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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 澄邁県 老城鎮 ~ 鎮人口 6.1万人、一人当たり GDP 40,000 元(県全体)
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【ニ代目】澄邁県城
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永慶寺(海南島北部最大の 仏教寺院)
この日は、
海口市龍華区で海口所城跡と騎楼地区を散策後
、海口西バスターミナル近くの海秀西路沿いまで移動して、ここから 55番路線バス(秀英区政府 ⇔ 馬村港。5元)に乗り込み、「老城路口」で下車する。下地図。
この北側に、澄邁県老城中学、老城橋などが立地しており、かつて【二代目】澄邁県城があった旧市街地区となっている(下地図)。
この 旧市街地区(老城墟)を貫通する「老街(下街)」は、隋代後期の 607年、【二代目】澄邁県城が「橙邁村(今の老城鎮)」に築城された際、県城の南東端に整備された街道跡という(全長 100 m)。今から 1000年以上前に敷設された往時には、一面が石畳だったが、今日、すでに石畳は撤去され、コンクリート道路となってしまっている。
この老街の両側には古民家が軒を連ねており、中には傷んだ家屋を頑張って使用している住人もいるが、ほとんどの民家は壁が崩れ落ち、石積みの塀なども激しく損壊してしまっているものばかりである。かつては、商店がひしめき合う、賑やかな通りだったという。
南側より流れ込む、澄江の土砂堆積により、周囲より高台となっていた邁山に形成されていた 集落地「橙邁村」が、そのまま県城用地に選定されたわけだが(この「澄江」と「邁山」を基に、「澄邁県」と命名されている)、この内澄江と外澄江が合流する河口エリアは、当時から水流の激しい、荒々しい水域で有名であったという。県城の完成後、その珍しい水流美は「澄邁八景」の一つにも数えられていた。
その他、隋代から続く旧市街地では、広徳橋(下写真左)、大成殿跡の壁(下写真右。文廟の一部)、林仲儒夫妻の墓所など、複数の見どころが点在する(下写真)。
続いて、海岸沿いにある 永慶寺(開館時間 8:30-17:00)を訪問してみる。上地図。
見学後、工業大道沿いに戻り、55番路線バスに乗って、再び
海口市
側へ戻ることにした。
永慶寺(下写真)
現在、永慶寺は澄邁県老城鎮老城開発区盈濱半島上に位置し、約 80ヘクタールの 敷地面積(うち建物面積は、合計約 9,200 m2)を有する、海南島北部最大の仏教寺院となっている(
南部最大の仏教寺院は、海南省三亜市崖州区にある南山寺
)。 大雄宝殿、及び各殿内に安置された、精緻にデザインされた 42体の仏像も有名という。
清代に編纂された『澄邁県志』によると、かつて永慶寺は県城から東へ 1 kmの地点にあったと言及されており、現在で言うと、だいたい 老城南泰鱷魚(ワニ)湖動物園の北東部あたりという。
北宋代に創建されて以降、順次、拡張を遂げ、そのまま澄邁県下最大の寺院となり、多くの人々が参拝に訪れることとなる。当時、永慶寺の周囲には林が広がっており、境内の高所から見渡す景色が秀逸で、李綱、李光、胡銓ら歴史上の有名な文化人や名士らが、こぞってこの寺を訪問し、その絶景を各地へ広めたため、海南島内でも屈指の景勝地としても知られるようになっていく。北宋時代の 文豪・蘇東坡(蘇軾。1037~1101年)もまた、二度ほど、当寺に立ち寄っており、その思いを詩に残している。
一回目は 1097年6月11日で、蘇東坡(62歳)が中央朝廷の政争に巻き込まれて左遷され、海南島に上陸した直後
、老城驛通潮閣で一夜を過ごす。その翌日、早速、永慶寺に立ち寄り、ここの絶景に感嘆して、「幽懐忽破散、咏嘯来天風」という詩を詠んだという。
二回目は 1100年6月で、中央朝廷から帰還の許しを得た 蘇東坡(65歳)が、大陸側へ戻る際、その帰路に再び当地に足を運び、「九死南荒吾不恨、茲游奇絶冠平生」という詩を残したとされる。彼はこの帰京途中、
常州(今の 江蘇省常州市)
で病死するのだった。
【二代目】澄邁県城の 歴史
隋代後期の 607年、【二代目】澄邁県役所が、澄江河口に形成されていた高台の 集落「橙邁村(今の老城鎮)」へ移転されてくる(珠崖郡に帰属)。これまでの【初代】澄邁県城は、前漢時代の紀元前 110年に苟中県城が開設された跡地を継承し、郡舍都(今の 澄邁県美亭郷。末尾地図)に開設されていた。
唐代初期の 622年、珠崖郡が崖州へ改編される。
639年、瓊山県と澄邁県から一部が分離され、会口県(今の 澄邁県永発鎮博羅村。末尾地図)、顔羅県、容瓊県の三県が新設されるも、五代十国時代の南漢王朝の治世下の 957年、顔羅県と会口県が廃止され、旧会口県域が澄邁県へ再編入される。
北宋朝が全国を統一した直後の 972年、崖州が廃止されると、瓊州へ編入される。
元代の 1287年、瓊州路安撫司が新設されると、これに属する。
明代中期の 1447年、澄邁県城の本格的な築城が着手されるも、1465年、海賊集団により海南島が席巻されると、澄邁県城も戦火にまきこまれ、灰燼に帰してしまうのだった。以降、400年以上もの間、海岸近くからの県城移転議論が度々、沸き起こることとなるわけである。
1470年代、県城の城壁はあちこちで損傷が激しく、かなり悲惨な状態であったという。それでも、主簿の楊禎が主導して城壁を大改修し、500 mほど城壁の全長を拡張させる。
1488年、県長官の韋裘が、城壁を全面レンガ積みに大改造する。この時、城壁の全長は 1,332 m、高さ 4 m弱となり、三城門が設置されることとなった。 すなわち、東門(迎恩門)、南門(帰仁門)、西門(通潮門)である。これら各城門上には、楼閣が増築されていた。 ただし、北面側は城門が設置されず、望海楼と呼ばれる楼閣櫓のみが増築されていた。
この北面上に楼閣だけを有するスタイルは、ちょうど東隣の
瓊州府城
に酷似した設計で、ただただ、そのサイズが小さいだけであった。上絵図。
1512年、県長官の李茂が、城壁上の凹凸壁を 30 cmかさ上げし、防衛力強化を図る。
1552年、県長官の許応龍が、北面城壁上の望海楼を大改修する。
1640年、県長官の解学皋が、東門、西門、南門の三城門外に、甕城を増築する。
清代の 1658年、城壁上の凹凸壁がさらに増強され、30 cmかさ上げされる。
1706年、県長官の高魁が、南城門と楼閣を修築する。
この県城時代、城内には 県署(県役所。下絵図)、学宮(澄江書院)、養済院、倉庫、 城隍廟、関帝廟、文昌寺、忠義孝悌祠、節孝祠、乘龍庵 などの建築物が立地していた。上絵図。
なお、明代、清代を通じ、大陸中国から海南島へ派遣されてくる役人らは、毎月のように襲来する台風と、きつい海風、さらに不慣れな水や風土を嫌って、渋々、赴任してきた人々であった(県役人の中には、澄邁県に着任後、水や風土が合わず、家族二十人以上が死亡してしまう事例も発生していた)。特に海岸線に近かった澄邁県城のロケーションは過酷で、 度々、県長官や役人らによって県城移転議論が話し合われてきたが、それでも公務ができないわけではなかったので、 都度、議論は立ち消えとなり、そのままの県城が踏襲されていくこととなる。
1891~1895年にかけて、今の 澄邁県 中心部(金江鎮)に新城郭都市が建造されると、ようやく 1895年、【三代目】澄邁県城として移転が決行される(下地図)
。 以後、【二代目】県城は補修が行き届かなくなり、台風や海風被害などにより、 瞬く間に損壊、喪失してしまうこととなるわけである。
中華民国時代の 1931年、澄邁県下で老城郷へ改編される。共産党時代の 1951年、老城鎮が新設され、今日に至る。
現在、澄邁県の北端にあって、東鄰に
省都・海口市
が、北には瓊州海峡が広がる地の利を生かし、沿岸部は大規模なコンテナふ頭、西回り高速道路、 大陸と連結された 鉄道(粤海鉄路)などが整備され、海南島の水陸にわたる物流と交通の中継拠点となっている。 沿岸部には、その他多くの企業も誘致され、大規模な 石油化学コンビナート、電力発電所、製鉄所などの工場群が集積する、 海南島の重化学工業地帯を担っている。
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