして、西門の外側にはかつての堀川が流れる(下写真左)。 ここから
12番
の 路線バス(南城バスターミナル行)に乗って、古城地区を後にした(一律 2元)。
東莞市
は中国でも屈指の工場地帯である。 平日の昼間から、工場従業員募集の看板を掲げた業者らが道端で陣取っていた(上写真右)。 最近は、中国でも労働力人口が減少に転じ、ますます工場労働者を募ることが難しくなっていきているらしい。 だいたい一日あたりの日当が 90~100元ぐらい(時給換算 10~12元)で募集されていた。 日本で言えば、マクドナルド 2時間のアルバイト代に相当する 給与水準(2014年11月現在)。
さて、南城バスターミナルから 118A番か 228番路線バス(車体が青色)で、直接、
虎門の威遠砲台
まで直通路線バスが通る。だいたい 60分ぐらいで到着できる。7元。
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