BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


海南省 定安県 定城鎮 ~ 鎮内人口 10万人、一人当たり GDP 38,000 元(定城鎮)


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  【三代目】定安県城
  旧県衙(県役所跡)、北城門、西城門 、借元芳(解元坊)、亜元坊、文廟、騎楼街
  海南熱帯飛禽世界 と 見龍塔



海口市瓊山区(中心部)の、旧瓊州府城跡のやや北隣にある海口東バスターミナルから、 10~20分に 1本ある 定安県(定城鎮)行バスに乗車する(16元)。なお、瓊山区内の主なバス停沿いでも、途中乗車が可能だった

約 90分のドライブ後、定安県バスターミナルに到着する。すぐに、定安県人民政府がある市内東端へ移動し(約 4 km)、市役所に離接する定安県博物館を訪問する。下地図。

定安県定城鎮

博物館見学後、その南隣の海南熱帯飛禽世界(中国最大級の鳥テーマパーク)内にある、見龍塔を見学してみる。
もともと定安県下には、藏経塔(時は明代、王弘誨が故郷を離れる際、自身の蔵書を保管するために建設したもので、日中戦争時に破却されトーチカ資材へ転用されてしまう)と、文笔塔(先の王弘誨のひ孫にあたる王展が、文笔峰の頂上に建立していたが、清代にすでに倒壊していた。現在、文笔峰盤古文化旅游区内で再建され、観光地化されている)を含む、三つの塔があったが、往時のまま現存するものは、この見龍塔のみ、となっている。

なお、王弘誨(1541~1617年)とは定安県出身の官吏で、24歳で科挙最終試験に合格後、庶吉士、翰林院検、編修、会試同考官、国子臨祭酒、南京吏部右侍郎、南京礼部尚書などを歴任し、また文学者として当時、大活躍した人物であった。


塔壁に『千字文』、土台正面に額縁『見龍塔』と刻印された見龍塔は、 7階建て、高さ 25 m、レンガと石積みの塔である。
1956年に地元政府が修築し、1986年に定安県政府によって史跡指定を受け、 1996年に改めて修繕工事が施されて、現在の姿となっている。史料によると、見龍塔は清代の 1751年に建立がスタートするも、県長官の伍文運、地元有力者の林起鶴らが自ら拠出した資金自体が不足し、途中で工事が停止されてしまう。 1767年、県長官の呉先挙が地元名士から資金を集めて、再度、工事を続行させ、完成にこじつけることとなった。命名に際し、易経内の文言「見龍在田、利見大人」に由来し、見龍塔と名付けられる。地元から多くの逸材が輩出されることを祈願したもので、典型的な風水塔であった。
この見龍塔の特徴は、50 cm ほどの鉄棒が頂上部に突き出ている点で、避雷針用のものと考えられている。このように、古塔上に避雷針があるものは、海南島はおろか、中国国内でも非常に珍しい。世界史的に見ても、避雷針システムは 1752年に米国で発明されており、この塔にいつ付設されたのか、一切、分かっていないという。



再び、定安県バスターミナルに戻り、ここから徒歩で南渡江へ向かって北上する。

定安県定城鎮

この川沿いにある旧市街地が【三代目】定安県城跡で、明代初期の 1370年に当地へ移転されてきて以来の歴史を誇る。【初代】定安県は元代の 1292年6月、山岳地帯の定安県双灶の中瑞農場あたりに開設されるも、 2年後の 1294年、定安県龍門鎮下の 官衙村(もしくは、文笔峰盤古文化旅游区内にある古城南建州エリア、という説あり)へ移転される(1329年、南建州へ昇格)。なお、定安県の地名であるが、地域の安定化を願掛けした「安定梨樹安康」の文言に由来するという。

しかし、あまりに山岳地帯に位置したことから、明朝により海南島が併合されると、直後の 1370年、県役所が定陽の 地(今の 定安県定城鎮)へ移転されることとなったわけである。以降、定安県の政治、経済、文化の中心都市として君臨する。当地の城郭都市が本格的に建造されたのは、明代中期の 1466年以降という。

定安県定城鎮

明代中期以降に大規模に築城された定安県城は、その後、五百年にも及ぶ歴史の中で、度々、補修工事を施されながら維持されてきたが、中華民国時代以降、近代都市開発の進展により、古城壁は瞬く間に三分の二以上が撤去されてしまい、わずかに西門と北門、そして、北西面と南西面の 2ヵ所に城壁の一部(合計で 1,000 mほど)を残すのみとなる。この城壁は、完全な形状で現存する海南島唯一の城郭遺跡といい、使用されている石材は、玄武岩系の青石を加工したものという。

また、西門(高さ 2.4 m、横 2.95 m、奥行き 9 m)上には、「西門」という石板の額縁が掲げられ、楼閣も現役で残されているが(上写真)、北門に関しては、城門部分(高さ 3 m、横 2.8 m、奥行き 25.3 m)のみが現存し、門上の楼閣は取り壊され、代わりに定安県役所の粮食局事務所が建てられてしまっている状態であった(下写真左)。

定安県定城鎮 定安県定城鎮

特に、下写真に見える通り、北門内部は 北門洞(北門洞窟)と比喩されるように、黒石で壁面が覆われた、かなり薄気味悪い雰囲気を醸し出している(上写真右)。しかし、この石畳の通路途中には、門臼(当時の城門を固定した軸)と、閂門(城門の開閉をロックする横木)が残されており、非常に貴重な城郭遺構となっている。

この北城門を出て、さらに石畳の板道を下っていくと(下写真)、海南島の主要河川交通路である南渡江の河畔にたどり着く。往時には船着き場があり、定安県下の水上交通の要を成していたが、現在は跡形もなくなっている。

定安県定城鎮

また古城地区では、旧県衙(県役所跡。歴代の県長官ら官吏が地元行政を執行していた事務所)も残されており、この役所前にあるマメ科のタマリンドの巨木も見どころという。葉を広げて生い茂る巨木の樹齢はすでに数百年を誇り、歴史の生き証人として地元で崇められているという。
その他、借元芳(解元坊)、亜元坊、青檀庭(清潭亭)、文廟、明照閣、堂塔橋、騎楼街(下写真)などの歴史遺産も見逃せない。

この古城地区は当初、海南省政府より史跡指定を受けていただけだったが、 2008年、中央政府からも史跡指定を受け、その歴史遺産価値が高く評価され出すと、長年、放置しっぱなしだった地元民も、ようやくその貴重さに気づくこととなる。それでも旧市街地は、郊外の都市発展に完全に取り残された感満載で、今日でも、静寂と哀愁ムードだけが漂っていた。

定安県定城鎮



明代初期の 1370年、【三代目】定安県役所が当地に転入されてくるも、簡素な城塞が整備されていただけだった。1466年に至り、ようやく都巡撫御史の 韓雍(1422~1478年)が指示を発し、定安県城の本格的な築城が決定される。
2年後の 1468年、通判の陳音がようやく城壁建造工事に着手するも、費用が異様にかさむこととなったため、作業が途中で停止されることとなる。

1513年、県長官の羅昌が主導し、本格的な石積み城壁の建造工事が再開されると、 6年後の 1519年、いよいよ完成を見る。この時、城壁の全長は 1,975 m、高さ 4.7 m、厚さ 5.3 mにも至り、城壁上には 1192ヵ所の凹凸壁が設置されていた(当初は、東門、西門、南門の周辺だけに増設されていたが、徐々に全城壁上に装備されていく)。同時に、東門、西門、南門の三城門が増築され、それぞれの城門上には楼閣も設けられていた。
また、北面は南渡江を天然の堀としていたが、その他の三方向には追加で外堀が掘削されることとなり、全長 1,199 m、深さ 3.4 m、幅 5.1 mの堀が完成される。

1521年、南門上の楼閣が強風により倒壊してしまうと、守巡副使の胡訓が郷賢の王仕衡の提議を採用し、瓊州府長官の李鶚に上申して、南門の修築を願い出ると、すぐに了解を得て、再建工事が進められる。完成後、遠く南方に海南島道教の総本山・文笔峰玉蟾宮があり(末尾参照)、また城内の南端には学宮が立地したことから、以降、南門楼閣は「文明楼」と通称されることとなる。
この時、同時に外堀の補修工事も手掛けられ、その外周に幅 3.3 mの広い街道が整備される。さらに、城内にも幅 2.3 mの街道が敷設されることとなった。

1545年、副使の胡永成が県長官の徐希朱に命じ、北門を増築させるも、度々、南渡江を遡ってきた海賊団の襲撃ターゲットとなったことから、間もなく北門は封鎖されることとなった。

治安が回復した清代初期の 1690年、県長官の董興祚が地元民らの陳情を受け、再び北門を設置する。同時に、長官自らも自腹を切って、北城門上に楼閣を増設した。こうして最終完成形を迎えた定安県城であったが(下絵図)、その後も清代を通じ、幾度もの修築工事が施されることとなる。

定安県定城鎮

現在、この定安県城跡は、海南島で最も完全な形で現存する古城遺跡として高く評価されており、城門や城壁遺構のみならず、往時のままの姿で現在も使用されている古城時代からの石畳の主要街道も見応えがある。かつて定安城内では、主要 4街道(東門街、西門街、北門街、中南門街)が敷設されており、いずれも青石レンガで舗装され、比較的平坦に整備されていたようで、往時の路面が現在もたどれる、という非常に貴重な古城遺跡となっている。

また古城内では県衙と学宮以外にも、社稷壇、城隍廟、北帝廟、文帝廟、関帝廟、観音閣、呂祖閣、天后廟、龍王廟、雷神廟、忠義祠、節孝祠、元壇廟、泰華廟、三義祠、金蓮庵、慈華庵、盂蘭蘭庵など、多数の廟所や祠が設置されていた。現存する東岳廟は、もともと東城門上の楼閣内に、また西帝廟は、もともと西城門上の楼閣内に安置されていた守護神が近代以降に移設されたものである。

さらに、郊外に目を向ければ、定安県が輩出した偉人らの旧家が複数、保存されている。

特に、海南島出身者で唯一の探花(科挙試験トップ 3の成績)となった 張岳崧(1773~1842年。定安県龍湖鎮高林村出身)は有名。
36歳の時に科挙最終試験に合格後、当時の嘉慶帝(第 7代皇帝)から右に出る者がいない秀才と称えられた人物で、朝廷に出仕後、翰林院編修、文穎館纂修、常鎮通海兵備道、両浙塩運使などを歴任する。 アヘン戦争前夜には、広州 で両広総督の任にあった林則徐に従い、 雷州瓊州 に駐屯してアヘン密輸を取り締まった。最終的に湖北布政使にまで出世しつつ、学者、文化人としての才能も発揮し、『瓊州府志』の編纂にも尽力する。海南島が生んだ 四天才(他に丘浚、海瑞、王佐)の一人と称えられ、書道家としても大成した人物であった。

この張岳崧に関連する旧家は二か所あり、一つ目は、彼が誕生した生家で、その敷地面積は 1,500 m2という。現在は、単に悬山式の母屋が 1棟、残っているだけである。
もう一か所は、この生家の南西方向にあり、敷地面積は 1,200 m2という。これは、張岳崧が朝廷に出仕していたときに建設した邸宅で、今ではわずかに母屋 1棟、後屋 1棟、両側の横室 2棟が残るだけとなっている。この敷地西端には、張氏宗祠(敷地面積約 1,500 m2)が建立されており、張岳崧が晚年に自ら執筆した額縁が保存されている。
これら両者は、1986年に定安県政府の、2008年に海南省政府により史跡指定を受けている。

また、王映斗(1844年、科挙最終試験に合格後、内閣批本、侍読学士、大理侍卿、奉天府丞兼提督五省学政などを歴任した人物)の旧家は、定安県定城鎮春内村に位置する。
邸宅が建設された 1860年代より、石積みの門は高さ 2 mもあり、その外観は小規模な城塞のようであったといい、一部には西洋風の建築様式も取り入れられていた。定安県下で最大規模の邸宅という(東向き、敷地面積 2,000 m2)。

定安県定城鎮

上写真は、定安県中心部から南へ 16 kmにある文笔峰の山麓に位置する、玉蟾宮である。ちょうど、定安県龍湖鎮丁湖路にある文笔峰盤古文化旅游区内にあり(入園料 36元)、世界でも最大規模の道教寺院という。
南宋時代に建設された出した寺院群は、現在、平安を祈願した慈航殿、婚姻の神を祀った月老殿など、 20近い建物が継承されており、すべてが一体となって道教の世界観を体現している。

道教団体によって海南島唯一の正式な寺院に公認されている、この道教寺院「玉蟾宮」は、金丹南宗五祖の 白玉蟾(1194年~?。道教南宗の実質的な創始人)が、最後に隠棲した場所として知られており、死後に 神(南宗宗壇)として祀られている。



続いて、南渡江にかかる定海大橋を渡って、対岸側へ移動してみる。そのまま西進し、溪頭坡の中州などを撮影してみる。

その後、河川沿いでタクシーをチャーターし、定安県のすぐ北隣にある 海口市瓊山区旧州鎮 へ移動する(路線バス無し。下地図)。 14 km、20分のドライブで、約 63元。
旧州鎮からの帰路は、海口東バスターミナル へ戻るローカルバスあり(約 1時間のドライブ)。

定安県定城鎮


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