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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
広東省 汕頭市 澄海区 ~ 区内人口 80万人、 一人当たり GDP 35,000 元(市全体)
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汕頭市 中心部(金平区)から路線バスで、澄海区中心部にあった 澄海県城跡を訪問する
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澄海県城 旧市街地マップ
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【豆知識】澄海区の 歴史 ■■■
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古城地区の 歴史遺産(八角楼、水関、双忠廟、鞋街、南門頭、衙前橋、 など)
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歴史集落地地区 ~ 程洋岡古村 と 樟林古港
汕頭市中心部(金平区)
から、
102番路線バス
に乗車し、バス停「外環西路」にて下車した(下地図)。そのまま益民路を東進すると、 すぐに環城西路との交差点を通りすぎて、古城地区に入り込む。ここが、明代中期(1563年)に築城された澄海県城があった場所である。
その交差点を環城西路沿いに南下すると、
西城門
とこれに隣接する城壁が保存されていた。
視覚的な古城遺跡はこれだけしか残っていなかったが、旧市街地にはかつての記憶が刻みこまれた地名や路地名がたくさん見られた。西門楽天園、環城南路、城北益華園市場、環城北路、北門真街、寺后街、文祠路、東門歯医者、環城東路、澄海城北小学、南門頭総合ビル、澄城衛前市場、衛前橋南西小区、衛前住宅、南橋、澄城溝下池街、陳氏辰祖祠 など。
【
澄海区の 歴史
】
春秋戦国時代まで、今の澄海区一帯は百越の地に分類されてきた。
秦代、漢代に入り、中原王朝の支配体制に組み込まれると、南海郡下の揭陽県の管轄域となる。
東晋時代の 331年、南海郡から東官郡が分離新設されると、新たに設置されたこの東官郡下の
海陽県(今の 潮州市湘橋区)
に属した。後にさらに東部が分離され、義安郡が新設されると、 そのまま郡都を兼務した海陽県に統括された。
隋代、唐代もこのままの行政区が踏襲される。
北宋時代末期の 1121年、
海陽県
下の 永寧郷、崇義郷、延徳郷の 3郷が分離され
揭陽県
が新設されると、 もともと今の澄海区一帯が属してきた 蓬州都、鰐浦都、鮀江都の 3都も、この揭陽県の管轄域に組み込まれる。このとき、上外莆都、中外莆都、下外莆都、そして蘇湾都の 4都は、そのまま海陽県に属した。
時は下って明代中期の 1477年、海陽県太平郷下の宣化都と信寧都、光徳郷下の氵恋州都と 清遠都、弦歌都、そして、 懐徳郷下の 秋溪都、隆眼城都、蘇湾都の 8都が分離され
饒平県
が新設される。
こうして、今の澄海区域は
海陽県
、
揭陽県
、
饒平県
の 3県に分かれて統轄されたのだった。
倭寇による襲撃が海岸エリアで頻発し、防衛ラインと統治機構の強化が急務となる中、1563年1月28日、澄海県が新設される(上地図)。県名は当時、海岸線に近いロケーションを反映し、「清く澄んだ海とその上の雲々」の意味から命名されたという。
海陽県
懐徳郷下の 上外莆都、中外莆都、下外莆都の 3都、および、
揭陽県
延徳郷下の 鮀江都、鰐浦都、蓬州都の 3都、そして
饒平県
下の蘇湾都の合計 7都が分離されての新行政区となる(そのまま潮州府に帰属)。
初代県長官として 周行(福建省福州市長楽区の出身)が赴任してくると、すぐに県城の建設に取り掛かる。まずは現地の役人や地元の名士らとの協議や実地調査を進め、三つの河川が平行して走る巨大な三角州上に位置する、下外莆都の 辟望村(今の 澄海区中心部)に築城することを決定する。
しかし、周行は間もなく母親が死去したため故郷に帰ることとなり、その築城工事を見届けることなく、県長官職を離任してしまう。
1566年、後任として張璿が 2代目県長官に就任すると、周行が策定した 築城計画(巡検司衙署を城内北側に配し、全体を南向きに設計)通りの工事に着手すると、3代目県長官・蔡楠の治世時代も工事が継承され、ようやく 1571年に城壁が完成を見る。
その全長は 3,085 m、高さ 5.7 m、城門は 4ヵ所(東門は常春門、南門は承明門、西門は保義門、北門は拱辰門と命名された)に設置され、 他に北面に 小北門(聚星門と命名)も設けられていた。また、城の北側には水関が設置され、三川溪へと連結されていた。
澄海県一帯は、
潮州府城下を流れる韓江
の下流域にあって、ちょうど海へと出る河口部に位置し、海防軍事拠点としても非常に重視された場所となる。そのため、県城外の海側には、明代、清代を通じ、海賊対策の軍駐屯基地が開設されていたという。
1666年、清朝廷が台湾の鄭氏政権に対する 経済封鎖(海禁遷界政策)を実行すると、澄海県城は放棄され、県下の住民らも強制的に内陸部へ移住させられる。一帯は完全に無人と化し、経済は停滞した。
しかし、3年後の 1669年3月に解禁されると、澄海県が再び復活され、以後、その行政区に変更が加えられることはなかった。
清代後期の 1858年、県下の鮀浦司が管轄する小さな港町だった沙汕頭が外国に開放され、汕頭港として国際交易港となる
。潮州府城下の港湾地帯が河川上流にあったため、西洋列強国の要求により海岸に近い汕頭が開港都市として選ばれたのだった。 澄海県下の鮀浦司がそのまま行政区として管轄した。
中華民国が建国された直後の 1912年、全国で州制度が廃止され潮州が消滅すると、澄海県は広東省の直轄となる。
400年を超える澄海県城の歴史都市であったが、1953年に城壁が撤去され、環城路が敷設されるのを皮切りに、旧市街地に広がっていた裏路地や古民家群も多くが取り壊されてしまうのだった。しかし、かつての古城時代の名残りを伝える地名や路地名が今も残る。
下記は
、現存する数少ない古城遺跡である。
八角楼
もともと奎宿閣や文明閣と命名されており、東面の 城壁上(今の文化路と環城東路との交差点中央部あたり)に建設されていた。
清代中期の 1740年、地元のある名士が孔廟の南東部に奎宿閣を建設したことが最初で、 1796年に倒壊してしまうと、そのまま放置される。1811年、県長官の周家俊がこれを再建し、文明閣へ改称する。
1829年に大規模に改修され、澄海県城のシンボル的な建造物となる。
日中戦争が終結した 1946年に大規模な再建工事が手掛けられるも、1953年に城壁が撤去された際、城壁上にあった楼閣も取り壊され、別に移築されることとなった。 1963年に澄海県政府により歴史遺産に指定されるも、文化大革命期間中に撤去されてしまう。
現在の八角楼は八角形の三階建て木造楼閣として復元され、その高さは 15.1 mあり、てっぺんには伝統的な吉祥の実である瓢箪を据えている(下写真)。また、南北に入口門が一つずつあり、門上の額縁にはそれぞれ 観海(南門上)と 拱宸(北門上)と記されている。
水関 / 水関亭
高さ 3.3 mの 水関(水門)は北門から東へ 100 mのところに設けられており、城内に張り巡らされた運河や水路は城壁下を越えて、この水関を通過し 三川溪(運河両岸に南港と北港という港町が形成され、黄洲溪や新溪水などの運河を伝って海へと接続される交通の要衝。これらの運河は住民らが自費で掘削したもの)へとつながっていた。
1953年に城壁が撤去されると、初代県長官となった余錫渠が水関亭を建設し、訪問者らが気軽に休憩できるスペースを設けていたが、1984年に自動車道路の敷設で撤去されてしまったという。
現在、往時に水関上に掲示されていた 石板「水関」のみが保存されている。
双忠廟
双忠廟は王厝田の 北側(今の中山路の中央あたり)にあり、双忠聖王である 張巡(709~757年)と 許遠(709年~757年)の 2将軍を祀る廟所である。
唐代後期の 安史の乱(755~763年)に際し、河南節度使の張巡は部下ら数千の兵士を引き連れて反乱軍の鎮圧に向かい、幾度もの勝利を収める。安禄山の部将である尹子期が睢陽城を攻めると、睢陽太守の許遠は張巡に援軍を求める。張巡は兵を引き連れて入城すると、孤立無援の中、睢陽城を半年にわたって守り通すも、とうとう城内の食糧も尽き、外部から援軍も期待できない中で、城は陥落する。 張巡と許遠は共に捕えられ、忠義を貫いて処刑されたのだった。
彼らの忠節は多くの人々の心を打つこととなり、澄海県でも住民らにより王厝田に廟所が建立された、 というわけだった。
関聖帝君
関翁宮(関帝廟)は澄城県城の南門のすぐ内側の東隣に開設され、その廟所は巨大で、常に多くの線香の煙で覆われていたという。
清代初期の 1682年、副将の王訓が建立したという、この由緒ある関翁宮も近年の都市開発で撤去されてしまっており、 現在、別の廟所として成豊澤園住宅区内に再建されている。
鞋街
鞋街(今の中山中路)は現在、澄海県城の旧市街地にあって最も賑やかなショッピングストリートとなっている。かつての 南門街、十字街、蕭厝街らが集まって形成されており、かつて多くの鞋店が軒を連ねたことから、地元で鞋街と通称されていたのだった。
近代化がスタートした中華民国時代、この街道沿いの家屋は 2階建ての騎楼群へと改修され、その道幅は 8~10 mに拡張される。1928年に 孫文(1866~1925年)を記念して、中山路へ改称される。
1953年に県城の城壁が撤去されると、王厝街、双忠公、便生医院前、城隍前、水関墘などの路地街と、メインストリートの鞋街とが連結され、北は環城北路から南は南門外の石油公司前までの全長 1,223 m の幹線道路「中山路」へ生まれ変わることとなった。
南門頭
この南門頭とは、メインストリート中山路の南側で、環城南路との 交差点エリア(かつての南城門外に立地する 税関街、塩昌街、興隆街の一帯)を指す。
県城時代から最大の 繁華街=南門頭、と言われており、この交差点脇にある南関市場は今日の澄海区中心部の旧市街にあって、引き続き、最大の 水産、肉類、果物類などの庶民市場となっている。
衙前橋 と 五三馬路
衙前橋は、南門外の 五三路(今の中山南路)に立地していた。
この橋は県城が築城される前にあった辟望村を統括する 警察機構「辟望巡検司」(明代初期の 1369年開設)の役所前の外堀にかけられていたため、この名称で呼ばれる。 つまり 1563年、かつての辟望村の北側に県城が築城されたことが分かる。
なお、この五三路であるが 1928年5月3日、地元の民衆らが衙前橋あたりで反日デモ行進を行ったことを記念し、五三馬路と命名されているという。
寺后街 と 県前街
寺后街は、かつて龍潭寺が立地したことに由来し、四水から郭厝市までの 1ブロックを指す。
街道沿いには 2階建ての木造建築の商店街が連なり、その道幅は 5~6 mほどであった。かつての澄海県城時代でも繁華街ストリートを形成していたという。
寺后街の中間から北へ曲がって 県前街(俗称:牌坊街)まで進むと、そのまま 澄海県役所(今の澄中操場)へ行き着くことができたという。
現在、この県前街沿いには「春官大夫」「父子秋卿」、「升平人瑞」、「天褒節孝」などの言葉が記された明代、清代風の石牌坊が 8箇所、設置されている。
文祠
文祠東路沿いに立地する文祠は、もともとは文昌帝君を祀っていた廟所で、清代の 1800年ごろに地元名士の陳振翼が自費で建立し、県長官の尹佩紳が落成に協力したものという。
共産党政権がスタートした当初は、ここに県人民政府の役所が入居していた。
龍潭寺
龍潭寺はもともと、今の澄園住宅区内に立地していた。
南宋時代初期の 1147年、寺僧の明弁によって創建され、南宋末期の 1270年ごろに僧の絶塵がこの地に寺を移転させたものという。
府尉の 陳双桂、駙馬都尉の蔡豊湖が離れた郊外の地に資金を出し合って再建する。その境内の規模は巨大で、寺院の建築物も勇壮を誇り、澄海県下にあって圧倒的なスケールであったという。
寺内には、南宋代から生息する 菩提樹(釈迦が悟りを開いたとされるボダイジュの木)が 2株残っており、これが最も貴重な歴史遺産となっている。その樹齢は 700年以上という。
澄園住宅区が建設される際に、寺も撤去され、この菩提樹も神山石佛寺へ移植されている。 龍潭寺は澄海の古八景の一角を占める貴重な歴史遺産となっている。
王済橋 と 玉川橋
王済橋は、俗称:蜈蚣橋といい、東は馮公祠巷を通って、西に城北大巷へと通じる橋であった。
1939年7月16日に日本軍が澄海県城を攻略すると、城内では 3日間にわたって大量殺戮が行われる。澄海県城内の市民 1,000人余りが殺されたという統計があり、別の歴史家の推察では 700人余りが殺害されたと指摘する。 この蜈蚣橋上だけでも横列に並ばされて腰から串刺しにされた死者が 70人以上もあったといい、「蜈蚣橋の悲劇」事件として記録されているという。
また、玉川橋は 俗称:火焼橋といい、東は四水から始まり、寺后街を通過して、西は樹仔脚まで続く橋だった。
両橋(王済橋と玉川橋)ともに三川溪上にかかっており、城内の東西交通の要を成していた。これらの石橋にある 3つの橋桁は、 1595年に県長官の王嘉忠が補強したものという。 1953年に三川溪が埋め立てられると、中山路へと生まれ変わることとなる。
南橋 と 北橋
玉帯河(護城河)は県城を四方に取り囲み、全長 3.5 kmにも達する外堀であった。この玉帯河上にかかる重要な橋であったのが、南橋と北橋だった。
南橋は嶺亭村の外にあり、杉排街の西に位置していた。
明代の 1550年ごろに潮州知府の鄭宗が設置したのが最初で、関所が設けられていた。ここは日中戦争時代、南橋戦役があった場所という。1940年2月に日本軍が大挙して侵攻し、澄海県城を攻撃すると、李少如の 部隊(中共党員の張震らも協力)が軍民らを指揮して頑強に抵抗し、五次にわたる日本軍の攻撃を耐え忍ぶ。日本軍の作戦を幾分、遅らせる戦果を挙げたという。
また、北橋は小北門の外にあり、5つの橋桁で支えられた石橋であった。 南宋時代に最初に設置され、澄海県城下でも最古の橋の一つだったらしいが、近年になって外堀を受け立てて道路を敷設すると撤去されてしまう。
これら南北の 2橋は一部が吊り橋となっており、その美しい光景は澄海の古八景の一つに挙げられていたという。
程洋岡古村
虎丘山の山裾に位置する澄海区蓮下鎮程洋岡村内に、古い集落が残されている。
南宋亡命政権の丞相を務めた陸秀夫の足跡が残されており、また
モンゴル軍に抵抗した 陳吊眼(1250~1282年)の城塞遺跡
や 丹砂古寺などが一帯に現存するという。
特に、この丹砂古寺は明代中期の 1470年ごろに建立された寺院で、儒教、仏教、道教の 3教を融合させ合祀した特徴的なスタイルとなっている。
樟林古港
樟林古港遺跡は東里鎮の南東端にあり、澄海区政府により歴史遺産指定を受けている。
清代初期、広東省東部から海上貿易や移民を通じ、多くの人々が台湾や海外へと旅立った主要港の一つで、華僑文化の発祥の地の一角を担う。新興街の 商店窓口、船着き場、天后宮、風伯廟、水仙寺、西塘庭園 などの古建築物が現存する。
また、清末民初の時代、海外出稼ぎで成功し故郷に戻った華僑らが建てた邸宅建築が 14軒も現存しており、 潮汕地区の典型的な建築スタイルを今に伝える貴重な歴史証人となっているという。
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