BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


海南省 儋州市 白馬井鎮 / 中和鎮 / 三都鎮 ~ 市内人口 110万人、一人当たり GDP 45,000 元


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  儋耳県城(珠崖郡城、【初代】崖州城、【初代】義倫県城 & 儋耳郡城)
  儋州城(【二代目】義倫県城 & 儋耳郡城、昌化郡城、宜倫県城、昌化軍城、南寧軍城)
  北宋時代の文豪・蘇東坡、最晩年の地(東坡書院 と 桄榔庵)
  白馬井鎮遺跡(白馬涌泉、伏波将軍廟)



午前中、高速鉄道で 海口東駅(海口市中心部)から白馬井駅へ移動し(20分に一本あり。所要時間 28分、23元)、すぐ北にある白馬井鎮、さらに海沿いにある白馬井遺跡を訪問する。下地図。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

この儋州市中心部(那大鎮)から 50 km離れた白馬井鎮の見どころは、ずばり、白馬涌泉と伏波将軍廟の二つだけ、である。それが、これ。。。↓ 「気持ち」だけは、よく伝わってきた。。。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮


後漢朝の光武帝により伏波将軍に任じられた馬援(紀元前 14年~後 49年)が、41年のベトナム遠征の折、海南島にも立ち寄ったとされる。その際、彼のまたがっていた白馬が脚で砂を削ると、泉が湧き出したという伝説が地元で伝えられており、後世になって、泉の水源に井戸が設けられることとなる。海辺から 40~50步の場所でも、その水が清く甘かったことから、村人たちは、この漢代の英雄を紀念して「伏波井戸」と命名し、その脇に伏波廟を建立した、ということらしい(隋代、唐代には、すでに文献上に記録が残っている)。これがすなわち、現在の白馬涌泉と伏波将軍廟となり、今日の白馬井鎮随一の観光名所となっているわけである。また、この廟所の隣家には、樹齢 100年にもなる大樹があり、長年にわたり、地元住民の憩いの場となってきたという。

なお別説では、唐代末期の 864年、李四が部下を南灘港へ派遣した際、自身がまたがる白馬が当地から湧き出る泉の水を飲んだ、というエピソードも伝えられている。 その後、沿岸部の洋浦港の開発が進められると、「白馬井開発区」として白馬井の町も大いに発展することとなった。



上記の白馬の模型と井戸跡を見学後、白タクか郷村バスで、対岸側の洋浦港へ足を伸ばしてみる。洋浦大橋を渡る途中、眼下に塩田が見える。これらの塩田は、北宋時代から継承されているという(千年古塩田)。

そのまま洋浦バスターミナルから、郷村バスか白タクかで、三都鎮の旧州村を訪問する。かなり田舎道を奥へと進むわけだが、石碑以外、特に見るものはないため、軽く写真撮影するのみ。下地図。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

ここが、前漢時代の紀元前 110年に築城された儋耳県城跡で、当時、儋耳郡の郡都をも兼ねた場所であった。その後、紀元前 46年春に閉鎖されて以降(郡役所自体は、紀元前 82年夏に先に閉鎖されていた)、廃墟と化すも、546年に俚族の女リーダー・冼夫人が梁王朝に帰順し、この城跡に崖州役所を開設すると、再び、海南島での最高行政都市として大改修される。しかし、唐代の 622年、現在の中和鎮へ移転されて以降、廃城となっていた。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

そのまま白タクで中和鎮へ直接、送ってもらうか、いったん洋浦バスターミナル近くに戻り、北部湾大道沿いで中和鎮行のバスを待つ。

いよいよ、本日の主目的地である中和鎮に到着する(下地図)。ここは目下、儋州市中心部(那大鎮)の北西 60 kmにある田舎町だが、かつて唐代初期の 622年より儋州の州都を務めた地で、1300年以上もの間、儋州市エリアの政治、経済、文化の中心都市を成してきた。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

現在、その儋耳故城遺跡(総面積は、59,680 m2)は、中央政府、および海南省政府から史跡指定を受けており、多くの歴史遺産が保存されている。代表的なものが、古城壁、桄榔庵跡(北宋時代の文豪・蘇東坡の旧家)、州衙門(州役所)跡、麗澤書院跡、寧済廟、許氏宗祠、古井戸、古路地と古民家、石塔などの 13か所で、その他、東坡書院、雲月湖、石花水洞、儋州市革命英雄紀念碑、軍屯花果園などの名所旧跡も、郊外に点在する(上地図)。

また当地は特に、北宋時代の文豪・蘇東坡(蘇軾。1037~1101年)が、晩年の三年間を過ごした地としても有名である。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

まず、開館時間の関係上、そのまま白タクで東郊外にある儋州東坡文化旅游区まで送ってもらう。東坡香文化館や 東坡書院(尊賢堂)を、先に訪問してみた。上写真。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

続いて、白タクで旧市街地側へ戻り、武定門跡(北門跡。上写真)、北門街、関帝廟、寧済廟、故城路、桄榔庵跡、東坡井、食堂「南門大排档」など、ひと通り散策してみる。下地図。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

その後、再び白馬井駅へ移動し、高速鉄道で 海口東駅(海口市中心部)に帰り着いた。



中和鎮の歴史は長く、紀元前 110年、前漢朝第七代皇帝の武帝の命を受け、南越国を滅ぼし、海南島も接収した 路博徳(初代伏波将軍に任命)により、直轄統治機関として珠崖郡と儋耳郡の 2郡が新設される。このとき、この 南灘浦(今の 儋州市三都鎮旧州坡)に設置された儋耳県城内に、儋耳郡の郡役所が併設されることとなった。下地図。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

南北朝時代の梁王朝の治世下の 546年、俚族リーダーの冼夫人が、広西省、海南島一帯に群雄割拠していた諸部族 1000余りをまとめ上げると、海南島側の統括拠点として、この南灘浦にあった旧儋耳郡城跡を駐屯基地に定める。しかし、島内の住民反乱を受け、旧城が戦火により荒廃してしまうと、崖州役所(後に儋耳郡へ改編される)は宜倫河の河畔へ一時的に転出されることとなった。

唐代初期の 622年、儋耳郡が儋州へ改称されると、州役所が 義倫(今の 儋州市三都鎮旧州坡)から、高坡(現在の中和鎮)へ移転される。この時、同時に義倫県が宜倫県へ改称される。以降、清代まで宜倫県の名称が継承されることとなった。
北宋時代、この 宜倫県城(儋州城)に文豪・蘇東坡が左遷され、三年間、駐在することとなる。彼の影響もあり、以後、数百年にわたって、当地の人々は詩歌を愛する風土が根付き、「詩歌の郷」と別称されるようになったという。

明代初期の 1373年、県長官の田章拓跡が儋州城の大規模改修工事に着手し、全長 1,573 m、幅 6 m、高さ 8.3 mの巨大な城壁を有する城郭都市が完成する(海岸線に近かったため、海賊襲来にそなえて、特に高度のある城壁が整備された)。また、東西南北にそれぞれ四街道と楼閣付きの城門が設けられ、それぞれ、東門は徳化門、西門は鎮海門、南門は柔遠門、北門は武定門と命名される。各城門外には甕城も増築され、城壁の外周には、全長 1,590 m、幅 16.7 m、深さ 2.7 mの外堀が掘削されていた。

その後、守師の徐真や徐春らが、城壁上に兵舎を、城門外に吊橋などを増設していく。1570年ごろ、州長官の陳庶が、城壁の四隅に櫓を増築する。下絵図。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

明代末期の 1610年ごろ、衛所が開設されると、大陸側から大規模な駐屯兵団が派遣されてくる。以降、この城内で話されていた言葉が、地元方言の儋州話から 軍話(いわゆる、北京語)へ変更され、城内外で会話言葉が異なる時代が開始される。

清代初期の 1685年、大雨により、州城全体が水没してしまうと、 1688年、州長官の沈一誠より、復旧工事が着手される。
清代中期の 1819年、儋州下で 32里が制定されると、州城の城下町、および近郊エリアが「中和里」と定められる。この地名は、儒学の文言「致中和、天地位焉、万物焉育」に由来するという。
1826年、州長官の王阜が、東門、南門、北門の三城門と、それらの甕城を大規模に改修する。

中華民国初年の 1912年、全国で州制度が廃止されると、儋州役所がそのまま儋県役所へ転用される。
1920年、大洪水が発生すると、領内の村々は甚大な被害をこうむり、 700~800名もの死傷者を出すも、県長官の李治は早々に避難してしまい、その不手際を問われて解任されると、翌 1921年、呉卓峰が県長官に任命される。最終的に、儋県役所が 敦教坡(今の新州鎮)へ移転されることとなる(1925年)。 以後、旧州城の補修が行き届かなくなり、損壊がはじまる。
1950年代、街道の拡張工事のため、大部分の城門、城壁が撤去されることとなり、現在のように、鎮海門と武定門、これに続く街道部分のみが残されるだけとなったわけである。
なお、1957年にこのエリア行政区で中和鎮が新設される一方、翌 1958年12月には、儋県と那大県が合併されて儋県となり、1993年3月に儋州市制がスタートすると、そのまま那大県(鎮)が市都に定められて、今日に至る。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

上記の通り、唐代初期の 622年~中華民国時代の 1921年まで、実に 1300年以上もの間、中和鎮は一貫して、儋州の州都であり、また儋県の県都として君臨してきたことから、その旧市街地には数多くの歴史遺産が残されることとなった。
かつてあった 州署(州役所)、学宮、城隍廟、関帝廟のうち、 現存する古城遺跡は、撤去を免れた 城壁(その高度は必見!)と、城門(北門と西門)、そして青石で整備された石畳の 旧街道(四牌楼)などである。この旧街道の全長は約 100 mほどであるが、両脇には 50~60戸の商店街や古民家が軒を連ねる、古い町並みが見どころとなっている。

この他、寧済廟、関岳廟、桄榔庵、東坡井、魁星塔、復興街など 13か所の旧跡も現存し、中央政府指定の史跡 1か所、海南省政府指定の史跡 2ヵ所、儋州市政府指定の史跡 10か所など、その史的価値が高く評価されているものばかりという。

2006年、この中和鎮の 旧市街地(儋州故城)自体が、中央政府により史跡指定を受ける。なお、中和鎮の東郊外に位置する 東坡書院(上写真。敷地面積は、25,000 m2)は、これより 10年早い 1996年に、すでに国定史跡に定められており、両者あわせて、海南島観光の重要名所の一角に挙げられている。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

この東郊外は、北宋時代の 1097年、文豪の 蘇東坡(蘇軾。1037~1101年)が儋州に左遷させられた際、学問や詩歌に励んだ場所とされ、彼の滞在期間中から「裁酒堂」という簡易な書斎が建設されていたという(翌 1098年完成)。これは、彼の世話を見た 昌化軍使(儋州長官も兼務)の張中と黎族の地元住民らが、蘇東坡のために造った掘立て小屋程度のものだったと考えられている。
当地に 3年間滞在した後、蘇東坡は再び、帰京することとなるも、その書斎は地元の学校として転用されることとなり、幾度も増築や拡張工事を経て、明代の 1549年、彼を紀念して「東坡書院」へ改称され、今日に至るわけである。

現在、内部の保存館には、文献、額縁、碑刻、雕塑、器具、井泉、書画などが展示されている。また、書院大門は勇壮な雰囲気を醸し出し、内部の庭園内(総面積 98,000 m2)には、樹齢 300年のマンゴーの木、樹齢 400年の大樹、900年の歴史を持つ古井戸などが保存されており、林の中の静寂さが格別の空間を現出させている。

儋州市白馬井鎮/中和鎮/三都鎮

なお、彼の書斎は東郊外であったが、住まい自体は南門外の郊外に設けられていたという。この住居を手配したのも、儋州長官の張中で、当初、一時的に蘇東坡を役所宿舎に住まわせて、官費で食費を提供していたという。その後、純朴な地元人の協力の下、簡易な三部屋で構成される粗末な家が建てられると、ここに引っ越すのだった。田舎の粗末なあばら家の周囲には、サトウヤシ(桄榔)林が取り囲んだことから、蘇東坡は自らの新居を「書銘(桄榔庵銘)」「桄榔庵」と命名し、その表札を入口に掲げたという。

翌年、湖南提挙の董必(王安石らとも親交があったという)が、朝廷の命により広西省の視察に派遣された際、 雷州 に至ると、旧友の蘇東坡の動静が気になり、部下を走らせて、蘇東坡父子と城外で会わせたという。儋州の地に流されても、非常に充実した日々を過ごしていると聞き及び、非常に安堵したという記録が残されている。



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