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浙江省 湖州市 長興県 ~ 市内人口 310万人、 一人当たり GDP 86,000 元 (市全体)
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長興県城(長城県城、長興州城)
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義郷県城
現在でも古城エリアには、その路地名や地名にかつての記憶が刻み込まれていた。
雉城鎮、護城河、南門橋、小西門社区(旧承恩門)、大西門社区(旧長安門)、西門橋、西門焼肉、米行弄、春楼弄、北門橋、孔子廟(大成殿)、県前街、県前中街、小東門橋 など。
【長興県の歴史】
西周王朝時代以降、江東エリアは呉領に属しており、戦国時代前期まで一大勢力 を形成していた。その全盛期を築き上げた 闔閭(在位、紀元前 514~前 496年)は 西の 超大国・楚との戦いで大勝利し、王都・郢(今の 湖北省荊州市江陵県)までも占領することに成功する(紀元前 506年。下地図)。
しかし、南に台頭する越国との戦争で手を焼き、現在の太湖一帯の領地を実弟の夫概 に与え、前線守備をゆだねる。当地に赴いた夫概が自身の本拠地として築城したのが、 長城と呼ばれる城塞であった。この名称は、その細長い形状から命名されたという。 ちょうど、現在の湖州市長興県の中心部に立地したと考えられている。
最終的に、闔閭は越との交戦で戦死し、その子の夫差が仇討ちとして越国を亡ぼすも、 力を盛り返した 越王・勾践により逆に攻め込まれて敗死に追い込まれ(臥薪嘗胆のエピソード)、呉国は 急転直下で滅亡することとなる(紀元前 473年)。
その越国も紀元前 334年に楚により滅ぼされ、最終的に江東地方は楚国の版図下に 組み込まれる。
紀元前 223年に秦が楚を滅ぼすと、翌紀元前 222年に郡県制が導入され、 現在の長興県一帯は会稽郡下の烏程県に統括された。
時は下って、後漢時代中期の 129年、会稽郡が南北に分離され、呉郡が新設されると、 呉郡下の烏程県に属した(上地図)。
三国時代後期の 266年、孫呉 4代目皇帝・孫皓により呉郡と 丹陽郡(現在の 江蘇省南京市)一部が 分離され呉興郡が新設されると、呉興郡下の 烏程県(呉興郡の郡都を兼務)となる。
その呉も 280年に西晋朝の侵攻を受け降伏に追い込まれると、 西晋政権により 282年、烏程県の西部が分離され長城県が新設される(引き続き、呉興郡に帰属)。
304年、長城県の北郷が分離され 義郷県(今の湖州市長興県の北西にある義山の麓。江蘇省無錫市宜興県との境)が新設されると、義興郡に属した。 長城県は以後も、呉興郡に属された。上地図。
なお、この義郷県城であるが、南北朝時代の劉宋朝の治世下の 466年、権力争いにより 衰退著しい中央政界を支え、数々の外征で戦功を挙げた 驍騎将軍・呉喜が江東地方の 平定戦を進めた際、この県城を落としたという記録が残されている。最終的に、 義郷県は隋代に廃止される。
粱朝の治世時代の 555年に呉興郡が一時的に震州へ改称されるも、間もなく呉興郡に戻される。
この粱朝が建国された直後の 503年、ここ長城県で誕生したのが 陳霸先で、そのまま粱朝に仕えて各地の遠征で手腕を発揮し、最終的に557年、 権力禅譲を受けて陳朝を建国、初代皇帝に即位することとなる人物であった。
長城県の古城エリアには、現在でも彼が沐浴したという井戸が 残されている。
その陳朝も 589年、北朝の隋の南下政策を受け降伏に追い込まれると、 ついに隋朝により中国統一が実現する(上地図)。直後に、 全国で郡制度が廃止されると、呉興郡は湖州へ改編され、 また長城県は烏程県に吸収合併されることとなった(蘇州に帰属)。
間もなくの 602年、長城県が復活設置されると、湖州に属した。
隋朝 2代目皇帝・煬帝の治世下の 606年、州制が廃止されると、呉郡に属した(蘇州の管轄)。
隋末の 618年、各地で群雄が挙兵する中、江南地方一帯に割拠した 沈法興(本拠地:毗陵郡城)により長州が新設される(下地図)。
唐代初期の 621年に長州が綏州へ改称され、2年後の 623年には反唐で挙兵し、この地に割拠した輔公袥が雉州へ名称を変更する。 あわせて、原郷県を新設する。反乱を平定した唐朝は翌 624年に雉州を廃止し、安吉県と原郷県を廃止して、長城県へ吸収合併させる。
644年に安吉県のみ復活設置される。742年に湖州が呉興郡へ改称され、759年に再び、州制が復活すると、湖州へ戻される。 管轄下の県名はそのまま継承された。
五代十国時代、後梁朝の治世時代の 908年、これに帰順していた呉越王の銭鏐が、 後粱朝の 太祖(朱温)の 父(朱城)の諱とダブった名称を避けるべく、長城県を長興県へ変更する。
北宋時代初期の 978年、呉越国を滅ぼすと、両浙西路を新設する。管轄下の州や県はそのまま踏襲された。
南宋時代の 1225年、湖州が安吉州へ降格されるも、配下の県城は変更されなかった。
1276年、モンゴル軍が南宋の 王都・臨安を占領し、江南エリアを平定すると、 昭慶軍安吉州が湖州安撫司へ改編され、両浙都督府の管轄下に配した。
翌 1277年には湖州路が新設されると、これに帰属する。
1295年、長興県が長興州へ昇格されると、そのまま湖州路に属された。
元末の 1357年、江東地方に割拠した張士誠を攻略した、朱元璋配下の 耿炳文(1334~1403年)が長興州城を占領すると、長安州へ改名する。 そのまま安吉県はこれに属することとされた(1362年に再び長興州へ戻される)。下地図。
明代初期の 1369年、長興州は長興県へ降格され、湖州府に帰属された。
明代中期の 1488年、湖州府長官の王珣が 安吉郷、孝豊郷などの 9郷を糾合して、孝豊県を新設する。 あわせて、長興県南部の 順零郷、晏子郷、荊溪郷の 3郷が安吉県へ移籍される。
清代もそのまま明代の行政区が踏襲されることとなった。
中華民国が建国された直後の 1912年2月、府制が廃止されると、長興県は浙江省の直轄となる。 1914年に道制が導入されると、長興県は銭塘道に属した(1927年に道制が廃止されると、再び、浙江省に直轄された)。
唐末、茶の聖人と称された 陸羽(733~804年)が長興県城内で写した 世紀の 巨作『茶経』が現存しており、彼は中国茶文化の 基礎を創成した人物を評される。こうした背景から、長興区自体も茶文化の発祥の地とされている。
明代後期には、小説家の 呉承恩(1506~1582年)が長興県長官として赴任しており、長興県の丞任の任になったときに書き上げたのが、 名作『西游記』であり、この時に多くの素材を地元から仕入れたとされる。
長興県の最も早くに開設された書院は、元代の 1287年、蒋必勝が夹浦皋塘寺で開設した東湖書院で、 当時は全国でも 40ヵ所しかなかった書院の一つとされ名を知られていたという。
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