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江北区 慈城鎮
訪問日:2015年 10月下旬 『大陸西遊記』~
浙江省 寧波市 江北区 慈城鎮 ~ 鎮内人口 6万人、 一人当たり GDP 105,000 元(寧波市全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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慈溪県城跡
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古城の北半分は役人 や 地元名士の邸宅地区、南半分は庶民地区
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東側の城壁土台 と 外濠跡
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慈城鎮バスターミナルの清潔感 と 郷愁感
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【初代】句章県城跡
若き孫堅が 初陣を飾った戦場
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江北区慈城鎮の 歴史
【 慈城県城跡 】
唐代中期の 738年に県城が築城されて以降、清末まで県域行政の中心を担ってきた
慈城県城
であるが、近代になって県の中心機能が現在の
慈溪市
中心部へ移転されたことで、大幅な都市開発にさらされることなく、古の街並みをいい感じで保存することができた場所である。
この古城地区だが、歩き回ると優に 2時間は要する。旧市街地は広大で、内容が濃い場所だ。
孔子廟、県役所(県衛)、地元の資産家や役人などの邸宅跡、庶民の旧家屋の路地など、見事に 保存(もしくは復元)されていた。
下写真左は、県役所(県衛)。この西隣に城隍廟がある。
下写真右は、資産家や役人らの邸宅地区の様子。
古城時代から、城内には東西に水路が流れており、市民の生活上、欠かせない下水道となっていた。下写真は、慈城県城内でも名士出身で役人でもあった馮叔吉が明代に購入した屋敷跡の一部である(入場料 40元:馮俞宅)。当時、馮家と俞家の両家は慈城県城内の名門一族とされていた。
それにしても、慈城県古城内は、どのスポットを見学するにも入場料金がかかる。 その分、中のトイレはきれいに管理されているわけだが。
下写真左は、孔子廟(入場料 20元)へと続く 路地(東横街)前にあった公衆トイレ。古城地区でも数少ない無料トイレである。強烈な悪臭を放っていた公衆トイレ前であるが、住民たちは普通に布団や洗濯物を干していた。。。。(下写真右)
下写真左は古城地区の南北のメインストリートである
解放路
。このまま北へ直進すると、正面に 県役所(県衛)がある(入場料 25元)。下写真右は、県役所(県衛)がある北門村地区。
古城地区を歩いて気が付いたのは、城内の北側が 県役所(県衛)を中心に、資産家や役人らの邸宅がずらりと並ぶ一帯なのに対して、孔子廟より南側の庶民地区は細々として家が所狭しと軒を連ねるエリアとなっていた。そこには圧倒的な格差が感じられた。
この北側地区に「校士館(通称:考棚)」という、1835年に設置された科挙(Feudal Imperial Examination)試験会場専用の建物が復元されていた(入場料 15元)。
庶民地区では、今日でも市民の日常生活が営なまれていた(下写真)。
県役所のすぐ北側には城壁が連なっていた。
城壁
自体は完全に撤去されてしまっていたが、その土台部分はきれいに保存されていた(下写真左)。
また、その城壁の外側には外濠が設けられており、北側はその水源も兼ねた大きな人工池があったようである。現在の慈湖公園である(下写真右)。
この城壁跡の土台は、そのまま東側城壁まで続いている。小東門は復元されており、その両側にも仮設城壁みたいな形で、土台とモニュメントが設置されていた(下写真左)。
ちょうど、上の名門商家であった馮俞宅の屋敷跡の前の水路が、この小東門の水路につながる(太陽殿路の東側)。
下写真右は、東側の外濠跡。今ではのどかな公園となっていた。
東側の濠の外には、駱慈線が走っており、ここに路線バスが通る。筆者はここを歩いて、慈城鎮バスターミナルまで移動したわけであるが、途中、ツーリスト観光案内所を発見した。そもそもどこのツーリストが古城地区からこんなに離れた駱慈線沿いの案内所に案内を求めに行くんだ??と一人突っ込みしてしまった(この東側一帯が観光バスや一般自動車の駐車場を兼ねており、その関係もある)。
また、この駱慈線の沿いに、山上の清道観寺入り口がある。入場料は 30元だ。
この道教寺院は唐代の 749年に設置され、一時、廃墟となるも、南宋代の 1160年に道士の葉景虚によって再建されたものという。現存する建築様式は明代の 1391年当時の様子のものとされるが、文化大革命時に破壊されたものを 2004~2007年に復元している。
下写真左は、古城地区の東側にあった「慈城東門菜場」。地元の農家らのための公営野菜市場なのであろう。下写真右は、南側の外濠跡。
今日では城壁も城門もすべて撤去されてしまっている古城地区であるが、現在でも路地の多くに、かつての名残が数多く刻み込まれており(南門村、東門村、城東酒家、東鎮橋街、東城沿路、北門村、城隍廟、西門外街、南城沿路、東横街など)、千年を超す悠久の歴史が今もこの古都に生きづいていることを強く印象付けられた。
ところで、
寧波市
中心部から
331番の路線バス
にて現地到着後、まず驚かされたのは、稀にみるきれいな公共バス乗り場の事務所の建物であった。観光地として売り出している古都だけに、その窓口となるバスターミナルの事務所も、中国の伝統的家屋を模したスタイルで統一されていた(下写真左)。トイレもきれいで、しっかりメンテナンスされていることが感じられた。
1時間弱のバス乗車中、日本の アニメ『スラムダンク』の初代オープニング・ソングが、バスの車内ラジオで流れたのを耳にしたときは、別の意味でびっくりした。
この清潔なバスターミナルに居ついてしまった昼寝中の犬たち(上写真右)。乗客たちは全く気にする様子もなく、通り過ぎていく。完全に犬と人間たちが同居する世界、それが大陸中国の田舎町である。
ここ以外でも、この古都にはたくさんの野良犬が自由気ままに生活していた。住民たちも全く気にすることなく、うまい棲み分けができているものである。 自動車の運転手たちも犬をひき殺さないように、クラクションで追い払いながら通過していく。
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交通アクセス
寧波市
中心部の 東門口バス・ターミナル(余姚江沿いの和義路と戦船街との間)から、路線バス331番に乗車する。終点の慈城鎮バスターミナルまで 1時間弱の乗車である(2元)。
途中の寧波市江北区の郊外あたりは都市開発と工場地帯が入り乱れ、空気が相当に悪かった。
なお、寧波市街地からは、335番バスでも慈城鎮へ行ける(2元)。
【
句章県城跡
】
この地は、春秋時代の紀元前 473年に越王勾践により句章城が築城された場所である(秦代に入って正式に句章県の県役所が開設される)。一時は、越国の王都でもあった。今の寧波市江北区城山渡と王家壩村の一帯と考えられている。 東晋時代の孫恩の乱で破壊されて以降は、廃墟となり、今では完全に田畑の下に埋没してしまっているという。
今では、のどかな田舎町に過ぎない。
現地には 5分だけ滞在して、再び往路便のバスに乗り込み、慈城鎮バスターミナルへ戻った。途中、楊陳村にある石の掘り出し山の一部にある石垣に見入ってしまったが、ここは墓地であった(下写真右)。
なお、王家壩村の西へ 4 kmの地点にある河姆渡鎮には、新石器時代の集落遺跡である河姆渡遺跡が発掘されており、河姆渡遺跡博物館が設けられている。
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交通アクセス
慈城鎮バスターミナル → 王家壩村へ向かう ローカルバス(334-1)の時刻表
6:00、7:05、8:35、10:10、12:10、15:30、16:30
だいたい 25分ぐらいで到着する(2元)。現地から慈城鎮バスターミナルへの戻りは、到着バスがそのまま運行されている。 すなわち、6:30、7:35、9:05、10:40、12:40、16:00、17:30 発である。
そして、そのまま慈城鎮バスターミナルから、路線バス 331番で 1時間弱かけて寧坡市の 中心地区(東門口の北側)へ戻れる(2元)。
【
寧波市江北区慈城鎮の 歴史
】
慈城地区に最初に城郭が築城されたのは、春秋時代下、隣国の呉国と死闘を演じた越国王の勾践の治世下 (紀元前 472年)とされ、
句章城
(今の 寧波市江北区城山村と城山渡の一帯)と命名される。
戦国時代に入り、その越国も楚国に滅ぼされると、楚の版図下に組み込まれた。
紀元前 221年に、秦の始皇帝により、全国に郡県制が導入された際、句章城内に句章県役所が開設される。
前後漢時代から三国時代期を通じ、この行政体制が踏襲される。後漢時代の一時期、句章県城内には会稽東部都尉の役所が併設されていた。
後漢末期の 172年、会稽郡下に無数に存在した宗教集団の一派を率いた許昌が句章県城で反乱を起こし、自ら陽明皇帝を名乗り、その息子の許韶らと共に周囲の県城の宗教勢力と呼応して、反乱の拡大を画策する。しかし、若き 孫堅(155~191年)は会稽郡の司馬と協力して、配下の千人余りを率いて反乱軍の撃破に成功する(首謀者の許昌父子は斬首される)。この功績により、孫堅は十代にして、各県の重要ポストを歴任することとなった。下地図。
東晋時代の 400年、孫恩が 20万を数える反乱軍を率いて海より浹口(
浙江省寧波市鎮海区
)に侵入し、一帯の制圧に乗り出す。この過程で包囲・占領された句章城は徹底的に破壊されることとなる。この直後、劉裕(後に南朝の宋王朝を建国し初代皇帝に即位する)により、
鄞県城
(今の 寧波市鄞州区鄞江鎮)内へ句章県役所が一時的に移転され、両県の役所が併設されることとなる。旧句章県城跡はそのまま放棄された。
唐朝の玄宗皇帝の治世時代、宰相にまで上り詰めた 房琯(697~763年)が、未だ若かった頃、738年に新設された
慈溪県
の長官に任命され、その県城の築城を担当することとなる。県城は浮碧山の南側に建設され、闞湖から水が引かれて、外壕が掘削される。
なお、「慈溪」の由来であるが、古代中国で有名な学者の一人であった董仲舒の 6世孫にあたるとされる董黯が、漢代にこの地に住んでいた。唯一の家族となっていた母が病に倒れた際、董黯はわざわざ母の故郷にまで足を運び、その地の川水を汲んで、母に飲ませるとその病は間もなく完治したという。この孝行話にちなみ、一帯は「慈溪」と命名されたとされる。
明代以降は、明州府が
寧波府
へ改称される。慈溪県は引き続き、ここに帰属された。当時、寧波府下には
鄞県
、慈溪県、奉化県、
定海県(鎮海)
、象山県の 5県が配されていた。
明代の 1418年、慈溪県長官が県印を紛失してしまう事件が起こり、県印の悪用を防ぐべく、明朝廷は漢字の簡略化を進め、「慈溪県」が「慈渓県」へ改名されることとなる。
明代の 1500年代前半、慈溪県は海岸地帯に位置したため、度々、倭寇の襲撃を受けることとなった。
ここに初めて、慈溪城の本格的な改修工事が着手され、外国勢力の脅威が迫った清代の 1800年代後半にはさらに城壁の高さが積み増しされることとなる。
中華民国時代の 1937年、城壁が撤去される。1954年に慈溪県役所が現在の
慈溪市
中心部へ移転されると、寧波市江北区下の慈城鎮へ降格される。
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