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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
広東省 汕尾市 城区 ~ 区内人口 60万人、 一人当たり GDP 27,000 元 (市全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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坎下城(坎下塞城)
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坎下城 南門跡
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坎下城 東面の城壁 ~ 城壁の内部を掘削して 住宅化
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坎下城 東門跡と 甕城
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城隍廟
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坎下城 南門跡と 北面の城壁 ~ 虎山の丘陵エリアを切り通した 紅海大道
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坎下城 西門前の媽祖廟と 西門池(かつての海岸線の名残り)
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坎下城 西門跡と 甕城(当地、最高の見応えポイント!)
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武帝廟 と 古城内部の様子
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寿司ホットドック巻き!! 寿司焼き鳥巻き!! 寿司鉄板焼き巻き!!
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【豆知識】坎下塞城 ■■■
深圳市
福田区より、汕尾行き都市間バスに乗車する(90元)。 海岸線沿いに延々 2時間20分のドライブとなった。海岸エリアは、急峻な山々が連なったかと思えば、広い砂州が現れ、そして広大な塩田が出現するなど、さまざまな地形が堪能できるルートだった。
これら海沿いの高い山々に、往時は狼煙台などが設置されていたのだろう、、、と妄想を膨らませながらの旅路であった。
汕尾霞洋バスターミナルに到着すると、その正面の通航路沿いに地元の路線バス乗り場が設けられているので、 ④以外のバスなら、何でも乗り込むと、通航路をまっすぐ南下し、汕尾大道の一帯まで至ることができる。
筆者は路線バス ⑥に乗車し(1元)、汕尾大道を通り越して、二号街沿いの 7天酒店(1泊 129元)へ向かった。
この
汕尾大道と通航路の交差点一帯が現在の汕尾市中心部の繁華街らしく、特に信利広場あたりは 味千ラーメン、KFC、マクドナルド、ワトソンズなどの国際ブランドも軒を連ねる、おしゃれエリアとなっていた。翡園街の歩行者天国の一帯には、日本料理屋が 4軒もあった。
【
坎下塞城
】
投宿先の 7天酒店前から、三輪バイクで古城エリアを訪問してみる(8元)。
城内路沿いに進み(下写真左)、城南路を横断した先の南門の跡地で降ろされる(下写真右)。
下写真は南門跡地。基本的に、古城訪問者はここを基点にすることとなる。後で見る 北門、東門は殺風景、西門はかなり奥まった場所にあり、初訪問者には分かりにくいためだ。
南門自体は現存していないが、その東西には低く削られてしまった城壁が延々と残っていた(下写真)。城壁上辺の石材は集落地の人々によってはがされ、別に転用されていったのだった。
南門跡地
から古城エリアへ入ってみると、すぐに古井戸や古民家が姿を現す。
特に、城内の古民家を見渡してみると、かつての城壁の部材が転用されている様子が伝わってくる。下写真左のトラック横には、城壁から抜いたと思われる石材群が転がっていた。
上写真右は、東面の城壁を内部から見たもの。右端が城壁で、その内側が宅地開発されている様子が分かる。
つまり、城壁の内面の盛り土部分の中身がくりぬかれて、ちょうど城壁に洞窟を空ける感じで宅地化し、石材を移動させて戸建ての小屋として、城壁と一体化する形で民家を形成させていった様子が想像できる。
古城時代、この城壁の内面には所謂、馬道(城壁守備の兵士らの通路) は建造されておらず、単に土を盛り上げただけの構造だったと推察される。つまり、下写真左の ように、城壁の内側にも石垣が整備されていたわけではなかったと思われる。
下写真右は、外側から東面の城壁を見たもの。上部ははぎとられて、低くなってしまっている。
東側の城壁沿いにさらに北へ進むと、東門が見えてくる。
甕城
が残っていた。この真横の城壁は完全に撤去され、粗大ごみ廃棄場のようになっており、広い砂地の空間が広がっていた。
下写真は、東門を内側から見たもの。城門上は畑になっている。
写真にある通り、城壁の高さは、現在でも 3 m前後はある。
普通にバイクや歩行者が日常的に行き来する、生活道路の一部であった(下写真)。
上写真右は、東門の甕城外側から内部を見たもの。この先に広場があり、すぐの地点に
城隍廟
が鎮座されていた(下写真左)。
城隍廟の裏手には住宅地が広がり、城内はかなり広い空間だった(下写真右)。 日本の感覚だと、1丁目、2丁目、3丁目あたりの住宅街が、まるごと城壁に内包されている規模だ。
いったん東門外へ出て、そのまま北門を目指して、
城壁外周
を歩く。2~3 m規模の城壁が延々と残る。途中、宅地の一部になったり、畑化されていた。下写真。
路地は、新規に開通したばかりの紅海大道につながっていた(下写真左は、バス停「城北駅」)。
城壁はそのまま坂上に続く(下写真右)。
この道路は丘陵エリアを掘削して敷設されており、道路の対岸どうしの標高が高く、中央の道路部分のみ低い平地になっていた。このバス停の真上に「北門」が残る。下写真。
この北門はもともと 小高い丘(虎山)に立地しており、古城はその丘陵の斜面上に築城されていた。
かつて、北門の内側には変電施設があったというが、今は雑草が生い茂る不毛の地と化していた。
下写真左は北門の内部。雑草だらけ。
下写真右は、北門の周囲に残る城壁跡。坎下城の城壁は、下側が土塁で、上半分が石積みとなっていたようだ。城門部分のみ、上から下まで石積み城壁だった。
土壁に開けられた穴は、水はけ口と通気口を兼ねていた。
下写真左は、北門とその下を通る紅海大道。
北門前には柵も何もないので、10 m近くある標高差は結構、怖い。
北門跡
を撮影後、西側すぐ横の 路地「西門街」を南へ下ってみる(上写真右)。このエリアには、スーパー西門市場、西門診療所など古城時代の名残が地名に活かされていた。
西門街の先に、媽祖廟が見えてくる(下写真左)。写真奥に見えるのが、西門。かつて、この廟所前まで海岸線だったらしく、その名残を残す意味で、小さな池が設けられていた(下写真右)。この一帯は、かつて船着き場で、西門は商品や物資を船で運び入れるための搬入専用口だったという。
さて
、続いて西門であるが、この甕城と城壁は往時の姿を今に伝える貴重なポイントだった。当古城遺跡の中で、最も見応えのある場所と言える。
特に城郭自体が小規模なため、この甕城部分もこじんまりとしており、その分、全体構造が生々しく俯瞰できて、迫力満点だった。巨大城郭だと写真に収めきれないが、これぐらいの小規模城郭だとちょうどいいサイズだった。
この西門の両脇に残る城壁は、現存する城壁の中でも最も高く、3 m以上は優にある。築城時は全体的に 5.5 mほどあったというから、相当に立派な城壁だったことだろう。
大変残念なことに、城壁に使われていた石材の多くは、近代以降に民家へ転用され、 今は分厚い土壁が延々と連なっているだけ、という感じだった。
下写真は、城門と城壁の内部。
畑用地として整備され、 城壁裏面は境界線が見えなくなってしまっている。
現在、この西門は東門とともに、 普通に住民らの生活道路の一部として現役で活用されている。
西門跡の上には、日中戦争時代に建造されたと思われるトーチカが残されていた(下写真)。
なお、近年まで南門と西門一帯に不法店舗や住居などが集中していたらしいが、2011年に地元政府により強制撤去されたという。その当時の名残からか、このエリアの城壁が最も痛んでいた。
特に、東面の城壁同様に、南面の城壁でも、内部をくりぬいて、城内と城外が連結する形で建設されてしまっている個人商店や公共施設があり、これらは強制撤去を免れて(もはや、城壁保存は手遅れということだろう)、そのまま現在も立地されていた。
とりあえず、
西門
(上写真右は西門の甕城の城壁部分)から古城地区へ再入城し、東西を貫通して、東面の城壁エリアへ戻ってみることにする。
西門を入ってすぐの広場上に、武帝廟がそびえ立っていた(下写真左)。もともとは明代末期の 1630年代に建立されたもので、以後、幾度も建て替えが施されてきたという。 現在の神殿は 2005年12月末に再建されたもの。
この先の 裏山(虎山)には北門が設置されており、現在の古城エリアでは最も高台に位置する(下写真右は、この高台部分から古城内を見下ろしたもの)。
武帝廟の裏手から北門へ行ってみようと思ったが、雑草が覆い尽くして足を踏み込めなかった。「武帝廟」の石版が複数、打ち捨てられていた。。。。(下写真左)
武帝廟からさらに東門へ歩みを進める。古城内には、かつての邸宅屋敷の跡と思わしき民家や(上写真右)、家庭菜園を設けた 民家(下写真左)、意味不明な土地まで(下写真右)、いろんな風景が広がっていた。
全体的に古城内の北側は寂れ、南側に新しいコンクリート住宅が集積していた。
城内の 民家(特に北側)では、至る所で小規模な家庭菜園があり、明代、清代の古城内でも、このような自家菜園が一般的だったのだろうと推察できた。
さてさて、東西南北のうち、唯一、撤去され現存していない南門跡地まで戻ると、バイクタクシー(8元)で市内西側にある汕尾市総合バスターミナルを目指す。
道中、
海豊県
への訪問意思を告げると、汕尾大道沿いのバス停で待っていれば、5分に一本、バスや乗り合いタクシーが来るので、それに乗車するように言われた。バス 8元、乗り合いタクシー 10元という。
1分ほど待っていると、普通車型のタクシーが、運転席前に「海豊」と書いたプラカードを貼って、走ってくる。いちおう、止めてみて値段を聞くと、本当に 10元というではないか!後部座席にはすでに先約の客が 2名、乗っていたので、助手席に飛び乗った。
だいたい 30分弱ぐらいで、海豊県の中心部に到着する。下車する際に、10元を運転主に支払う仕組み。
なお
、海豊県から戻り、汕尾市城区の市街地で遅めの昼食をとった際、通港路と城内路との交差点にあったローカル食堂の ハンバーガー店(店名:比来店)に入った。注文したのは、セット 18元。
ショップ店員の作業効率の悪さと、店内のローカル衛生ぶりが悲惨だったので、オーダー直後に後悔したが、とりあえず、肉を食べたかったので、待つことにした。
当店では何と、手巻き寿司も提供しており、ホットドック手巻き寿司、焼き鳥手巻き寿司など、寿司=ファ―ストフードという発想が根付いてる様子だった。。。。
昼食の後、
馬宮鎮
を訪問し、バイクタクシーで例の 7天酒店まで送ってもらい、すぐに荷物を回収して、二号街の交差点で路線バス ⑥に飛び乗る。そのまま汕尾霞洋バスターミナルへ戻って、
陸豊市
行きバスに乗車できた。
ここから陸豊市行きバスは、8:00、9:00、10:00、、、、と 18:00まで一時間に 1本ずつ発車している。
だいたい 1時間ぐらいで陸豊市の城北バスターミナルに到着した。15元。
坎下塞城
かつて、汕尾市エリアで中心的な県城となったのは、
海豊県城(今の 汕尾市海豊県の中心部)
と
陸豊県城(今の 汕尾市陸豊市東海鎮【中心部】。清代中期に新設)
の 2城であった。
特に、前者の海豊県城の歴史は古く、東晋時代の 331年に東官郡下の博羅県から 分離・新設されて以降、一度も廃止の憂き目を見ることもなく地域の中心都市として君臨してきた。
現在の 汕尾市 中心部(城区)も、この海豊県下の海岸エリアの一集落地に過ぎなかったわけだが、明末の 1636年、倭寇や海賊、鄭氏台湾の一派らの襲撃に備えるべく、地元の名士である葉高標が朝廷に建議し、城壁の建造が許可されると、翌 1637年、城郭集落が完成を見る(坎下寨城)。
完成当時、北門はもっとも高台の虎山上に設置され、他の 三面(東門、西門、南門)は海に面していた。 ちょうど丘陵地帯の斜面に建造されたことになる。
特に西門は水門となっており、船舶の出入りのみに対応した専用口だったという。城内に埠頭を有し、水軍も配備され、水軍船が東隣の
捷勝所城
と
碣石所城(今の 汕尾市陸豊市碣石鎮)
を定期的に往来していた。
今日、西門前に 小さな池(西門池)があり、それがわずかに残る海岸時代の名残りという。
中華民国の初期、広東都督が城内に練兵所を開設していた。
共産党中国の時代に入り、文革により坎下城の一部の城壁が破壊されてしまうが、大部分はそのまま残され、現在まで存続することとなる。
築城から 400年以上が経った今でも、約 70%もの城壁が現存し、城内には城隍廟や武帝廟の建築物、さらにこれらの装飾品であった 石刻板、石馬、石獅などの遺物が残っている。
城郭は、不規則な縦長の 楕円形(城内面積 7.2万 m2)をしており、かつて城壁の高さは 5~6 mを有し(現存する城壁は高さ 3 mのみ)、その全長は 1,157 mにも及んだという。海側に面する東西南の城壁上には凹凸壁が 78ヵ所、矢座間が 391ヵ所、配置されていた。また、東西南北の四門のうち、東門と西門のみ城門楼閣を有したという。
2011年10月17日~20日にかけて、古城遺跡の保護を目的に、汕尾市当局による古城周辺の違法建築物の撤去作業が敢行される。
これより以前の 1995年に、坎下城は 県(区)級文物保護遺跡に指定されており、また、 2008年には広東省文物保護遺跡に指定されていたが、特に保存活動まで手が回っていなかった。
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