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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
雲南省 昆明市 東川区 ~ 区内人口 28万人、 一人当たり GDP 25,000 元(東川区)
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羊圈楼(東川区阿旺鎮拖潭村に住む彝族の伝統として、女子は 14歳で成人となり、
夜には実家を離れ、若者だけを集めた公共施設で就寝した。 その施設が 現存・公開中)
昆明市の最北端に立地する東川区であるが、近代以降の鉄道開発により発展した都市で、かなり若い地区となっており、古城遺跡は存在しない。
もともとは、現在の
曲靖市
会澤県と単一の行政区を成していたが、 50年前に南北に分裂し、南側は 昆明市(東川区)に、北側は曲靖市に分かれて帰属されることとなった。
この巨大な統一エリアの拠点集落は、元来、北側の曲靖市会澤県 中心部(鐘屏鎮)に長く開設されてきた。清代の 1727年に新設された 会澤県城(東川府城)以来の歴史を有する町となっている。
現在、この曲靖市会澤県の古城地区は城壁や城門はすべて撤去されてしまっているが、旧市街地のコアな部分は「会澤古城」として歴史保存地区に指定されており、多くの古民家や、万寿宮などの寺院や廟所などが保護されている。
また、歴史保存地区外でも往時の名残りがたくさんの地名に刻み込まれている。北外街、灯草巷、南北街村、西外街、西外街村、東街村、東直街、東内街、西内街、義倉街、東関街、北内街、北外街、南内街、西施閣、唐氏旧家、張氏旧家、劉氏旧家、 唐継堯の生家 など。
新しい開発都市である東川区は単に、この北部の 古都「東川府城跡」(
曲靖市
会澤県)へ移動する中継地点として利用する場所となる。
昆明市中心部からだと、西北部バスターミナルから 49元で、もしくは北部バスターミナルから 50元で東川行の近郊バスが運行されている。いずれでも他の昆明路線と同じく、発車時刻は特に決まっておらず、乗客が一杯になり次第、発車というスタイルという。
東川区側のバスターミナルは凱通路沿いにある。
なお、古城散策としては訪問意味のない場所だが、雲南省北東部に割拠した彝族の代表的な民族文化が残るの地として有名で、東川区内の棚田風景や民族集落地などが観光資源となっている。
【 東川区の 歴史 】
現在の東川区は、秦代、前漢時代を通じ、靡莫部族の跋扈するエリアだった。
秦朝が雲南省東部を武力併合して以降、堂琅県が開設され、その行政区に組み込まれた(健為郡に帰属)。当時、堂琅県役所は今の雲南省
昭通市
巧家県老店鎮に開設されていた(下地図)。
なお、この「堂琅」の地名であるが、秦が紀元前 316年に四川省に割拠した巴蜀国を滅ぼした際、この地にすでに堂琅城という城塞集落があり、これを大改修する形で秦が堂琅県を設置したためという。前漢朝もこれを踏襲し、紀元前 135年に堂狼県へ改称する。
三国時代の 225年、南蛮平定を成功させた蜀の諸葛孔明により、鍵為郡から 朱提郡(郡都は今の
雲南省昭通市
)が 分離・新設されると、堂狼県はこれに帰属した。 以後、南北朝時代を経て、唐代までこの行政区が継承される。
唐代には唐興県(今の雲南省
昭通市
巧家県老店鎮)へ改称されるも、755年に南詔国が雲南省エリアで独立すると、東川郡が新設される(下地図)。当時、東川郡は現在の
昭通市
巧家県、
曲靖市
会澤県、昆明市東川区、
昆明市禄勸自治県
、四川省 阿壩自治州下の会東県や寧南県などの一部を統括した。
大理国の治世時代、東川郡は東川大都督へ改編される。三十七部族拠点の 一角・烏蒙悶畔部が開設される(下地図)。
元代には東川路へ改編される。
明代初期の1382年、東川府が設置される(最初は雲南布政使に帰属するも、翌 1383年に四川省へ移籍される)。後に、東川軍民府(今の 雲南省昭通市巧家県老店鎮)へ改編される。
清代の 1699年に改土帰流が行われ、府長官職として中央官吏が派遣されるとともに、東川府へ改編される。東川府役所はそのまま 会澤県城(今の雲南省
昭通市
巧家県)内に併設された。
1726年、雲南省へ再移籍される。
翌 1727年、今の雲南省昭通市巧家県に巧家県が新設されると、会澤県役所と東川府役所が、今の雲南省
曲靖市
会澤県鐘屏鎮へ移転される。
以降、東川府は 会澤県(今の 雲南省曲靖市会澤県鐘屏鎮)と 巧家県(今の 雲南省昭通市巧家県)の 2県を統括した。
1731年、当時の東川府長官の崔乃鏞が石積み城壁の建造工事に着手し、のべ労働者 37万人が動員され、銀貨 31,425両の予算がつぎ込まれて、翌 1732年10月に完成される。高さと厚さ共に 4.7 mの城壁が横 713.4 m、縦 472 mのスケールで都市を取り囲み、城壁上には大砲が 8門と凹凸壁 1,213ヵ所が装備され、 4か所の城門(高さ 9 mの 二階建ての楼閣付)が設置されたのだった。
その後も度々、増強工事が施されると、その防衛力はますます高まり、その成果は 1862年10月の太平天国軍の 翼王・石達開(1831~1863年)の率いる西征軍を 2度も撃退し、最終的にその攻略を諦めさせた史実として記録されることとなる。
中華民国が建国された翌 1913年、全国で府制が廃止されると、東川府も東川県へ降格され、雲南省の直轄となる。当初は
昭通市
に組み込まれたが、共産党時代の 1958年に東川市が新設されるも(今の 雲南省曲靖市会澤県鐘屏鎮も吸収合併)、1964年12月に曲靖市へ編入されると、東川県と会澤県は再び対等な行政区となり、最終的に 1998年、東川県のみ
昆明市
へ移籍し、会澤県はそのまま
曲靖市
域に残留する形で完全に分離されたのだった。
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