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訪問日:2015年 5月下旬 『大陸西遊記』~
陝西省 漢中市 城固県 ~ 県内人口 55万人、 一人当たり GDP 24,000 元(市全体)
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三国時代、諸葛孔明が築城した 楽城 ~ 五丈原への 最前線基地
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263年の蜀滅亡戦でも、落城しなかった 楽城
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三国時代、諸葛孔明が展開した 屯田・軍事教練基地エリア ~ 武侯村
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蕭何墓・樊哙墓(前漢建国の功臣らの記念墓)
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張騫記念館(前漢時代の探検家・外交家である 張騫の墓所&記念館)
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城固鎮城 と 旧市街地
【 楽城(三国時代、諸葛孔明 が築城した城) 】
三国時代の227年春、第一次北伐(
街亭
の戦いで敗退)を決行した孔明は、続いて、同年 12月に第二次 (
陳倉城
攻略失敗)、229年春に 第三次(武都、陰平の二郡のみ平定)と北伐攻撃を繰り返した。
その帰国直後より、北伐の最前線ルートの充実化を図り、 兵站確保と防衛拠点として、
漢城(今の 勉県東)
と 楽城(今の 城固県許家川鎮慶山)の 2城を築城する。
翌 230年秋、魏が曹真を総大将として蜀討伐軍 20万を発する。 このとき、孔明は最前線のここ楽城に滞在し、曹真軍の主力の到着に備えている。 結局、魏軍は長雨に苦しめられ、
秦嶺山脈
内で立ち往生してしまい、 1ヵ月後に撤退に追い込まれている。
さてさて、こうした孔明ゆかりの楽城であるが、漢中の中心都市(
南鄭城
)の東に位置し、北側に連なる秦嶺山脈の山道の入り口を真正面に控えた交通の要衝にあった(下写真)。
山頂に楽城が築かれていた慶山は、もともとが独立系の急峻な山であった。写真からもその様が分かってもらえると思う。
この城塞跡は、後年になっても諸王朝により狼煙台として使用され、その遺構が今も一部、残されているらしい。また現在、西側の山頂付近には廟所が設置されているという。
周囲は完全に農村地帯と化しており、山や河川の自然環境がそのまま残され、1800年前に諸葛亮孔明らが目にした地形をそのまま想像する助けとなり得る。北にそびえる
秦嶺山脈
の巨大さと、その山道口にあたる当地のロケーションの重要さは十分に伺い知れた。
ちなみに孔明最後の 北伐(234年)は、この楽城で兵馬が整えられ、斜谷口を抜けて
五丈原
(今の 隴西省宝鶏市岐山県の南東部の台地)へ出発されている。すなわち、生前の孔明が最後に漢中に滞在した場所と言えよう。
時は下って、263年10月の
魏軍
による蜀総攻撃の折、この楽城は総大将の鐘会率いる魏本軍により真っ先に強襲される(下地図)。
当時、この楽城を守備していたのは王含であった。それ以前より姜維の相次ぐ北伐戦で国力を疲弊させ、前線基地である漢中の守備体制もままらななくなっていた蜀軍は、漢中諸方面に分散されていた防衛拠点を統合し、東の楽城と西の漢城&陽平関で、漢中盆地を守備する方針に転換していた。
さすがに諸葛亮が築城させた楽城と漢城だけあって、ともに最大動員兵力 5,000を収容できる規模であったとされる。魏軍はこの両城をそれぞれ 10,000の兵で包囲するも、蜀守備隊はその攻撃をしのぎ切る。しかし、食糧輸送などの困難さから、あまり長期戦に耐えられない魏軍は、将軍の 李輔(最初は新城太守の孟達の配下にあったが、司馬懿に籠絡され魏に寝返っていた)と 10,000の兵力を楽城包囲に残して早々に漢中平野を南下し、剣閣から
成都
への最短ルートをねらうべく、残り 8万の兵力で進軍を開始する(別の漢城包囲軍 10,000は荀彧の曽孫にあたる荀恺が担当)。そして、中間地点の剣閣にて、姜維、廖化、張翼、董厥らの蜀主力軍と対峙したわけである。
同年 11月、陰平道を突破した鄧艾軍の前に成都は無血開城し、これにより交戦中であった姜維軍、および漢中の 2城もまた降伏を余儀なくされる。
首都陥落まで持ち応える堅牢さを誇った孔明の楽城、さすがである。魏軍はしらみつぶしでの拠点攻撃で犠牲が出るのを避け、兵の数にものを言わせた捨て駒作戦で、軍を分散展開させつつ、キング成都へチェック・メイトしたというのが蜀せん滅戦の全貌と表現できるだろう。
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交通アクセス
漢中市
から城固県へのバスは、片道 8.5元。所要時間 30分弱。
5分に 1本の割合ぐらいで、バスが乗客を奪い合って道々で客を乗降させている乗合バス形式である。
城固県市街地に到着後、原公鎮か、許家廟鎮までローカルバスで行ってもいいのだが、終点から慶山までまだまだ遠い(約 5 km)。ましてや、バス下車後、周辺の田舎地区ではタクシーなどの移動手段を見つけるのは余計に困難である。
このため、現実的に城固県の市街地からタクシーと交渉して(というより、すべてのタクシーはメーターを使わない、シロタク化したものばかり)向かうのがベストである。タクシー運転手と地元民らはだいたいの距離を把握してるようで、行き先に応じて阿吽の呼吸で値段交渉なく、5元、8元、10元などを授受していた。
ちなみに、筆者の場合、市街地から慶山まで、片道 50元。約 30分弱のドライブ。往復 1時間で 100元となった。
市街地では、タクシーが大量に走り、簡単に乗車できる。別客との相乗りは日常茶飯事。
【 武侯村(三国時代、諸葛孔明が展開した屯田・軍事教練基地) 】
城固県の東 4 mの位置に 武侯村(城固県博望鎮翟家寺村)という、諸葛亮孔明の尊称を冠した村が存在する。今では農村と田園地帯のみ広がる村落である。
229年、楽城の築城にあわせ、諸葛孔明は漢中内で兵士の教練や農地開墾を積極的に進める。当時から湑水河と漢江との合流地点であった城固県地区では、農業や漁業が盛んであったとされる。ここに目をつけ、孔明は大規模な灌漑設備なども整備し、また食糧庫や軍事教練設備などを設けて、一大駐屯基地を開設していたわけである。
その証拠に村の付近では、前漢時代と三国時代の 遺物(銅器、兵器、陶器、煉瓦、銭)などが数多く発掘されているらしい。また、湑水河の北側対岸にある宝山でも、三国時代期、蜀が鋳造した多くの貨幣の発見されているという。この川を挟んで、集落や軍事施設が存在していたのであろう。
後に前漢朝を建国することになる劉邦も、この漢中盆地の東側に軍事設備、屯田などを展開していたと考えられる。山道口から漢中平野の入り口に当たる当地が、歴代の英雄をして重点地区と指定せしめたわけであった。
三国時代、諸葛亮も自らこの地にやってきては陣頭指揮を取ったことであろう。これにちなみ、後世になって武侯村と命名されたようである。 なお、この軍事施設は、西晋朝時代まで存続されていたらしいが、南北朝時代に放棄され、その跡形は完全に消滅してしまったようである。
また、かつて武侯村内には三聖廟という三国志ゆかりの祠堂が建てられていたそうで、廟内には 劉備、関羽、張飛の銅像が安置され、その他にも孔明や三国時代の絵図が飾られていたというが、1958年に開発が進められ、その場所は商店へと建てかえられてしまったという。今では一部の壁面のみが往時をしのばせるに過ぎないとされるが、筆者が訪問した当時は、どこだか発見できなかった。
【 蕭何墓・樊哙墓(前漢建国の功臣らの 記念墓) 】
城固県の市街地の北側にある五郎廟鎮に、前漢朝の功臣「樊噲」墓があるというので、慶山の楽城視察の帰りに立ち寄ってみた。五郎廟鎮の中心地区にある林の一部に、石碑が掲げられていた(下写真)。全く観光地化されていないようで、地元民しか知らない場所らしかった。
この 樊噲(紀元前 242~189年)であるが、鴻門の会で宴会場に乱入し、劉邦を救出したエピソードが有名な豪傑である。その死後の送り名は武侯で、孔明と同じ。
前述の武侯村の地名も、樊噲が漢中滞在時代にこの地の兵駐屯地、屯田地帯の整備に立ち合った、もしくは直接、陣頭指揮したエピソードを記念して命名されたとも考えられるかも。
また、武侯村の西側には蕭何墓が残されていた(下写真)。とりあえず、廟所らしき建物は設けらていた分、樊噲墓よりは相当に立派であったが、それでももう完全に廃屋という有り様であった。
この 蕭何(紀元前 257~193年)という人物だが、劉邦と郷里を同じくし、劉邦が郷里で挙兵する手助けをした人物で、前漢建国後は宰相にまで上り詰めている。彼は漢の 王都・
長安城
内で病死したはずなので、ここは墓所というより、先の樊噲同様に、彼が漢中滞在時にこの地の軍事基地や屯田などに関わった、何らかの記念碑的な意味であろう。
【 張騫記念館(前漢時代の探検家・外交家の張騫の 墓所、記念館) 】
最後に、漢代の大探検家にして外交家・張騫の故郷ということもあり、その記念館と墳墓が城固県の一番の名所となっている。
彼は前漢第 7代目皇帝・武帝が募集した西域使節団に応募し、その団長に選抜された人物である。漢民族社会に中華以外の文化圏の存在を知らしめた人物であり、以後に活発となる西域シルクロードの開拓者としても位置づけられている。
【 城固鎮城 と 旧市街地 】
かつては成固県と呼ばれていた。
その実情は詳しく分かっていないが、南北朝時代以降に築城されたようである。
前漢朝や孔明が開発した屯田や軍事設備が活用されて、その西側に城郭都市が建設されたことであろう。今では城壁は全く跡形もなく撤去されているが、路地名や地名にははっきりと、かつての古城時代の記憶が刻み込まれていた。大西門(バス停名)、小西門(バス停名)、大東街、大西街、鐘楼街、城隍廟、豊楽橋など。
城固県の旧市街地には、復元された鐘楼が残されていた(上写真)。かつての古城の中心部を成した場所である。上写真右は、城固県の誇りとなっている同地出身者の英雄「
張騫
」の立像。
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