BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 汕頭市 潮陽区 ~ 区内人口 182万人、 一人当たり GDP 32,000 元(市全体)


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  高速鉄道駅「潮陽駅」から、307番路線バスで 潮陽区中心部へ(10元、40分)
  唐末に潮州長官に左遷されていた韓愈 と 潮陽県城、霊山寺のエピソード
  潮陽区の シンボル・文光塔 と 歴史博物館
  文光公園にあった、県城時代の 9井戸の 一角「塔館古井戸」と 映画スター「蔡楚生」胸像
  護城河 と 東面城壁跡地
  県城時代の 9井戸の 一角「甘泉廟井戸」と 姚宗侠公園(在タイ華僑財閥の総帥 紀念公園)
  南門跡地 と 古城マップ
  亭脚路から西門跡地へ ~ 南宋時代の 理気二元論(朱子学)を講じた 学問所跡「孔安堂」
  西門城壁跡地(西環城路) と 城壁遺構
  西園 ~ 清末・中華民国時代を彷彿とさせる モダン庭園
  市内でも至る所で見かけた 祖廟と神木 ~ 西環城路沿いから
  東門跡地 ~ 中山西路 と 東門橋
  双氏忠祠 ~ 唐代後期、安史の乱で奮戦した 張巡と許遠への熱烈な信仰 と 愛国教育
  北門跡地 ~ 中華路 と 城北一路(西環城路)の交差点
  路線バスで 汕頭市中心部(金平区)へ(10元、30分)
  【豆知識】初代・潮陽県城(潮陽区銅盂鎮桶盤村の臨昆山の南面山麓)■■■
  【豆知識】二代目・潮陽県城 ■■■
  海門鎮(千戸城跡。北門、東門、城関郷などの地名あり)と 海門古砲台



深圳北駅 から高速鉄道に乗車し、2時間弱で 潮陽駅 に到着した。
本当は直接、潮州市(湘橋区)へ向かうつもりだったので、潮汕駅まで買うべきだったが、駅名を間違えてしまったらしい。ここから追加で乗車券を買うと、9元という。

そのまま乗車券を買い直して、15分後にくる高速鉄道で次の潮汕駅まで移動することもできたが、せっかくの潮陽駅 下車なので地元の路線バスで潮陽市街地まで移動してみることにした(307番路線バス、10元)。下写真。

潮陽区 潮陽区

それにしても、潮陽駅はかなりの小型の田舎駅っぷりだった。
また、地元路線バスもかなり旧式のバスを使っていた(上写真左)。汕頭市の下部行政区である潮陽区が運営するローカル路線バスで、二級、三級レベルの行政区に見られるようなバスだったが、海岸沿いにあり、かつては潮州三陽の一角を成した潮陽区自体はそんなに経済的に貧しい地区ではないはずだが。。。。
実際、高速鉄道駅から 市街地(潮陽汽車客運バスターミナル前。下写真)までの 40分間のドライブでは、相当な 田舎町(広東省特有の古民家集落)と工場群をいくつも通過することとなった。
鉄道駅では満杯だった乗客も、途中下車を重ね、この下車ポイントに至る頃には 3分の 1ぐらいになっていた。

潮陽区

なお、省道 S 237号線(途中から国道 G 324号線と合体する)を南下途中に、霊山寺(汕頭市潮陽区銅盂鎮龍山湾)というバス停を通り過ぎた。


この霊山寺は、潮陽市の北西約 25 kmにある 幽峰(塔口山)の山麓に立地する古刹で、恵能大師の三代目の弟子という 大顛禅師(732~824年)が唐代後期の 791年に 禅寺「霊山禅院」を開山したことに由来するという。地元大富豪の洪圭が多額の寄付で援助したとされる。

819年の 7~8か月間、皇帝の怒りを買ったことから中央朝廷内部の刑部侍郎職から潮州長官に左遷されていた 韓愈(51歳) は度々、大顛禅師(88歳)と親交を持ち、一度、当地にも足を運んだことが記録されている。

この彼の個人的訪問に関係してか、この年、韓愈は潮陽県の県役所を現在の潮陽市 中心部(旧称は棉城鎮)へ移転させ、県城を築城することとなる。
それまでの潮陽県城は、今の潮陽区銅盂鎮桶盤村の臨昆山の 南面山麓(現在の会魁第、老寨あたり)に 立地しており、この 307路線バスから バス停「銅盂口」で下車し、興富東路を西へ 3 kmほどの 距離にあった。

潮陽区


そして、バスを下車した潮陽汽車客運バスターミナル前ではバイクタクシーが待ち構えていたので、「博物館へ行く」と伝えると、6元だった。 5分もかからず到着する。
14:00過ぎに博物館前に到着すると、12:00~14:30まで昼休みということで、博物館は閉館中だった。仕方ないので、ちょうど真横にあった文光塔を訪問する(下写真)。

潮陽区

この市街地のど真ん中にそびえ立つ 文光塔(八角形、7階建て。高さ 42.86 m。内部にらせん状に設置された石階段 122段で最上階まで登れる。現在は閉鎖中)は、南宋時代初期の 1131年に建立されるも、間もなく崩落する(当初、千佛塔と通称された)。そして南宋末期の 1266年に仏僧の趙汝箎によって再建され、以後、時代を経る中で幾度も建て替えられてきたという(明朝末期の 1635年に大々的に再建されるも、清代初期の 1689年に落雷で倒壊し 1815年に再々建、日中戦争から内戦期間中に倒壊していたものを、共産党政権成立直後の 1949年に修築、など)。宋代、明代の建築スタイルも部分的に残す研究価値の高い歴史遺産とされ、 1989年に広東省指定の、2013年に中央政府指定の歴史遺産に登録される。

文光公園内 には潮陽県に関する歴史解説パネルも並べられており、ちょっとした歴史文化公園となっていた。 園内には、中華民国時代の映画スター・蔡蘇生の胸像や 古井戸(現在、水面まで 3 mほどで、今も水が豊富にあった)が保存されていたが(下写真)、どちらかというと、だらーっと座り込んで話込んでいる地元の老若男女の姿の方へ目が行ってしまった。

潮陽区 潮陽区



 塔館古井戸
南宋末期の 1266年、仏僧の趙汝箎が倒壊していた 千佛塔(今の文光塔)を再建した際、その脇に 千佛塔堂(宝光寺)を建立する。その際、この場所に井戸が掘削され、寺の僧侶らの飲料用に供されたという。千佛塔を建てる際、地盤が均衡でなかったため、この位置に井戸が掘削されたとも伝承される。
時は下って明代の 1510年ごろ、塔堂は府館へ改称され、地元では塔館と通称されていくこととなる。その背景から、現在までこの井戸は塔館井戸と通称されてきたという。
県城時代、城内には 9箇所の井戸があり、その中でもこの井戸の水は健康長寿のご利益があるということで地元で重宝され、1983年まで地元民らの飲料水として利用されていたそうだ。
今でも井戸の水深は 12 mあり、周囲は八角形にデザインされ花崗岩で石積みされている(高さ 0.6 m、内部の直径 0.58 m)。

 蔡楚生(1906~1968年)
本名を蔡通といい、上海 で生まれた後、6歳のときに父母の郷里である 潮陽県神仙里新厝定居に移住する(1912年)。ここで、6年間過ごした後、1918年、父の親族が出資する汕頭市内にあった雑貨店に丁稚奉公に出される(12歳)。
そして、1925年、汕頭市内で地元青年団と共に劇団を創設し、潮汕族のツテで 1926年に上海へ進出すると、ここで本格的に映画会社に勤めることとなる。以後、主演や助演などで俳優業にまい進し、「一江春水向東流」、「漁光曲」、「姊妹花」、「都会的早晨」などの名作に出演して、その名声は大陸中国を越え、全世界に知られるようになる。
その後、国共内戦時代の末期に 香港 へ避難するも、共産党政権から招待を受け、大陸中国に戻ると 中央政府文化部電影局芸術委員会主任や中国電影聯誼会主席、中国電影家協会主席、中国文聯副主席などの要職を歴任する。しかし、文化大革命がはじまると「牛鬼蛇神」のレッテルを貼られて苛烈な批判にさらされ、1968年に妻や愛人らとともに自殺に追い込まれる(62歳)。



その東横には 護城河 が流れていた。
その脇の道路は東環城路といい、つまりは東面城壁と外堀の跡、ということになる。文光塔公園の脇にあるから塔脚橋という名前なのだろう。 下写真左は、橋上から北側を撮影したもの(左上端のオレンジ色の建物は 7天酒店)。下写真右は橋の南側。この川沿いに、かつて長大な東面城壁が連なっていたわけである。

潮陽区 潮陽区

さて再び、文光塔前まで戻って、中華路を少し南へ散策してみると、古井戸 が保存されていた(下写真の右下)。甘泉廟井戸といい、潮陽県城内にあった 9箇所の井戸の一つという。まだまだ豊富に水をたたえていた。
その古井戸の脇には、1000年古刹という廟所があった。なんか市街地の至る所に廟所や祠堂を保存している 台湾 の町中の風景とよく似ている印象を受けた。潮汕地区は 広東省 というよりも、福建省 の風習が大いに絡んでいるようだった。

潮陽区

その南側には姚宗侠公園があり、巨大な孔子像が建てられていた(下写真左の右下)。向かいの中学校は「姚宗侠学校」という巨大な額縁が飾られていた(下写真右)。

潮陽区 潮陽区


この姚宗侠公園と姚宗侠学校は、当地に莫大な寄付を行った在タイ華僑の 大富豪・姚宗侠を紀念して命名されている。
姚宗侠学校は、もともと私立保元学校として 1930年代に創設され、1954年に鎮六小学へと改称される。1996年春、在タイ華僑で大財閥の総帥となっていた姚宗侠がその母港である鎮六小学に 1,250万元もの寄付を行い、新しい学校校舎や教育資金を提供したのだった。

なお、姚宗侠は 1928年9月生まれで、棉城平和東学校や城厢第二中心学校で教鞭をとった後、タイヘ移住し、泰京公立培中学校で教鞭をとる。その後、1年で教職を辞めて事業家へ転身し、以後、自動車販売から 酒業、不動産、紡績業などへビジネスを拡大し大いに成功する。現在は、タイ中華総商会の永久名誉顧問であり、またタイ潮州会館の名誉主席などを兼任し、タイ華僑社会の重鎮として君臨している。



このまま 中華路をずっと南へ進むと、円形ローターリーになっているところがあり、かつての南門が立地した場所である(下地図)。付近の路地名や 地名(南中路、南関市場、城南公園など)にその名残りが残されていた。
その他、西環城路、銀行西門分店、西門大酒店、西関路、城西一路、城北一路、水門路、北関路、東山公園、東門橋 などの地名から、東西南北のだいたいの城郭規模を把握することができる。下地図。

潮陽区

さて再度、中華路を北上し文光塔前の交差点まで戻ると(下写真)、今度は西側へやや坂道を上る形となる亭脚路の入り口あたりを散策してみた。あわせて、横の劇場広場も一周、見て回った。

潮陽区

と 14:25に博物館の門が開いていたので(下写真左)、中に入ってみた。少し早めだが閲覧OKということで、早速 1F部分から散策してみる。ここは、共産党中国が潮陽県に入城してから、干潟の埋め立てや水利事業などで潮陽区の発展を支えた輝かしいエピソードの活動史が、古写真パネルで紹介されていた。

そして、2F部分が潮陽区 1000年の歴史展示だった。新石器時代の古代から、県城の歴史と、地元出身の 英雄紹介、倭寇 や 日本軍侵攻、華僑の活躍などがコンパクトに解説されていた。

潮陽区 潮陽区

さて博物館見学後、しばらく古城地区を散策してみることにした。
先ほどの続きで、劇場広場の南隣の亭脚路の坂道を西へと進んでみた(上写真右は、坂上から博物館側の坂下を眺めたもの。かなり緩やかな斜面だった)。すると星河書城という大きな本屋の前にバス停「孔安堂」があり、その横に派手な装飾デザインと旗指物が乱舞する廟所が忽然と姿を現す(下写真)。何か由緒ありそうな廟所が、普通に街中に混在して祀られている様は、まさに台湾の街並みそのものだった。
ここが、汕頭市指定の 歴史遺産「孔安堂」だった。下写真。

潮陽区


2005年に汕頭市政府により歴史遺産指定を受けた孔安堂であるが、潮汕エリアで唯一、当時の場所で継承されてきた南宋時代の 理学(新儒学)学問所(進堂)跡という(敷地総面積は 2000 m2、建築物 840 m2)。

南宋時代初期の 1150年代、朱熹(1130~1200年)は多くの論派に 分かれていた儒学を一つにまとめるべく、理気二元論を提唱する。当時、その生涯を 理学(新儒学)研究と執筆に捧げた彼の影響は絶大で、1156年7月に潮州まで遊説に 訪れると、多くの弟子を抱えることとなったという。この中に、潮陽県 出身の鄭南昇と 掲陽県 出身の郭叔雲も含まれていた。両名はその熱心さから、1190年代前半に朱熹の上級弟子 として認められると、そのまま地元で弟子の育成に励むこととなる。その弟子の一人が、地元の名士で教育家だった鄭開で、自身も潮陽県城の西門のすぐ内側に学問所を創設する。 これが地元では、孔安堂と通称されることとなったわけである。
南宋末期の 1250年代に鄭開の子である 鄭慈珍(知夔州府正堂兼軍州事を歴任)が父の建てた孔安堂をさらに拡張させ、青龍門と白虎門という二門を有する巨大な 邸宅(鄭氏礼房祠)に作り直し、引き続き、そのまま学問所として開放する。

明代初期、潮陽県城の城壁が大規模に改修 された際、同時に孔安堂にも修繕工事が施されたという記録が残る。1510年ごろには郷校の校舎として利用されていたという。清朝が 1669年に海岸エリアの住民らに対し強制移住政策を実施すると、この鄭氏始祖祠を兼ねた学問所も清兵によって一度、破却されてしまう。このとき、一族の者によって鄭氏歴代禄位が持ち出され、きとんと保管されたため、潮陽県城へ住民らが復帰すると改めて孔安堂内に奉納される。こうして引き続き、鄭氏の祖先廟を兼ねたことから、孔安堂は青龍門鄭氏祖祠とも別称される。



そして、その脇の円形ロータリー部分が、かつて西門が立地した場所である。下写真。

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そのまま西環城路を北上してみる。この西側は段差となっており、何やら趣深い石積みの階段が敷かれていた(下写真)。その後方には廃墟となった古民家群がとり残されていた。

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この段差が、かつての県城の西面城壁とその外堀跡という。現在、潮陽県城の唯一の城郭遺構とされる。

潮陽区

そして、この西環城路沿いに、清末・中華民国時代を彷彿とさせるモダンな門構えの西園があった(下写真 中央右)。筆者の訪問時、内部は閉鎖され、廃墟となるままだった。

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地元富豪の蕭欽が私設庭園として造成し、蕭眉仙が設計した。
1898年に建設工事が着手され、10年を経て 1909年に完成する。
タイミング良く、近代化に伴い流入した欧米建築スタイルも大胆に取り入れられており、その園内の敷地面積は 1,330 m2で、うち建物が約 900 m2を占めるという。



なお、この西環城路沿いにはかつて西面城壁が延々と連なっていた。下写真中央の木々が茂る辺りが西園、その先が西門ロータリーである。

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さて、そのまま西環城路を北上すると、陳氏祖廟という大きな廟所が鎮座していた。ちょうど修繕工事中で、深紅の巨大な木柱はインパクトがあった(下写真左)。

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そして、中山西路との交差点に到達する(上写真右)。
その交差点中央には古木が残されており、地元で大切に保管されている様子に感銘を受けた次第である(下写真)。

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そして、中山西路を中華路まで東進してみた。
この先の護城河を渡る橋を東門橋といい(下写真奥の 7天酒店あたり)、かつて東門があった名残となっている。この道路沿いは繁華街で、KFCなども出店していた。

潮陽区

また、中華路との交差点には双氏忠祠があり(上写真の交差点脇にあるピンク色の壁の建物)、その保存も台湾スタイルだった。
下写真左は双氏忠祠の正面、下写真右は後方面。

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この祠所は、唐代後期、国家存亡の危機の中で奮闘した 張巡(真源県長官。709年~757年)と 許遠(睢陽太守)を祀ったものである。彼ら二人は 安史の乱(755年冬)の際、睢陽城(今の 河南省商丘市睢陽区古城エリア)を 10か月もの間、死守し、多勢に無勢の中、戦い抜いた末に、捕縛され処刑された人物らであった。

北宋時代の 1070年代、潮陽軍校の鐘英が任務により王都へ上納品を送り届ける際、睢陽城を通過する。ここで双忠廟を参拝し、その双忠廟の香火神像と銅棒を潮陽県城へ持ち帰り、これを祀って東山に 霊威廟(双忠祠)を建立したことが最初とされる。
以後、潮陽県下では数多くの双忠祠が建立され、大いに信仰を集めたという。特に、元末から激化する倭寇の襲撃や、清代以降の外国勢力や日本軍など侵略戦争に対する守護神の役割が期待され、ますます信仰を集めたという。每年春節にあわせて地元で祭りが執り行われているそうだ。
1997年、潮陽区指定の歴史遺産となる。



続いて、筆者は中華路を北へと進路をとった。その真正面に潮陽区人民政府の建物が鎮座していた(下写真左)。その脇にマクドナルドがあり、ここで軽食をとった。

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そして、水門路(かつて城内水路が通っていた名残り。上写真右)を渡って、さらに中華路を北上すると、城北一路との交差点に到着する。ここがかつて、北門が立地した場所である(下写真)。

潮陽区 潮陽区
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そして北中路へ道路を渡り(上写真)、北関路との交差点でたむろしていたバイクタクシーらに「汕頭への行き方」を質問すると、皆、それぞれ違うことを言い出す。
筆者をだまして自分のタクシーに乗せようと、「潮陽汽車客運バスターミナル」に 潮州 行のバスがある、という者。または城北一路沿いに待ては、5分に一本、汕頭 行のバスがあるので、それで汕頭まで移動してから潮州行のバスがある、と説明してくれる者、さらに潮州までの白タクを手配してやると申し出る者。

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とりあえず、進行方向からやってきたバスに乗車するも、海門鎮(南)方向ということで、すぐに下車させられた。そして、反対の車線側へ渡り直し(下写真左)、汕頭行のバスに再トライする。少し時間があったので、城北一路(西半分から、西環城路へ改称。上写真)を少し南下してみた。
たまたま、先ほどの水門路があったので写真撮影する(下写真右)。

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そして、水門路と 城北一路(西環城路)との交差点のやや南側で「汕頭行」のバスに乗る(10元)。 

東山大道を経由し、国道 G324に入ると下水工事中なのか、3車線が1車線になり、大混雑していた。工事車両や物流トラック、自家用車にバスが混在し、無法地帯と化した道路だった。

潮陽区

途中、濠江区 の橋をわたったので、下流方向を写真撮影しておいた(上写真)。この先に、達濠古城が立地する。

しばらくすると、汕頭礐石大橋を渡る(下写真)。巨大な河口部だった。河岸はどこから陸地か分からないような湿地帯になっているようだった。

潮陽区

バスはすぐに右折して西堤路沿いに入ると、すぐに西堤バスターミナルがあった。ここから潮州行のバスがある、というので、下車したわけだが(潮陽区からの乗車時間 30分)。。。。


潮陽区の歴史

春秋戦国時代、華南地方は百越の地に属した。
秦代に南海郡の管轄域となる。特に、前後漢時代~西晋時代にかけて、南海郡下の 揭陽県(今の広東省 梅州市 豊順県)に属した。

東晋時代の 397年(一説では 413年とも)に潮陽県が新設されると、県城は今の潮陽区銅盂鎮桶盤村の臨昆山の 南面山麓(現在の会魁第、老寨あたり)に築城されることとなった。
そのロケーションが南面に山、北面に海を有したことから、潮陽と命名されたという。この時代、同時に新設された 義安郡(郡都は海陽県城。今の 潮州市湘橋区)に帰属した。
その後、南北朝時代を通じて郡制や州制で度々、変更が加えられるも、引き続き、義安郡下に配された。

唐代の 650年、潮陽県が廃止され、海陽県に吸収合併される(義安郡から改編された潮州にそのまま帰属)。712年、もとの臨昆山麓に潮陽県が復活設置される。下地図は 741年当時。

潮陽区

819年中央政界から左遷され潮州刺史の任にあった韓愈定が、潮陽県の県役所を新興郷下の 棉陽(今の潮陽市中心部。旧称は棉城鎮)へ移転させる
当地は、東に東山、西に西山、北に牛田洋、南に海新河によって囲まれた地域で、古くから新興郷の中心エリアを形成していたという。
一帯には木棉の 樹(木綿が採れるワタの木)がたくさん自生し、特に外堀の河川沿いの両岸に延々と連なっていたため、いつしか潮陽県城は棉城と別称されるようになる。しかし、近代以降の都市開発を経て、現在、市街地には文光塔周辺以外、木棉の樹は一切、残っていない。

時は下って南宋時代の 1132年、再度、潮陽県は海陽県へ吸収合併されるも、再び 1140年に復活設置される。

潮陽区

元代にはそのまま潮州路に属した。明代初期の 1369年、潮州路が 潮州府 へ改編される。

1525年には潮陽県下の隆井都の 3分の一、および、大坭都、酉頭都、恵来都の 3都が分離され、恵来県 が新設される。
1563年、さらに 洋烏都、氵戎水都、黄坑都の 3都が分離され、普寧県 が新設される。 1581年には洋烏都と氵戎水都の 2都のみ、潮陽県へ再編入される。

潮陽区


現在、潮陽区の中央部に流れる護城河は、その名の通り、潮陽県城の外堀を成していた。
当初、県城の東面一帯を蛇行する浅い河川で、東部から流れ出て北へ折れ、また南へ曲がって練江へと注いでいたという。この蛇行を利用して、唐末に県城が築城されたというわけだった。

明代の 1462年、県長官の陳瑄が護城河の整備を進め、横幅 6.7 m、水深 3.4 mの外堀が完成する。
30年後の 1492年、県長官の姜森がさらに工事を進め、護城河の両岸に石材を組み上げて整備する。水深はそのまま 3.4 mであったが、川幅は 16.7mにまで拡張され、外堀の全長が約 3,400 mにまで延伸されることとなる。

こうして全長 6 kmのみの護城河であったが、練江や 榕江、韓江の三大河へと通じる水運交通の拠点として発展し、外海へ出る必要のない安全な内陸河川ルートだけで、現在の 掲陽市、潮州市、汕頭市一帯を往来できるにようになったという。日々、塩や鉄、その他の商品を運ぶ商船が往来し、大いに経済発展に寄与したとされる。

特に、普寧県城 から続く練江は、沿岸の商材を積み込みつつ、この 護城河(外堀)から潮陽県城を経由して海門港から海へと出航されるルートが一般化されていたという。
こうした内陸河川交通の要となっていた潮陽県城の外堀であるが、汚泥が堆積し水深が浅くなるため、明代~清代後期の 1870年代までに 12回にも及ぶ川底工事が手掛けられている。
特に大規模な汚泥除去作業となったのが、明代初期の 1351年に県長官の秦僎が主導した外堀工事と、清代後期の 1792年に県長官の伍礼彬によって手掛けられた工事であったという。


清代も、潮陽県は 潮州府 に帰属し続ける。
中華民国が建国された 1912年、潮陽県は広東省都督府に直轄されることとなる。
1952年に棉城鎮が新設され、1986年に城郊区へ改編された後、最終的に潮陽区となる(1994年11月に棉城鎮の名称が廃止)。


 海門鎮の歴史

そもそも、練江の河口部に 港町(今の海門鎮)が開設されたのは、北宋時代末期の 1110年ごろとされ、潮陽県城から海上への出入口という好ロケーションだったため、海口村と命名されることとなる。

時は下って明代初期の 1391年、潮州衛指揮使司の楊聚が朝廷に上奏し、潮陽県城の南東へ 10kmに立地した、この海口村に潮陽守御千戸所の建造が建議され、即座に許可されると、もともと小規模に構築されていた海口村の城塞を改修する形で、海門城の築城工事が着手される。
こうして、南東には海を臨み、南西には練江が流れる岬の先端部分に立地する海門守御千戸所が 1394年に完成を見る。以後、潮陽県城を守備する水軍基地も兼ねることとされ、地方役人 22名、兵士 1,196名が配備される。
1462年、潮陽県長官の陳王が大規模な改修工事を手掛け、城壁の高さ 6.7 m、全長は 3,233 mとなり、4城門を有する大城塞が完成する(下絵図)。

潮陽区

清代の 1685年にさらに大改修工事が施される。
すでに 1683年に台湾の鄭氏政権も打倒し、1684年から海禁政策が廃止され海外交易が開放されると、続いて外国船の接近が警戒され るようになる。1684年当時、清朝は 広州厦門(アモイ)雲台山(今の江蘇省連雲港市あたり)寧波 の 4港を対外開放していたが、1757年以降は広州港だけに限定していく。

1703年、海門守御千戸所が南澳鎮水師海門営へ改編され、海門営参将署が北門付近に開設される。この頃には守備兵は 1,059人体制に削減され、最終的に清代後期の 1870年にはわずかに 623名のみが配属されていたという。

中国交易が広州港だけに限定されると、多くの交易船が広東省近海を往来するようになり、広東省東部の大都市・潮州 を有する韓江エリアの港町も大いににぎわったという。こうした背景から、1880年に 恵来県 石碑鎮の最南端の岬、汕頭市濠江区 の最東端の表角岬、汕頭市(金平区) の洋上に浮かぶ 鹿嶼島(徳洲島)の 3箇所に灯台が建設されることとなる。

潮陽区

また時は戻って、明代は倭寇の襲撃が度重なり、広東省福建省 エリアの海外線は甚大な被害を受けていた。これに対抗すべく、1569年、山裾の海辺部に海門砲台陣地が建造される(上地図)。

未だ鄭氏台湾との抗争が続いていた清代の 1674年、鄭氏水軍に対抗すべく、海門砲台陣地のさらなる強化工事が施されたという。以後も、広東省東部の沿岸防衛ラインの一角を成すも、1958年、住民らにより大部分が破壊されてしまう。
1997年、地元政府が鉄製の大砲 4門を陳列し、砲台遺跡の一般公開がスタートされた。


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