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訪問日:2019年 4月中旬 『大陸西遊記』~
雲南省 昆明市 呈貢区 ~ 区内人口 38万人、 一人当たり GDP 32,000 元(区全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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昆明中心部から 呈貢古城エリアへ移動する ~ 地下鉄(25分、5元)+ バス(6分、2元)
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昆明南部でよく見かけた、幼児のおんぶスタイル ~ 直立不動!?遠心力で逆に重くない?
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【二代目】呈貢県城 と【初代】呈貢県城(伽宗城、呈貢千戸城、晟貢県城)周辺地図
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呈貢県城跡(城内村)の 西門街 と 北門街
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三台山 と 東驤閣 ~ 北門城壁が立地した丘陵斜面 と その歴史
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呈貢古城(城内村)地区の中心部へ ~ 西門街、三台路、南門街、龍城街
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東面城壁跡の環城南路から、東門跡地(東門坡と東門街の交差点)へ
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東門街 と 呈貢文廟(呈貢孔子書院)、女流作家・謝冰心の旧家
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南門街と南門跡(興呈路との交差点)
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【初代】呈貢県城(呈貢鎮城、伽宗部、伽宗城、呈貢千戸城、晟貢県城)地区を歩く
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呈貢老街と街道楼閣「魁閣」、呈貢文化広場
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呈貢古城エリカから、帰化県城(呈貢区化古城村)跡地までバス移動する(50分、3元)
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世界の果てまで来たような錯覚にとらわれた、バス終点「化城南口」
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(帰化県城)化古城村マップ
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穿心閣 ~ 化古城村のメインストリート
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帰古書院など、土壁木造の古民家群を視察する
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城内水路と思わしく側溝が旧市街地に張り巡らされていた
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帰路でも飽きさせてくれない、古民家群に興奮が収まらなかった!
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【豆知識】化古城村 ■■■
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化古城村から白タクで晋城鎮(晋寧州城、滇池県城の古城地区)へ移動する(25分、50元)
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【豆知識】呈貢区の 歴史 ■■■
投宿した
昆明市中心部(五華区)
のホテルを出発後、地下鉄「
交三橋駅
」から 1号線に乗って南下し(5元)、斗南駅で下車する(約 25分)。
下写真は、電車内から滇池一帯を眺めたもの。高架線路の高さが微妙で湖はギリギリ見えない。
高架線路と並行して西側を走るのは、彩雲中路。
斗南駅を後にすると、この彩雲中路沿いのバス停から、路線バスに乗り換える。
しかし最初、この片道 6車線にもなる大通りを渡って、反対車線側へ移動するポイントが分からなかった(下写真左)。
ようやく、正面に見える興呈路との交差点に横断歩道を発見できた(下写真右)。
この バス停「斗南地鉄駅」のバス停からは、215番、C7番、12番路線バスなど、複数の路線バスが呈貢古城地区を通過しており、数分内に常に複数のバスが発着していた。
C7番路線バスに適当に乗車すると(2元)、そのままバスは彩雲北路を右折し、興呈路(国道 213号線)を 6分ほどドライブすると、順番に「北門街口」、「興呈路口」、「呈貢」「呈貢広場」のバス停に停車していく。これら 4停留所のどこでも下車すれば、その東側一帯が古城地区となっている。
筆者は 2つ目の「興呈路口」で下車した(
下写真左
)。
ちょうどバス停脇で、若い母親が赤ん坊をおんぶして歩いている様子が目に飛び込んできた(下写真右)。一般的に日本で見られるような股を開けた状態ではなく、まっすぐ足を下へ垂らした状態でおんぶされており、子供は窮屈に感じないのだろうか。。。と不思議に思ってしまった。また、背負う方も力学的に、遠心力が働き、余計に重く感じないだろうか??
この背負い方は、この日、街角の至る所で目にすることになり、どうやら昆明南部では一般的な方法らしかった。
興呈路(国道 213号線)の大通りを渡って、正面に見えた西門街から呈貢県城の古城エリアへ入り込むことにした。
なお
、この道路横断の際にも実感したのだが、昆明市やその周辺では自動車やバイクが歩行者の道路横断を優先して停車&徐行してくれる気風があったのには驚かされた。中国の他都市と違い、歩行者に優しい土地柄だったので、大通りの道路も渡りやすかった。こうした温和な道路事情のためか、バス運転手もかなりの数、女性が従事していたのが印象的だった。
さて
、いよいよ西門街から路地を東進し、古城地区(城内村)の南北メインストリートである北門街を目指す(下写真左)。この途中に、かつて西門が設置されていた。
西門街は急に狭い路地となっていく(下写真右)。
北門街に至ると、まずは古城最北端を確認すべく、北へと進路をとった。木造土壁の古民家が立ち並ぶ通りで、とても趣深かった。
下写真左は、北門街沿いから三台山へと通じる山道。路肩には、石材が無造作に山積みされており、古城時代の城壁資材の一部だろうか。。。などと妄想してしまった。
土壁の古民家路地を抜けていくと、急に前方に真新しい鉄筋コンクリート製の中国伝統建築群が姿を現し出した(下写真左)。
地元政府の肝いりで新開発された観光案内所や商店、芸術館などが入居する「予定」のエリアだったが、実際にはすべて空洞で(下写真右)、大陸中国でよく目にするバブル物件と同類だった。
この新開発エリア前の北門街は、異様に広い道路兼駐車スペースとして整備されていた(下写真左)。この辺りに、かつて北門が設置されていたわけである。この先を下っていくと、バス停「北門街口」へと通じることになる。
その後方には三台山が控え、長い階段が山頂へと続いていた(
下写真右
)。古城時代、北面城壁はこの山頂から斜面に沿って建造されていたのだった。
とりあえず登頂してみると、山頂には 五重塔「東驤閣」が鎮座していた(下写真)。
また、山頂広場はきれいに整備されており、複数の池まで設置され、亀が日向ぼっこしていた。
山頂から滇池を臨む(下写真)。かつては、もっと面積が大きく、湖岸が眼前まで接近していた。
最高海抜 1,954.3 mの山岳地帯の西端部分に相当する。元々は切り立った壁面などを有し、伝説の鳥・鳳凰のような神秘に満ちた地形だったことから、古くより鳯岭松峦の名所として、特に明代、清代に多くの人々が登山したという。
明代の著名な歴史家&文学家として知られる 李贄(1527~1602年。福建省泉州市出身)が雲南省下の姚安県長官として現地赴任した際、この三台山を登った記録が残されており、滇池の眺めを愛でている。
当時、山中には三台寺という道教寺院があり、近隣一帯で厚い信仰を受けていたという。しかし、清代後期の 1857年に太平天国の乱が勃発し、三台寺も兵火に巻き込まれて焼失されてしまう。
直後から 1885年にかけて再建工事が進められるも、中華民国時代以降、修繕工事も放棄され荒れ放題となり、1953年に廃寺となる。文化大革命時代の 1958~1961年の 3年間で、三台山の森林は一切が伐採され、1965年には完全にはげ山となってしまったという。
1966年以降はこのはげ山が開拓されて食糧増産が進められるも、ある時、暴風雨の直撃を受け、すべて土砂となって北門街の麓まで流れ落ちてしまったという。そのまま三台山は放棄されてしまう。
1984年1月に呈貢区政府により、三台山公園の整備が決定され、植林作業などを経て、現在のような緑豊かな山上公園へと生まれ変わったのだった。
そのまま
下山し、再び北門街を南下し、西門街へ戻る。
下写真は、西門街入口から北門街の北側を臨んだもの。
下写真は、西門街入口から南側を臨んだもの。この三差路から北門街は南門街へと名称が変わる(下写真右)。このまま直進すると、先ほどの 自動車道「興呈路(G 213)」につながり、バス停「呈貢」に至るわけだ。
この西門街からやや南下すると、別の三差路があり、東へ龍城街が延びている(下写真左)。龍城街を道沿いに進むと、環城南路に出た(
下写真右
)。かつて東面城壁が連なっていた通りである。
さらに環城南路を北上していくと、東門坡と東門街との交差点に到達した(下写真)。
下写真左は、東門坡から交差点エリアを眺めたもの。かつて東門が立地した場所だ。
下写真右は、この東門があった交差点から東門坡の坂道を見上げたもの。三台山へと通じる緩やかな丘陵斜面がずっと先まで続いていた。
この東門坡の斜面上を東面城壁が連なっていたわけで、古城は後方の三台山の南半分を取り込む形で斜面上に立地していたことがよく分かるポイントだった。
なお現在、すべての城壁、城門が撤去されてしまっており、往時の記憶は路地名や地名からその名残をたどらねばならなかった。また、現在の呈貢区には郷土博物館自体がなく、東の町はずれ(小新册村)に農耕博物館が立地するのみである。特に訪問する必要はないかと思い、今回、この古城エリアのみに専念することにした。
さて
、東門街を通って、再び古城地区(城内村)へと入り込むことにした(下写真)。
この東門街が東西南北の城内路地の中で、最も蛇行の激しい通りだった。
また既にコンクリート家屋に改修された住宅が多い印象だった。
しかし、東門街からさらに枝葉に分かれる細かい路地には、まだまだ古城時代の面影が所々に残されていた。住宅街に通る側溝は、かつての城内水路の名残だろうか(下写真右)。
東門街の西端の交差点付近に、呈貢文廟(呈貢孔子書院)が立地しており、真新しい長い塀で囲まれていた(下写真左)。
文廟が最初に建立されたのは、明代の 1383年に【二代目】呈貢県城が新築された際、旧城側(現在の 呈貢区古城社区)で空き家となった旧県役所跡地だったという。そして、1492年に 新城側(今の 呈貢区城内村)の北門街沿いに移転され、続いて 1515年、現在地に再移転されて以降、呈貢県下の役人子弟の教育や一般庶民らの儒教祭典、また科挙試験会場となるなど、当地の人々にとって切ってもきれない施設であり続けたのだった。幾度もの兵火を経て、都度、再建と修復が手掛けられたという。
1993年に呈貢区指定の歴史遺産に、2011年1月には昆明市指定の史跡へと昇格される。現在の真新しい文廟は 2010年に修復されたものという。
なお、この呈貢文廟の裏手の三台路沿いに、中国の著名女流作家の 謝冰心(1900~1999年)一家が、1938年~1945年の日中戦争期間中に仮住まいした旧家が残されている(一時期、重慶にも滞在するなど、四川省、雲南省を転々と避難していた)。戦後の 1946~1951年には日本に滞在し、東京大学の非常勤講師として中国文学を教えている。
さて
、そのまま東門街を西進すると、先ほどの龍城街を経て南門街との交差点に戻る(上写真右)。
続いて、南門街を南下し(上写真)、興呈路に至る。古城地区(城内村)では、この南門街が最も華やかなショッピングストリートとなっていた。
続いて
、大通りの興呈路(国道 213号線)を渡って、南側に広がる 古城社区(上古城村と下古城村)の一帯を散策してみた。前漢時代~明代初期まで城塞集落(【初代】呈貢県城、伽宗城、呈貢千戸城)が設置されていた地区である。
しかし、現在は何の変哲もないコンクリートジャングルの住宅地区となっており、全く古城時代の面影を目にすることはできなかった。わずかに、古城小学や古城社区、東橋路などの地名にその名残が刻まれている程度だった(下写真左)。
筆者は、まず福香路沿いを西進し(上写真左)、上古城村の散策をスタートした。すると、先ほどと同じく、直立不動スタイルで幼児を背負う地元民とすれ違った(上写真右)。
途中、ようやく木造土壁の古民家を発見する(下写真左)。この新興住宅地区にあって、目にした古民家はこれが最初で最後だった。
なお
、この福香路を西進中に、南側にコンクリート家屋の隙間から呈貢区古城小学の長い塀が見え、その校庭内に建つ 3階建ての楼閣「魁閣」が見え隠れした。
これは清代中期の 1818年に建立された旧市街地内の路地楼閣で、清末に破却された後、1922年に再建されたものという(現存する楼閣は 2003年に復元)。
魁閣に接近しようと魁閣西路を南下すると、その先にあった 屋外市場(上写真右)に目を取られている間に魁閣南路を通り過ぎてしまった。。。気が付くと、古銀路に至る(下写真)。
この古銀路を西へ少し進んだところに、費孝通(1910~2005年。清華大学、雲南大学などの教授を歴任。社会学者・人類学者。日中戦争時代に当地へ疎開し、先の魁閣を借りて研究室としていたという)の旧住居跡があったらしいが、下準備不足で訪問できずじまいだった。
再び、興呈路(国道 213号線)に戻るべく、古銀路を東進する。興呈路に近づくにつれ繁華街が広がるようになり、特に集市街には巨大な屋外ショップ街が連なり(上写真左)、さすが大陸中国の規模を見せつけられた印象だった。
そして、この古銀路の南側が「呈貢老街」といい、昭和の香りが漂う古い集合マーケットの建物となっていた(上写真右)。「上」古城村と「下」古城村の区分けは、ここを基点とされていた。
さて、興呈路との交差点に行き着くと、広い呈貢文化広場があった。広場内では、地元民たちがダンスや将棋、たそがれに興じていた。
高齢・中年女性たちが日常的に民族衣装を着ている様を目にするにつけ、都度、感動した次第である(上写真)。
そして
続いて
、旧帰化県城跡(呈貢区馬金鋪街道下の化古城村)を訪問すべく、興呈路沿いのバス停「呈貢広場」から(下写真左)、D34 路線バスに乗車する(3元)。
10人乗りぐらいの小型車両だったが、内部は真新しかった(下写真右)。
C5路線バスとほぼ同じルートをたどり(下写真)、終点「化城南口」まで移動した(約 50分)。思ったよりも距離があり、呈貢区の広大さを見せつけられたルートだった。
特に後半のルートは内容が濃く、軍駐屯基地(呈貢体訓基地東)の脇を通過する段では、兵士らの野外訓練場を間近に見ることができた。2~3階建ての建物を占拠する守備、攻撃訓練ができる本格的な実物設備にはびっくりさせられた。
この軍駐屯基地を過ぎると、いよいよ田舎道を疾走していくこととなる。
大漁村、小海晏、常楽村、白馬路、石城村、金馬舗村など、すごいローカルな村落を通過する段に至ると、このバスはいったいどこへ行くのか不安一杯になったが、車窓から見える古民家群は非常に見応えがあった。時間と気持ちに余裕があれば途中下車もしたかったが、次に何時に路線バスが通過するか分からない中で、その勇気が出せなかった。
これらの集落地を過ぎると、進行方向に工事中の高速鉄道の線路が見えてくる。また、周辺一帯には開発中のマンション群があちこちに姿をさらしており、その見慣れた都市風景で安心させられたぐらいだった。
終点「
化城南口
」はこの建設途中の高速鉄道「化城駅」の斜め下にあった(下写真)。乗車時間 50分の、内容満点過ぎるドライブ・ルートだった。久しぶりに大満足のバス路線だったと思う。
上写真左は、終点「化城南口」にあったバス案内板。
終点附近には、たくさんの三輪タクシーが停車して客待ちしていた(上写真右)。
筆者は古城地区がどの辺りかさっぱり把握できていなかったので、近くにいた女性ドライバーの三輪タクシーに、下調べしていた「穿心閣」の写真を見せて、ここに連れて行ってほしいと伝える。
女性運転手は 5元との即答だったので、すぐに飛び乗った(
上写真左
)。5分弱のドライブで到着できた。
しかし、この 古城地区(呈貢区馬金鋪街道化古城村)内部は未舗装のガタガタ道で、自転車や三輪タクシーには困難を極めるルートだった。
そして、穿心閣が建つメインストリートで下車する(
下写真
)。
到着した瞬間、その異空間ぶりに圧倒された。まさにタイムスリップしたような感覚にとらわれる。時代劇撮影のために作られたものではなく、往時のまま時空を超えて生き残った原風景だからこその味わいに包まれていた。
それにしても、デコボコの砂利と石畳(徒歩では感じないが、乗り物に乗ると強烈に感じた)、そして木造土壁の古民家群と古めかしい楼閣が織りなす光景は、まさに筆舌に尽くしがたい貴重さを漂わせていた。
つい 2時間ほど前に訪問していた、【二代目】呈貢県城跡の北門街に新開発されていた古民家風ストリートとは雲泥の差であった。
木造建ての穿心閣は内部に至っても、建築美が見事だった(下写真)。
1階部分は、四方が通路として開放されており、古城時代の建築サンプルとして非常に参考になる。明代、清代にはこのような楼閣が町中に複数、設けられていたことだろう。
筆者の見学中、穿心閣の下でずっと座って佇む地元の高齢男性がいた(上写真)。時代から取り残されたような伝統美を誇る穿心閣とのマッチ具合がたまらなかった。
その穿心閣のやや脇に古井戸が残されていた(下写真左)。深さは 2mもない浅さで、こんな乾燥した土地のすぐ地下には、豊富な水脈が通っていることが分かる。まだ現役で使用されている様子だった。
下写真右は、メインストリートの裏手側から穿心閣を見たもの。
続いて
、旧市街地一帯を散策してみることにした。木造土壁の古民家がたくさん現存し、かつ、普通に住民らの住居として現役であった。下写真右の古民家前には、薪がたくさん積まれていた。
すぐ北側には、帰古書院があったが、入口門はカギが閉まっており、中の文廟を見学できなかった(下写真左)。その真新しすぎる復元ぶりは、周囲とのギャップがあり過ぎて非常に残念だった(下写真右)。
これら土壁の古民家群は、この乾燥した気候に守られて、今日までその多数を存続させることができたのだろう。所々に見られる石材は、古城壁の資材が転用されたものだろうか。
なお、集落地内には網の目のように側溝が張り巡らされており、かつての城内水路の名残りかと妄想してみた。
古城地区の北半分をぐるりと巡って、穿心閣のメインストリートの反対側に出てきた(
下写真
)。やはり側溝が設けられていた。
側溝はそのまま旧市街地の郊外へと続いていた(下写真左)。ますます深さを増し、畑が一面に広がる城外に至ると、その用水路となっていくようだった(下写真右)。
さて
、再びメインストリートを穿心閣まで戻り、正面側へ出る(下写真)。古い商店街となっており、この化古城村にあって、ここにだけ数軒の店舗が営業していた(他はすべて住宅地だった)。穿心閣すぐ脇の店舗内には毛沢東像が架けられていた(下写真右)。
往路の三輪タクシーで来た道を、そのまま徒歩で戻ることにした。
なお、古民家の土壁であるが、相当な厚さがあることが分かる(下写真左)。
途中、やや北側に公共トイレがあったので、二階にあった男子トレイを使う。手洗い用の水道も壊れ、水という水は全くなかった。
そのまま集落地の入口まで戻ってこれた(下写真)。
この付近には放置されたままの古民家が複数あり、とてもいい味を出していた(上写真右&下写真)。
化古城村
昆明市呈貢区馬金鋪街道小菅村にある「老村化城」は、明代末期から清代前期にかけて帰化県城があった場所だが、長い年月を経て寂れてしまい、現在の居住人口は 3,566人程度と、過疎が進む田舎集落となっている。
目下、昆明市政府が指定する 25の歴史地区の一角をなし、その人口と面積は極めて小規模だが、集落地の中央部には未だ古民家建築群が数多く現存しており、特に 穿心閣、天王廟、文廟、城隍廟、土主廟と大佛寺などは 100年前の姿をそのままにとどめる貴重な歴史遺産となっている。
特に、古城地区のシンボルとなっている穿心閣は、清末の 1879年、帰化県下の 24村の村民らが寄付金を出し合い建立した、正方形(床面積 縦 10.2 m、横 9.8 mの 99.96 m2)の楼閣となっている。ちょうど化城老街の中央部に建設され、閣内には粘土で作られた魁星神像が安置されたため、魁星閣とも別称される。楼閣の高さは 18 mを誇り、主閣部分は三重構造で、四角には尖った木製のデザインが施され、屋根にはすべて琉璃瓦が敷かれている。また、楼閣下には四方に通路が設けられ、車、馬、人が自由に往来できるように工夫されていた。
今日、この穿心閣は昆明市政府により史跡指定を受け、保護対象とされている。
大満足
の古城地区散策の後、その興奮の余韻に浸りながら、建設途中の高速鉄道の線路高架下まで戻ってきた(下写真)。
先ほどのバス停まで移動の間、ここからさらに南下して
晋寧区晋城鎮
へ移動する方策を練っていたときに、バス停前で白タク運転手がちょうど話しかけてきたので、晋城鎮までの値段を問うと、高速道路(片道 4元。富有の料金所で降りる)も通るし、合計 50元でどうだ、というオファ―だったので、二つ返事で OK した。
ここから高速道路を使って、25分のドライブで
晋城鎮
へと向かった。
【
呈貢区の 歴史
】
今から 3万年以上前の旧石器時代、すでに龍潭山一帯で古代人類の集落地の存在が確認されているという。
春秋戦国時代の紀元前 279年、楚国の皇族末裔を自称し朝廷を牛耳った大将軍の庄蹻が、大部隊を率いて長江を遡り、四川省を経て滇池地区に進駐すると、紀元前 277年、古滇王国が建国される。
王国の王都が現在の
晋寧区晋城鎮
に開設されたため、その近郊の 平原エリア(今の呈貢区を含む)の土地開墾や港町の発展が急速に進むこととなった。一帯は、楚文化と滇文化との融合が大いに進み、青銅文化を主軸とした古滇国の最先端地区を形成していったわけである。あわせて、王国にまつわる多くの伝説や伝承もこのエリアで誕生したと考えられている。下地図。
時は下って、前漢時代の紀元前 109年、第 7代目皇帝・武帝が派兵した遠征軍により古滇国が降伏に追い込まれると、前漢朝廷は中央集権体制の導入を図り、益州郡を新設する(郡都は
滇池県城 ー 古滇国の旧王都跡地。現在の 昆明市晋寧区晋城鎮
)。
このとき、同時に設置された
谷昌県(今の 昆明市官渡区
。滇国の配下にいた地元部族長の谷昌王から命名されたという)が、滇池の 東岸一帯(今の 呈貢区を含む)を統括した。下地図。
同時期、現在の呈貢区古城社区に呈貢鎮が新設される。
以降、南北朝時代末まで、この谷昌県下の呈貢鎮として踏襲されるも、その上級行政機関には度々、変更が加えられる。三国時代の 225年には新設の建寧郡下に、西晋朝時代の 303年には再び益州郡下に、そして東晋朝時代には晋寧郡下に属した。
最終的に南朝・梁王朝の末期、谷昌県が廃止されると、新たに
益寧県(今の 昆明市五華区西山区西山風景区
)が築城され、これに統括された。
隋代、唐代も、そのまま昆州下の
益寧県(今の 昆明市五華区西山区西山風景区
)に属した(昆州はその他に、
晋寧県
、
安寧県
、
秦臧県
の 4県を統括した)。
南詔国、および大理国の統治時代、前漢時代からの呈貢鎮の 城塞集落(今の 呈貢区古城社区)は、伽宗部(伽宗城)と呼ばれ三十七部の一角を成し(下地図)、割拠した彝族の一派の中心拠点として栄えた(
善闡府
に帰属)。
伝説によると、738年に唐朝により雲南王に冊封され南詔国(王都は
雲南省大理市
)を建国した 皮羅閣(697~748年)が、滇池エリア(現在の 雲南省昆明市一帯)にまで勢力を伸長し、この地方の彝族らも傘下に加える。その後、さらに南征し南の蛮夷らを征服した際、この地の彝族から戦勝の奉納品が納められたことを記念し、「呈貢鎮(現在の呈貢区古城社区)」と呼ばれるようになり、「呈貢鎮城」と命名されたという。
また別説では、地元部族・彝語で「稲作の盛んな水辺の平原エリア」を意味する、「扯過」もしくは「紫谷」と呼称されたエリアだったため、その発音に近い漢字が当てられた、とも指摘される。
続く 大理国(938~1253年)、名門一族として名を馳せた高氏の 当主・高智昇(1030?~1090年?)が 1080年に国王誅殺事件を起こした楊義貞を討伐し、すぐに段寿輝を国王に即位させて朝廷の混乱を収めた功績により、翌 1081年、鄯闡侯に封じられ滇池湖畔エリアに赴任すると、地元族長の伽宗の地元統治を追認する。直後に、もともとあった 呈貢鎮城(現在の 呈貢区古城社区)を大規模改修して、土壁による城塞建造を指示し、以降、伽宗城と通称されることとなった。
時は下って 1254年、モンゴル軍が大理国を滅ぼすと、1256年に伽宗城が呈貢千戸所へ改編され、引き続き、
善闡万戸府(1270年に善闡路へ、最終的に 1276年、中慶路へ改編。今の 昆明市五華区
)に帰属された。
この時代、呈貢城、詔營城、切龍城、雌甸城、塔羅城、羅忽城、安江城、安棚城、大呉龍城 と 烏納山区(今の 昆明市宜良県烏納村)を統括した。
1275年には 呈貢城、詔營城、切龍城、雌甸城、塔羅城、羅忽城の 6城、及び、烏納山区(今の 昆明市宜良県烏納村)の分離が決定され、翌 1276年、呈貢県(現在の 呈貢区古城社区)が新設される。中慶路下の
晋寧州(今の 昆明市晋寧区晋城鎮
)に属した。
なお、同時にもともと旧・呈貢千戸所が統括していた南部地区が分離され、帰化県が新設されると、県域は大幅に縮小されることとなる。
間もなく、呈貢県は晟貢県へ改称される。
明代初期の 1383年、晟貢県が呈貢県へ戻されると、4里を統括した(上地図)。同時に、旧呈貢県(伽宗城)は老朽化が激しかったため、その北側に新たに県城が築城されることとなる。これが、現在の呈貢区城内村の古城地区というわけである。
清代初期の 1668年、帰化県が廃止されると、統括していた 2里が 呈貢県(今の 呈貢区城内村)へ吸収される(上地図)。同時期、里制度が廃止され、郷へ改称される。
1727年、呈貢県一帯は雲南府下の
晋寧州(今の 昆明市晋寧区晋城鎮)
に属することとなる。
中華民国時代、呈貢県は雲南省に直轄された。
共産党中国時代の初期まで、南側の
玉溪市
に帰属されるも、1965年から
昆明市
に移籍され、その市街区の一つとして、今日に至っている。
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